第廿四夜 約束
元治元年十月に近藤先生が尋ねることで出会った松本良順先生。この人は調べれば調べるほど面白い破天荒な人だ。江戸っ子ってこういう感じだったのかなとおれは思った。先生のお父さんは佐倉藩の藩医で、佐倉順天堂の始祖でもある佐藤泰然なのだ。長崎の医学所でもポンペの助手を務め、ポンペからも才能と熱意を非常に評価されている。
安政六年に伝習が中止になり、幕府からオランダ教師の解雇と留学生の帰藩が命じられたことがある。突然のことでみんな驚き、中でも松本先生はもっと勉強したい、ここに残りたいと思って長崎奉行に相談する。この岡部
井伊直弼と言えば教科書では安政の大獄でお馴染みで、きちんと勉強する前は意見を言う人をとっ捕まえて処刑していたかのようなイメージがあったのだが、この人はこの人で幕府を守り国を守ることを考えていた人なのだ。
岡部さんから、オランダ公使もポンペ先生たちも、残って勉強を教えてやりたいと言ってくれている、という話を聞いて、井伊大老は
「好意を無駄にするのは良くない。だが幕府としては一度発した命令を取り消すことは出来ないので、公にこの願いを受け入れることは出来ない。すぐに帰府するよう下命する」
と応える。残念だが仕方ないことかなと思いきや、話はこれで終わらない。
「下命があったら君から再願しなさい。その願書は私が受け取って、何年でもその成業に至るまで 忘れておくことにする。勉強が終わってからまた帰府を再命令するから安心して修行しなさい。私が医学生一人の処置を忘れたからと言って、法的に問題もない」
と岡部奉行への私信で伝えてくれた。幕府から出ていた留学費用なんかも、今までとおりのままにしておいてくれたそうだ。
このエピソードは、凄く機転と融通が効く、本当に国の為を思っている人なんだなと思わされた、すごく好きな話だ。
近藤先生はずっとストレス性胃炎を患っていて、江戸で松本先生に話を聞いた後、「今日は患者としてきました」なんてもう一度尋ねて診察してもらっている。京都におらそたら是非屯所を訪ねて下さいと話して、二人は別れた。
松本先生は京都へ来て手隙の日を見つけて、この約束通り屯所を訪ねてきた。酒を用意して近藤先生と土方先生で接待した。この時土方さんは初めて松本先生と会ったのだと思うが、多分気は合ったんじゃないかなとおれは思う。しばらくしてから、松本先生の希望を聞いて二人が屯所内の案内をした。
「あれが松本法眼ですか」
屯所内を歩いている三人を見て、大力がおれの袖を引いて小声で尋ねてきた。
「いやー、やっぱり迫力ありますなぁ」
松本先生はむっとした顔で唇を引き結び、各部屋を見て回って言った。
「おい、局長と副長もいるのにこの様はなんだ。武具の手入れをしてるのはまだいいが、だらしなく寝転んでいるのは休みだとしてもどうなんだ? あいつなんか裸じゃねぇか」
それを聞いて、近藤先生は頭を掻いた。
「仰る通り無礼で申し訳ないのですが、あの者たちは病に臥せっているのです」
「なら医者に見せりゃいいだろうが」
「医者を呼んでも、各々自己の信ずるやり方しかしないのです」
「駄目だ駄目だ。おい土方、今からおれがいくつか指示を出すから、全部そのとおりにしてくれや。そしたら一ヶ月以内にこいつらみんな良くなるぜ。保証する」
と、自分で紙に簡単な図面を書いて説明した。鬼副長と言われた土方先生にすっぱり言ってしまう松本先生は本当に松本先生なのだが。土方さんは文句の一つも言わず、近藤先生に松本先生の相手を任せて数刻席を外した。
この時松本先生のした指示は主に衛生面だ。病人はそこらにひっくり返らせておくのではなく、病室を作ってそこにまとめる。医者が回診して看護者をつけて飲食と投薬を管理する。風呂場を設けて毎日風呂に入らせる。残飯があるからそれで豚を五頭は飼える。洗って干して鶏の餌にしても良い。
「体力勝負なんだから衛生と滋養に気を配れ」
早速土方さんは集会所と風呂桶を借りてきて病室と風呂場を整えた。非番だったおれたち一番組もこの作業に借り出された。御典医がいきなり来ていきなりむっつり屯所を回ったと思ったらあれこれいちゃもんをつけてくる訳で、びっくりしている隊士もいない訳ではなかったが、おれと大力は笑いを堪えずにはいられなかった。
松本先生は指示を出したは出したがそんなにすぐに整えられるとは思っていなくて、数刻の後に土方さんが検分して欲しいと報告に来たので相当驚いたらしい。
「武士は拙速を貴ぶとはこのことですな」
と三人で大笑いになったようだ。
これ以降、松本先生の弟子の南部精一先生が毎日回診に来てくれることになった。松本先生本人も週に二回は往診してくれるという熱の入れようだ。病室にいた病人たちは殆どが風邪と骨折。それから食中りと梅毒。重い病だったのは心臓病と肺結核の小関と小路で、この二人は隊務を続けるのは難しいということで里に帰されることになった。だがそれ以外の七十人はいた病人は本当に法眼の言ったとおり、一ヶ月もしない内にみんなすっかり治ってしまった。
この一月の間には、新選組は幕府の歩兵とのいざこざがあったり、大坂では将軍が来坂中なので混乱が起こらないようにと、天満宮などで神輿を中止にするというので、大坂屯所の隊士たちで警護を申し出たりした。
兵庫港には英仏蘭の軍艦九隻がやってきて、開港しろと言って来て、戦々恐々ではあったが、屯所内では
「一人一畳ほどしか割当がなくて、狭くて暑苦しくてよく寝られない」
という隊士たちの不満が爆発したことの方が問題だった。
土方さんは本願寺に、「不満をこれ以上抑えきれそうにないから阿弥陀堂も貸してもらえないか」と持ちかけた。それは断られたが、集会所の未使用だった部分にも畳を敷いて、壁を取り外して風通しを良くするという対応はしてくれた。土方さんはすぐに礼状を書いたらしい。たまたま井戸端ですれ違ったおれが使いを引き受けて、礼状を寺まで届けた。
おれが驚くのは、これだけの激務の最中なのに、近藤先生も土方先生も非常に筆まめなことだ。この礼状もその日の内に出しているし、季節ごとの郷里への挨拶も欠かさない。ある時一番組に割り当てられた部屋へ戻ったら、沖田先生も手紙を書いていた。
「お手紙ですか」
話しかけると、顔をあげて頷いた。
「そう。本当は暑中見舞いを出そうを思っていたんだけど、隊務にかまけて文を書くのが一月ぶりになってしまったから、残暑見舞い」
日野本郷名主で日野宿問屋役の佐藤彦五郎は、新選組関連の史料、特に日野・多摩地区の局長たちの地元のことを調べているとよく出てくる名前のひとりだ。土方さんのお姉さん、のぶさんの旦那さんでもある。試衛館から出稽古に来てもらう為に道場も建てている。義理人情に厚い人で、コレラが蔓延したときには自分の財産を投げ打って薬を買いみんなに配ったり、品川沖の台場建設に献金したりもしている。近藤先生とは町田の小野路村組合の寄場名主小島鹿之助さんと三人で義兄弟の契りを交わした間柄で、近藤さんたちが上洛するときや京都に来てしばらくは金銭的な援助もかなりしてもらったらしく、誰か彼かが頻繁に報告を兼ねた手紙を出しているのだ。
「それとさ、
おれは手拭いで汗を拭いながら、あぁと思い至る。
「この前の隊士募集で入ってきた宮川さんですか。局長の従弟だとかいう」
「うん。そう。あっちで心配してるだろうから、無事を伝えてあげたいし。それから、関田君のことも気の毒だから」
「関田さん、ですか」
沖田さんは筆を置いて、うーんと伸びをした。汗で紙がふやけてしまうとぶつぶつ言いながら手汗を拭う。
「おれも仲が良かったんだけどね。関田君という人がいてさ。彼も隊士募集に志願したらしいんだけど、長男だからって土方さんが入隊を認めなかったんだよね」
「ああ、そうなんですか」
なんと答えたら良いかわからず、おれは曖昧に言った。関田さんが気の毒でもあるが、土方さんの気持ちもわかる。一緒に志願した宮川さんは入隊出来たのにと悔しく羨ましい気持ちもあれば、今どうしているだろうかと心配もしているだろう。
沖田さんはさらさらと書きつける。行数が少ない簡潔な文章のようだ。沖田さんはなんとなく、そういう傾向がある気がする。文は用件のみ簡潔に書き、あまり雑談を入れたり長く書いたりはしない。さらさらと花押を書き、宛名を書きつけると筆を置いた。
「さてと。出して来ようかな」
「ああ、だったらおれが行きますよ」
そう声をかけると沖田さんは少し思案して、
「じゃあ一緒に出て何か水菓子でも食べませんか。こう暑くちゃなにか冷たくて甘いものでもないと」
「そうですね」
おれは懐から小銭いれを取り出して中を検めた。まぁ大丈夫そうだった。
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