第廿七夜 東奔西走

 容保と慶喜のふたりで、明日将軍が上洛しますと朝廷に報告した、翌日。

 待てど暮らせど将軍がやって来ない。もう昼餉の時刻も過ぎてしまったのに、使いの一人もやって来ない。取り敢えず遅れていることとその理由を朝廷に報告しないとまずい。かなりやばい。またしても容保公たちは参内して、すぐに確認してきますのでちょっと大坂へ行かせてください、と許可を得に行った。

 孝明天皇は許してくれなかった。京都の治安的に守護職である容保が京都からいなくなるのは不安だし、そもそも阿部と松前が開港しちゃうわ今日のことだって評議変えちゃうわなんだから、あの二人を呼び出して厳刑にすれば良いのでは、と仰る。お怒りになる帝をなんとか宥めて説得を続けた。

 そうこうする内に尾張藩第十五代藩主主徳川茂徳もちながが伏見まで来て、何事か朝廷に訴えようとしていると言う。朝廷が幕府の人事に介入して阿部と松前を罷免しようなどというのは前代未聞の事態であって、自分が直々に伏見へ行ってきちんと説諭しないととんでもないことになるのではないかと容保公はご心配になる。

 帝は下坂の許可はくれないまでも、取り敢えず伏見に行って徳川茂徳が来ている理由を聞いてくるようにと仰り、容保公が馬を飛ばして伏見へ向かったのが夕方のことである。慶喜と定敬もやって来た。

「一体何をしにここまで来られたのか」

 いくら訊いても、茂徳は秘密だと言って答えない。

「天皇から、来意を問うて来るよう言い付かって来ているのです」と言っても

「秘密だ。その通り奏上せよ」と言うものだから、慶喜は怒って部屋を出てしまい、容保公も定敬公も一旦京都へ戻らざるを得なかった。

 徹夜だった容保公たちは仮眠をとるも、明け方に、今度は老中の小笠原長行が伏見までやって来た。会津藩の家臣が出迎えて何をしに来たのか意図を問うても、

「会津藩邸へ行って肥後守に直接話す」

 としか答えない。夕方に会津藩邸に到着した小笠原は、他には絶対に漏らすなと

「一つは開港の勅許がほしいこと、一つは将軍職を慶喜に譲ることだ」

 と言ったものだから、容保公は唖然としてしまった。

 そんな大事なことを、自分たちに言わずに決めてこっそり天皇にだけ伝えようというのだ。これまで三者で幕府側の相談に乗り手助けし、帝からも京都のことは容保らがよく知っているからよく聞き従うようにというお言葉があったにもかかわらずだ。


 茂徳は、

『家茂は攘夷の大任を任され日夜努力してきた。だが今の世情の中では天皇を安心させ国民を鎮めることが出来ない。富国強兵を進めて帝の力を世界に広めることもできないし、これ以上は将軍職を汚すだけではないかと心を痛めている。慶喜なら能力も高く大任も務まるだろうから、家茂は辞職して次を慶喜に任せたい。慶喜にそのように沙汰を出して欲しい』

 という文書を帝に奉じるつもりだった。別紙として

『天皇が仰るとおりにちゃんとやりたかったけど、時代の流れでどうしようもない。鎖国と言うがその為には富国強兵が必要で、そうなると開国しないと今のままでは無理。

戦争になったら大変だし、一時いっとき勝てたところで日本は海に囲まれた島国だから、あちこちから攻めこまれでもしたら非常にまずい。条約の勅許を出してくれたら攘夷の準備を進め長州も倒せる。異国人たちが京都までやってこないように兵庫港で控えるようにするからお沙汰をください』

 というものもあった。

 要するに、家茂公もお怒りで自棄を起こしていて、阿部と松前が無能であると罷免し、有能な慶喜の機転に救われたのだから、その有能な人に将軍職を譲って自分は江戸へ帰ると言い出したというわけだ。


 史料で読んだ時には子供の喧嘩みたいだと思ったが、現代でも政治って結構こんなものかもしれないとも思った。

 家茂と慶喜と言ったら十三代将軍徳川家定の後継ぎを巡って慶喜を将軍に推した一橋派と、家茂を推した南紀派とに分かれてすったもんだがあった仲だ。当人同士は別に仲が悪かったということは無いにしても、 周囲の人間はこの時点でも色々とわだかまりは残っていただろう。

 それに将軍家茂公はこの時数えで二十一歳。そんな若いのに将軍という立場について、愛妻を江戸に残して来ていて板挟みになって、という状況を考えると、さぞかし辛かっただろうと思う。攘夷だ征長だと問題も山積みだ。

 容保公は慶喜公とどうしたら良いか話し合う。そこへ、将軍が江戸に向けて大坂を出発して、今夜は伏見に泊まるらしいという情報が届いたのが十月三日のことだ。

 兎にも角にも、なんとか将軍一行を引き止めて思い直させないと、公武一和なんて言ってられなくなる。やれ陸路で帰るらしい、やれそれはフェイクで海路で帰るらしいのといろんな話が出るもんだから、容保公は、淀橋だ、伏見だ、淀だ、枚方だと振り回される。朝廷からも

『真偽はわからないが大樹が東帰するという話を聞いた。今そんなことになっては国が混乱してしまうので、大坂で留めるよう尽力して欲しい』

 という命令が出て、それを携えた慶喜公が追いついてくる。

 京と大坂間をあちらこちらと走り回り、夕方に「将軍一行は海路を利用する予定で、今夜は枚方に泊まるらしい」という話が飛び込んできた。嘘か本当かわからないのだが、迷っていても仕方ない。容保公は定敬公を京に戻して守護の仕事を任せ、慶喜と二人で舟で伏見から橋本へ向かった。

 そこへ今度は、枚方は過ぎて陸路を帰るつもり、今は伏見へ向かっているところだという情報が届いたので、また川を遡って伏見へ戻ることになった。だが万が一枚方に泊まるという情報の方が正しい可能性もある。念の為枚方を張っておいてくれと言われて、おれたちも出動した。


 なんのギャグ漫画だと思いながら本で読んでいたときは苦笑いしたおれだけど、いざ直面してみると馬鹿馬鹿しいという思いはありつつもみんな真剣な訳で、夜通しあっちこっちと振り回されて眠しい徒労感は募るしでとても笑えたもんじゃなかった。

 果たして正解は伏見で、明け方になって容保・慶喜両名が将軍一行を捕まえた。説得に説得を重ね、誠を尽くしてお話すればきっと孝明天皇はわかってくださるから、留まって勅許をいただけるようお願いしましょうとお話する。

 やっとのことで家茂公が首を縦に振ってくれた。となるや今度は行き先が二条城に変更になったので、おれたちは護衛をしなければということで駆けつけて、お城までお送りし、容保公は参内の準備に追われる。終わった頃には完全に夜が明けていた。


 十月五日。よく晴れた日だった。

 孝明天皇は家茂公が将軍を辞めることには許可出来ないとおっしゃりつつ、条約には勅許をくださった。

 容保公はこの頃体調を崩していたのにろくに睡眠もとれずにあっちこっちに振り回されたが、こうしてなんとか事は収まった。この頃容保公は体調不良で寝込むことも多かったというのに、なんとも気の毒な話だ。

 だが兵庫港のことで自分の無力さを罪と考えて、辞職して謹慎することも覚悟していた肥後守は、「不肖容保の報効の道は未だ絶えていない」と喜んだと言う。凄く実直なお殿様だなとおれは改めて思った。

 近藤先生の性格上、惚れ込むのも無理はない賢君だ。

 

 だけど、だからこそ抜けられなくなってしまうのだと思うと、おれは悔しい気持ちにもなる。

 歴史はいよいよ、第二次長州征伐へと動いていく。

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