第廿一夜 熱

 急激に視界が狭まる。頭の上をつままれて、耳を塞がれているような気になる。

 これはつまり。要するに。

 風邪だ。

 兎に角熱がある。どんどん上がっていっているみたいだ。それに反して指先はひどく冷たい。多分爪先もそうなんだろう。自分の身体じゃないみたいに、がくがくと全身が震えている。よくある骸骨のお化けみたいな感じだ。

 なんて馬鹿げたことを考えているのは、けして余裕があるわけじゃなくて、熱で思考回路が侵されているのだ。多分。

 熱だけが出る風邪は、そんなに嫌いじゃない。酒を飲んで酔っ払っているときみたいに、熱があるから仕方ない、ということで。と自分に言い訳して、体の方が次々と変なことをやらかすのが冷静に見ていると面白い。別に移動してきたわけでもない、さっきから普通にそこにあるカートにけつまずいたり、コーヒーのサーバーを手に、ソーサーだけ手に持って注ごうとしていたりして思わず笑ってしまう。

 何やってんだ、おれ。

 無理してしばらく仕事に出ていたが、熱がぐんぐんあがった。

 時間が全然過ぎない。でも今ここで帰ったら、残りのバイト代三千円がパーだ。ホールが一人減ったら、みんなに迷惑もかける。耐えるしかない。時計を何度も見て、あと何時問、と自分を励まそうとするけど、壊れてるんじゃないかと思うほど時計は遅々として進まない。

 耐えらんねえ。

 でも耐えなきゃならない。頑張れ。

 まるで、もうどう考えても分からない数学のテストの答案用紙を前に、考えているふりもできなくてぼ一っと白い紙を見つめているとき並に時間が過ぎない。

 さっきの休憩時間までは元気だったんだけどな。おかしいな。売場に戻ってきてから、急に悪寒がする。

 田代が気遣って水をくれたんだけど、コップを持つ手ががたがた震えで恰好悪いったら。

「おいおい、大丈夫か?帰った方が良いんじゃねえの」

 呆れたような声音で言ってくれる。おれはと言えば、それに返事を返す前に、飲もうと口をつけた水のカルキ臭さで嘔吐えずいていた。

 ああ駄目だ。かっこわりい。

 喉は乾いてるのに。熱いやら寒いやら。脱水症状になりそうだ。

 田代がドリンクバーのスポーツドリンクを一杯持ってきてくれた。スポーツドリンクって本当に、体に行き渡るように出来ているんだな、とおれはこの時心底思った。さっきのカルキ臭い水と違って、染み透るように喉に入っていく。けど、飲んだ側から喉がひりひりして、ひっつきそうだ。

段々悪寒が治まってきたと思ったら、今度は目の前に陽炎が出そうなくらい暑くなってきた。

本当にこれはヤパイ。

久しぶりに本当に風邪だ。

 一人暮らし故に、自己管理には気をつけてるつもりだったんだけどな。

 立っているのもままならなくなってきたので、結局バイトを早退した。体調が悪いとき、休んだ方が迷惑をかけるのか、休まない方が迷惑をかけるのか判断が難しいところだけど、これはどう考えても後者だった。翌日も休みたいと電話をした。店長もそう思っていたのか、

『おう、休め休め。取り敢えず三日は休め』

 とおれの言い訳をろくに聞かずに言われてしまった。よっぽどおれは、周りから見て明らかに駄目だったらしい。おれはお言葉に甘えて、受話器を置くとベッドに潜り込んだ。


 喉が渇いた。

 そんなことで夜中に起きるなんて、あまりないことだった。特に寝起きの悪いこのおれが。

 台所まで行ってグラスに水を入れて鼻先まで近づけて、うっとなった。いつもは気にならない塩素のカルキ臭さがどうにも鼻をつく。こんなもの飲んだら余計に風邪が悪くなりそうだ。とは言え、うちにミネラルウォーターなんて気の利いたものはない。自分で今から買いに行くほどの気力もない。昨日帰りに買ってくればよかったんだけど、そんな気力も全然なかった。

 よっぽど将斗に連絡しようかと思ったが、自宅にいる受験生を掴まえて、こんな真夜中に水を持ってきてくれとはいくらおれでも言えなかった。

 おれは仕方なく、シンクにつかまって膝立ちしながら薬缶に水を入れて沸かした。確かこうしたらカルキが飛ぶとか、昔テレビで見たような覚えがあったからだ。あとは確か、割り箸を折っていれておくとか。

 沸いたお湯を、ありったけ氷を入れたグラスに注いだ。自然に冷めるまで、とても待っていられなかったから。沸かしたてだから、氷はあっという問にしゅんと軽い音をたてて溶けて水になる。なんだか氷にしろ湯にしろ、カルキがとんでいるのかよく分からなかったが、水道から出したそのままよりは飲めた。だからおれはごくごくと、生ぬるくなったそれを飲んだ。なんていうか、水道水の結晶が目に見えたら、壊れて丸くなっているんだろうな。そう思う味だった。まろやか、なんじゃない。壊れて割れて角がとれているような感じ。

 喉の奥がひりひりする。いつも薬を飲むたびこうなる。喉が渇く。風邪で喉が痛い方がよっぽどましなんじゃないかとさえ思う。舌の付け根より上。鼻と喉が繋がっているところよりも奥。カピカピに乾いたセロハンテープが張り付いているみたいな気がする。唾を飲み込んでもちっとも太刀打ちできない。喉がくっつきそうに引き攣れて、咳き込む。苦しくなって涙が出てくる。

 ああ、情けない。

 飲み干してしまったので、もう一度薬缶からグラスにお湯をつぐ。うっかり氷を先に入れていなかったら、硝子製のグラスはぱりんとあっけなく割れた。しまった。破片と熱いお湯が床に散らばった。

「熱っ」

 もたもたしていて飛びのく動作も遅い。お湯が手にかかった。こんなに熱かったら、それは割れるな。とぼんやり頭の片隅で考える。駄目だ。やっぱり頭が回ってない。いつもの何倍も頭が悪い。今のおれ。

 ふきんでお湯を吸い取って、硝子の破片を拾おうとして、ざっくり指に刺してしまった。

「………」

 熱でハイになっているせいか、もうそれだけで泣き出したくなった。この世の終わりみたいな勢いで悲しくなった。結構深く刺してしまったみたいで、おれの左手の人差し指からだくだく血が出ている。取り敢えず口にくわえたけど、舐める程度で止まる量では勿論なくて、口の中に広がる鉄分の味で吐きそうになった。

 馬鹿馬鹿しい。だったら最初から水道水を我慢して飲んでおけばすんだんじゃないか。

 這って行って救急箱から絆創膏を出して巻いた。一枚だとすぐに薄っぺらいガーゼに血が滲んてきて、もう一枚上から貼った。きつめに貼ったら傷口にぎゅっと当って、飛び上がるほど痛かった。

 情けない。

 右の手の甲に血がついてる。おれはそれを拭った。それから布巾を絞ってもう一度床を拭こうとして、やっぱり右手に血がついているのを見る。おかしいな。さっき拭いたのに。もう一度指で拭く。拭いたそばから血が惨む。血がついてるんじゃない、ここも切れているだけだった。指先に比べて傷が浅くて、指があんまり痛くて熱でぼうっとしているから気付かなかった。ガラスの破片が飛んだみたいだ。ここにも絆創膏を貼る。

 駄目だ。頭がぐらぐらする。

 おれは駅で貰ったポケットティッシュニ個を豪快に袋を破って床に撒き散らした。ティッシュはすぐに水を吸って透明になって、へにゃんと床に同化していく。二袋も開けたら、だいぶそれで残りの水は吸い取れそうだった。それを見届けて、おれはベッドに倒れ込んだ。とても立っていられなかった。


 ピンポン。

 呼び鈴が鳴ってる。そう言えば、大分前から鳴っているような気がする。無理矢理目蓋をあけた。今何時だろうと思って携帯を見たら、着信通知がいくつも出ていた。鳴ってたんだ。全然気付かなかった。

 郵便受けに手をつっこむ音がした。郵便受けに手をつっこんで指先が当るところに、予備の鍵がガムテープで貼り付けてある。それをびりっとはがして、ガチャガチャと鍵をあける音がする。その鍵のある場所を教えてあるのはひとりしかいない。将斗だ。

 ドアチェーン、はずしてあったっけ。

 おれはいつもかける人なんだけど、ぼんやりしていてかけ忘れていたみたいだ。ぼけているのが役にたったみたいだ。将斗が部屋に入ってきた。

「大丈夫か?」

「うん」

 そんなことよりそこ踏むなよ、と言おうとしたとき、将斗がティッシュと硝子片の山に気付いたみたいだった。

「なんだこれ」

 と言うのが聞こえた。

 おれののろのろした説明で分かってくれたみたいだ。将斗は硝子を段ボールで巻いて『硝子!キケン!』とマジックで書いて燃えないゴミの袋に入れて、細かい破片を掃除機で吸い取って、勿論ティッシュも捨てて床を綺麗に拭いた。氷を入れた洗面器の水で絞ったタオルをおれの額にあてて、体温計も差し出される。

「おまえ、熱測ってんの?」

「三十八度からはかってない」

 呂律の回らない口に体温計が放り込まれた。目の前で液晶表示がぐんぐん数字が変わっていくのが見える。焦点が合わないので何度かは分からなかったけど、ピピピッと検温終了の音が鳴った時には確実に三十度台ではなかった。

「三十九度って言ってるけど? まさかインフルエンザじゃないよね?」

「うん。そんな熱あがったの急じゃない。」

「病院は?」

「大丈夫」

「おまえねー」

 呆れた声を出すが、薬も飲まない主義のおれが市販薬の瓶をテーブルに置いてあるのに気付いた。

「おまえなりに妥協してるわけね?」

 これ以上熱あがるようなら救急車呼ぶぞ、と脅しつつ、朝飯に卵の入ったお粥を作ってくれた。

「食って、薬飲んで、寝ろ。これ貼って」

 と額に貼るジェルシートを二箱くれた。

「自分でタオル絞るのできないだろ? 水替えられないし、寝てるうちにタオルずれるしさ」

至れりつくせりだ。おまえはおれの奥さんか?

「おまえ看病してくれる彼女もいないのかよ」

 微妙なずれでおれの思っていることが伝わったのか、将斗がそんなことを言う。

「いたって呼んでない」

「まあ、そうか」

 こんなげしょげしょのところを見られてもいいくらい親しい彼女なんて、おれはできた覚えがない。彼女には見栄を張るものだ。つまるところおれはプライドが高いんだろうか。

「おれも呼ばないくらいだもんなあ」

 と将斗が溜息をついた。

「あ、今更だけど、風邪うつるぞ」

 こいつが受験生だという大変な事実を、今やっと思い出した。

「はいはい。そもそももう七時半なので、遅刻するので学校行きますよ。」

「ごめんな。ありがとう。助かった」

「帰りはおれ来れないからさ、圭司に頼んどくわ」

「いやいいよ。おまえらにうつったら困る」

「おまえそんなで来週腐乱死体発見って新聞載られても、おれら後味悪いじゃんよ」

 と洒落なんだか残酷なんだかよく分からないことを言って、鍵は貰ってくぞ、と将斗は帰っていった。じゃない、学校へ行った。ちゃんと外から鍵をかける音がした。

 おれはそれを聞きながらもう眠りに落ちていた。

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