第廿五夜 覚醒

 秋には長州征伐が行われるという話だ。だがいつになるのかはっきりしない。もっと遅くなることも、逆に早まることも考えられる。

土方さんは日野の千人同心である隊士井上源三郎さんのお兄さん、松五郎さんに残暑見舞いを書いて、長州進発に向けてなにか困ったことがあったら言ってくださいと伝えている。幕臣である彼らも長州征伐に動員をかけられているのだ。

 萩藩主毛利慶親よしちかは、敬親たかちかと名を変えた。慶の字は、前将軍家慶の名を一字、幕府から下賜されたものだ。朝敵となったからには使用が許されない為である。養子である定広さだひろも、十三大将軍家定から定の字を頂いていた為召し上げられ、かつて名乗っていた広封ひろあつの名前に戻している。表向きは恭順を装っているものの、再度の上洛命令に対しても病気だと偽って従わない毛利父子対し、遂に幕府は

清末きよすえ藩の毛利讃岐、長府藩の毛利左京、及び本藩である萩藩の家老二人に上坂を命じ、八月十七日から四十日の内に来なければ再三の違勅の罪を責める」

 と最後通牒を突きつけた。

 この頃長州では激派の方が強くなってきていて、外国と通じて武器や防具を整え、薩摩や土佐、筑前などの藩の援助を受けて戦闘準備を着々と進めていた。


 おれは随分ぼんやりと立っていた。豚に餌をやるぐらいなので、そんなに集中力を使うわけでもない。時折咳やくしゃみが出るだけで、そんなにひどい症状でもない。ただ高めの微熱がけだるく全身を覆って、足元がふわふわとおぼつかない。それだけだ。

 それだけにも係らず、己の集中力の低下には驚いた。振り向いて腰を柵に打ち付けてみたり、ふらついて餌をこぼしてみたりしている。

「これも食ってくれ」

 こぼした餌を指差して豚に話し掛けた。

 こんなことではまずい。隊務をまともに勤められないではないか。無理矢理出ても、こんな状態で敵に襲われて太刀打ちできるわけもない。

「なんでこんなときに風邪なんて」

 と恨みがましく呟いて豚の前にしゃがみこんだ。池田屋の時も出られなかったのに、これで長州征伐にも出られないでは話にならない。兎に角誰にもばれないように普通を装おうと思った。それで、隊務もいつもどおり務めた。その後には刀を見に行くと沖田さんが言うので、おれも良い刀を物色したかったんで一緒に出かけた。沖田さんは機嫌が良さそうで、女が出来たらしいけどだからと言って付き合いが悪くなるでもなく、平隊士ともこうして親しかった。

 男前とは言えないけど、愛嬌のある顔。甲高い声でいつも冗談ばかり言ってるけど、本当は繊細でいつも他人を気遣っている。

 あぁそうだ。沖田さんは将斗まさとに似ているかも知れない。

 そこまで考えて、おれは動きを止めた。

 将斗。

「柄元さん、後ろ!」

 沖田さんが叫んでぱっと地面を蹴る。おれの背後で沖田さんの刀が斬り結ぶ音がする。ここでやっとおれは抜刀して振り返った。最早条件反射で敵をなぎはらう自分の腕が、やけに生々しくはっきりと見えていた。

 相手はどうも、沖田を斬って名をあげようといった輩らしく、さして手子摺ることもなく撃退できた。蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく相手を深追いしようとはせず、沖田さんは懐紙で刃先を拭いながら改める。

「あーあ。刃こぼれしちゃったじゃないですか」

「す、すみません」

 おれがぼうっとせずにいたら、沖田さんが無理におれを庇ううために剣先を出してくることもなかったかもしれない。おまけにうかうかしていたら後ろ傷を受けていただろう。士道不覚悟で切腹だ。明らかにおれに落ち度がある。

「一体どうしたんです? あなたらしくもない」

「すみませんでした」

 おれは心底申し訳なくて頭を下げた。

「まぁいいですけど。土方さんには内緒にしておいてあげますよ」

 沖田さんが冗談めかしてそう言ってくれているのも、おれの耳には殆ど入っていなかった。

 いつからだ。

 考えても全然分からなかった。気持ちばかりが焦る。

 全身の毛穴が開いて汗が吹き出る、なんてよく本で読んだけど、初めて体感した。立ってるのがやっとだ。どうしていいのか分からない。頭がくらくらした。世界が回って見えるみたいだった。

 この際、回っていようが普通に見えていようがおれにとっては同じことだった。だって、この世界自体が異常なんだから、おれにとっては。『おれ』がここにいることが。


 いつからだ? いつからおれは起きてないんだろう。もう随分長いこと、こっちにいるような気がする。気が付いた途端、目の前の薄い膜がはじけたみたいに急になにもかもがリアルになった。まるで目玉を取り換えたみたいに、目の前を歩く沖田さんの着物の縫い目や脇の綻び、袂の血の染みまでもが、目に突き刺さるようにはっきりとクリアに見えている。

 おれは背筋が寒くなった。いつものように夢を見ているつもりで、すっかり夢の中に入りこんじまったらしい。なんで今まで気付いてなかったのかが不思議なくらいだ。

 幸い、おれがこっちが夢の世界だと気付いたからといって、柄元壮治郎が徳永壮治郎になっちまって、剣の腕が落ちるってことはないようだった。京の町中も屯所も勝手が分かっていて、何か不自由するってことはなかった。

 ただ、漠然と不安なだけだった。一晩の夢にしちゃあ、中身が濃すぎやしないか?

 その晩は体調のこともあって早めに寝た。熱があがっているらしく背筋がぞくぞくして、布団の下に穴があいて真っ逆さまに落ちていく夢を何度も見た。でもはっと目を覚ましたら、熱は引いていた。汗をかきまくったのが良かったのかなんなのか。でも目を覚ましたら元の世界に戻っているとか、そういうことも残念ながらなかった。ベッドではなく汗臭い煎餅布団で目を覚まして、隣には大力が寝息を立てていた。


       ■


 大雑把にこれからの歴史の流れは覚えているものの、細かいところまでは流石に覚えきれていない。兎に角そろそろ、薩長同盟が成立してしまっているはずだ。教科書には余り書かれていない、第二次長州征伐と太いゴシック体で書かれていたくらいだが、実はかなりしっかりした戦闘が行われていたわけなんだが、それが勃発するのもまもなくなはずだ。

 薩摩藩を抑える役割だった肥後藩が段々と幕府と距離を置き始めていて、泥酔していた肥後藩士をおれたちがしょっぴいたことがきっかけで怒り狂って、小銃に大砲二門まで持ちだして屯所を取り囲み、焼討すると脅してきた。その翌日には市中で熊本藩士を捕縛したら、百人近い熊本藩士が屯所に押し寄せてきた。おれたちはそれに屈する訳ではないが、寺の人たちはとんだとばっちりで可哀想だった。ただでさえ日々おれたちがいることだけでかなり迷惑に思っているだろうに。

 

 相変わらず毛利父子は病気だと偽り続けている。とっくに幕府が切った期限は過ぎている。ただ、だから腹を立てた幕府が私闘で長州に戦をしかけるのでは意味が無い。飽く迄も御所に向けて攻め入った朝敵を征伐するのが長州征伐の目的だ。容保公が朝廷に奏上して征長の勅命を受けるべきだと進言し、将軍は京都へ戻ってきた。二条城までの道のりを俺たちも警護した。

 家茂公は、

「防長の儀についてはかねてからお伝えてしていた通り、順序立てて不審の件を問い糾して処置するべきと思い、毛利淡路、吉川監物を大坂に罷り越す様申し伝えましたが、日延を繰り返すばかりです。二人が駄目ならば、別の者が二十七日までに相違なく出てくるよう重ねて申し達しましたが、未だにやって来ません。 この上まだ従わないなら、寛大な処置もしがたい為、余儀なく旌旗せいきを進め、長州の罪状を糺して参ります。兵力については、熟考の上用います」

 と帝に伝えた。

「勉め励んでくれ」

 帝はこう仰り、御剣と陣羽織を下された。古代において、天皇が出征する将軍には任命の印である刀を渡した。この節刀の儀式に模してのことである。これで帝からの命令で将軍は朝敵を倒しに出兵することになったのだ。

 大坂城へ戻る道すがらもまた護衛したいと申し出たのだが、長州征討の勅命が出た今何があるかわからないから新選組には京都守護を任せると命じられて京都に残ることになった。

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