2.夢と現の狭間にて
振り向けば頬と頬が触れそうなほど近くにウィルトールの顔がある。
夢と現の狭間にて
いつ来たのか、いつからいたのかはわからない。気づくとアデレードは見覚えのある部屋に立っていた。
そこがウィンザール邸の客間だと認めるまでそう時間はかからなかった。この部屋には毎週と言っていいほどに通い詰めているのだ、気づかない方がおかしい。
――どうしてここに?
お菓子作りの得意なウィルトールの母に師事するようになってもう随分経つ。もし今日が指導を受ける日であれば、アデレードがまず向かわなければいけない部屋は
小母の部屋へ。――そう思ったアデレードが踵を返すより早く、背後から伸びてくる手が視界の両脇に現れた。
「えっ」
反射的に身を
「もう、びっくりするじゃない。……あの、ウィルトー、ル?」
だが呼びかけに対して返ってきたのはいつもの微笑みではなく、熱っぽい視線。彼はその端整な顔をアデレードの耳元に寄せた。
「きみは俺のものだ……」
心臓がどきんと跳ねた。低く甘い響きにアデレードの頬は一瞬で桜色に、頭の中は真っ白になった。
振り向けば頬と頬が触れそうなほど近くにウィルトールの顔がある。視線が絡む。澄んだ青藍の瞳に自分の姿が映っていた。
一体何が。何かがおかしい。だけど冷静に考える暇がない。
まるで捕食者に捕われた兎のようだった。ウィルトールの顔はどんどん迫ってくる。あと少しで唇が触れる――。
「なに笑ってるの?」
「えっ!?」
ハッと顔を上げるとウィルトールが頬杖をついてこちらを見ていた。いつもの微苦笑を唇に乗せ、視線を絡ませたままゆるりと小首を傾げる。
勝手知ったる客間は明るい光に満ち、焼き菓子の甘い香りがふんわりと漂っていた。手にしたポットの熱が、まるでこれこそが現実であると固持しているようでもあった。
アデレードの頬が熱くなる。彼の視線から逃げるように目を落とし、「なんでもないわ」とあたふたお茶を淹れていく。
「そう? 今日はずっとにやにやしてるから何か良いことあったのかと思ったんだけど」
「に、にやけてなんかないもの!」
動揺を悟られまいと強めに言い返した。そんなアデレードの態度をウィルトールはそれこそにやにやと、全て見透かしているような目で笑っている。悔しい。
けれど説得力がないのは充分自覚済みなのであまり下手なことも言えなかった。気を抜くとすぐ思い出し笑いを浮かべてしまうのは認めざるを得ない。そうなるだけの立派な理由が今日のアデレードにはあったから。
ちらりとウィルトールを盗み見た。楽しそうに揺れる瞳と、口許に微笑みを湛えたその顔はやっぱり素敵だしやっぱり格好いい。もし本当にあんなふうに迫られちゃったらと考えるだけでアデレードの頬はだらしなく緩む。それと同時に自分の深層心理を恥ずかしくも思うのだけれど。
なんという願望。
なんという妄想力。
こんな状態で彼の顔を直視するなんて到底できそうにない。
『夢をダシにして告白すればいいのよ』
友人の言葉が耳に蘇って、アデレードは小さく息を吐いた。そういうのは他人事だから簡単に言える。
告白するならもっとロマンチックなシチュエーションで想いを告げたい。こんな、自分の妄想力を露呈する流れで告白だなんて、恥ずかしいにもほどがある。
――だけど。
逆に考えればまたとない絶好のチャンスなのかもしれない。ウィルトールの方から話題を振ってくれていることに加え、今回はおまじないが全面的にアデレードを支援してくれている。自分のことをどう思っているか探りを入れられるかも。
目線は手元のポットに落としたまま、ついに覚悟を決めた。
「……あの、ね? 実はね、」
「うん」
「とっても嬉しくなる夢を見たの。よく知ってる人が出てきたんだけど……」
「ゆめ?」
カップをウィルトールの前に押しやりながらアデレードは神妙に頷いた。
そもそもは友人の持ってきた話だった。想い人の物を枕元に置いて寝ると夢の中で会えるというおまじない。好きな人に夢でも会えたらどんなに素敵かしれないと、それはそれは大いに盛り上がった。
早速アデレードは行動に移した。ウィルトールといえば自他ともに認める本の虫だ。読書に耽る彼の元へ行き、「わたしにも読めそうな本を貸して」と頼んでみた。
ウィルトールは訝ることなくすぐに何冊かめぼしいものを選んでくれた。そのうえ「一気には読めないだろうから」と栞までつけて。ちなみに栞の方は別に返さなくていいよと言われ即行で宝物行きになったのだが、それはまた別の話だ。
その夜アデレードは本を枕元に、栞は念のため枕の下に敷いて眠りについた。緊張か興奮か知らないがその日に限ってなかなか寝つけず、うとうとと微睡んでいるうちにアデレードはウィルトールと会っていた。そうして彼に抱き締められ、結ばれる寸前ハッと目が覚めた。起きてからも心臓は激しく高鳴り、全身が熱かった。
「……ゆめ?」
口に出してみると途端に現実味を帯びた。そう、あれは夢だった。当然のことだ、ウィルトールが甘い言葉を囁いたり、あまつさえあんな、き、キスまで迫ってくるわけがない。
頭ではわかっていてもアデレードは実際に迫られたような錯覚に陥っていた。抱き締められた感触なども妙にリアルで、本当に理想的な夢だった。いずれこうなれたらいいなと思う、願望という意味の方の夢だ。「俺のもの」だなんて、もしかして束縛願望があるのかしらと少し恥ずかしい気もする……。
(でも……もしウィルトールが望むなら喜んでウィルトールのものになるけど。……って、わたしったら! わたしったら!)
きゃーと赤い顔をしてひとしきりベッドの上でごろんごろんと転がり、アデレードは幸せ感に浸った。
昔からウィルトールは優しかった。いつも笑顔で接してくれていた。少しくらいのワガママなら普通に聞いてくれたし、わからないことがあればわかるまで丁寧に教えてくれた。
ただ優しいだけかというとそうではなく、間違ったことをすればきっちり叱り諭してくれた。アデレードにとっては頼りになる〝お兄ちゃん〟だった。
そんな兄との歳の差は七つ。
ウィルトールと初めて出会ったときアデレードはまだ六歳の子どもでしかなく、彼にしてみれば共に過ごした日々も単なるお
だから、この関係に名前をつけるならばやっぱり〝兄妹〟なのだろう。自覚すると少し寂しくなった。
枕の下からそうっと栞を抜き取った。透かし彫りが美しい、薄い金属製の栞だ。朝の光に照らされキラキラと輝くそれをアデレードは大切に抱き締めた。
たとえ妹にしか見てもらえてないとしても、嫌われてさえいなければ結ばれる可能性はきっとゼロではないはずだ。だから今はあの夢だけで充分なのだ。
自分の中でなんとか気持ちを整理し、友人には後日おまじないの成功と感謝を報告した。すると友人はお祝いの言葉を寄越したあと、したり顔で教えてくれた。これは実は二段構えのおまじないなのよと彼女はほくそ笑んでいた。
いくら想い人の持ち物とはいえ、枕元に置いただけでそう簡単に夢に出てきたりはしない。どれだけ願っても自分の思い通りの夢が見られることなどそうそうないものだ。
つまり、想い人の夢を見たということは――。
「わたしがその人のことを考えてるから夢に出てくるんじゃなくて、向こうがわたしのことを考えてるから出てくるんだって」
声が震えないようあくまで自然に。緊張に気づかれないよう普段通りに。ドキドキと
だがちらりと覗き見たウィルトールは自分とは一切関係のない話だと思っているようだった。それどころかあの顔は「またアデレードのおまじない好きが始まった」とでも考えていそうだ。
――夢に出てきたのはウィルトールよ!
そんなふうに告白したなら彼は一体どんな顔をするだろう。一番ありそうなのがびっくり顔。でも期待していいならやはり笑顔が見たかった。もし喜んでくれるなら自分も狂喜乱舞することだろう。
けれどもし困った顔をされたら。嫌な顔をされたら。きっと酷く打ちのめされるに違いなかった。不快な顔をされた場合を考えると恐ろしく、なかなか発言のきっかけを見つけられない。
『夢の話なんだし、さらっと軽いノリで言っちゃえばいいじゃない』
もうひとりの自分が囁いてくる。
ウィルトールはおまじないや占いの類いを信じない。だから「夢に出てきたわよ」と伝えたところで深く気に留められることはないのではないか。むしろお決まりの微苦笑で流されそうな気もしてくる。
何度も言うがここで必要なのはウィルトールが夢に出てきたという事実だけだ。夢の中の彼の行為まで告げる義務は全くない。
夢に出てくる人のからくりは話した。それがあなただったのよと告げたなら彼は一体どういう反応をするのか。重要なのはそこだ。
あくまで軽く、とにかく軽く。心の中で唱えているとなんだかそんなに大層なことでもないような気がしてきた。よし、とアデレードは息を吸った。
「実はその出てきた人が……」
「そういえばさ……」
口を開いたのはほぼ同時だった。お互いにきょとんと目を合わせ、まずウィルトールが「どうぞ」と譲った。アデレードは慌てて首を振った。
「わたしはいいの。ウィルトールから言って」
「いいの? それじゃあ……夢といえばアディが出てきたよ。昨日」
「……ええ、わたし!?」
予想もしなかった話に思わず声が裏返った。ウィルトールはカップを口許に運び、ちらりと視線だけを寄越した。
「子どもの頃のアディがさ、おやつが足りないって大騒ぎして、挙げ句、大きくなったら料理人になって美味しいケーキをいっぱい作って食べるんだって宣言してね。だから早く大きくなりたい、いっぱい食べなきゃ大きくなれないって堂々巡りなんだ。それを宥めるのがまた大変でさ」
「何それ……。わたしそんな食いしん坊じゃないわ」
アデレードはむうと口許を歪ませる。こうしてお菓子作りも頑張っているしウィルトールに認められるよう努力を重ねているつもりなのに、彼の中には相変わらず幼い自分が居座っているらしい。
ウィルトールは微苦笑を浮かべ、「だから夢だって」と一応の詫びを入れた。
「料理人ではないけどお菓子作りを頑張ってるのは合ってるだろう? アディのお菓子はどれも美味しいしね。着実に腕上げてると思うよ」
手放しで褒められた。アデレードがありがとうとはにかむとウィルトールは目を和ませた。
「俺の話は終わり。アディの方は?」
「わたし?」
アデレードはこほんと澄ました様子で咳払いし、浮かれた気持ちを落ち着けることに専念した。そしていよいよ言葉を紡ぐべく息を吸おうとして……唐突に気づいた。
夢に出てきた人は自分に好意を寄せているという仮説。
つまり、ウィルトールの夢に自分が出てきたということは――。
アデレードの頬にぱっと朱が差した。軽く握った拳で口許を抑える。
ウィルトールの話はアデレードの話を受けてのものだった。その彼の夢に出てきたのが自分。彼は言外に問うているのでは。きみの想いは自分に向けられているのかと。
さーっと顔から血の気が引いていく。自分の話をするどころではない。安易に出した話題でまさか自分の想いを白状させられることになるなんて。これ以上夢の話を重ねればどつぼに
横目でウィルトールを窺えば穏やかに笑み、アデレードが話し出すのを待ってくれている。彼は夢にアデレードが出てきたことを話すときも別に嫌そうには見えなかったし、やっぱり悪く思われてはいないと感じる。だけど、だからといってこの流れで告白するのは何だか違うような気がした。
告白はもっと慎重に。何かのついでとか話題に流されるのではなく、もっとロマンチックなシチュエーションで――。
「……やっぱり、いい!」
「え、いいの?」
「いいの!」
言い切るとアデレードは勢いよく立ち上がった。席を離れるために一歩踏み出して――、途端に足がもつれた。
(えっ!?)
体勢を立て直す暇もない。奮闘虚しくアデレードは派手な音を立て、顔面から床に素っ転んだ。
「アディ!?」
すぐ、ウィルトールの慌てた声と席を立つ音が聞こえた。
「……いたぁ……」
強かに打ちつけた鼻におそるおそる手をやる。もし鼻血でも出てようものなら一巻の終わりだったけれど、幸いにも無事だった。他に顎のあたりがヒリヒリ痛むところをみるとどうやらここも打ったらしい。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ……」
上から降ってきた心配そうな声にはとりあえず
――とても顔を上げられなかった。恥ずかしすぎて。
まさかこの年になってこんなに盛大に転ぶとは。それもビターンという音が確実に聞こえた。ウィルトールから子ども扱いされるのも当然の有様だ。
その彼はと言えばアデレードに特に異常もなさそうだとわかり、安堵の息をついていた。「凄い音だったな」とくすくす笑う声が耳に届いてますます小さくなる。とにかく情けなくて、とにかく恥ずかしい。できることならばしばらく放っておいてもらっても構わない。というかお願いだからなかったことにしてくれないかな。忘れたい。
いじけ気分で座りこんでいると急に二の腕を取られ、ぐいと引っ張り上げられた。
「ほら、顔、ちょっと見せて」
耳元で声がした。思いのほか近くから聞こえた声にハッと振り向く。すぐ傍に、本当に間近にウィルトールの顔があった。澄んだ青藍の瞳が自分を見つめている。満天の夜空にアデレードの姿が映っていて、この位置関係はまるであの夢のような――。
うっとりと夢心地でいたアデレードの前でウィルトールは次の瞬間思い切り吹き出した。
「あ、アディ……おでこと鼻、赤くなってる……」
「えっ!?」
言われた箇所を両手で押さえる。額にピリッとした痛みが走って顔をしかめた。もしかしなくても擦り剥いたのだろう。
痛み自体は大したことない。けれどアデレードは泣きたくなった。さも
「そんなに笑わないで……」
「ああ、ごめん。あんまり可愛い顔だからつい……」
アデレードはぷっと頬を膨らませた。ここで言う「可愛い」は「可笑しい」とか「ドジ」などと同義だということくらいはアデレードにもわかる。からかわれているのだ。
途中までは割といい雰囲気だったのに、何だか全てが台無しだった。思わず地団駄を踏みたくなるくらい悔しかった。
せっかく、せっかく、理想のシチュエーションに近づいていたのに、こんなの全っ然ロマンチックじゃない。一体どこで間違ってしまったのか。
「おいで。薬塗ってあげるから」
笑いの残る顔でウィルトールが手を差し出した。
アデレードは不承不承その手を取った。
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