3.かわす想いに花は綻び

「嫁にするなら大人しい女に限る。気が強いだけの幼馴染の腐れ縁なんてものは一番まずい」

1.温かな時間

 雨垂れの音はいつの間にか止んでいた。

 しっとりと潤いのある柔らかなそよ風が、薄布のカーテンを優しく揺らす。細く開けられた窓の向こうは暗い闇に覆われて何も見えず、そのせいなのか風に混じる花の香りがいつもより一段と濃く感じられる気がした。見えなくともそこに確かに在るのだと、花たちが自らの存在を密やかに意思表示しているようで──。


「話は以上だ」


 静寂を破り耳に届いた低い声が青年の意識を引き戻した。夜の闇にも負けぬ重い空気が支配する中、目の前の人物に視線を合わせる。書き物をしていた壮年の男性もタイミングを見計らったように顔を上げた。机の端に置かれた灯が彼の碧色の瞳を照らし、鋭く光るその色はさながら静かに燃える炎に等しい。


「立場はよく理解しているだろう。異存あるまい」


 それはただの報告であり、確認である。相談の意図は端から含まれておらず、不服を唱えることも拒否することも許されない。


「……元より」


 できるだけ感情を込めずに青年は返答した。元より従うほかに選択肢はないのだ。息子の態度をさも当然と受け止めた父は再び手元に目を落とすとペンを走らせた。それから引き出しに手を掛け、中から書類を一枚取り出した。


「わたくしは反対でございます」


 細いが凛とした女性の声が耳に届く。傍らに立つ佳人のものだ。


「反対でございます旦那さま。差し出がましいことは重々承知しております。ですが、どうか」


 金色の髪を片側の耳元に寄せ、可憐な白い花を模した髪留めでまとめたその姿はまるで少女のように若く愛らしい。その印象通りにどこかふわふわとしているこの人がここまで食い下がることは非常に珍しい。

 目の前で繰り広げられている光景をどこか他人事のような目で青年は眺めていた。発言権などないも同然、ただ成り行きを見守ることしか己には許されていない。自分と世界の間にまるで薄い膜がかかっているかのような感覚。


「ウィルトール」


 突然、名を呼ばれた。おもむろに目を向ければ青年を気遣わしげに見上げる憂いを帯びた顔がそこにあった。彼女の藍色の瞳に映り込んだ自分もまた物憂げな顔付きをしており、血の繋がりを再確認させられる。

 佳人は視線を絡ませたまま、桜色の小さな唇を震わせた。


「あなたは、どう思っているの?」





 * *





 すらりと長い指が器に伸ばされ、綺麗に盛られた薄い焼き菓子を一枚つまんだ。何の躊躇いもなく口に運ばれたそれは小気味好い音を立てて半分に割れる。焼き加減は申し分ないようにも見えるし、口にした当人の表情も至って普通だ。けれど、


「あの……もし言いにくくてもはっきり言ってね……?」


 両手で包み込むようにして持っていたお茶のカップを下ろしながらアデレードは恐る恐る口を開いた。「え?」と顔を上げたウィルトールはその一言では意味を掴めなかったらしい。青藍の瞳が怪訝そうにどういうことだと更なる説明を求めていた。


「あの、ね、それ……ちょっと失敗しちゃったの。少し、堅いでしょ……?」

「そうかな?」

「そうなの。生地を混ぜ過ぎたんじゃないかって小母さまが……。あ、でも大丈夫よって言ってくださったし、お茶の用意も手伝ってくださって……でも、やっぱりやめた方がよかったかしら……」


 言葉尻がだんだん小さく萎んでいく。上目遣いに見上げ、まるで言い訳するようにぼそぼそと言葉を紡いでいたアデレードはなんだか泣きたくなってきた。


 師事するウィルトールの母マリーに言わせるとアデレードはどうも大雑把で詰めが甘いらしい。自分では教わった通りにきっちり作業しているつもりなのだが、それでは不充分よと何度注意されたかわからない。普段はどこまでも優しいマリーは、だがお菓子作りに関しては厳しい師だった。

 そのマリーが今日はおかしかった。どこか上の空でぼんやりとしており、こちらの声は一度で届かなかった。何度か声を掛けてようやく会話が成立するといった具合だ。

 様子を気にしながらも手を動かしていたアデレードが、自らの失敗に気付いたのは菓子が焼き上がった後。試食したマリーが「堅いわ」と言ってからだ。慌ててアデレードも口にしてみるとそれはしっかりとした歯応えがあり、噛み砕くのに少々力が要る。決して食べられない代物ではないが目指した食感には程遠い。

 その後ふたりの間に下りた沈黙の気まずさといったらなかった。


「……わたしがあまりに手が掛かる生徒だから、きっと失望されたんだと思うわ……」


 アデレードはしゅんと項垂れた。もう何度も作っているお菓子だというのにこの有様で心底情けなかった。

 もしかすると最近失敗らしい失敗をしていなかったのはアデレードの腕が上がったからではなく、マリーがほどよくフォローしてくれていたからではないのか。彼女はそのことに逸早く気づき、だが優しいが故にアデレードには料理の才がないなどとうまく言い出せず悩んでいたのかもしれない。失敗についての咎めは一切なく、代わりに返ってきたのがアデレードの顔色を窺うような微笑みとやたら優しい言葉だったのも、それならば納得がいく。

 そういえば一度何かを言いかけ、見つめてきたその目を見た気がした。けれど目が合った瞬間にふっと逸らされ、とても声を掛けられる雰囲気ではなかった。


「そんなに悪くないと思うよ、これ」


 ウィルトールは二枚目の焼き菓子を咀嚼そしゃくしながら、今し方自分で言った言葉に確信を持って頷いた。それから首を傾ける。


「母さんは、今いろいろと準備があるから、多分気忙しいだけじゃないかな」

「あ……お兄さまのご婚約の会?」

「そう」


 日が迫ってきたからね、と青年は微苦笑を浮かべた。左肩のところで緩く結った蜂蜜色の髪がさらりと揺れた。




 ウィルトールは三男だ。上に兄が二人いる。いや、二人の兄と言うより双子の兄と言った方がより正確かもしれない。ただ会ったことがないのでアデレードには馴染みがないし、ウィルトールから話を聞いたこともあまりなかった。

 そもそもアデレードが幼馴染だと断言できるのはウィルトールとその弟セイルの二人だけである。その昔「お母さんのお友だちよ」と紹介されたのがマリーであり、一緒にいたのが前述のふたりだったから。自分が二人姉弟なことからウィルトールも同じ二人兄弟、また一番上の子というところも同じなんだろうと勝手に思い込んだのだ。彼の上にまだ兄弟がいると知ったのは随分後になってからのこと。


 ウィンザール家の長男ジルヴェンドにはずっと前から許嫁いいなずけがいる。そしてこのたび正式に婚約の儀を執り行うのだそうだ。アデレードにはやはり馴染みないことなのでうっとりと想像を膨らませるだけなのだが。


「きっと盛大なお披露目会になるんでしょうね。お客さまもたくさんいらして、豪華なお料理と、素敵な音楽と……。……そうよ、考えることが山のようにあって、時間なんて幾らあっても足りないくらいよね……」


 そんな時期に料理の指導をお願いした自分はなんて浅はかだったのか。アデレードはますます肩を落とした。顔を伏せ「しばらく遠慮するわね」と溜息を零した。


「気にせず遊びに来ればいいよ。俺は料理は教えられないけどお茶なら付き合えるから」

「えっどうして? ウィルトールもいろいろ準備があるでしょう?」

「何もないよ」


 苦笑を漏らしながらウィルトールは大袈裟に肩を竦めてみせる。


「俺自身がしなきゃいけないことなんてほぼないな。ちょっと大掛かりな顔合わせ、そんなふうに思ってる。前後何日かだけ向こうに行けばそれでいいんだ」

「向こうって?」

「クラレットの別邸」


 青年の告げた語を耳にした瞬間、何とも言えない懐かしさがアデレードの胸に込み上げた。

 幼少期を過ごした街クラレット。湖のほとりに大きな学校があって、アデレードもウィルトールも、弟のアッシュやセイルも、みんなでそこに通っていた。


「クラレット……。もう随分行ってないわ」

「俺も。何年振りになるかな」

「わたし、引っ越しのときはウィルトールにお別れ言う暇もなかったでしょ。ずっと、それが心残りだったの」


 アデレードは小さく溜息をついた。


 父の仕事の都合で慌ただしく引っ越すことになったその頃のことは、実はあまり覚えていなかった。そこだけがぽっかりと記憶から抜け落ち、気が付いたら住まいが変わっていて、いつの間にか新生活が始まっていた感じだった。恐る恐る話に出すと母自身もそうらしく、「それだけ忙しかったってことよね」と苦笑いをされた。

 それからは折に触れ昔の楽しい日々に思いを馳せるようになった。

 ウィルトールは今どうしているだろう。

 さよならが言えなかったけれど気を悪くしなかったかしら。

 まだ、覚えてくれてるかしら。

 追想はやがて胸を焦がす恋心へと変わる。いや、きっと前からその想いはあったのだ。小さな小さな恋の欠片は心の片隅でひっそりと息づいて、アデレードが気付くその日を待っていた。

 どうして忘れていたのだろう?

 塞ぎ込み、溜息をつくことが日に日に増えていく。そんな折に母が持って来た提案はアデレードにとって抗い難く、とても魅力的なものだった。

 一緒にフォルトレストに移りましょう、そうすればウィンザール家にだって気軽に遊びに行けるわよ、と。


 五年も経って外見も変わってしまったのにわかってもらえるかしらとか、それ以前に忘れられていたらどうしようとか、不安はいろいろあったのだけれど。


「──また会いにきてくれたのは嬉しかったよ」


 心を読んだように告げられた言葉を耳にし、アデレードはパッと顔を上げた。すぐに優しい眼差しとぶつかって、アデレードの頬に朱が差す。

 うん、と小さく頷くと慌ててお茶のカップを持ち上げ、飲むフリをして自身の口許を隠した。どうにもにやけて仕方ない。ちらりと上目遣いに盗み見ればウィルトールはまた一枚焼き菓子を齧っていた。嬉しい。

 一年前のあの日のことを思い返す。不安は再会した瞬間全て杞憂に終わっていた。ウィルトールは一目で自分をわかってくれたし、それからはこうしてお茶をする時間も取ってくれている。たまに叱られるときもあるけれど概ね優しく、何より一緒にいるのはドキドキして、とても楽しい。

 この温かな時間がずっと続けばいい。ずっと続くと信じたい。

 突然のお別れは、もう嫌だから。





 * *





 茜色に染まり始めた空の下を少し早足で駆けていく。大通りを抜けて何度か辻を曲がり、大きな屋敷が並ぶ界隈に足を踏み入れると、アデレードはようやく速度を緩めた。到着時に息切れしていようものなら、これから会う人はうるさく指摘してくるに違いない。それもくどくどと関係ないことまで引っ張って説教してくるのだから鬱陶しいことこの上ない。


(どうにかならないのかしらあの性格……)


 理屈っぽくて、頑固で、説教が長い。そのくせ間違いを指摘されると上手に言い訳をして論点をすり替える。当然過ちは認めない。今まで幾ら注意しても懇願してもその性格が変わることはなかった。恐らく変える気もないのだと思う。周りが上手に付き合っていくしかないのだろう。アデレードは溜息をついたついでに深呼吸をして息を整えると、目の前の屋敷を見上げた。

 立派な屋敷だった。この一帯では大きな邸の部類に入ると言っても過言ではない。初見だとその大半が目を奪われるとかなんとか。だが先ほどまでウィンザール家にいたアデレードの目に、それはこじんまりとして見えた。

 エントランスへ続く小径こみちは緩やかに弧を描く。両脇には綺麗に刈り込まれた背の高い植木が立ち並び、その陰、等間隔に設えられた小さなランプが、その大きさにしては強い光で明るく足下を照らしていた。

 このランプ、いわゆる魔術道具という物で火の力が込められた代物だ。定期的に精霊の力――元素エレメントを補充しなくてはならないものの、傾けようが倒そうが火事の心配は全くなく、また辺りが暗くなってくると自然と明かりが灯る仕組みになっている。


「費用対効果は決して良いとは言えないがな、それを差し引いても充分価値のある一品だぞ」


 まるで自分が発明したかのようにドヤ顔で自慢していたのはここの当主だ。もっともその分 値も張るのだが、彼にとってはこれもステータスの一つらしい。明るく灯るランプそれぞれが「これだけの数を集めて置けるわしの力は凄いだろう」と大口を開けて笑う当主の顔に見えてきて、アデレードは目を瞑り軽く首を振った。





「こんばんは!」


 エントランスで声を上げると奥の部屋から見知った人物がひょいと顔を出した。


「姉さん、遅かったですね」

「遅くないわ。これでも急いで来たんだから」

「なんだ、急いだのかアデレード。余裕を持って行動しろといつも言っているだろう」


 弟アッシュに向けて発したつもりの言葉を耳聡く聞き咎められ、アデレードはギクリと身を強張らせた。


「ちゃんと余裕もって動いてるわ! 夕方の鐘が鳴る前に着いたんだから問題ないでしょ。それに、ちゃんとしろって言うなら父さまもよ? アーチの薔薇はこまめに花殻を摘まないと駄目って、前に母さまからの伝言伝えたじゃない」


 部屋に飛び込むなりそう叫べば、執務机についていた壮年の男──アデレードの父ラドルフは眉間に皺を寄せ軽く咳払いをした。


「……そこまで手が回らんのだ」

「庭師に頼めば簡単に問題解決よ。せっかくランプ並べて見栄はってるんだもの、全てを見映えよく整えてもらったらいいじゃない。薔薇も含めて」

「誰が見栄など。そういう雑務はわしの管轄ではないからな! そもそもわしは薔薇など好かん。気になるのであれば自分で整えろとその者フィルに言え。世話をせぬなら口も出すなとな」


 もっともらしい顔で堂々と責任転嫁をした父を見、予想通りの展開にアデレードはげんなりする。


「じゃあなんで植えたのよ。母さまが薔薇を好きだからでしょ? そんなやり方だから、母さまは付き合い切れなくなったんじゃないの?」

「なんだと!」


 ラドルフは怒りに身を震わせる。一方のアデレードはつんと顔を背けたまま。

 ふたりがこんなふうに言い合うのはよくある日常風景だ。が、険悪な雰囲気を見かねたアッシュはすかさずふたりの間に割って入った。


「ともかく食事にしませんか。父さんも、姉さんも、せっかくの親子水入らずなんですから、どうぞ笑顔で」

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