2.七歳の年の差

 枝葉に残る無数の水滴を午後の日差しが金色に染め上げている。どこかで小鳥がさえずった。呼応してあちらこちらから歌声を返すのはお喋り好きの風の精霊たちだ。竪琴をかき鳴らしたようなその輪唱は、いつもなら精霊探しを始める合図だった。

 精霊はどんな大きさでどんな見た目なのか。アデレードはよく知らないけれど、空を見上げれば光の粉が舞っていたり川のせせらぎに歌声が重なっていたりする。一度でいいから姿を見てみたかった。精霊がいそうだと思えばすっ飛んでいった。だけど彼らはかくれんぼが恐ろしく上手い。


「ここにいた」


 柔らかな声が降ってきてアデレードは膝に埋めていた顔を上げた。見上げた先にいたのは金髪の少年。水に濡れた緑と空の青を背に、少年の金色の髪はどこか神々しい輝きを放っていた。


 ――精霊!


 そう思った直後もうひとりの自分が違うよと囁いた。確か、と記憶を辿る。思い違いでなければ彼はセイルの兄のはずだった。

 あんな意地悪な子の兄弟だったらきっと自分の味方じゃない。

 アデレードはきゅっと唇を引き結び上目遣いに少年を見返した。頬を伝った涙の跡が突っ張って変な感じがした。


「探したよ。あ、俺が誰か、わかる?」

「……あの子の、お兄ちゃん……」


 少年はにこりと笑ってアデレードと目線が合うようしゃがみこむ。


「ウィルトールだよ。――はいこれ。アディのリボンだよね?」


 渡されたのはなくしたと思っていた白いレースのリボンだった。アデレードはそれを両手でぎゅっと握りしめる。先ほどセイルに叩かれた手の甲がじんじんと痛んだ。


「セイルがごめんな」


 ウィルトールが申し訳なさそうに謝った。


 ――悪いのはセイルなのに、どうしてウィルトールが謝るんだろう。


 納得はいかなかった。でも澄んだ青藍の瞳に静かに見つめられていると、なんだか自分も悪かったような気がしてきた。

 首を小さく横に振った。少年はホッとした顔になって、「だけどね、」と悪戯っぽく微笑んだ。


「どんな理由があっても、手を出したら出した方が悪いことになっちゃうんだよ。そんなの、悔しいだろう? だから、痛いことはやっちゃダメ。それに、自分が痛いことをしたら相手も痛いことを返してくるし。……わかるかな?」


 小首を傾げる彼を前に、アデレードは口を真一文字に結んだ。今も痛む手をそっと押さえる。先に叩いてきたのはセイルだから、始めに手を出したのは向こうだ。だけどそれよりも前に泥を投げつけたのはアデレードなので、あの泥が〝手を出した〟ことと見做みなされるのならアデレードの方が悪いことになる。

 もしあのときアデレードが泥を投げていなければ、喧嘩は起こらなかったのかしら。


 ――わかんない。


 セイルに言われた言葉は全部腹が立ったし悲しくて今も許せない。でも目の前にいるこの人は、嘘は言っていない気がする。


「仲直り、しようか?」

「……」

「俺も一緒に行くからさ。それからみんなで遊ぼうよ。ね?」

「……うん」


 渋々ながら頷くとウィルトールはにっこり笑ってくれた。

 彼の手に掴まってゆっくり立ち上がる。手を引かれてしばらく歩いたところでウィルトールが振り返った。そのときの温かな笑顔を、アデレードはきっと一生忘れないだろうと思った。


「アディの髪、とっても綺麗な色だと思うよ」




 柔らかな声が今もまだ耳に残っている気がする。

 髪の毛を一房持ち上げてみた。緩く波打つ髪は陽に透かすと朱色に輝く。これでも子どもの頃に比べれば落ち着いた色になったと思うのだけど。

 アデレードは身体中の空気を吐き出しながら再び膝に顔を埋めた。


「色だけ落ち着いたってだめなのよアデレード。中身が伴わないと……」


 自分の望む答えを貰えなかったから腹を立てているなんて本当に子どもそのものだ。手が出なかった分少しは成長しているとしても――そう考えて余計溜息が出てしまった。問題の次元が低すぎる。


 いつしか陽は傾き、燃えるような夕空を灰色の雲がゆっくり流れていく。

 天の色を写し取った水路も茜色に染まっていた。昨日も目にした光景だ。水のさらさら流れていく先にしばし目をやり、アデレードは溜息をこぼした。ハンカチらしき色は今日もどこにも見当たらない。


 ――使用するハンカチは思い入れのあるものこそふさわしい。


 友人からの手紙に従い、アデレードは大事にしまってあった一枚を出してきた。遠い昔、初めて自分で刺繍を入れたものだ。一目見て笑い転げたセイルに奪い取られ、アデレードが追いかけ、当然のように喧嘩が始まった曰くつきのハンカチだった。


「俺はアディが頑張り屋さんなの知ってるよ」


 このときもお決まりのごとくウィルトールが仲裁に入った。


「ウィルトールだって、お花に見えないでしょ……?」

「始めから上手にできる人なんていないよ。大切なのは、諦めずに続けることじゃないかな」

「あきらめずに?」

「大丈夫、アディならできるよ」


 そうしてウィルトールは取り返してくれたハンカチを手渡してくれた。これ以上に思い入れがあるハンカチは他にはなかった。


 燃えるように輝いていた西の空には今は落ち着いた暗赤色が、残り火のごとく薄く広がっていた。空はだんだんと藍色に支配されていく。

 さわさわ、風が吹き抜けていった。昼に比べて少し気温が下がったかもしれない。先ほどまで賑やかに遊んでいた子どもたちは帰途についたらしい。水の流れる音だけが密やかに聞こえてくる。

 アデレードはごろんと仰向けになった。ひんやりした土の感触を背中で受け止め深呼吸をすると、土と草の匂いが一気に濃くなった。


「ウィルトールは、嘘は言わないわ。いつだって優しくて……でも」


 今まで気にしたことがなかったけれど、アデレードの〝占い好き〟という一面をウィルトールはずっと良く思っていなかったのかもしれない。彼との良い運命を引き寄せたくて占っていたのに、かえって本末転倒だったのかもしれない。大切な思い出の欠片を手放してまでやることではなかった。


「ハンカチが沈まなかったのは、こうなるのがわかってたから……?」


 辿り着いた仮定は限りなく真実に近い気がする。




 見上げた空には気の早い星がひとつふたつ瞬いていた。視界いっぱいに広がる藍の空を眺めているうちに段々自分という殻が溶けてなくなるような感じがした。夜の空気に混ざっていくような、そんな奇妙な感覚。心はどこまでも静かに平らかに、先程まであんなに鬱屈していた気分も次第に落ち着いてくるのを感じた。


 ――謝ろう。


 素直にそう思えた。

 彼がアデレードを子ども扱いするのは、それだけ子どもに見られているということだ。七歳の年の差がある以上ウィルトールがずっと兄の役割を担ってきたし、こうして拗ねている自分は我ながら本当に手のかかる妹だと思う。

 ならばどうすればいいか、出てきた答えは至極簡単なものだった。

 ウィルトールに謝ろう。

 悪かったところを素直に認めて謝る。そうすればきっとまた笑顔で楽しい時間を過ごせるはずだから。




 さく、さく、と草が鳴った。風によるものとは違う、規則正しい音が近づいてくる。半身を起こし音の出所を探っていたアデレードは、やってきた人物に息を呑んだ。見覚えのある背格好、それに暗がりの中でも輝いて見えるあの髪は。


「……ウィルトール?」


 呟きは風がさらっていった。顔がわかるくらいの距離になると向こうもアデレードを認識したらしい。探したよと溜息混じりの声が降ってきた。


「ひとりは危ないって言っただろう」

「へ、平気よ。わたしだってもう帰るつもりだったし……」

「じゃあ帰ろう」


 もごもご返す間にウィルトールが降りてくる。ほら、と手を差し出されてアデレードは束の間迷った。彼の手を取るか否か。

 動かないアデレードに焦れたのかウィルトールが軽く屈んだ。伸びてきた手を避けるように、アデレードは座りこんだまま勢いよく頭を下げた。


「ごめんなさい! さっきはいきなり怒って、勝手に飛び出して……」

「え?」

「わたし、ウィルトールが占い嫌いだって知らなかったの。本当に、ごめんなさ」

「ええと、ひとまず上がろうか?」


 ウィルトールはアデレードに向かって上向けた手を上下させた。誘われるようにおずおずと手を伸ばせば、ぐいと引っ張られた。その手の冷たさにアデレードは目を見張った。


「どうしてこんなに冷たいの?」

「なにが」

「ウィルトールの手。どこか具合が悪いんじゃ」


 あっという間に土手を登ると水路沿いの道に出た。ウィルトールはアデレードに向き直り、繋いだ手とは反対の手を差し出した。


「これを探していたからね」


 見せてくれたのは見覚えのありすぎるものだった。白いハンカチにいびつな向日葵が咲いている。


「どこにあったの!?」

「水路の合流地点。フォルト川に入ると流れが急に緩やかになるからさ、水際あたりに引っかかってるんじゃないかと踏んだら当たった」

「そんなところまで……」


 想定していた以上の距離に愕然とした。流れていった分の距離がすなわちウィルトールとの距離だと思うと本当に泣きたくなってくる。

 しっとり湿ったハンカチを見つめていると「アディ、」と呼ばれた。


「俺、占い全てがだめだとは言ってないよ」


 言葉の意味が掴めずアデレードは怪訝な目でウィルトールを見上げた。彼は口に拳を当てたまま、顎でハンカチを指した。


「それ。アディが落ちこんでたのは悪い結果が出たからだろう?」

「……うん」

「俺が言いたかったのは、不確かでいい加減なもののために、一喜一憂するのは馬鹿げてるってこと。アディはすぐ真に受けるけど、そもそも運任せの占いなんて占いとも呼べないよ。ただのお遊びに振り回される必要はないし、悪い結果を引きずって暗い気持ちでいるなんて過ごし方も勿体ない」


 アデレードは手の中のハンカチに目を落とした。もはや頷く気力もなかった。ウィルトールの言う通りだ。

 あたりにしばしの沈黙が下りる。


「――じゃあこうしよう」


 静寂を破ったのはウィルトールだった。


「花びらは恋人で、ハンカチは船。流れた分ずっと一緒に進んでいける」

「……え?」


 のろのろと顔を上げた。ウィルトールの穏やかな眼差しがアデレードに向けられていた。


「良いように取ってしまえばいい。遠くに流れていくほど仲良くいられるとか、そんなふうにさ」

「遠くに行くほど仲良く……?」


 おうむ返しに呟くとウィルトールが微苦笑を浮かべた。この先もずっと一緒に仲良くいられる――そうだったらどんなにいいか。そしてどうかそうでありたい。

 どんな占いよりウィルトールが言ってくれたというその事実がアデレードには重要なことのように思えた。心に明かりが灯る。


「ウィルトール……ありがとう」


 唇に微笑みを乗せた。ウィルトールも口角を上げ、繋いだ手を軽く持ち上げた。


「帰ろう」





 帰路についた。歩き出してからも手は繋がれたままで、アデレードの意識は自然とその一点に集中していた。

 思えば手を繋ぐなんていつ以来だろう。小さい頃は何の気負いもなく普通にできていたこと、それを今しようとするならまず理由が要る。

 彼の手は記憶の中のそれよりずっと大きく、アデレードの手をすっぽり包みこんでいた。否が応でも異性を意識してしまい、嬉しいような恥ずかしいような照れ臭い気持ちのままアデレードはひたすら無言で歩き続ける。


 前方からアデレードを呼ぶ声がした。薄暗い中を歩いてくる人影が見える。


「セイル! それにアッシュだわ!」


 ウィルトールはおもむろに少女の手を放した。思わず見上げたアデレードとウィルトールの視線が絡む。

 先に視線を外したのはアデレードだった。弟たちの元へぱっと駆け寄る。後ろ髪が引かれる思いより気恥ずかしさが勝ち、とてもウィルトールの側にいられなかった。


「ふたりともどうしたの?」

「お前どこまで行ってんだよ。ウィルも全然戻ってこねえし」

「う、人を迷子みたいに言わないで。そんなに遠くまで行ってないわよ。セイルの言い方は昔から悪意がありすぎるわ」

「はぁ? お前な、人がせっかく心配して」

「はいそこまで」


 言い合うふたりの間にアッシュが割って入った。


「確かにセイルは少々言葉が過ぎるところがあると思います。ですが心配して見にきたのも本当です。そこを突くならまず明るいうちに戻るようにしてくださいね、姉さん」


 アッシュの穏やかな笑顔の前にアデレードはウッと押し黙る。小さな頃はいつもアデレードの影に隠れておどおどしていた弟なのに、いつからか口では敵わなくなってしまった。


「喧嘩はもうしてないんじゃなかったっけ?」


 気づけばアデレードの後ろにウィルトールが来ていた。あくまでにこやかに、昼間の言は嘘だったのと尋ねる瞳にアデレードはたじろいだ。


「やだ、今のは喧嘩なんかじゃ……ねぇセイル?」

「喧嘩にもなってねーだろ」


 一応の笑顔で取り繕う少女、それとは対照的に面倒臭そうな顔でそっぽを向く弟のふたりを目に留めて、ウィルトールはアッシュに目をやる。


「実際のところは?」

「うーん……まあ、そういうことにしておきましょう」


 お目付役はくすくすと苦笑を漏らし、それから姉に振り返った。


「母さんがご立腹ですよ。二日も続けてこんな遅くまで、一体何してるんだって」


 アデレードの口許が笑みを刻んだまま引きつった。母はアッシュ以上に恐れる存在なのだ。母を怒らせるとどうなるかはこれまでの経験上簡単に想像がつく。――つく分あまり考えたくはない。


「早く帰った方がよさそうだねアディ」

「帰るわ、今すぐに。今日は色々ありがとうウィルトール。小母さまにもよろしくお伝えしてね。わたし黙って出てきちゃったから……」


 大好きな彼を見上げる。本当はすごく名残惜しかったが無理矢理笑みを浮かべてアデレードは兄弟ふたりに手を振った。





 * *





 嵐が去り、すっかり陽の落ちた暗い道をウィルトールたちも歩き出す。


「ほーんと騒がしいやつだな、あいつ」


 セイルがうーんと伸びをした。兄の方も全くだと、本人が聞けば真っ赤な顔で反論するだろうなと考えつつもそこは弟に同意した。


「あの頃と同じ。本当に生き生きしてる。――まるで何もなかったみたいだ」

「はぁ? ウィル、何言ってんだ?」


 怪訝そうに立ち止まった弟にウィルトールはちらりと視線を投げた。その肩をぽんと叩いて通り過ぎる。


「行くぞ。俺たちまで叱られる」

「なんでオレまで。意味わかんねえ」


 セイルも遅れて兄の後を駆け出した。すぐに追い抜き小さくなる姿を認めウィルトールはそっと息をつく。

 宵の風が青年の頬を優しく撫でていった。ウィルトールは服の内側に落としたペンダントを衣服ごと握り締めた。


「もう、あんな思いはごめんだからな……」


 藍色に染まった天の下、呟きは誰に聞かれることもなく闇の中に溶けていく。

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