第十八夜 別れ

 山南やまなみさんが脱走した。なんでまた、という驚きの方が大きかった。総長の山南さんが。あの優しい人が。隊を脱したらどうなるかよく分かっているはずなのに。一体、逃げ切れるという確証でもあったのだろうか

 追手には沖田さんが選ばれた。居ても立ってもいられず、支度をしている沖田さんの所へ行ってみた。沖田さんはちょっと元気のないような顔を向けてきて、それでも無理に笑った。手甲をつけながらいつものような調子で、

「どうしました?」

 と言ってきた。どうしたもなにも、と思いながらも、沖田さんがどんな気持ちで今この旅支度を整えているのかと思うとなんと言っていいかわからずに言い淀んでいたら、向こうの方からこう言ってきた。

「大丈夫ですよ。きっと近藤先生は、わざと私を追手に選んだんじゃないかと思ってるんです」

「え?」

 意味を取りかねて訊き返すと、にこりと笑った。

「私が山南さんを見殺しに出来るはずがない。近藤先生はそれを分かった上で私に山南さんを探しに行かせるんだと思うんです」

「……では、先生は山南さんを助けようと?」

「さぁ。私が勝手にそう思っているだけかもしれませんけど。他言は無用にお願いしますね」

 といたずらっぽく笑う。勿論、と急ぎ頷いた。

「山南さんに会えたら、相談してみますよ。相手が私なら、山南さんだって斬りかかってきたり逃げようとしたりはきっとしないと思うし。まずは見つけられるかもわかりませんからね。兎に角行ってみますよ」

「わかりました。お気をつけて」

「わざわざおおきに」

 全然イントネーションの違う嘘っぱちの京都弁で冗談めかして言うと、沖田さんは目を落として手早く脚絆の紐を結わえている。

 いつも通りの沖田さんの冗談に、うまく返す冗談も思い浮かばなくて、「いえ」とつまらない答えを返して、頭を下げて部屋を出た。少しほっとした気持ちもする反面、そううまく行ってくれるだろうかという気もする。山南さんが逃げおおせたとしても、もう自分が山南さんに会えないという事実は変わらないし、取り逃がしたとなったら他の隊士の手前、沖田さんに何もお咎め無しで済むものなのだろうか? 不安で仕方なかった。


 一体沖田さんは、どういう気持ちだったんだろう。連れ戻したところで、山南さんがどうなるのか、そこまで沖田さんが考えていたのかどうかはよく分からない。切腹させられることはなんとかして避けられるのではないかと思っていたんじゃないだろうか。下手に新選組の隊士が外を出歩いていたら、尊攘派の人間に切り殺されるかもしれない。そっちの危険性の方をきっと考えていたと思う。隊士としてというよりも、ひとりの友人として。いなくなってしまった友達の身を案じて、純粋に探しに出たんじゃないかとおれは思う。

 オレは二人が帰ってくる時間に屯所を離れ、沖田さんと山南さんを出迎えた。なんのことはない、おれが知っていたからなのだが、二人は驚いていた。

 山南さんは宿帳にはっきりと自分の本名を書いて泊まっていて、すぐに見つけられてしまったらしい。沖田さんの顔を見て、

「君が来たのか」

 と落ち着いた様子で声をかけてきたと言う。沖田さんが逃げるように示唆しても、

「それをしてしまえば沖田君に迷惑がかかるだろう。そう私が考えて戻るだろうというとこまで、近藤さんは考えた上で君を寄越したのではないかな」

 と言って来たのだそうだ。沖田さんはそれを聞くと何も言えず、既に覚悟を決めた様子の山南さんとその晩を過ごして、一緒に屯所に戻ってきたのだった。

 山南さんはどこへ逃げる気もなかったのだろうと思う。結局、オレたちにはどうして山南さんが脱走なんてしたのか、はっきりと理由を明かされることはなかった。幹部連中が集まって相当話し合いを重ねていたことしかわからなかったけれど、総長である自分が隊規を乱してなし崩しにするようではいけないと、山南さん自身が切腹を望んだのだという。


 三方の上に置かれた茶碗から、水を飲んだ。少し後ろを振り返って沖田さんと目を合わせ、

「私が声をかけるまで、待ってくれないか」

 と頼んだ。介錯役の沖田さんは頬を強張らせて、

「はい」

 と小さく頷いた。いつもは笑顔を絶やさない人だが、複雑な心中が表情によく現れていた。却って山南さんの方が、覚悟を決めているせいなのか晴れやかな顔をしている。袴の上を外して、袷から腕を抜き、諸膚を脱いだ。温和で知的な顔には似つかわしくないとさえ言える、筋肉質の体が顕わになる。それを見て、刹那沖田さんが眉を顰めたように思えた。多摩にいるときから、同じ道場で稽古してきたのだ。この体も、互いに修練に励み作ってきた肉体だ。彼の脳裏に、山南さんとの思い出が過ぎったとしても不思議では無い。

 手元の小刀の中ほどまで、きゅきゅと手際良く白紙を巻きつけると、右手でしかと握った。腹に切っ先を向けて、しばし皆の顔を見渡す。一瞬目が合った。なんとも言えない表情を視線に漂わせ、何かオレに伝えようとしているようにも思えた。涙が出そうになって、慌てて堪えた。いっそ目を逸らしたいとさえ思った。しかしそんなことは出来ない。

 黙ったまま頭を下げると、すっと顔を上げて、大きく息を吸い込んで止めた。腹の筋肉がしなやかに盛り上がり、固く動きを止めた。そこへぶすりと刀が突き刺さる。

オレは膝の上で両手を握り締めた。自分の腹が痛むようだった。

 いっそオレよりも冷静に、山南さんは刀を握った右手を左手でずずずっと右の方へ切り進める。一瞬手が止まったが、息を詰めたそのまま一番右端まで切り裂いた。そこで刀を引き抜くと、なんと下腹に突き立てた。鮮血が刃先からばらばらと飛び散る。

 居合わせた皆の、声にならない声が部屋に充満した。一文字腹では無い。十文字腹を切ろうというのだ。

 刃先がそろそろと上に上がっていく。臍を過ぎたあたりで再び手が止まった。流石に堪えるような表情が浮かんでいるが、勢い良く刀を引き上げた。そこで、振り仰いだ。

「頼む」

 声を出してやや力が抜けたのか、広がった切り口から鮮やかな色をした臓物が顔を出している。

 沖田さんは泣いているように見えた。いや、自分がそう思って見ていたせいなのかもしれない。彼は祈るように刹那目を閉じると、ヤッと首を目掛けて刀を振り下ろした。

「見届けた」

 近藤さんの声が静まり返った中に響いた。微かに震えているようだった。


 おれは色々と史料を読み漁ったけれど、結局なんで山南さんが脱走したのか、これというものは見つけられなかった。何故戻ってきたんだろう。どうしても死にたくなければ逃げたら良かったんだ。永倉さんや、他にも山南さんに同情している人ならいっぱいいた。その筆頭とも言えるのが沖田さんだったと思う。あの人は、最初から見つけるつもりなんか無かったし、見つけても逃がすつもりだった。見つけられなかったと報告すれば良かったことだし、局長もそれを望んでいた節がある。それに、見つけたのに逃げられたからと代わりに自分が責を負い、切腹してみせるくらいの気概は沖田さんならあったはずだ。それが分かっていたから山南さんは戻ってきたのか? 沖田さんを救うために? でも、それだけじゃないだろう。

 おれには分からなかった。確かに分かっているのは、山南さんはもう死んでしまったのだということ。そして、沖田さんも近藤さんも土方さんも、他のみんな。特に試衛館からの仲間は、重く受け止めてひどくそれに傷ついているということ。小説にあったような汚い確執があったようには、少なくともオレには思えなかった。

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