6.かなしみは夕映えの丘に
夢を見させてくれるのなら、どうかこのままで
1.ようこそクラレットへ
かかとは床につけたまま、両つまさきをぴんと持ち上げてみた。白レースの靴下と細いストラップのついた真新しい靴、そのどちらにも汚れやほつれがないことを確めると元の通り床に下ろす。
今日の装いは元々白系統で揃えるつもりでいた。けれどこの日のためにと用意したつば広の帽子は、もう身につける気になれなかった。代わりに選んだのは同じ白でももう少し小振りでリボンが結ばれただけのシンプルな物。ここ数日メリアントで物色した品だ。
服も白一色のワンピースからライムグリーンを差し色にした物に替えた。小花の柄が入っているところが可愛いし、袖や裾には白レースがあしらわれているので清楚な印象もきっとある。
ひととおり確認し終えたアデレードは満足の息をついた。それから緩やかに視線を周りに投げる。ソファのそばを行き来する人は何人もいて、そのたびに服装や小物をこっそり観察した。素敵な靴や鞄を目にすると途端に不安が湧いてきて己の身なりを確かめる、それをさっきから繰り返している。
クラレットにはまだ着かないのかしら。たとえ数時間とはいえ慣れない船旅はなんだか落ち着かない。早く降りたい。でもこのあとに待っている再会のことを意識すると胸は早鐘を打ち始める。
細く長い溜息とともにソファの背にもたれた。小窓の外には港の様子が見えていた。人間はまだ豆粒だけれどそれでも大人と子ども程度の認識はできる。手を振る人の間を縫って忙しそうに走り回る人の様子だって窺える。
アデレードの膝の上で結んだ両手に力がこもった。目は自然とある色を探し出す。
今日の便で向かうことはアッシュから連絡が入っているはずだった。だから迎えに来てくれていると思う、多分。
会ったらなんて言おう。元気よく「久しぶり!」と言うような気分ではないけど、あらたまって「こんにちは」と言うのも変に他人行儀な気がするし。──何より大事なのは笑顔だ、笑顔。
思い返せば一年前、初めてウィンザール邸を訪れるときにも同じように第一声に悩んだ。あのときは彼が自分のことを覚えているかどうかが心配だった。もし怪訝な顔をされたらと考えると恐ろしくてたまらなかったっけ。
「そろそろ着きそう?」
突然耳元で響いたテナーボイスにアデレードは飛び上がった。一瞬でソファの端ぎりぎりまで後ずさった少女の視界に飛び込んできたのは身体を起こした青年の姿だ。片手を上げて伸びをし、のんきにあくびをしている。よく寝た、と小さな呟きを拾いアデレードは眉を顰めた。
「……具合は、大丈夫なんですか」
「うん? そうだな、本音を言えばもう少し寝たかったかな。昨夜はあんまり寝られなくてさぁ。やっぱ寝不足はよくないね」
「寝不足……」
「ええと、ところできみ、誰? おれに何か用かな」
爽やか且つ朗らかに彼は口角を上げる。光の粒子をきらきら振りまくようなその笑みにアデレードは虚を
「何言ってるの、後から来たのはそっちよ!? てっきり、船酔いだと思ったのに!」
出会いはつい一時間ほど前に遡る。
どさ、と大きな音がしてソファが軋んだ。衝撃で身体が僅かに浮き、半身を捻って外を眺めていたアデレードは弾かれるように隣を振り仰いだ。
倒れこむような乱暴さで腰を下ろしたのは男性だった。柔らかな茶色の髪がさらりと落ちて横顔を隠してしまい、顔立ちを判別する間はなかった。けれどもすらりと伸びた四肢からして男性なのは間違いない。
──誰!?
こんな人は、知らない。もし知人だったとしても「もう少し静かに座れないの」と非難したくなる荒々しさだった。弟が船内探検に出ていったために、二人掛けソファをひとりで陣取っているアデレードだ。隣に座りたいと言われれば当然断る道理はない。ないけれど、それにしたって事前に一言断りの言葉があって然るべきではとも思う。
サロンをぐるりと見渡せば乗客はそこそこ多い。幾つもある丸テーブルで人々が談笑する中、空いている椅子もそれなりにあった。わざわざ他人がいるソファを選ぶ意味がわからない。
呻くような低い声が耳朶に届いて、思考はそこで打ち切られた。アデレード自身に何か用があるのなら話はまた変わってくる。次に紡がれる言葉を聞き漏らすまいと見守れば、件の彼が小さくこちらを向いた。
「……まだ? じかん……」
「──ジカン?」
「このふね……クラレットに」
一言一言を呟くのがやっとといった様相だ。その間にも青年の身体はずるずる沈んでいく。
拾った言葉を頭の中で
アデレードは再び半身を捻った。縁が曇った丸い小窓の向こうは光に溢れ眩しかった。連なる峰々は青く、稜線から蒼穹に向かって真っ白い雲が
「……もうすぐじゃないかしら。予定ではお昼過ぎって言ってたけど」
「昼か……」
「……あのぅ、大丈夫、ですか?」
アデレードは腰が引けたまま言葉を紡いだ。本音を言えば見知らぬ人と話すことには抵抗があった。
「……寝る。着いたら起こして」
そうして彼は静かになった。身体はアデレードのいる側とは反対の方へ沈んだ。
おそらく船に酔ってしまったのだろう。波は穏やかだけれど他の乗客にも青い顔をしている人はいた。青年の小さく上下する肩から規則正しい呼吸をしているのは見て取れたし、到着まで寝て過ごすのが一番だとアデレードも思った。だから着いたら声をかけてあげようと他の場所に移りもせず、並んで座っていたというのに。
見下ろした先で青年はきょとんと目を丸くしていた。そうなって初めてアデレードは彼を真正面から見た。癖のない茶色の髪やスッと通った鼻筋や薄い唇──整った顔立ちだなと意識する前に思いがけない色を見つけて息を呑む。青年の切れ長の双眸は青藍の色をしていた。薄明の色を持つ人間が、他にもいるなんて。
その藍色がふっと細められた。直後にはははっと明るい声が響きわたる。
「先客はそっちだったか、悪かった。……だけどきみさぁ、こんな得体の知れないやつが隣に来て、移動しようとは思わなかった?」
「……だって着いたら起こしてって、あなたが!」
「あ、おれそんなこと言ったんだ。頼んだおれが言うのもなんだけど……人がよすぎるのも考えものだぜ……」
肩を震わせ続ける青年とは反対にアデレードは頬を膨らませた。心配して損した気分だった。なんだか馬鹿にされてるみたいだし、実際一瞬でも惹かれた自分は酷く馬鹿だ。同じ色を持っていても人間性はウィルトールと全然違う。
青年が立ち上がった途端に今度はアデレードが見下ろされる側になった。随分、背が高い。思わず一歩下がりはしたがアデレードは怯みそうになる心を叱咤し、ぐっと足に力を入れた。これ以上馬鹿にされるわけにはいかない。
「勘違いさせて悪かった。心配してくれたお礼とお詫びにこれからお茶でもどう? ご馳走するからさ」
「け、結構です。連れがいるし、迎えも来てくれてるはずだもの……」
「へえ、そうなの?」
アデレードが指差した先を辿るように青年も小窓の外を見やった。その顔が瞬時に固まる。同時に漏らした「げっ」という苦々しい声を拾ってアデレードは眉を顰めた。同じように覗いてみるも特におかしなところは見当たらない気がした。いたって普通の、港の風景。
「あれは怒ってるな……」
「ここから見えるの!?」
「さすがに顔は見えないよ。けど雰囲気がそんな感じ。あー、忙しいなら来なくていいっつったのに。わざわざ来て怒ってるってさぁ、理不尽すぎる……」
「親しい人から連絡がきたら普通は優先すると思いますけど……。わたしだったらそうするもの。大切に思うなら何があっても──」
そこで口を噤んだ。振り返った青年はまるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていて、思わずアデレードも大きく瞬く。
次の瞬間、藍色の瞳が柔らかく綻んだ。
「悪いけど、きみとのお茶は次の機会でいいかな」
「……だから、お茶はいいですって、さっきも言ったわ」
「奥ゆかしいところも魅力的だね。じゃ、また」
青年は爽やかに片目を瞑ると、さっと
「……今の誰ですか?」
呆然と立ち尽くすアデレードの背中に聞き覚えのある声が届いた。探検からいつ戻ってきたのか、アッシュが訝しそうな目を向けていた。姉にではなく彼の消えた方向に。
アデレードはむっと眉尻を上げサロンの向こうを睨みつけた。
「ただの寝不足男よ! 〝また〟なんてあるわけないじゃない!」
「寝不足……? いや、どこかで見たような……」
「アッシュ、わたしたちも降りる用意をしましょ」
わざと強めに声を出し、アデレードは青年が歩み去ったのとは反対の方へ弟の背を押した。
* *
──いない。
混雑を極めるクラレットの港。どんなにたくさんの人がいたって、お日様の光を集めたような蜂蜜色をアデレードが見逃すはずはなかった。胸元で握りしめていた右手が力なく落ちる。
「そこで止まられると迷惑です」
背後から忍び声が届いた。ハッと我に返ったアデレードの脇をすり抜けてアッシュが前に出た。
「アッシュ待って、どこ行くの?」
さっさと歩いていく背を慌てて追いかける。人混みを抜けた先で弟がようやく振り返った。
「決まってるでしょう、これからの滞在先です」
「でもウィルトールは来てないわ」
「こういうときのための招待状ですよ、姉さん」
行きましょうと歩いていく後ろ姿をへの字口で見送る。どんどん小さくなる背に聞こえるくらい大きな溜息をついて、アデレードも再び足を前に出した。
平地に広がるメリアントとは違い、クラレットは山の斜面に貼りついている街だ。中でもウィンザールの別邸は一番眺めのいい一等地。港から離れるに従い少しずつ傾斜が大きくなる大通りの端をとぼとぼ登っていく。
幾台もの馬車がふたりを抜き去っていった。そのたびに少女の唇は尖っていく。予定では彼と運命的な再会を果たして今頃一緒に馬車に乗っているはずだった。いや、別に馬車でなくて構わないのだけど。並んで歩きながら当時と今を比べてあれが変わってるこれは懐かしいと笑いあいたかったのだ。それだけなのに──。
身体中の空気を吐き出す勢いで溜息がこぼれていく。石畳の縁を目で追いながらのろのろ足を動かしていると、前方から呆れ声が飛んできた。
「ウィルトールさん、待ちくたびれてますよきっと」
数歩先でアッシュが渋い顔をしていた。アデレードは面白くなさそうに口許を歪ませる。
「……どうかしら」
今回ウィルトールはたくさんの貴人要人を招待〝する〟側の人間。特に予定はないなんて言って、実際は何かとやることがあるのだろう。明らかなのはアデレードが彼にとって〝最優先すべき存在ではない〟ことだけ。
船内で偉そうに口にした言葉が自らに刺さっている。ぷいと顔を背ければ視線の先にあったのはアデレードにはあまり馴染みのない古書店だった。大きなガラス窓に映った小花柄のワンピースに気分はますます虚しくなる。
「ねぇ、本当に連絡したのよね? 今日の船に乗るって」
「もちろんです」
「……じゃあやっぱり忙しいのね。わたしたちを忘れるくらい」
鬱々しい面持ちで肩を並べた姉にアッシュは「しっかりしてください」と向き直った。
「姉さん、今日は私たちも忙しいんです」
「ちゃんと覚えてるわよ、小母さまにご挨拶するのと、そのあと〝
「一つ目の鐘です。……寄り道する時間はないですからね」
「わかってる」
先にメリアントを発っていった長身の麗人をアデレードは思い浮かべた。
予定が立ち次第連絡すると聞いていた通り、数日後には見覚えのある白い鳥が飛んできた。アデレードの手に止まった途端折り紙に戻ったそれを開くと彼女の人柄がよくわかる字体でこう書かれていた。
『美味しいパイ包みとタルトのお店を聞いたよ。こちらに来る日の夕方はあいてる?』
早速アデレードも了承を告げる鳥を飛ばした。初めて見送る白い手紙を小さくなるまで眺めているとやがて次の鳥が飛んできた。指定されたのはアデレードもよく知る朱鳥の丘。ヴィーナ湖を一望できるその高台は定番の待ち合わせスポットであり、年頃の女子にとっては好きな人と訪れたい憧れの地でもある。そんな場所でアネッサにまた会えるというのはなんとも胸が踊る。
ようやく朗らかな気分で顔を上げたアデレードの目にたくさんの人で賑わう景観が飛び込んできた。大通りと交わる一本の辻、ここには過去のアデレードも足繁く通った覚えがあった。ショーウィンドウに並ぶ魅力的な品に誘われるまま歩き回る幼い自分がそこここに見えるよう。
「──ちょっと待って!」
「姉さん……今言ったばかりですよ。寄り道は勘弁してくださ」
「なによ、今まで散々道草しといて! 着くのが早かったんだもの、少しくらい大丈夫でしょ。すぐに戻るわ」
わざとらしくつかれた溜息はこの際気付かなかったことにする。駄目押しの笑みをにっこり送るとアデレードは足取りも軽く目当ての看板を目指した。
学生御用達の店が集まる一画。やや幅の狭い街路の両側には比較的お手頃価格の店が
うきうきと弾むアデレードの足はすぐに一軒の雑貨屋の前で止まった。透かし彫りが美しい金属製の吊り看板に、レースをかたどった白い半円が幾つも連なった
そういえば昔憧れた便箋は今も置いてあるのかしら。花の透かし絵が入ったそれを使っていつか手紙を書くのが夢だった。
カランと軽いドアベルの音とともに、紙包みを大事そうに抱えた女の子が出てきた。閉まりゆく扉の細い隙間から微かに風が吹いてくる。アデレードの鼻腔をくすぐるのは甘くてどこか懐かしい香り。
「おい」
突如、聞き慣れない低音が耳朶を打った。アデレードがはっと振り向くのと腕を掴まれたのはほぼ同時のことだった。
* *
「アッシュ!」
古書店の店先。馴染みのある声が耳に届いてアッシュはページを繰る手を止めた。大通りを下ってくるのは旧知の顔だ。
「ようこそクラレットへ。案外早く着いたんだな」
「ウィルトールさん、ご無沙汰してます」
「……アディは? 中?」
穏やかな笑みを返したあとウィルトールが首を傾げる。アッシュは暇つぶしの品を元の場所に戻し、店内を窺う彼にのんびりと否を告げた。
「姉は向こうです。ほら、あの辻。どうしても寄り道したいと言うので」
「寄り道?」
「……ああもうこんな時間なんですね。迎えに行った方が早いかもしれません」
懐中時計を確かめてアッシュが表情を曇らせる。眩しい陽射しの下、往来を行く人通りはそれなりに多いが求める赤い髪は見当たらない。
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