第廿夜 予兆
喉の位置が、通常より五ミリ上についているような気がする。吐き出す息が気管を上滑りして、きちんと声帯を震わせてくれない。いつも通り喋っているつもりでも、出るのは掠れた息だけだ。
意識して、多めに息を吐き出して、無理矢理声を出す。
まるで喉の奥がサハラ砂漠みたいにばさばさ、ごわごわしている。張り付いて剥がれない感じ。
おれは風邪は喉から始まる人だ。喉がへらへらするなあと思い出したら、取り敢えず嗽をしまくるとか、部屋の湿度に気を付けるとか、まともな食い物を食べるとか、よく寝るようにして用心する。必要だと思ったら、薬も早めに飲む。ここで騙せればそのまま治まるんだが、駄目だとかなり駄目になる。騙そうとのらりくらり菌を体内で飼いならしていたツケなのか、どかんと熱が出て寝込む。後にはいつまでも治らない咳が置き土産に残される。咳以外には元気なんで、普通に生活している分、いろいろ負担だ。バスの中で咳をしていると、結構な確率で迷惑そうな顔をされる。笑い出したり、深く息を吸い込んだり、何かのきっかけで咳が始まるともう止まらない。まるで発作みたいに、げほげほと咳込む。いつまでも治まらなくて、かなり苦しい。吐く息を全部吐いちまってるのに、まだ咳が出るもんで、窒息しそうになる。涙も滲む。で、睨まれる。このまま喘息にでもなっちまうんだろうか、と思うほど咳き込む。
なんて話をしたら、圭司に言われた。
「それは喘息というより、結核の症状かも」
「え。結核?」
「風邪かと思うような症状だからな。あれは。咳が二週間とか続いて治らないようなら、結核を疑って病院行ってレントゲン撮った方がいいぞ」
「まじっすか」
「流石医者の卵?」
「いやこれは趣味」
「趣味って……」
おれと祥太で嘆息する。
「薬飲んでるのか?」
「うん。咳止め飲んでるけど、あんまり効いてる感じがしない」
「熱は無いんだよな」
「それは無い」
「原因不明の発熱も要注意だぞ」
「いやだから。おれは風邪気味なだけだから」
なんだか楽しそうに言われるのがひっかかる。いや、心配しているんだ。と思いたい……。まぁいいや。
しかしなんていうか、結核なんて言われると思わなかったんで、ちょっとどきっとした。今のおれには、結核と言えば沖田さんの顔しか浮かばないからだ。
「結核ってだけどさ、今もあるのか?」
祥太が無邪気に訊く。
「おまえな。ありますよ。そら昔ほど国民病じゃないし、薬で治る病気にもなってきたけど、今だってあるよ普通に」
「へえ~。結核ってあれだよな、咳き込んで血を吐くやつだよな?」
祥太に悪気が無いのは分かるのに、ちょっと今のおれにはひっかかるものがある。
「まあ一般に言えばそうだけど、そうならないのもあるよ。全身に結核菌が回って、内臓のあちこちに転移するやつなんかは、血は吐かないよ」
「ふ~ん。……っていうか、なんで血を吐くわけ。咳き込んだりさ」
おれの机の横に両肘をついて座り込み、祥太が言った。圭司はおれが机の上に出してあるルーズリーフの束から勝手に一枚抜き取って、紺のブレザーの胸ポケットからさっとシャープペンを抜き取って絵を書き出した。
「これが、結核菌ね」
「本当にこんな形してんの?」
「そう」
「スライムみたいだな」
「まあね。で、これが。っていうかそもそも、結核ってのは感染症なわけよ」
「うん」
「だから、発症してる人の咳で菌が飛ぶわけね。で、それが空気中に漂ったりして、それを吸い込んだりするわけよ」
と簡単に口から肺の図を書いて、口からペン先をすーっとひっぱった。
「でまあ、別にこれですぐ感染して発症するわけじゃないんだけどね。自然に治癒することもあるんだけどさ。抵抗力が無かったりして、こう、肺に行くじゃん、菌が」
と肺の隅に矢印と菌の絵を書いた。
「そうするとさ、こっちはこっちで、戦うわけよ。結核菌とな」
「白血球だ」
「うん。まあそれだけじゃないんだけど、まあいろいろな」
でこうやって、と矢印の先に書いた菌の上に、凸っと蓋を書いた。
「肉の塊の中に菌を閉じ込めるわけね」
「へえすごい」
「でこれが、壊死するわけよ。どろどろと。これが痰になるのね」
「え。そうなのか?」
おれも思わず声に出す。凄いな人間の体って。
「この病巣が広いと、組織が崩れちゃうわけだし、肺の機能が低下するだろ」
ざっと肺の一角に、ばってんを引いた。その芯が擦れる音に、必要以上におれはどきっとした。
「そっかあ。じゃあ咳も出るし血も出るよなあ」
神妙な顔になって、祥太が言う。
「怖いなあ。だって、もし壮治が結核だったら、おれにもうつっちゃうんだろ?」
「え」
ずきっとした。おれが結核? うつっている可能性が無いとは言えないような気もした。
「感染してても必ずしも結核菌をばらまくわけじゃないよ。まあでも、今は良い薬があるから大丈夫でしょう。早めに見つかれば。幕末とか明治とか、昭和とか、そんな頃には確かに死の病だったけどさ」
おれはじっと、今書かれた肺の図を見ていた。結核に罹ると、こうやって蝕まれていくのだ。
もしおれが、薬を持って行けたら。ふと思いついた自分の声に、おれは思わずきゅんとなった。もし本当に、そんなことが出来るなら。そしたら、きっとこの先発症したとしても、沖田さんは助かるに違いないのだ。自分の、しかし恐らく実現出来ない思いつきに締め付けられて、思わず泣きそうになる。
「おまえら今度はなんの話してんの」
外に買出しに行っていた将斗が、制服の上に着て行ってた薄いコートをおれの頭の上に脱いでよこした。
「なにすんだよっ」
言いながら、コートをどけるふりをして目を指で擦った。将斗がいつもつけてる整髪料の匂いがする。くそっ。将斗のやつ。
「ちょっと結核についての講義を」
「そんなもん受験に出ませんから!」
はい、頼まれてたシャープペンの芯、とコンビニの袋の中から出して圭司に渡す。
「なんでまたそんな話に?」
「いやこいつが結核の症状があったんで」
「あるかっ」
「なんでおまえは診療しだしてるの教室で。内科志望?」
「おれは脳外☆」
「まあおまえじゃ間違っても小児科医は無理だよなぁ」
と将斗が圭司のでこをどつきながら椅子を持ってきて座った。
「愛想は悪くても腕の良い医者になりますよ?」
「愛想も大事よ? 病は気からよ?」
苦笑いしながら言う将斗の言葉が、なんとなくおれの目の前を明るくした気がした。
祥太はひとりで、圭司の書いた図を見直しながら納得していた。
「怖いなあ。病気って。よく結核って名前聞くけどよく知らなかったよ」
「有名な人で結核になった人多いからな。そりゃあ名前くらい知ってるだろうよ」
「有名って?」
「ん~。正岡子規とか、石川啄木、宮沢賢治、太宰治、中原中也、モーツァルトとかショパンとか。ああ、そうそう。壮治の嵌ってる幕末の、高杉晋作とか、沖田総司とかさ」
息が止まりそうだった。体はそれとは反対に、激しく咳き込みだした。
「おうおう、大丈夫かよ」
「気を付けろ、将斗。そいつの唾は今や細菌兵器だ」
「あのなあ」
「おとっつあん、お水」
祥太がおれのスポーツドリンクのペットボトルの蓋をあけて差し出してくれたけど、とてもそんなもん飲める状態じゃなかった。目に涙をためて、げほげほ言いながら、悪い、いい、と咳の合間になんとか割り込ませて喋って手を振った。
「すまないなあ、祥子。苦労をかけて」
圭司、勝手にアテレコしてんなっての。
「いいのよおとっつあん」
呼吸困難に陥りそうなおれを尻目に、ふたりで小芝居を続けている。ああもうこいつらは。
「あれだよな、モジリアーニもそうじゃなかったっけ」
「誰それ」
「画家」
将斗がおれの背中を擦りながら、言い出した。
「おれ結構好きなんだよね」
いろんな人が、結核で亡くなっているんだ。今までテレビや授業で聞いたときは、ふーんと聞き流していたことだったのに。今あんなに元気で笑ってる沖田さんを見てしまうと、いろんなことを考える。
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