第廿二夜 火の粉
また鍵を開ける音で目が覚めたら、部屋の中はもう真っ暗だった。
「生きてるかー?」
入ってきたのは圭司だった。
「ん。死んでる」
「だろうなぁ」
ばちっと電気をつけられたら、眩しくて目が痛くてあけられなかった。その隙にぺりぺりとジェルシートをはがされて、代わりに冷たいタオルがのってきた。
「きもちいい」
「おまえね、ずっと貼ってたらかぶれるよ? これもう熱ででろでろだし」
そんなことを言われても、今までずっと寝てたんだからしょうがない。時計を見たら夜の八時を過ぎていた。十二時間以上寝ていたということになる。道理で腰が痛い。
「あいよ」
ぽいと体温計が放り込まれる。おれは大人しく唾えてじっとしていた。
「悪いけどおれ料理できないからさー」
コンビニで買って来たらしいレトルトのお粥を、お椀にあけてレンジにかける音がする。
「三十八度七分。ちょっとか下がったか」
携帯を取り出して誰かにメッセージを入れ始める。多分、将斗にな気がする。おれは熱を出した子どもか? おまえはベビーシッターか? そしで忙しい働くお母さんなのかよ将斗? なんて思ったけど、声に出す元気はない。
料理ができないと言いながら、買って来た林檎の皮はちゃんと剥いてくれた。
「なんなら兎さんにしましょうか」
と言われて丁重にお断りした。唯でさえ真っ赤な皮がぽちぽち残っているのに、それで耳をつけられてもまるで因幡の白兎だ。将斗からグラスを割った経緯を聞いたのか、ニリットル入りのミネラルウォーターも二本買ってきてくれていた。
「明日の朝は祥太にこさすわー」
「いやいいよ、ほんとに」
と、ぼそぼそ抵抗しても聞き入れられるはずもなかった。
圭司が鍵を閉める音を聞きながら、また眠りに落ちた。
夜中にやっぱり喉が乾いて痛くて目が覚めた。でも今度は水があるから大丈夫だ。冷蔵庫に行こうとしたら、ベッドの近くにテーブルが引き寄せてあって、そこにコップが置いてあるのが見えた。ラップがしてあって、その隙間からストローが出ている。しかもちゃんと曲がるストローだ。多分氷を入れてくれてたみたいで、コップがすっかり汗をかいて、テーブルの上もぼとぼとに濡れていた。熱のせいで涙もろくなってるみたいで、嬉しいやら切ないやらでなんだかぐょぐしょ泣いてしまった。
翌朝祥太が来た頃には自分で熱をはかれるくらいには復活していた。
「三十七度九分。もうひといきじゃん」
受験生に代わる代わる看病してもらって、もう治るしかない。
起きたらもう祥太はいなくなっていて、しまったと思った。テーブルの上に水の足されたコップと、『昼に食えよ』という書置きとコンビニの弁当が置いてあった。更にDVDが何枚か置いてあってなんだろうと思ったら、おれがいつも予約録画してあるドラマとかアニメとかのタイトルが鉛筆で書いてあった。どうやらおれが見ていないどころか予約録画もしていないだろうと思って(そして勿論その通りだった)代わりに録っておいてくれたらしかった。有り難い話だ。本当に。今はしんどくて見られないけど、後で見よう。
三人にお礼と経過報告を連絡したら、大体同じような文面で、同じようなタイミングで、いいから寝てろ、とメッセージが帰ってきた。
大人しく従うことにした。
それにしても恰好悪い。真冬に風邪なんて。夏風邪よりももっと馬鹿っぽい。如何にも油断してました、自己管理していませんでした、って感じがする。
早く治らないと。そう思って、おれはもう一度布団に潜り込んだ。
■
新しい屯所に引っ越してから半月近く経った。なんだかんだで少しは落ち着いたし、慣れてもきた。土方副長は移転の当日も一日も隊務を休みにしなかったし、こっちもそれが普通だと思っているから、忙しい中でも無理矢理にでも日々は続いていっていつの間にか慣れてしまった感じだ。日課の自主訓練も一度も怠けたことが無い。おれがやるものだから、大力もついてきて、自然二人で毎朝素振りから始めることになる。
もう随分と春の陽気だ。汗ばむのも早い。
素振り三百本を終えたところで、
「どうしても振り下ろした切っ先がぶれてしまう」
大力が呟いた。
「斉藤先生や沖田先生は狙った場所を寸分違わず切ることが出来る言うのに。こんなにぶれてたらとてもそんなん無理やな」
大きく溜息をつくので、おれは何か言ってやらないとと思って手を止めた。
「おれも偉そうなことは言えないけど、大力の素振りは右手で振っているような気がするかな」
「右手、ですか」
「うん。大事なのは、左手なんだ。左手でしっかり支えて、しっかり止める。まぁ言うのは簡単だけどさ」
「確かに、柄元さんの素振りは止めもすごいですよね」
「いや、おれなんてまだまだだよ」
今大力が言った両先生の素振りはびゅっと風を切る音がする。風圧がある。筋肉が自分の腕の一部のように刀を自在に扱う。
「左手、かぁ。そう言えば、沖田先生は両利きでしたよね。だからあんなに刀を自由に振りはるんかなぁ」
自分の左手をじっと見ながら大力が呟くので、おれは首を振った。
「あれは、両利きにしたらしいぞ。聞くところによると」
「しはったんですか」大力が目をまんまるにして息を呑んだ。「そういうものなのかぁ」
「おれも普段左手を使うようにはしてる。やっぱり、生まれつき両利きの人には敵わないって言うけどね。持って生まれたものは仕方ない。出来る事で補うしか」
初めてその話を聞いた時には大力のように呆けるほど衝撃を受けたが、その後すぐに努力を怠っていた自分が恥ずかしくなった。それから右手を使わないように努力して、箸は使えるようになった。文字は右手で書いた時と同じようには書けないが、それでも他人が見ても読めるようには書けるようになった。自分では然程実感はないものの、大力から見て左手を使えているように見えているのだとしたら、一応おれも進歩しているのだろうと思う。
「はぁ。なるほど」
大力はしばらく左手を握ったり開いたりしていたが、よしっと気合を入れて木刀を握り直した。おれも稽古を続けようと前に向き直った時だ。
かん、かん、かん。
甲高い音が響いた。半鐘の音だ。どこかで火事が起きたのだ。おれは大力と顔を見合わせる。境内のそこここで同じように稽古をしていた他の隊士達も一様に動きを止め、頬をこわばらせる。
おれは塀の方へ走った。大力もほぼ同時に辿り着き、目を見合わせただけでお互いの意図は知れた。大力は膝をついてその上に両手を重ねて足がかりを作ってくれた。すまないと一声かけてそこへ右足をかけ、塀の上へ昇る。瓦を踏んで見回すと、北東に黒炎と炎が見えた。
「祇園の辺りだ。かなりの大火だぞ、これは」
「おい、みんな」
よく通る声に全員が振り向く。近藤局長だった。
「出られる者はすぐ来てくれ。何か手伝えることがあるだろう。おれたちも出るぞ」
「はい」
おれはすぐに飛び降りた。胸の内では、流石近藤局長、と思っていた。
おれたち新選組は火が消せる訳ではないが、これだけの大火ともなれば町は混乱する。助けを求めている人を探しだし然るべきところへ連れて行く、火事場泥棒を捕まえる、火消しの邪魔になる野次馬を追い返す。やることはたくさんあった。時勢が時勢だけに、過激派の放火である可能性も否定できない。
さっと身なりを整えて祇園まで来てみると、逃げる人や野次馬たちで大騒ぎになっていた。あちこちで炎があがり、家屋が燃えてぱちぱちと音を立てて爆ぜる。
見廻組と分担して、新選組は三条、四条、松原の橋辺りにごった返す人たちを整理し誘導した。場所柄女たちが多いので、動揺して動けなくなっている者もいる。そういう時は手を引いて連れて行く。
それが少しきりがついてくると、おれと大力は逃げ遅れた人がいないか探してくるよう命じられた。煙と熱気が酷く、手拭いや袖で口元を庇って走り回る。目に染みて開けているのがちょっと辛くなってきた。大力も涙目になりながら呼びかけている。
「誰か居るか」
ふと、大力の涙が何も煙によるものではないのではないかということに気がつく。どんどん焼けのときに火事で家族を亡くしている。思い出して辛いのではなかろうかと、今更になって思い至った。
「大丈夫か、大力」
おれは遅まきながら声をかける。大力は息を整えておれの目を真っ直ぐに見て頷いた。
「どうもない」
大丈夫では無いのだろうが、おれは頷き返した。それに気を取られていて、一瞬遅れた。閃く刀をすんでのところで避ける。同時に大力がおれの名を叫んだ。
「幕府の犬が、飼い慣らされよって」
おれが避けたことで更に苛立ちを顕にして、男が怒鳴った。おれと大力は直ぐ様大刀を抜いて構える。そっと後ろに目をやると、そこにも一人。おれと大力は背中合わせになり、それぞれ男と立ち合う。
「やっ」
最初の総髪の男が大力に斬りかかる。おれの対峙している男もほぼ同時に飛び込んできた。さっと躱し、腕を斬りつける。思わず男が呻いて傷口を左手で掴んで膝をついた。それを見て総髪の男がやや怯んだのがわかる。続けるか、
一度は膝をついた男が立ち上がる。おれは切っ先をそちらに向けていたが、総髪の男がおれの背中目掛けて切りかかってきた。
「貴様」
大力の声があがり、おれの視界の端で大力の刀が男の右肩から袈裟懸けに動くのが見える。かなりの深手だ。おれと向き合っていた男は決定的な不利を悟って逃げていく。追うか一瞬悩んだが、やめておいた。大力を一人で残すのも気になった。
「おまえ、どこの者だ」
倒れていた男に一応訊いてみたが、答えは返って来なかった。ぶつぶつと悔しげに呟いた後、動かなくなった。おれたちへの恨み言を言っていたようだが聞かなかった。正直慣れっこになっているし、耳に入れたところで意味が無い。意見が違うのは仕方がないが、力で相手に言うことを聞かせ無関係な人間をも巻き込むやり方は許せない。
大力は荒い呼吸で刀を握ったまま肩を上下させている。人を斬ったのはこれが初めてだったかもしれないと思い至る。
おれは倒れている男にもう息がないことを確かめると、取り出した懐紙を大力に渡した。
「あぁ、おおきに」
いまいち心ここにあらずの様子で、おれの手から懐紙を取って刀についた血を拭い、納刀する。ふーっと息を吐き出すのが心配になって、
「大丈夫か。屯所に戻っていてもいいんだぞ」と言ってみたが、
「いいや、行けます」と首を振る。これでまた仕事が増えたことになる。ぐずぐずしてはいられない。
「そうか。なら、行こう」
「はい」
おれたちは走り出した。
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