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 今日はどうやら知らない人から声を掛けられる日らしい。


「突然のご無礼お許しいただきたい」


 それは黒髪の男だった。始めこそ強い力で腕を掴んだ彼はすぐにその手を離した。


「あ、あの……?」

「ともに参られよ。さすれば手荒にはせぬ」


 アデレードは押し黙ったまま、男をまじまじと眺めた。瞼を半分閉じたような細い目に低い鼻、今まで一度も笑ったことなどないのではと疑いたくなるような口許──何というか、華がない。この人かなり地味。だというのに纏う空気からは妙に威圧的なものを感じる。

 謙虚さの欠片もない身勝手な命令をいきなりされても困る。相手にせずさっさと戻った方が良さそうだ。

 アデレードはぱっと背を向けた。だが駆け出そうと踏み込んだときにはもう目の前に男がいた。


「えっ……」


 すかさず脇を抜けようと動くも、壁は右へ左へアデレードと同じ動きをして立ちはだかる。


 ──戻れない。


 狼狽し後ずさった瞬間、男の手が伸びてきた。




 歩幅コンパスの差をこんなに悔しく思ったことはないかもしれない。強い陽射しの下、少し息の上がっているアデレードに全く構うことなく男はどんどん突き進んでいく。

 引きずられるように歩いていけばやがて広場に行き当たった。大通りへと伸びる街路の一角に一台の馬車が停まっている。あれに乗せられるのか、一体どこに連れていかれるのかと息を詰めているとここでようやく男の戒めが解けた。


「連れて参りました」


 声に呼応し顔を出したのは若い女性だ。細身で、高く結い上げた艶のある髪が陽の光に透けて茜色に輝いている。琥珀色の瞳はアデレードを認めるとまたたく間に見開かれていった。アデレードの方も息を呑んだ。


「ローディアさん!?」

「──ああやっぱり合ってた。さっき見かけて、もしかしてと思って」

「わたしを知ってるんですか!?」


 男の手を借りて降り立ったローディアはそっと微笑む。


「もちろんよ。……同じクラスにシェアラという子がいたでしょう? 私たち幼馴染なの」


 理解に少々時間をかけ、アデレードは深い溜息とともにその場にへたり込んだ。汗が吹き出し、今になって手足が震えてくる。

 どうなることかと思った。

 放心しつつも意識は七年前へと遡り、脳裏には懐かしい顔ぶれが次々と浮かんだ。仲良くしていたクラスメイトたちに、憧れをもって見ていた上級生──二つ上のローディアもそのひとり。


「驚かせてしまったかしら」


 目の前にほっそりした手が差し伸ばされた。見上げた逆光の中でローディアが微笑を湛えていた。彼女に促されるまま立ち上がると、白魚のような指がアデレードの手を優しく包み込んだ。


「こちらにはご観光? クラレットを離れたと伺ってもう随分経つけれど」

「あ、あの、ウィンザールの、」

「まあ、あなたもパーティーに……? ……ああそうよね、ご縁があるんですものね」


 大きく瞬いたローディアは片手を頰に当てゆるりと宙を仰ぐ。しばし思案したのちに「ねえ」と視線を戻した。


「これからシェアラと会うのよ。あなたもいらっしゃらない?」


 一点の曇りもない眼差しで口許に弧を描くローディア。思わず見惚れてしまうような優雅な所作で再びアデレードの手を取ると、真正面から顔を覗きこんだ。長い睫毛に縁取られた双眸に陽光が射し込み、つぶらな瞳をまばゆい金色に変えていた。


「せっかくですもの、ぜひお伺いしておきたいわ。近くにいたからこそわかる好みだとか、癖やこだわりや……あなたの知ってること全部。思い出話も交えて花を咲かせましょうよ」

「……誰のことですか?」

「あら、ウィルトールさまと親しかったとお聞きしているけれど」

「ウィルトールの話を、今から……?」

「……何か不都合があるかしら?」


 怪訝な色を宿した声音にぎくりとアデレードの息が止まった。どうやらお嬢さまの期待する答えではなかったらしい。とは言えこのままついていくわけにもいかない。


「──ご、ごめんなさい!」


 アデレードは己を捕まえる滑らかな手指からあたふたと、だができるだけ丁寧に抜け出た。間をおかずに両手を揃え、勢いよく頭を下げる。


「向こうに弟を待たせていて、人と会う約束もあるし……」

「そう……。それなら仕方ないわね。ではまたあらためて」


 重苦しかった空気はローディアが微笑を浮かべたことで再び軽やかに華やいだ。楽しい同窓会にいたしましょうとしとやかに会釈した彼女に倣い、アデレードも慌ててワンピースの裾をつまんだ。




 馬車の消えた街路を眺めながらアデレードはほうと息をつく。なんだかまだ胸がどきどきする。

 遠巻きに見ていた雲の上のお嬢さまと話すことになるなんて思いもしなかった。最後の方は少し話が噛み合わなかったのが引っかかるといえば引っかかるが……。

 忘れていた。学生時代のウィルトールは人気があったのだ。告白もされていたようだし、そのたびにアデレードはそわそわ落ち着かなかったのを覚えている。

 そんなこびを送る女子の中に、実はローディアもいたのだろうか。

 たおやかで男女関係なくみんなから慕われていて、なんというか彼女だけはそういう恋愛事とは無縁のように思っていたのだけど。


「……まさかね」


 自らに言い聞かせ、左右の指を胸元で組み合わせた。

 きっとウィルトールが主催側の人間だからローディアは気になったのだ。呼ばれた以上はいろいろ知った上で挨拶したいと、そういうことなんだろう。でなければアデレードは困ってしまう。彼のことを教えてと請われれば、次は断れない。




 ウィルトールに言い寄る人がいるのではと漠然と考えていたお披露目会だが、それ以前に顔見知りが参加している可能性のことも考えておかねばならないのかもしれない。誰が来るのか、見てすぐわかるだろうか。

 ああそれより衣装だ。人と比べても見劣りしないような、自分が輝ける最高の組み合わせにしなければ。

 来た道を戻りつつ、数週間かけて選び抜いたドレスや装飾品を順に思い返していると、


「やあ!」


 背後から肩を叩かれた。短い悲鳴をあげて振り仰いだアデレードの目は長身の人影を捉えた。そよ風になびく茶色の髪と、深い藍色の双眸と。見覚えがありすぎる容姿に思わず少女の口から濁音のついた「あっ」という声が漏れる。


「あなたさっきの、ねぶ──」


 寝不足男、と叫びかけて慌てて口を押さえた。

 幸い相手の耳には届かなかったらしい。さも人好きのする笑みをアデレードに向けたあと、馬車の去っていった方向を眺めている。その横顔はいたってのんきなものだ。

 そしてアデレードの目は青年の持つある物に釘付けになった。


「なんで……」

「うん?」

「……いえ、何も」


 両手で口許を押さえたままもごもごと答えつつ、視線を外すことはできなかった。


 ──何故、薔薇なんか持っているのだろう。


 考えたそばからなんとなく察せられて密かに息をついた。花を持つ立ち姿がすでに絵になっている。口許には微笑を漂わせそよ風さえも従えて、己の容姿をよくよく理解しているらしい彼の雰囲気は言うまでもなく敬遠対象だ。


「また会えるとは思わなかったな。今ひとり? 連れと迎えは?」

「……あなたこそ。怒ってるって言ってたじゃない」

「ああ、怒ってた! だから先に帰ってもらったよ。欲しい物もあったしさ」


 訝しげに見上げた先で青年はあっけらかんと笑い、顔の近くに持ち上げた花束を「これこれ」と振ってみせた。アデレードの視線は青年の切れ長の瞳に吸い込まれる。こんな人がどうしてウィルトールと同じ色を持っているんだろう。正直にいって腹立たしい。


「……彼女さん、喜ぶといいですね」

「ん、彼女?」

「だって贈り物でしょ」

「……なるほど。広義にとればそうなる、か?」


 真紅のそれを肩に担ぎ、宙を睨むその頭上にはまるで大きな疑問符が浮かんでいるかのよう。予想外の反応にアデレードも内心首を捻る。もっとにやついた顔をすると思っていたのに。


「それより今の子さぁ、〝あかがねの薔薇姫〟だろう? 確か、ローディア・ギルマルク」

「……それが何か?」

「いや、知り合いとは思わなかったからさ。道理で見覚えあるわけだ」

「丁重にお断りいたします。それでは」


 アデレードは眉間に力を込めて言い切ると深々とお辞儀をした。そのままくるりと回れ右をして歩き出す。

 やっぱり今日は知らない人と縁があるらしい。憧れの人を捕まえてなんて偉そうに、と頭にきたがそこには敢えて触れないでおく。こんな寝不足失礼男、懇切丁寧に相手をしてやる価値があるとも思えない。


「何の話?」


 小走りに追いかけてきた青年が食い下がった。ちらりと横目に睨みつけ、アデレードは不機嫌顔のままつんとあごを上げた。


「ローディアさんを紹介してって言うんでしょ。お生憎さま。簡単に声をかけられるお方じゃないんだから。クラレットいちのお嬢さまなのよ?」

「ああ違う違う、覚えがあるのはきみの方。おれたち、前にどこかで会ってるよね? おそらく薔薇姫が来るような席だと思うけど、どう?」

「はっ……!?」


 寝耳に水だった。思わず足を止め、隣を見上げる。あんぐりと口を開けたまましばらく思考が停止したアデレードは、それでもなんとか「さっき、船で」と絞り出した。

 青年は破顔するとひらひら手を振った。


「もっとずーっと前だって。おれ、一度会った女の子は絶対忘れない」

「人違いよ! わたしだって、もしあなたみたいな人に会ったら絶対覚えてるわ」

「だろう? お互いそれだけ印象強いんだからこれはもう運命だと思うぜ」

「勝手なこと言わないで!」


 顔のど真ん中に〝疑う余地なし〟とはっきり記し、青年は手にした束から真紅の一輪を抜き取った。どうぞと差し出すその満面の笑みは顔が良いせいだろうか、どこか胡散臭い雰囲気が拭えない。

 身体中の産毛が足先からちりちり逆立っていく。脊髄反射で「いりません!」と突き返せば青年は意外そうに「薔薇は嫌い?」などと口にする。意中の相手への贈り物だとさっき自分で認めたくせに、別の女性のご機嫌伺いにも使おうとしているその意味を、この人はちゃんとわかっているのか。




 応酬の一瞬の隙をつくように高く澄んだ金属音が風に乗ってきた。昼の三つ目の鐘だ。

 はっと息を呑んだアデレードはつい天を仰いでいた。到着したときにはほぼ天頂にあった太陽の傾きが増している。季節柄、日暮れまでまだときがあるので実感しづらいが次に鳴るのが夕刻の鐘。そして小母マリーとの約束の時刻までもう間がない──待ちぼうけを食わされているアッシュを思い浮かべるだけで血の気が引いていく。


「では失礼します」


 おざなりに頭を下げるとパッと駆け出した。背後から「おーい」とのんびりした声が飛んできたがこれ以上は付き合いきれない。現時点で優先すべきは話の通じない変な男ではなく怒り心頭な弟の方である。




 雑貨屋の並びまで戻ってくると往来には通行人が増えてきた。痛みを訴える脇腹に何度も止まろうと囁かれたが、誘惑はそのたびに突っぱねた。

 だが人混みをすり抜けて駆けるアデレードの足は、結果的に大通りに出る前に止まることとなった。


「きゃあ!」

「うわっ」


 通り掛かった店先からタイミングよく人が出てきた。その懐にアデレードは勢いよく突っ込んだ。体当たりをされた方は転びこそしなかったが、反射的にアデレードを受け止めた姿勢のまま数歩よろける。


「アディか!?」


 聞き覚えのありすぎる声音が至近距離から降ってきた。はっと顔を上げたアデレードの目に飛び込んできたのは強い陽射しに負けじと輝く蜂蜜色の髪。大きく見開かれた青藍の瞳。


「ウィルトール! ……えっほんとにウィルトールなの!? なんで!?」

「……随分探したぞ、一体どこまで行ってたんだ?」


 ゆっくりとアデレードの身体を離し、けれど両手は肩に置いたままで彼は少女の顔を覗き込んだ。双眸に非難の色を滲ませて。


 ──本物だ。そう確信した途端、アデレードの両足から力が抜けた。

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