第廿六夜 兵庫開港
「どうしはりました?」
控えめな態度で、大力がおれの横に来た。
「別になにも」
「せやかて近頃夜になると、月ばかり見てるやないですか」
「そうか? ……まぁ、そうかな」
おれの住んでいた部屋の窓は小さかったけど、割と高いところについていて、空が綺麗に見えた。なにか嫌なことがあってへこんでいる時なんかは、電気を消してカーテンを開けて、ただいつまでも月を見ていた。それを思い出したら急に懐かしいような気持ちになって、夜な夜な月を見ると色々なことを考えてしまうようになった。
一体あっちのおれは今どうなってるんだろう。ずっとあの部屋で寝こけたままなんだろうか。学校やバイトは無断欠勤扱いになってるんだろうか。大体向こうでは何日過ぎたんだろう。誰かが心配して来てくれて、昏睡状態と見なされて病院送りにされていたりするかもしれない。最悪、もう死んでいることになっておれの体が火葬されることだってあるかもしれない。もしそうならおれは一生このまま柄元として生きるしかないのだろうか。もしかして柄元と徳永の意識が入れ替わって、あっちはあっちでオレが困っているかもしれない。そんなちょっと笑えるような発想ができたのは最初だけで、今となっては全体おれは帰ることができるんだろうかと不安になった。
もし帰れなくなってこっちの世界でずっと生きていくとしたら、残された時間はそんなに多くはないだろう。なんて言ったって時代が違う。それは通り魔なんかはあったけど、こっちの辻斬りほど頻繁でも身近でもなかった。それになんと言ってもおれは新選組だ。普通に町人をやっているより危険に近づかなくちゃならない機会が多いだろう。
おれが知っている歴史では、大政奉還、王政復古の大号令。甲陽鎮撫隊としての出立。近藤さんが新政府軍に捕まって処刑され、沖田さんは病死し、土方さんは五稜郭へ向かう。この頃にはもう明治なのだ。新選組という隊は五稜郭まで戦うけれど、主要メンバーは散り散りになる一方なのだ。初期の新選組にいた人は殆どいなくなってしまう。それから、新選組を預かってくれた会津藩も酷い運命を辿る。おれが一体どの立場でどこまでそれらを見るのかわからないけれど、これからそれらが起こるのだと思っただけで息苦しい気持ちになる。
隣で力がずっとおれの顔を窺っているのに気付いたから、笑って見せた。
「最近の柄元さんは可笑しいですよ。心ここにあらずだ。まるで前の柄元さんとは違う柄元さんと話している気がしますよ」
おれは突然目の前の力に何かが乗り移っておれのことを言い当てているのかと思ってぎょっとした。なんでそんなことがわかるんだ、ともう少しで言いそうになったところで、
「な~んて、沖田さんの受け売りですけど」
どうやらおれの鳩が豆鉄砲をくらったような顔に笑っているわけじゃなく、もっともらしく言ってみた自分が可笑しくなって笑っているようだ。
「そろそろ夕餉ですよ」
「うん。先行っててくれよ。すぐ行くから」
はいはい、と大力はあっさり背中を向ける。多分、何かしらおれが一人になりたい理由でもあるのだと察してくれているのだと思う。聡い人だし。
そうだ。おれが不安なのは、おれが戻れるかどうか、それだけじゃなかった。このままここにいておれは、オレはどうなるのか。新選組は。みんなは。
おれ一人の力で何が出来るとも思えなかったけれど、知っているのに何もしないというのもどうなんだろう。おれがとる行動で、よくあるタイムトラベルもののように歴史が変わることがあるのだろうか。それはしても良いことなのか、悪いことなのか。どの程度のことなら大丈夫なのか。
いや、そもそもこれはタイムトラベルなのか。夢を見ているだけじゃないのか。
散々本やなんかでいろんな知識を詰め込んだけれど、何年何月何日に何が起こるか事細かに暗記ができているわけではない。もっと気をつけて行動しなきゃいけない。なにせもう、慶応元年だ。時間が無い。
あまり遅くなっても大力や、多分沖田さんやみんなにも心配をかけてしまう。おれは立ち上がった。着物なんておれは着たことがなかったはずなのに。袴をぱんと払って座ることも、裾を踏まずに立ち上がることも簡単に出来る。自分なのに自分じゃない。自分じゃないのに、自分自身なのだ。
■
この公私心身共にくそ忙しいときに、米英仏蘭の代表が連合艦隊と共に大坂へ来て条約勅許と兵庫開港を要求してくるので、本当に空気が読めないなとおれは一人で腹を立てていた。
彼らも六月から交渉しているのに「今はその時期ではない」と延々言われ続けて腹を立てているのかもしれないが、
「明日までに回答が無ければ帝に会って直接頼む」
「回答をよこさないなら、戦になっても良いという意味だと判断する」
と言うのは随分卑劣な脅し文句だと思う。
なんと言っても実際に異国人に相対していて、浦賀や横浜とも近かった江戸にいた幕府の人間たちは、攘夷が無理だということを既に悟っていたのだ。戦になったら負けてしまう。こうまで言われては、万が一戦争になるよりは自分たちが勝手に開港したという罪を着ようと、老中の阿部
これも学校で勉強したときは二人が随分勝手なことをしたもんだという印象だったが、実際はちょっと違う。相当追い詰められた状況で、良かれと思っての判断だったのだ。
攘夷が無理だというのは、幕府の人間だけじゃなくて攘夷派も含めて、殆どの人間が悟っていたと思う。力関係とか世の中の情勢とか、いろんなことで。
帝は大の異国嫌い。今開港していしまっている横浜港を閉ざせと仰っている。そこへ横浜港を閉じないどころか、京都に近い兵庫港を開いてしまうとどうなるか。容保公は公武一和の為に尽くしてきたつもりだが力足らずだったと近藤先生に溜息をついて話したそうだが、オレたちの耳にはそこまでのことは入ってこない。この辺りのことは、おれがあっちの世界で入手した知識だ。容保公は自分の無力さを罪と考えて、辞職して謹慎することも覚悟していたと言う。
ここで登場するのが、最後の将軍として大抵の現代人が名前を知っているだろう徳川
大坂の町奉行井上元七郎を阿部の使いと称して兵庫に行かせて
「天皇の裁可を得るには約十日かかります」
と言わせた。異人たちは信用しなかったが、元七郎が
「我が国の習慣で言葉の真実なことを証明するのに血誓ということがあります。諸君のためにこれをしましょう」
と脇差の小刀を取って指を刺した。異人たちは慌ててこれを止めた。
「最初に強く言ったのは、急に迫れば開港の許可が出るだろうと私たちに教えた人がいたからです。貴国の事情とあらば、もし十日で決定しなければ四、五日は伸ばしても構いません」
との回答を得てきた。異人たちはピストルを扱うが、同じ殺すでも刀は野蛮と嫌っていた。目の前で指を切られたら気持ちが悪いだろうっていうのは、おれもわかる。この一計のお蔭で取り敢えず日数が稼げたので、まずは事の次第を朝廷に報告する為、将軍がまた上洛することになった。
日延してもらったこの間になんとか帝を説き伏せて、兵庫港を開港に持っていくしか無い。
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