第十二夜 変化

 沖田はひとりで外を歩くのが好きだった。土方に危険だから一人で出かけるのは避けろと言われてはいたが、性分である。ふらふらと用もなく京の町を出歩いていた。

 気になっているのが、野良犬である。人懐こいが薄汚れて、野良になってからはだいぶたつような犬だ。それが木に紐で首を結わえられている。初めは飼い犬なのか、誰かの厚意でつないでいるのかとも思ったが、誰が連れにくるわけでもなし。餌をやっている様子もない。この暑い最中炎天下で、少ない木陰に身を寄せる以外どこへ行くこともできず、ぐったりと寝ているばかりになった。

「おい、大丈夫か?」

 話し掛けて、沖田は大の前に屈み込んだ。ぱたばたとお愛想程度に尻尾を振る。しかし疲れた表情だ。

「誰かのいたずらで繋がれていたのかな」

 しばし眉根を寄せて思案したが、首の紐を解いてやろうと結び目に手をかけた。犬の方でも自由にしてくれるものと思ってか、大人しく首を少しあお向けたまま伏せをしている。

 雨風にさらされたせいなのか、思うより結び目がきつくて取れそうにない。

「弱ったな。……おまえ、じっとしてろよ」

 犬に言い聞かせて、沖田は脇差に手を伸ばした。

「何しはるんです!」

 そこへ女の金切り声が割り込んだ。驚いてそちらを見ると、着物の裾を乱してこちらに駆け寄ってくる女がいる。

「おやめください、可哀想な」

「これはそなたの犬か」

 沖田が立ち上がると、顔を真っ赤にして奮起した彼女は、沖田と大の間に割って入った。犬は驚いて腰をあげ、後ずさる。

「違います。せやけど、野良犬やから切ってええいうお話ではないですやろ」

 負けるものか、と必死に沖田に食って掛かる彼女だが、細い腕が微かに震えていた。呆気に取られていた沖田だが、今の言葉で腑に落ちた。

「あはは」

 思わず笑う沖田に、

「な、なにが可笑しいんですか」

 とますますいきり立って彼女は言った。

「いや、失礼。しかし私は辻斬りではござらんよ。こやつを自由にしてやろうと思ったまでのこと」

「え……」

 なんのことはない。浪人風情が刀の試し切りに、犬や、ひどいときには人間を切ることがある。彼女は沖田が犬を試し切りしようとしているのだと、勘違いをしたのだった。

「これはお侍様。大変失礼を致しました。つい、早とちりを……。堪忍して下さいまし」

 先ほどの興奮とはうって代わって、恥じらいに頬をやはり赤く染めて、彼女は謝った。

「構いませんよ。紐の結び目が固くてね。刀で切ろうかと思っていたんですよ」

「そうでしたか」

 彼女は大の前に屈んで、着物が汚れるのも厭わずに犬を撫でた。

「紐で首に擦り傷ができてはるわ。連れて帰っててやります」

「みて?」

 沖田が不思議そうに繰り返した。彼女はにっこりと笑って頷いた。

「私、雪音ゆきねと申します。そこの、永塚診療所の娘です」

 結局、犬も雪音のことも気になって、木の方の結び目を刀で切り取り、沖田も診療所までついていった。小刀で紐を切り、手馴れた動作で傷の手当てをする雪音を、沖田は珍しいものを見るような気持ちで見つめていた。

「どうかしはりましたか?」

「いや。女子おなごの医者とはすごいな」

 黒く長い髪を椅麗に結って、名前の通り真っ白い肌をした年若い京女だ。桜色の着物がよく似合っている。

「そうですか?」

 嬉しそうな顔で、雪音が言う。

「血を見るのは、恐くないんですか?」

 出された茶を啜りながら、沖田が訊ねた。

「……恐いですよ」

 雪音は少し押さえた声でそう答えた。言葉の響きに違和感を感じて彼女の顔を見る。

「でも、人が死ぬところを見る方がもっと恐い」

「そうか」

 沖田はそれだけ言って、そっと茶碗を置いた。


       ***


 二月になった。バレンタインの広告でピンクや赤に街が埋め尽くされてる。去年なんかはそわそわしてたもんだけど、今年は受験ムードに押されてあんまりそんな実感が無い。バイト先は元々、進学や就職が決まってる奴らと、端からフリーターな奴らだったんで受験の雰囲気も無かったんだけど、だからってあんまりバレンタインって雰囲気でも無かった。どっちかって言うと女子の方が人数多いし、そんなもんやりとりするほど仲も良くなければ義理チョコを渡すほど媚びる必要もなかったんで、全くそんな雰囲気から取り残されていた。

 と、思ってたんだけど。

 おれは中番の帰りに待ち伏せされて、チョコを貰ったのだった。

 この日は生憎の雪で(女の子たちに言わせれば、ロマンチックらしかったのだが)、おれは自転車を断念してバスで来ていた。まあどっちにしろ駅前なわけだ。で、駅まで歩いてきたら声をかけられた。

「今日はジム行かないの?」

 振り返ったら横田と五十嵐聡子だった。

「あれ? どうしたの。おまえら早番じゃなかったっけ」

 二時間前にあがったはずだった。

横田よっこに聞いて、お茶しながらこのジムの前ではってたんだよ」

「はってた?」

 おれは取り敢えず繰り返したけど、それ以上どうリアクションを取っていい物やら皆目見当がつかなかった。そんなおれにはお構いなしで、五十嵐は嬉々として鞄から派手なラッピングを取り出した。

「はい! 寒い思いして張り込んでたんだから、受け取ってよね!」

「あ、あぁ」

 勢いで手を伸ばしたら、そのままぎゅっと押し付けられた。ああ、バレンタインか。

「ありがとう」

「えへへ。徳永今日は真っ直ぐ帰るんだ?」

「あ、うん。ちょっと今風邪気味だから、やめとこうかと思って」

「そっか。そう言えばちょっと声変かも」

「じゃあもしかして今日はバス?」

「うん」

「ラッキー! じゃあ一緒に帰ろっ」

 五十嵐の勢いに押されまくって、おれは殆ど吃音どもりながら肯定の趣旨の言葉を発していただけだった。

 五十嵐はいつも元気な子だけど、いっにも増してテンションが高い気がした。ふたりは、ホール仲間だけどそんなに仲良いとは知らなかった。同じバスに乗るので、シフトが同じだったときは一緒に帰っているんで仲良くなったらしい。で、横田からおれなら自転車かバスだし、帰りにジムに寄ることもあるらしいから待ち伏せするなら駅前がいいんじゃないかとアドバイスを受けたんだそうだ。

「はあ……。そうですか」

 としか言いようが無かった。ひたすら元気だなーと思っていた。

「じゃ、あたし次で降りるから。徳永。それ義理じゃないけど! お返しは気にしなくていいからねー。お疲れ-」

「お疲れ様。またメールするね-」

 横田がひらひらと笑顔で手を振って、五十嵐はコートのポケットから定期を引っ張り出しながら降車口へ歩いていった。

「座ったら?」

 呆気に取られて見送っているおれに、今まで五十嵐が座っていた隣の席をぽんぽんと叩いた。

「あ、うん」

 言われるままに座ったんだけど、知らないおばさんならいざ知らず、知り合いの女の子と二人掛けのバスの席に座ったことなんて無かったから、無意味に緊張した。座席ってこんなに狭いもんだったんだなあ。もう、カーブになるたび、横田に凭れかからないように踏ん張っておれは結構必死だった。

「なんか迷惑だったかな」

「え?なにが?」

「待ち伏せ」

 ちょっと真顔でおれの方を見て、言う。目が合ったら意外にすごい至近距離だったんで、慌てておれは目を逸らした。

「別にいいけど。ちょっと驚いた」

「なんで?」

「なんでって、そんな待ち伏せされて手渡しでチョコ貰った経験なんてねえもん」

「えー。嘘お」

「マジだよ。なんで?」

「だって徳永くんモテそうだから」

「はい?」

 どうリアクションをとれというんだろう、本当に。

「貰わないよチョコなんて、本当。鞄とか下駄箱とかに入ってたことはまあ、あるけど」

「手渡しがあまり無い、と」

「うん。まあ」

「ふーん」

 なんだか機嫌を害したような声音だったんで、おれは動揺する。なんだ? おれなんか変なこと言ったか?

 横田は黙ったまま、持っていた鞄を開けて中を探している。なんかいい匂いがした。シャンプーの匂いだろうか。

 なんてぼーっと思いながら正面の料金表の電光掲示板を見ていたから、突然

「はい」って言われて驚いた。「チョコ」

 相変わらずなんとなく不機嫌な調子で、横田が言う。見たら、五十嵐とは打って変わってシックな包装紙に包まれた箱だった。

「え。……おれに?」

「当たり前じゃない」

 と横田は噴出した。そんなに変な質問だろうか。

「あ、ありがとう」

 受け取る。でもなんか、すっごい困る。いろいろ、気持ち的に。ありがたいんだけど。まず、実質的に困っているのは今日おれは手ぶらで来ていて、五十嵐のラッピングも手に持ったままなのに、この上横田に貰ったものまでどうやって持って帰ろうっていう点だった。

「これ使う? かもなと思って一応持ってきたんだけど」

 更に横田の鞄から出てきたのは、包装紙と同じような色合いの紙袋だった。

「あ、いいの?」

「うん。こんなことになるかもと思って持ってきたやつだから」

「助かる。ありがとう」

 おれはぎくしゃく受け取って、紙袋を開いた。ばりばり凄い音がした。新品の紙袋だし。車内は割と静かだし。しかも横田の腕に軽く手が当っちゃったんで、どぎまぎする。どうしてくれよう、おれ。

 とりもあえずは、袋にふたつのラッピングを仕舞って、膝の上に置く。

 そしたらもうやることもなくなって、何か喋らないともう黙っているしかなくなって、非常に困った。なんでおれ、こんなに気持ち的にピンチにたたされてるんだろう。

 横田も何も言わなくて、どうしていいか本当に分からなくなったんで、こうなったら余計なことを言わないで黙っていた方がいいかもしれないという判断に達した。やっぱりどことなく、横田は不機嫌そうだったし。いや普通、気の利いたこと言うべきなのかもしれないけど、不機嫌の理由もよく分からないからどうしていいか分からなかったんだ。

 しばらくして、横田が降車ボタンを押した。

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