2.別の縁談

 アデレードの両親が別々に暮らし出してそろそろ二年が経つ。

 母から「一緒にフォルトレストに移りましょう」と笑顔で告げられ、てっきり家族全員で移るのだと思っていたアデレードは、それが違ったことを引っ越し当日に知った。母がアデレードを連れて家を出ていくというのが事の真相だった。たまに喧嘩をする両親の姿は見ていたが共に暮らしていけないほどこじれていたとは知らず、アデレードもこれにはさすがに動揺した。

 対するアッシュはのほほんとしたものだった。


「姉さんは何も悩むことないんですよ」

「だって別居なんて……」

「父さんも母さんもこうと決めたらなかなか主張を曲げないですからね……でも何が大事かというところではお互いに意見が一致しているので、さほど問題はないと思います」


 距離が必要な間柄というものもあるのではないですか。そう締め括った弟の言葉を反芻し、そういうものかとそのときは無理矢理納得した。

 その後、父も弟と共にこのフォルトレストへ移ってきた。アッシュは跡取りだからと自ら父の傍にいることを選んだらしいが、月の半分はアデレードたちの家にも顔を出しているので、どちらも我が家という感覚なのかもしれない。

 今日のように父子で食事を一緒にするときは近況を報告し合ったり軽口を叩いたりと、できるだけ楽しい席にしようと努めていた。たまに母の話題が出ると父はどことなくそわそわと気にするふうを見せる。一度冷やかしたこともあったが途端にへそを曲げて大変だったので、それ以来茶化すのはなるべくやめることにした。

 また母はといえば父の愚痴を口にはしても罵詈雑言を挙げ連ねるわけではなかった。姉弟が父の元を訪れることにも寛容だ。両親がそんなにいがみ合っているようにはとても見えず、だからこそアデレードは割り切れない思いを抱いているのかもしれない。




 始めこそ重く静まり返り、食器の音しかしなかった夕食の席は、「そういえば」とアッシュが出した話題で空気が一変した。


「例のウィンザール家の披露会、どうにか招待状を出していただけそうです。セイルに言付ことづけて、念の為ウィルトールさんにもお願いしてきましたから」

「アッシュ、ウィルトールに会いにきたの!? いつ!? わたしずっといたのに全然気付かなかった」

「それはそうでしょう。昨日の午後、お邪魔したんです」


 今日は行ってませんという弟の返事に、アデレードはなあんだと胸を撫で下ろした。もし来ていたのだとしたら、そして様子を見られていたとしたらきっと恥ずかしい以外の何物でもなかった。何しろお菓子は失敗して散々だった挙げ句、その後はこそこそとウィルトールの顔を盗み見て悦に入っていたのだから。姉の威厳などあったものではない。


「披露会は夏だそうです。父さんの言った通りでした」

「だろう。わしの情報網は確かだからな」


 それまでしかめっ面で黙々と食事をしていた父がふふんと得意顔で口角を上げた。確かに父の情報収集力は凄いと思うが、こういうおだてにてんで弱いところはどうなのだろうと心の片隅でこっそり考えるアデレードである。


(商談中にわけのわからない褒め殺しに引っ掛かったりはしないのかしら……)


 訝しげに首を捻るも今まで父が大損害を出したなど一度も聞いたことがない。それはそれで、これはこれなのかもしれない。


「婚約にしろ結婚にしろ、披露会というものは良い出会いの場だぞアッシュ。それもウィンザール家のものとなれば出席者は良家の者ばかりであろう。未来の伴侶を探す絶好の機会と心得よ」


 途中までふむふむと頷き聞いていた弟はえっと目を剥いた。


「伴侶、ですか!?」

「嫁にするなら大人しい女に限る。口答えなどせず、夫を守り立てる控えめな令嬢と縁を結べ。気が強いだけの幼馴染の腐れ縁なんてものは一番まずい」

「はあ」


 アッシュが頬を掻きながら引きつった笑みを返している。無理もない、父の喩えが喩えになっていないからだ。アデレードは弟の分も込めて父を睨みつけた。


「父さま。今のお話、そっくりそのまま母さまに言いつけるから」

「なっ!? なんであれに言う必要がある!?」

「別に今日だけじゃないわ。毎回報告してるもの」


 素知らぬ顔で告げる娘にラドルフは目を白黒させていたが、やがて開き直ったのか不機嫌顔そのままに口を開いた。


「……言い訳をするつもりはないがな、わしの立場も考えてみよ。仕事で疲れていてもお構いなしにぎゃあぎゃあ喚かれるのだぞ。一言えば十返ってくる。全く気が休まらん」


 如何にも被害者ぶったていで大仰に溜息をつく父。またかと思う一方、一体どこまでが建前でどこからが本音なのか、アデレードもアッシュも返事に窮して顔を見合わせる。そんな娘にラドルフは恨めしそうな目を向けた。


「アデレード、お前は年々あれに似てくる。性格も口調もそっくりだ。今のままでは未来の夫が泣くぞ」

「えっ!?」


 突然ふられた内容にアデレードの息が止まった。




 未来の夫。それは想像するだけでふわふわと幸せに浸れる魔法の言葉。

 もしウィルトールと結婚できたなら、アデレードは毎日が楽しくて堪らないはずだ。今だって会えるだけで嬉しくてとても幸せなのに、一緒に暮らせるようになれたらどんなに素敵なことだろう──考えるだけで口許が緩んで仕方ない。

 けれど、ウィルトールも同じように感じるとは限らない。そのうちに溜息をつかせることだって有り得る。アデレードにはついていけない、気が強い女といると気が休まらない、と。


(そんなの、未来の話に限らないわ。もう既に気が強いって思われてるかも)


 思い返せばウィルトールにはいつも我が儘を通してもらっている。折れてもらっているとも言える。セイルとの喧嘩で仲裁に入ってくれていたのもウィルトールだし、彼自身に対しても悪戯をたくさんしてきた。

 よくもあれだけ騒げたものだと思う。今ならもっと分別ある行動が取れるのに。できることなら好きな人には隠しておきたい部分、それがウィルトールには全て知られている。幼馴染とは時に残酷だと思う。

 そんな自分が気が強いかどうかなど今更過ぎるほど今更な問いだし、わざわざ確認しなくたって答えは明らかだ。


「気が強いと男の人は嫌かしら……?」

「わかりきったことを。せっかくウィンザールの子息と縁があるのに、未だ何もなっておらんのがその証だろうが。大体あそこの独り身はまだ三人もいるのだぞ。一人くらいどうにかならんのか」


 あまりの言い草にアデレードは絶句した。顔は真っ赤に、頭は真っ白に。失礼だ、乱暴だと反論したいが言葉が何も浮かんでこない。

 唐突に父の言葉が蘇った。気が強いだけの幼馴染の腐れ縁、それはまさにウィルトールから見た自分のことではないか。

 アデレードは一気に血の気が引く思いがした。


「二人でしょう、父さん。予定がないのは」


 アッシュが口を開いた。先の発言に対する訂正らしい。すぐにラドルフもそうだそうだと頷いて息子の方に身を乗り出した。目は爛々と輝き、彼が野次馬根性を発揮しているのは見え見えだ。


「もう一つ縁談が来ていたのだったな! どこの娘か聞き出せたか?」

「ええ、ウィルトールさんに教えていただきました。オルガー家のご息女だそうですよ。姉妹の姉の方だと」

「何、オルガーだと!? オルガーってあのオルガーか? 魔術具の店の? くそっ、あいつめ巧くやりおったな」


 息子を問い詰め、その顔から答えを読み取ったラドルフは膝を打って悔しがる。


「……ちょっと待って、一体何の話?」


 アデレードがようやく話に割って入った。ショックを受けている間に父と弟ばかりが盛り上がり、話に全くついていけていない。それでもウィルトールの名前が出てきたのはしっかり耳に入っていて、彼が関係しているのならちゃんと説明してもらわなければ困る。

 アッシュは顎に手をやり思案顔で口を開いた。


「まだ決まったばかりだそうですから、他言無用ですよ姉さん。……実はウィンザール家に縁談の話が」

「ジルヴェンドさまのなら知ってるわ」

「披露会とはまた別です。新たに縁談を進めてるんですよ」

「別の縁談……」


 昨日ウィンザール家に向かったのはその件でのことだと打ち明けて、ふとアッシュはラドルフに向き直った。


「もしかしたら今度のお相手は先ほど父さんが出した条件にぴったりかもしれませんね。のご令嬢といえば控えめで、夫に付き従うかたのようにお見受けしますし……侯爵も父さんと趣味が同じなんですかね」

「たわけたことを申すな。それよりアデレードもかれこれ一年は通っておるのだろうが。先を越されるとは情けない。……聞いておるか? おい、アデレード」

「え……?」


 アデレードが顔を上げるとラドルフが訝しげに眉を顰めていた。アッシュも心配そうにその顔を覗きこむ。


「姉さん? 顔が真っ青ですよ」

「……ねえアッシュ、その、今言った縁談は、ファーライルさまに、なの?」

「違いますよ。今度のは……あっ姉さん!?」


 アッシュの話を聞き終わる前にアデレードは席を立っていた。そのまま部屋を飛び出す。背後で父と弟の制止の声が聞こえた気がしたが止まるつもりはなかった。




 エントランスを出ると辺りは薄闇に包まれていた。茜の色はすっかり消え去り頭上一面に藍色の空が広がっている。明るい星が幾つか瞬くのを目に留める。

 束の間迷って、アデレードは小径こみちを逸れると植木の間に飛び込んだ。行く手を阻む生け垣は低いものであればドレスをたくし上げて飛び越えた。父に見つかれば叱られるのは必至だが、この際構ってはいられない。今何よりも優先したいのは時間の短縮だ。カーブした小径を辿るより植木を掻き分け突っ切る方が門へは断然近い。

 外へ出ると目線を上げ、改めて目的地を確かめた。目指すはウィンザール家、ウィルトールの元。ちゃんと本人に会って、彼の口から聞かなければアデレードの気が済まないし、信じない。辻を曲がって大通りを抜け、先ほど小走りで下りてきた道を今度は全速力で駆け上がる。

 ウィンザール家はフォルトレストで一番高い丘の上に居を構えている。邸の周りを取り囲む木々や立派な門自体はずっと見えているし、その距離もさほど遠くない。そのはずなのに、道のりはやけに長く遠く感じられる。


(別の縁談。次男のファーライルさまじゃないとすれば)


 一体誰の縁談なのか、部屋を飛び出した直後からずっと考えを巡らせていた。そのそばでもう一人の自分が、考えなくても決まっていると囁く。慌ててその囁きを振り払うが思考は堂々巡りだ。

 こういうことはきっと年長者から話がまとまっていく。

 縁談が次男ではないとなれば順番からいって三男なのはまず間違いない。そしていざ縁談が舞い込めば、何事においても模範的振る舞いを取るウィルトールが理由もなしに蹴るはずがない。反抗ばかりの四男セイルならいざ知らず。


『ねえ、あなたさえ……』


 不意にマリーの声が耳に蘇った。いつもと様子が違ったウィルトールの実母。なんですかと振り返ったがマリーは何かに迷っているふうで、そのまま「なんでもないわ」と言葉を飲み込んでしまった。その、どこか困ったような笑み。




 ねえ、あなたさえ良ければお菓子を作るのはこれで終わりにしましょう?

 実はウィルトールに縁談の話が出ているの。

 お料理の上手な子なんですって。

 わたくし、教えるなら本当にお料理が好きでやる気のある子に教えたいのよ。

 息子に会う口実作りのために利用する子ではなく、ね。




 マリーの声が聞こえた気がした。アデレードの身体を戦慄が駆け抜け、一瞬力が抜けそうになる。

 彼女があのとき言いたかったこと。仮説とはいえ、かなり真実に近い確信があった。だってこの方がただアデレードの料理の才を嘆くことよりよほどしっくりくる。

 ウィルトールは、もしかしたらもうすぐ手の届かない人になってしまうのかもしれない。いつでもおいでと笑ってくれたのはついさっきのことなのに、あの笑顔はもう、別の知らない誰かのものになってしまうのかもしれない。


(そんなのやだ)


 アデレードの目にじわりと熱が宿る。必死に瞬きをし、余計な雑念は思考の外に追いやった。後はただ歯を食いしばって駆けていく。

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