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 グラスの底から湧き上がっていく小さな泡。それをぼんやり追いつつ、アデレードは周りにアンテナを張り巡らせていた。


 ──向こうから女の子の二人連れが歩いてくる。


 俯き気味にじっとしていると例に漏れず「きゃっ」と黄色い声が耳を打った。ひそひそ交わされる声が斜め前から真横へと移り、やがてアデレードからは姿が見えなくなる。それでも後頭部に刺さる視線はかなり長い間寄せられていた気がする。

 あの子たちの関心がどこにあり、何の話をしていたかは早い段階からわかっていた。もう三組目だもの。アデレードの向かいにある伏し目がちの横顔が最高に格好いいことだって、疑いようのない事実だから。




 雑貨屋の並ぶ辻と平行に走る隣の辻には飲食店が多く立ち並ぶ。その一軒のカフェにアデレードは。再会したその場で座り込んでしまったアデレードを見かねてウィルトールが休憩を提案してくれたのだ。

 人々の話し声や笑い声、いろんな足音に食器の重なる高い音──耳をそばだてていると聞こえる音は実に様々だった。店内はそこそこの混みようだがテラス席はほぼ貸切状態。簡易的な柵で囲まれているおかげか、開放的ながらも他人の目はあまり気にならない造りになっている。だというのに柵を越えてくる歓声がアデレードを落ち着かなくさせる。

 いつもはどんな話をしていたんだっけ。ふたりだけのティータイムはこれまで何度も経験してきたがこんなに話題に困る時間は初めてだ。船が定刻より早く着いたこと、顔見知りとつい話し込んでしまったことなど経緯をざっくり説明すれば他に取り立てて話すべきこともなく、アデレードの視線は手の中のグラスにずっと注がれている。


 溶けた氷が澄んだ音を立てた。手持ち無沙汰にぐるぐるかき混ぜるとカラカラ小気味よい音が響く。

 何でもいい、話の種が欲しい。できれば共通の認識がある話題。ウィルトールも興味があって、尚且つ盛り上がれる話であれば文句なし。


「……小母さま、気を悪くされてないかしら」


 結局、口をついた種はあまり楽しいものではなかった。顔を覆いたくなったが、彼の意識がこちらに向けられたのでかろうじて踏み止まる。アデレードは上目遣いにそうっと見上げた。


「挨拶に来ないって怒ってたらどうしようと思って……。母さまから手紙も預かってたし、伝言があったのに」

「急ぎの話? アッシュは知ってるのか?」

「違うの。小母さまが疲れてそうだったら『適度に休んで無理は禁物よって伝えてね』って。アッシュも一緒にいたけど頼まれたのはわたしだから……やっぱりまっすぐ向かえばよかったのよね」


 話せば話すほど気分が落ちていく。思い出したようにソーダを口に含んだアデレードは次の瞬間眉を顰めた。──薄い。ああ、あんなにかき混ぜるのではなかったかも。


 消えたアデレードを探すべく、ウィルトールとアッシュのふたりは雑貨屋を端から順に当たっていたらしい。何軒か覗いたところで時間切れとなり、アデレード探しは引き続きウィルトールが、そして挨拶にはアッシュひとりで向かうことにしたのだとか。招待状やらくだんの手紙はまとめてアッシュが持っていたので何も問題はなく、このあとは朱鳥の丘で落ち合う方向で話がついてるとまで聞かされるとアデレードに言えることは何もなかった。

 思案げに首を傾けていたウィルトールは「大丈夫じゃないかな」と返し、グラスに口をつけた。


「アッシュだってわざわざ悪いようには言わないだろうし、うまくやってくれてるよ」

「……でも、後でお説教はあるわよね……」


 鬱々しい顔でぼやくアデレードに対して彼は明確な言葉は口にしなかった。微苦笑を浮かべたその顔が答えといえば答えなのか。





「まあ、後のことは後で考えるとしてさ。これからどうしようか?」


 耳馴染みのいい声が額を撫で、顔を上げた。頬杖をついたウィルトールの肩先で蜂蜜色の髪が揺れている。


「時間つぶし。見たいところがあるなら付き合うし、このままお喋りしてても構わないけど」

「……いいの? ウィルトールも忙しいでしょ。他にやることだって……」

「うーん、じゃあ訂正」

「えっ、あ、」


 鮮やかに翻った語にアデレードは腰を浮かせた。せっかく嬉しいお誘いをしてくれたのに、変に遠慮しなければよかった。

 だがアデレードが何かを言うより早く、藍色の目は朗らかに細められた。まるで秘密のいたずらでも打ち明けるかのような無邪気さで。


「もう少しいてもいいかな。久しぶりだし、アディは見ていて飽きないからさ。いい息抜きになる」

「……褒められてるんだかよくわかんないわ……」

「一緒にいると楽しいってことだよ」


 くすくすとウィルトールが口の端を持ち上げる。

 ──頬が熱を帯びていく。どうかなと尋ねる柔らかな眼差しに、アデレードはゆるゆる腰を下ろしながらぎこちなく頷いた。





 * *





 屋敷の門を出ると緑に覆われた一本道が続く。森の中を散策するようなそれをアネッサは先へ先へと進んでいく。

 昼の一番暑い時刻を過ぎ、陽射しはだいぶ和らいだようだった。木立の中を通り抜ける風は心地よく、結わずに残した横髪をふわりふわりと撫でていく。


「アン!」


 不意に飛んできた声に振り返る。木漏れ日の中を早足に歩いてくる顔があった。間をおかず追いついたは一度大きく息を吐いた。柔らかな茶色の髪を無造作に掻き上げ姿勢を正し、藍の双眸はアネッサをまっすぐに見据えた。


「今日は一人ですか」

「メリアントで世話になった子たちと会うからね。連れにはいい子で留守番してるように言っといたから、もし見かけたらよろしくね、ジール」

「……いい〝子〟という表現はどうかと」


 青年が口の端だけで苦笑う。その造作はもちろん、生真面目さを前面に押し出したような面持ちを見れば一番の父親似は彼だと誰もが口にするだろう。最近はますます似てきたとアネッサにも感じられる。


「あんたはどこ行くの?」

「私は、出迎えに」

「出迎え? ……ああ、彼女は今日来るんだっけ」

「ヴェルマインの姫はまた後ほど。日暮れ前にはとのことなので、あちらも間もなくとは思いますが」


 深い色をした双眸はゆるりと頭上を仰ぐと再びアネッサに据えられる。




 アネッサの甥にあたるジルヴェンドはウィンザール家の嫡子だ。茶色い髪は父譲り、瞳の藍色は母譲り。常に冷静で大人びた印象を与えるジルヴェンドが幼い頃から優秀な成績を修めてこられたのは、彼が人一倍の努力家だからだ。背丈は既に追い越され、すらりと伸びた体躯や理知的な光を宿す眼差しがアネッサには眩しく映っていた。


「──来たか」


 ひとちたジルヴェンドにつられて視線を投げると正面遠くに人影が見えた。時を同じくしてあちらもアネッサたちに気付いたらしい。あっという間に距離を詰めてくるのは長身の若者だった。それが誰か、判別したときにはもうアネッサの視界から消えていて、乱暴な抱擁を衝撃ごと受け止めることになった。


「アン! 会いたかった!」

「──久しぶりだねファル。元気だった?」

「見てのとーり」


 アネッサからも腕を回す。その背をとんとんと撫でるように叩けば耳元でくすくす笑う声が響いた。さらさらした感触が頬をくすぐる。それが彼の髪だと認識するより早く、アネッサの視界には楽しげに揺れる青藍の双眸が現れた。

 ウィンザール家の次男であり、やはり甥にあたるファーライル。ジルヴェンドとは双子で全く同じ容姿を持ちながら、本当に同じ遺伝子かと疑いたくなるほど感情豊かな青年だった。ジルヴェンドが特に感情に乏しいわけではない。が、兄の分も補って余りある愛想をファーライルは常に振りまいていた。


「アンはちっとも変わらないなあ。若々しくて綺麗で、まるで同い年って感じ」

「あんたも相変わらず口が上手だね」

「あ、信じてない。ほんとだって。アンがお母上と一個しか年が変わらないことの方がおれは信じられないよ」

「……いい加減離れろファル」

「ああ、ジールただいま。これやるわ」


 アネッサを抱きしめたままファーライルはその肩越しにへらっと笑う。はいと差し出されたものをジルヴェンドは両腕を組んだまま、片目を眇めて見下ろした。


「どういうつもりだ」

「どうって、見ての通りだけど?」

「私を帰してわざわざ買い求めたのが、花?」

「フリアちゃんが喜びそうかなーっと思ってさ」

「お前と一緒にするな。から薔薇を貰って喜ぶ女がどこにいる」

 顰めっ面で睨む兄に対し、ファーライルは朗らかに声を上げて笑った。

だよ。綺麗な花とともに出迎えられたら旅の疲れも吹き飛ぶじゃん。言っとくけど、渡すときは笑顔だぜ」


 抱擁を解いたファーライルはジルヴェンドの前に立つと有無を言わせず腕を取り、花束を抱えさせた。そうして自身の口角を指でにっと吊り上げてみせる。数拍おいてジルヴェンドの瞳がすうっと半眼に閉じられた。

 まるで一触即発な空気が漂う中、アネッサの手がぐいとふたりを引き離した。


「会食は明日だったね、ジール。またいつでもいいから都合のいいときに時間を作ってくれる?」


 兄の顔を覗き込み、アネッサは敢えて明るい声を投げた。


「あたしは挨拶だけさせてもらうよ。明日じゃなくていいし、考えといて」

「……アンさえよければ、私は同席してもらいたいと考えているのですが」

「その辺は兄さんが何と言うかだね」


 肩を竦めるように笑うとジルヴェンドはむっと唇を引き結んだ。アネッサの特異な体質を知るが故に、それが一筋縄ではいかないかもしれないことに思い至ったのだろう。感情があまりおもてに出る方ではないたちでも、慣れれば声や顔つきの僅かな差異から読み取ることができる。そこも父譲りの点である。

 そんなジルヴェンドの口から次に出てきた言葉は全く違う話題だった。


「時間は大丈夫ですか」

「ああ、そろそろ行こうかな。ファル、積もる話はまた帰ってからゆっくりね」

「どこ行くの!? 可愛い女の子がいるところだったらおれもついてくけど」


 両腕を頭の後ろで組んだ格好でファーライルが目を輝かせる。苦笑を浮かべたアネッサが片手を腰にやり言葉を探しているとすかさずジルヴェンドが割って入った。手にした花束で弟の側頭部をばさっと叩く。


「一度人生やり直してこい」





 木漏れ日をきらきら浴びながら遠ざかっていく金の髪。細身の背中はやがて緩やかな曲がり道に差し掛かり見えなくなった。


「お父上よりお母上の方が難色示しそうだよな。身内に異能力者がいるなんてーって」


 片手をひさしのようにかざしてファーライルがぽつりと呟く。


「ファル、黙ってろ」

「一緒に考えようとしてるんじゃん。おれだってアンがいた方が楽しいんだからさぁ。……あーでもアンほんとに変わってなかった。不老ってすごいな。次に会ったらおれたちの方が兄みたいだったりして。いや、父?」


 落とされた言葉が不快な響きをもってジルヴェンドの耳朶を打つ。弟の肩を叩いて振り返らせると、兄は持たされていた〝余計なお世話〟を有無を言わせず押しつけた。





 * *





 街中を一緒に歩く、ただそれだけのことがここまで注目を集めるものだと思わなかった。

 始めは普通にウィンドウショッピングを楽しんでいたアデレードだが、次第にどきどきと落ち着かなくなった。足下がふわふわとして、なんだか現実味がない。

 すれ違いがてらウィルトールを二度見していく女性は少なくない。そのうえ「彼女いるんだ」なんて囁きまで耳に届けば、口許はむずむず震えてくる。


「ねえ。好きに見ていっていい?」


 振り仰いだ先に肯定の色を宿した瞳を見つけ、アデレードは歩調を速めた。ショーウィンドウを次々と流し見し、少し離れた店先で足を止めた。ガラスを鏡代わりにしてみれば自分で見ても頰がうっすら染まっている、ような。この程度なら暑さのせいにできるかしら──そんなことを考えながらウィルトールが追いつくまでの間、口の両端をぴたぴた押さえてみる。


 ウィルトールが周りの目を一切相手にしていない点がせめてもの救いだった。アデレードの指す雑貨には興味を示してくれるので、周りが見えていないわけでも聞こえていないわけでもないと思う。ただ、一方的な声に関しては何も言ってこない。関係性をはっきり否定されたくないアデレードにとっては今の彼の姿勢はむしろありがたいけれど。


「気になるなら中に入ってみる?」


 追いついたウィルトールが涼しい顔で隣に立った。アデレードは両手で頬を覆ったまま彼を見上げ、その視線の先を辿ってひっと息を呑んだ。展示されていたのは真珠を使った一揃いのネックレスに指輪、イヤリング。少女に馴染みのあるお値段より遥かに多い、値札の。何も考えずに立ち止まっていたけれどこの店、雑貨屋じゃない。取り扱っているのは宝飾品か。


「あっ、ち、違うの! いい! 大丈夫!」

「──アディ、前!」


 顔を赤くし、その場からあたふた逃げ出そうとするアデレードに鋭い声が飛んだ。右腕に拘束を感じた直後、大きく踏み出した足は予想外の干渉によって逆に後ろに着地することになった。そして背中には何かが当たる感触。

 まさか鼻先すれすれの距離に人がいたなんて。

 無遠慮に向けられた冷たい眼差しを黙って見送る。アデレードにとっては長い長い一瞬だった。見知らぬ彼が通り過ぎた後たっぷり数秒経ってから、アデレードは知らず止めていた息を大きく吐き出した。すぐ背後からも同様に深い溜息が聞こえた。


「周りを、よく見る」

「う……ごめんなさい……」


 背を預ける格好で、形だけ僅かに背後を振り返る。かろうじて避けられたのは少女の腕を咄嗟に掴んだ手があったからだ。そうでなければ今頃全力で頭を下げる羽目になっていただろうし、彼にも迷惑をかけることになったかもしれないし。──いや、今の時点で既にかけてしまっている気もするけれど。

 右腕と左肩に置かれた手が離れるのと同時に気配が横に移った。アデレードははっと視線を落とす。長い手指に右手をしっかり捕らえられている。


「そろそろ向かおうか。見ておきたい店はもうない?」

「ウィルトール、あの、」

「こう人が多いと、追いかけるのも限界があるからね。誰かにぶつかって怪我でもさせたら、フィルさんに顔向けできない」


 繋いだまま手を軽く持ち上げてウィルトールが呟く。溜息混じりに告げられてしまうとアデレードに反論の余地はなかった。気ままに歩いたツケがこんなふうに回ってくるとは。




 行こうと手を引かれて視線が絡んだ。後ろめたい気持ちさえ軽々と吹き飛ばす温かな眼差しに、時が止まったような錯覚を起こす。


 ──ねえ、他の誰にもそんなふうに笑いかけないでね?


 ほんの瞬きをするほどの僅かな時間で願をかけ、ウィルトールが怪訝な顔をする前にはどうにか口の端を持ち上げた。手を握り返し、肩を並べて歩き出す。

 黙っていれば人は勝手に邪推するし、彼氏彼女の関係らしいと諦めてもくれる。ウィルトールが夢を見させてくれるのなら、どうかこのままでいさせてほしい。

 あなたを独り占めしていたいから。

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