3.最低男の正体
薄暗がりの中を長身の男がのんびり歩いてきた。姿がだんだんはっきりするにつれ、ウィルトールは訝しげに目を眇める。
それは相手も同じだった。数歩を残して止まった最低男は不可解な面持ちで己の腰に手を当てた。
「なんだ、お前ら知り合い?」
「……アディ、この人のこと?」
男の問いには構わずウィルトールは少女を振り返った。青年の指差す先を
「ウィルトール……?」
こぼれた声には思いのほか不安な色が滲んでいた。彼の眼差しは柔らかく、アデレードの腕をとんとんと撫でる仕草にしても言外に大丈夫だよと宥めてくれている。けれど最低男を見据える横顔はどこか遠慮がちに見える。
──知ってる人なんだ。
思いつきが確信へと変わるのにそう時間はかからなかった。最低男は社交的だし行動力もある。アデレードに突撃したのと同じノリでウィルトールにも声をかけたのだろう。
ふたりをそっと見比べ、アデレードは唇を引き結んだ。ふたりの雰囲気は対照的。どうせ顔見知り程度の仲に決まっている。
やがて溜息混じりに紡がれたウィルトールの言葉は、少女の期待から少し外れたものだった。
「……幼馴染なんだ。からかうのはやめてほしい」
「おさななじみぃ?」
男のすっとんきょうな声と同時にアデレードの目が丸くなる。
「ねえ──」
摘んだ彼の袖をそっと引っ張った。二、三引いたところで当人の手にやんわり押さえられ、ささやかな抗議はあっという間に封じられてしまった。少女の頬がぷっと膨らむ。
──そこは嘘でも〝恋人〟と言うところではないのかしら。
だって相手は女たらしの最低男。〝幼馴染〟ではなんの牽制にもならない。そのうえ今の言い方だと「アデレードは冗談が通じない」ともとれてしまいそうだ。面白くない。
瞬く間に心の表面を薄い氷が覆っていった。こんな場面でさえ彼はアデレードのことを恋人とは呼んでくれない。最低男を見据えたままこちらを見ようともしない。
沈黙を破ったのは最低男だった。
「あーわかった! きみ、セイルと喧嘩してた子だ」
「けん、か……!?」
「そうか、あのときの子かぁ」
見透かすような男の眼差しにカアッと顔が熱を帯びる。最低男がなぜそれを知っているのだろう。喧嘩なんて相当昔のことなのに。
「じゃあ、セイルと同い年?」
「二つ上だよ。アディの弟がセイルと一緒」
「ふぅん、お姉ちゃんなんだ」
ウィルトールの返答に男はにやにやと腕組みをする。
すっかり蚊帳の外だった。議題は自分のことなのに口を挟む隙もなく、ウィルトールの陰に身を隠すしかない。こっそり覗き見たくてももし目が合えば間違いなく話を振られる。ああ言えばこう言うタイプのあの男に口で勝てる自信はなかった。避けたい。
思案に耽っていたアデレードははっと顔を上げた。いつの間に来たのやら、すぐ目の前に男が立っていた。思わずウィルトールを盾にする。
「おれの記憶力も大したものだろう? 嘘つきにならずにすんだな」
「知らないったら! いい加減なことばっかり言わないで!」
「これからよろしく、アディちゃん。なんだか長い付き合いになりそうだし?」
爽やかに片目を瞑った最低男にアデレードは色をなくした。彼はにやりと口角を上げ、ウィルトールの肩を軽く叩いた。
「どういうこと!? ウィルトール、知り合いなの?」
最低男の姿が完全に見えなくなってからアデレードは前に出た。不満げに見上げた先でウィルトールは眉根を寄せていた。口許に拳を当て、「まあ……」と曖昧な声を返すものの後が続かない。
どう考えたっておかしかった。ウィルトールだって社交家だ。相手を不快にさせず、且つ有利な方向に事を運ぶのはきっと苦手ではないと思う。なのにあの男に関しては始めから交渉を放棄していた
「ウィルトールがあの人に教えた、とか……?」
「アディのことを? 話したことないよ」
「じゃあどうして知ってるの? 本当に、一度も会ったことないのよ!?」
「──では私はこれにて」
詰め寄ったところで低めの声が割って入った。
ふたりから少し離れた場所に佇んでいたのは薄い金色の髪をきちんと撫でつけた老紳士だ。しかつめらしい顔をしてアデレードたちをじっと見つめている。
そうして周りを見渡してみれば遠巻きにちらちら盗み見てくるギャラリーは少なくなかった。アデレードの顔から血の気が引く。
「失礼しました。これからよろしくお願いします」
ウィルトールの会釈に老紳士は悠然と頷き、しっかりした足取りで立ち去った。
彼方をぼんやり眺めていると背中に何かが添えられた。それがウィルトールの手だと認識するより早く「こっちへ」と耳打ちされ、アデレードは促されるまま歩き出す。
「あ、ご、ごめんなさい。わたし、自分のことでいっぱいで、あの……」
「気にしなくていいよ。俺も、アディに話がある──」
ウィルトールはそこで話を切った。そばを通りかかった使用人と二言三言言葉を交わし、幾つかのテーブルを経由したあと庭園の端にやってきた。
アネッサとの会話でも出た
ウィルトールはアーチをくぐらずその傍らの奥まった場所にアデレードを
「さっきの人と会ったときのこと、教えてくれる?」
「……大したことは話してないわ。
「今日が初めてじゃなかったのか?」
「え、う、うん……」
上目遣いに見上げていたアデレードは、彼の悩ましげな横顔から逃げるように視線を手元に落とした。ふうと耳朶を打った溜息は言外にアデレードが黙っていたことを非難しているようにも聞こえた。
カフェでお茶をしていたあのとき、一番の気がかりはアッシュやマリーに迷惑をかけてしまったことだった。最低男とのやりとりなどすっかり飛んでしまっていたし、仮に覚えていたとしてもやはり言えなかった気がした。ウィルトールには極力心配をかけたくない。
青年の組んだ足を組み替える仕草が視界の端に映った。
「俺に兄がいるのはアディも知ってるだろう?」
「……今日の主役は一番上のお兄さまでしょ」
「さっきの人は二番目」
「え?」
「あの人がファーライル」
一瞬の間があいた。彼が口にした名をアデレードも繰り返す。まっすぐ見つめてくるウィルトールの瞳は夜明け前の澄んだ空の色だ。大好きなその色をなぜあの男も持っているのかと、見かけるたびに憤った──。
「あれが!? 嘘でしょう!?」
勢いよく立ち上がればウィルトールは困ったように唇に薄い笑みを乗せた。
「あれで結構頼りになるんだよ。信じられないかもしれないけど」
「あっ……悪く言いたいわけじゃなくて。まさかお兄さまだと思わなくて……あの、ごめんなさい……」
「大体想像はつくよ」
肩を竦める彼を横目にアデレードはこそこそと腰を下ろして小さくなる。最低男に対して発した具体的な言葉を全て思い出すことはできないが、あらゆる悪口を連ねた自覚はあった。ここから何を言っても墓穴を掘るだろう予感がある。
宵の風はふたりをさらさら撫でていく。人々の語らう声や軽やかな楽の音が微かに聞こえてくる。
手持ち無沙汰にグラスの中身を含むとオレンジの爽やかな酸味が喉を滑り落ちていった。視界の端に彼の長衣が映る。濃紺の袖や裾の縁には銀糸で細かな刺繍がされている。
「──兄さんでまだよかったのかも」
振り仰いだ先にあったのは思案げな眼差し。手の中でゆらゆら傾けていたグラスを「持ってて」と預けたウィルトールは、服の下に落としていた何かを引っ張り出した。青い光が煌めくのが見えて、そこでペンダントだと思い至る。
「向こう向いて」
「向こう?」
首を傾げつつアデレードは背中を向けた。ウィルトールは物音も立てず、けれどこちらを見ている気配は感じられるので身動ぐことさえなんだか躊躇ってしまう。
首筋に一瞬ひんやりした感触が伝った。
「これ……」
這わせた指先に細かな鎖が当たる。胸元に収まったトップを摘まみ上げれば視界の下端ギリギリに小さな青玉が映った。石の隣には四つ葉の形をした小さな革細工がぶら下がっていた。
「危害を加えるものから守ってくれる。
「……魔術道具? ウィルトールのでしょ、いいの?」
「念のためにね」
頬を紅潮させて振り向けば彼の微苦笑に迎えられた。預かっていたグラスを手渡すとウィルトールはひと息に呷った。
「アディが持ってた方が安心だから。多分、思い切り転んだとしても怪我しないんじゃないかな」
「ウィルトール……もしかして、わたしが転ぶ心配してるの?」
「うーん……まあそれも。走らないって約束できる?」
「何歳だと思ってるの!?」
真っ赤な顔で立ち上がったアデレードに青年は両手を上げて破顔した。
「知ってる知ってる。誕生日は来週だろう」
「そうよ。六歳差になるんだから」
遅れてウィルトールも腰を上げた。「六歳?」と不思議そうな顔を向けられ狼狽したアデレードだが、幸いあまり気に留められなかったようだ。そろそろ行こうと促され、肩を並べて歩き出す。
「アンには会った?」
「手紙! 受け取ったわ」
紙片を入れたポーチを掲げてみせた。片手で開けるのに手間取っているとアデレードのグラスを長い手指が取り上げた。僅かな光に照らしながら探ることしばし、ようやく見つけた紙片とともに顔を上げると柔らかな眼差しが向けられていた。
「見せたいものがあるんだ。ちょっと早いけど先にガゼボに向かってくれないかな」
「……ウィルトールは行かないの?」
「まだ予定があってさ。終わったらすぐ行くから」
「ふぅん……」
一緒にいられると思っていた分、声には落胆の影が落ちた。唇を尖らせる仕草は己の心の狭さを露呈するようで、代わりに下唇を軽く噛んでやり過ごす。
「アンのところがいい?」
「え?」
「道、わからないならアンの部屋で待ってて。あとで迎えに行くから、それから一緒に行こう」
「あ、違──」
どうやらガゼボへの行き方が不安であるように受け取られたらしい。慌てて手を振りかけたアデレードはふと動きを止めた。
──アネッサとともに時間を潰すのもなかなか楽しいのではないか。きっと歓迎してくれるだろうし、アデレードの想い人についてもバレているし。ディートも交え、お喋りに興じるのも──。
「……やっぱりだめよ!」
「だめ?」
「ディートさんは知らないもの」
行けば必然的に〝一から説明する儀式〟が待っている。もしかしたらアネッサから話がまわっている可能性もなくはないが、やはりアデレードから直に打ち明ける流れにはなるだろう。相当恥ずかしいうえにからかわれるのも必至だ。
「ディート、さっき会わなかった? 大体アンと一緒にいるはずだけど」
「あ、そうじゃなくて……あ、でも待って」
ディートはアネッサが知らないウィルトールのことを知っていた。つまりふたりとも同席していた方が彼のいろんな話を聞けそうな気がする。始めの恥ずかしささえ耐えることができれば、あとはきっと楽しい時間が待っている。
けれども──果たして平然としていられるだろうか。人間離れした容姿を持つディート。その長い睫毛に縁取られた瑠璃色の瞳を思い出した途端アデレードの頬は熱くなる。さっきだってアネッサ越しに覗くことでなんとか会話が成立していた。恋バナは心の準備ができてから、もう少しディートに対する耐性がついてからの方がいいのでは。
「ははは!」
突然響いた笑い声にアデレードはポーチを抱き締め飛び上がった。隣で僅かにそっぽを向いた青年の肩が震えている。
「……なに、どうしたの……」
「百面相。そんなに難しいこと言った覚えはないんだけど?」
「えっやだ」
振り返った横顔は可笑しそうに綻びていた。かっと顔に火がついたような錯覚に陥り、アデレードは鼻から下をポーチで隠す。
「手作りなんだって、それ」
何が、と言外に含めて上目遣いに睨んだ。笑いの残る眼差しはアデレードの鎖骨の間に注がれていた。
「シアールトに移るときアンから貰ったんだけどさ。あとで聞いたらディートが作ったって」
「ディートさん!?」
鎖を爪の先で引っかけ、視界の端に入れてみる。
こういうものは専門の職人が作るとばかり思っていた。青玉も、目の細かい鎖もとても値が張りそうだし。だが言われてみれば細い革紐を編んで作った四つ葉飾りはなかなか手作り感溢れている。容姿端麗なディートからかけ離れた素朴さ、ちぐはぐさがどこか微笑ましかった。ウィルトールの持ち物にしては可愛いなと思っていた印象も、素性を知ると気にならなくなった。
「魔術道具って自分で作れるのね」
「精霊の力をこめた物という定義で言うならね。アンもお気に入りのラリエットを魔術道具にしてたよ」
「素敵ね……」
ウィルトールの誕生日まであと二ヶ月あまり。想いをこめて作った物に〝ずっと持ち続けてもらえる〟付加価値を付けられるなんて、こんなに最適な贈り物はない。このくらいの細工物ならアデレードにも作れるだろうし、作り方を調べたり材料を用意したりと実際の作業行程に費やす時間も含めばあっという間に時が過ぎてしまいそうだ。フォルトレストに戻り次第すぐに動かなくては。
「精霊が寄ってくることもあるよ。石が光って見えるんだって」
視界の端で何かが動いた。そう思ったときにはもうウィルトールの顔が間近にあった。二つのグラスを片手で持ち直し、アデレードの胸元で光る青い石にそっと触れる。
蜂蜜色の髪が一房さらりと青年の横顔に落ちた。吐息が絡むほどの距離で、伏し目を覆う青年の長い睫毛から目が離せない。
「本気で危害を加えるやつからは守ってくれるらしいけど、髪を引っ張る程度だとされるがままでさ、……アディ、聞いてる?」
「……えっ髪の毛!?」
一拍遅れて手を頭にやると、途端に朗らかな笑い声が上がった。
「いつもの髪型だったら、格好の猫じゃらしだったかもな」
「わたしが精霊を見られるわけじゃないのよね?」
「今でも捕まえてみたい?」
藍色の双眸が悪戯っぽく光るのを見て、慌てて顔を横に振った。それは幼い頃に夢中になった遊びだ。精霊を
「本質は変わらない、か」
どこか遠くを見るような面持ちでウィルトールは天を仰いだ。
* *
無数の灯りに照らされた庭はお酒も入り、日が落ちても明るく賑やかだった。本館の建物が近づくにつれチクチクと視線が刺さる。少しでも釣り合うように、付け入る隙を与えないようにとアデレードは背筋を伸ばす。
突如歓声が上がった。煌々と明るい一角に人だかりができている。ぼんやり眺めていると、
「ガゼボ、こっちからまわるとすぐだよ」
柔らかなテナーボイスが耳朶を打った。ウィルトールの指は建物の脇を指していた。
「送ろうか」
「大丈夫。……ほんとはね、さっきセイルに案内してもらったの」
「あいつが? ちゃんと案内できた?」
「森の中をちょっと歩いたら湖に出たわ。行けると思う」
胸元を飾る〝預かり物〟をなんとはなしに握りしめ、先ほど歩いた小径を思い返した。本館の裏手をしばらく歩けば分かれ道が見えてくる。拍子抜けするほど短いそこを進めばガゼボはすぐだ。
ウィルトールの笑みが深くなった。
「足元に気をつけて」
「転ばないったら」
軽く膨れっ面を作ってみせれば彼はわかってるよと片手を上げた。
「またあとで」
小さくなる背中を見送って、アデレードは再び人の集まる一角に目をやった。遠目には何に騒いでいるのかよくわからない。背後から女性が二人小走りに駆けていくと、つられるように足が向く。
「アデル……?」
すぐそばのテーブルから遠慮がちに声がかけられた。濃灰色の髪に金の飾りを挿した、細身で背の高い女性だった。見た目よりその特徴のある呼び方にアデレードの耳が反応した。そんなふうに呼ぶ人は過去一人しかいない。
「……もしかして、シェアラ?」
「やっぱり! ずっと探してたんだよ!」
駆け寄ってきた彼女はアデレードを上から下までまじまじと眺め、嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶりだね。アデルすごく綺麗」
「シェアラは随分……背が伸びたのね」
頭ひとつ分高い位置にあるつぶらな瞳をぽかんと見上げる。記憶の中のシェアラはアデレードより小柄で、まるで少年のような少女だった。さっぱりとした気質はアデレードも気に入るところで、よく走り回って遊んだものだ。
「遺伝って残酷だよ。いい加減止まってくれないとほんと困る」
ほぼ踵のない靴裏を見せてシェアラは深い溜息をついた。その様はなんとも幼く、ついつい笑いを誘われる。
「この間ローディに会ったんだってね。ローディが、アデルも今日来るって。きっと会えるはずって言ってた」
「ローディアさん、もう来てるの?」
「あっちだよ。一緒に観にいく? ローディのメインイベント」
シェアラはにやと口の端を上げると件の人だかりを指差した。
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