3.恋って楽しいだけじゃないよ。

 メリアントの屋敷は各部屋がバルコニーで繋がっていて自由に行き来できる。掃き出し窓から室内に戻ったアネッサは一歩入ったところで少女の手を解き、うやうやしく部屋の中央へ促した。


「どうぞ」

「お、お邪魔します」

「……なんだか変な感じだね。ここ、あんたの家なのに」


 くすくす笑みをこぼしながらアネッサはテーブルへと手招く。勧められた椅子に腰を下ろすと風に翻るレースのカーテンが目に入った。その向こうには先ほどまでいたバルコニーと暗い空。室内からだと繁華街の明かりは見えないが、暗い湖の先に瞬くクラレットの光は入ってくる。


「寝る場所まで世話してもらって悪いね」

「構わないです。アッシュの〝余らせるより使ってもらう方が部屋にもいい〟って、わたしも同感だから」

「ありがとう。アデレードもこれの攻略手伝ってね。さっき市場で買ったやつ」


 目の前にグラスが置かれ、次いで銀の器が押し出された。采の目にカットされた色鮮やかな果実が乗っている。ぽいと口に入れたアネッサに倣いアデレードも一つ摘んでみれば、果汁が口いっぱいに広がった。甘い。少し青臭さが残るけれど気になるほどではない。

 卓上には他に書類が数枚と白い封筒が置かれていた。見覚えのある封蝋からそれが乗船チケットと一緒に渡された手紙であると気づく。

 そういえば何故だかとても仰々しく渡されたっけ。思い返しているうちにアデレードは大きく目を見張った。件の封蝋がじんわりと赤い輝きを見せたから。


「手紙がどうかした?」


 向かいに腰を落ち着けたアネッサが視線を辿って小首を傾げる。


「光ってる……」

「うん、魔術道具だからね」

「……あっ知ってます! 〝鍵の言葉〟を間違えるとびしょびしょに濡れて文字が読めなくなる手紙!」


 思わず立ち上がり自信満々に少女が叫んだ。きょとんとしていたアネッサの顔が次第に可笑しそうに歪んでいく。一瞬後、明るい笑い声が室内に響いた。


「〝水のふみ〟か。さぞ怒られたことだろうね。だけどこの〝焔の文〟はもっと乱暴だよ。籠められてるのは火の力だから」


 爪の先でとんとんとつつくも封蝋は変わらずゆったりとした間隔で明滅を繰り返している。アデレードが物珍しげにまじまじ眺める中、アネッサは果実を食べ終わった器に封筒を乗せた。


「見ててごらん」


 言うや否や彼女は短い言葉を呟く。と、封蝋の輝きが一気に強まった。ぽっと火の粉を吐き出した次の瞬間、封筒は炎に包まれた。あっという間に燃え尽きて灰になったそれをアネッサは「ほらね」とアデレードの方に傾けて見せた。


「えっ、あの、いいんですか!?」

「いいのいいの。もう読んだし、中身はさっき飛んでいったよ」


 外を指差し破顔一笑するアネッサを見、アデレードはほっと胸を撫で下ろした。




 しっとり湿り気を帯びた夜風がカーテンを揺らしている。飲み屋街での騒ぎ声は室内までは入ってこず、耳朶に小さく届くのは虫たちのささめきのみ。

 器や書類を脇に片付けてアネッサは頬杖をついた。手の中で揺れるグラスの中を卓上ランプの灯が通り抜ける。そのままテーブルに落ちて揺らめき踊る影は、影でありながら光の煌めきを持っている。


「──アデレードもクラレットに行くって言ってたよね」

「あ、はい……再来週頃にはその予定です」

「じゃあ次はあたしがクラレットの美味しいお店を案内するよ。向こうに身内がいるから聞いておく」

「本当ですか!? また会える?」


 もちろんと破顔した彼女にアデレードの口の端も持ち上がる。

 微笑むアネッサはお世辞抜きに美人だった。上向きにカールした長い睫毛も、左の目元にあるほくろも、弧を描く唇もどこか艶めかしくてどきどきする。頬が熱を帯びるのを感じ、少女の視線はおのずと下がっていく。

 薄明かりに照らされ橙の色に輝く彼女の髪が一房、風に吹かれて胸の前に落ちていた。広く開けたシャツの胸元から覗く深い谷間に思わず目が釘付けになり、アデレードは慌てて下を向いた。すると必然的に視界に入ってきたのは自身のささやかな胸と、癖のある赤い髪。


 はっきりした歳は聞いていないがアネッサが年上なのは確かだ。大人だから色っぽいというのも至極当然のこと。けれど自分が同じ歳になったとき果たしてあんなふうに色香を湛えた女性になれているだろうか。……とても、自信が、ない。


「どうしたの、溜息なんかついて」


 くすくすと密やかな笑声を零しながらもどこか気遣う色の混じった声音にアデレードはそろりと顔を上げる。微苦笑を浮かべる彼女を上目遣いに見上げるも、やはり感じる思いは羨ましさ。それで口が勝手に動いた。


「……ひとつ、聞いてもいいですか?」

「なに?」


 すっと息を吸い込む。たっぷり数秒の沈黙の後、アデレードの口は何の言葉も紡がないまま再び閉ざされた。いざ促されると何と言ったものか、こんなことを今日初めて会った人に聞いていいものなのか……。

 ちらりと横目に見たアネッサはといえば優しい眼差しでアデレードが話し出すのを待っているようだった。こちらから問いかけておきながら「やっぱり今のなし」というのはさすがに失礼かも。

 深く息を吐く。そののち勇気を出して声を絞り出した。

 少女の囁きは、辺りが静まり返った深夜だからこそアネッサの耳にしっかり届いた。その可愛らしい問いかけに彼女はただ目を丸くした。


「大人っぽくなりたい? どうして?」


 室内に響いた呆れ声──今のは絶対呆れてたと思う──にアデレードの顔が真っ赤になる。俯いて、できる限り身を縮める。恥ずかしい。どこかに隠れてしまいたい。


「……あ、その、す、好きな人が、いて……」


 パニックになりながらなんとか言葉を絞り出す。その一言でアネッサの瞳には納得の色が滲んだ。卓上で腕を組み、すかさず「どんな人?」と身を乗り出してくる。


「……幼馴染、です。年が離れていて、」

「それで大人っぽい人が好きだって?」

「そ、そういうのは聞いたことないけど……。でも大人っぽくて綺麗な人の方が似合うんじゃないかしらって気がするから……アネッサさんみたいな」

「へ、あたし!?」


 アネッサの声が裏返った。上目遣いに見上げた彼女の頬はほんのり赤く、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。そんなに変なことを言った覚えはないのだけど。

 だってアネッサならウィルトールの隣に並んでもきっと遜色はない。釣り合いがとれるだけの美貌と大人っぽさを兼ね備えていると自信を持って言い切れる。シャツにパンツスタイルという出で立ちでもこんなに色っぽいんだもの。仮にアデレードが同じ格好をしたって色気どころか普通に男の子に間違われて終わりそうな気さえする。


「わたしが子どもっぽいのは、わかってるの。いつも心配されてばかりで少し帰りが遅くなっただけでも怒られて……、でももうちょっと信用してくれてもいいのになって」

「聞いてる分には大事に思われてるんだなって感じるよ」

「それはきっと……〝妹〟だからだわ」


 口にした途端、視界がじんわり揺らいだ。自分で言っておきながら思った以上に刺さる言葉だった。

 妹だから。家族同然の幼馴染だから。それで何かと気にかけてくれるしお茶にも付き合ってくれているウィルトール。

 でもアデレードが欲しいのは家族としての情ではない。


「前は、傍にいられるだけでどきどきして嬉しかったの。お喋りするのが楽しくて、気持ちがふわふわして。だけど今は楽しいって思えなくなっちゃった。わたしが思う〝好き〟と向こうの思う〝好き〟は多分違うんだって……わかっちゃったら、悲しく、て……」


 我儘を言って不快にさせることはもう二度としたくなかった。けれど彼に恋人が出来るのはもっと嫌なのだ。アデレードではない誰かと添う姿を、妹としてただ見ているしかないなんて。そんなのきっと耐えられない。

 置いていかれたくない、追いつきたい。そのためには見た目も中身も早く大人にならなければいけない。隣に並んで独り占めしたいし、ウィルトールにも恋愛対象としてわたしを見てほしい。──わたしだけを。


 溢れ出る欲に気づいたとき、アデレードは愕然とした。なんて自己本位な思いなのだろう。浅ましくて利己的で、身勝手で。

 果たしてウィルトールはこんなわたしをどう思うか。嫌うだろうか。妹として向けてくれている好意さえなくすのかもしれない。それでも、


「わたしを見てほしいの。一緒にいたいの。だけど今度会うときどんな顔をすればいいのかわからない。もう失敗したくないのに。会うのが、怖い」


 ぽろりと雫がこぼれた。しまったと思ったときには後から後から零れ出て、もう止められなかった。

 アネッサは関係ないのに。困らせるだけなのに。

 焦れば焦るほど頭は真っ白になっていく。




 俯く耳に静かな足音が届き、「アデレード」と声が降ってきた。両手を取られ、声のする方に身体を向けさせられるとそこに見つけたのは柔らかな眼差しだった。温かな手がアデレードの両手を優しく摩る。暑苦しさや不快な感じは全くしなくて、逆に彼女の温かな心根が流れ込んでくるよう。


「昔話をしてもいいかい?」


 突然の申し出にアデレードが瞬く。一拍置いておずおずと頷くとアネッサはおもむろに宙の一点を見つめた。


「……昔あたしも好きな人がいたんだ。その人に綺麗な姿を見てほしくてさ、あたしなりに一生懸命頑張ったんだよ。けど限界を感じてね……」


 振り向き、眉尻を下げた彼女の瞳には苦い笑みが宿っていた。


「アデレードと一緒。どうすればいいのかわからないし相談できる人もいない。それで結局爆発した。私の場合は、

「えっ……」

「だから、あんたの気持ちはわかる気がするって話。恋って楽しいだけじゃないよ。……まぁ爆発しても向こうは全然こっちの気持ちをわかってなかったんだけどさ。ほんと、悩み損だった」

「はあ……」


 呆気にとられるとはこういう状態をいうのかもしれない。さっぱりと言い切って微笑むアネッサをアデレードはぼうっと見返す。その濡れた頬を、温かな両手が包み込んだ。


「後悔はしてないよ。好きになってよかったと思ってる。アデレードは?」


 挑むように真っ直ぐな目を向ける佳人。その迫力に思わず息を呑んだ。




 時が止まったのかと錯覚するほど長い長い一瞬が過ぎ、アデレードは唇を引き結んだ。逡巡し、出てきた答えはアネッサのものと近い気がした。

 今すぐにはっきり答えることはできない。けれど現時点では後悔してないし、これから先もしたくないと思っている。それだけは本当のこと。

 差し出されたハンカチをアデレードはありがたく受け取った。熱を持つ目元に押し当て静かに息を整えていると、「ねえ」と穏やかな声が耳を打った。


「──いつも、笑顔でね」

「……え?」

「あたしがお守りにしてる言葉だよ。感情はうつるんだってさ」


 笑顔でいれば相手も笑顔になるし、怒った態度で接すれば怒りが返ってくるということらしい。アネッサの想い人の持論だそうだが、案外的を射てるんじゃないかとアネッサ自身も思っていることを教えてくれた。曰く、「ずっとへらへら笑われるとね、どんなに怒ってても馬鹿らしくなって最後は笑っちゃうんだよ」とのことで。


「笑顔でいれば、笑顔になる……? ……あっ」


 ぱちっと頭の中で音が響いた気がした。明かりが灯ったような、パズルのピースがはまったような、小気味良い感覚。小首を傾げたアネッサをそっと見上げ、アデレードは躊躇いがちに口を開く。


「……わたしも言われたことあるわ……わたしが笑顔だったらみんなも笑顔になるよって」

「なんだ、意外と普通のことなのかな。偉そうに勿体ぶって悪かったね」


 アネッサが恥ずかしそうに照れ笑う。そんな彼女を見ていてアデレードも温かな気持ちになった。


「アネッサさん。いろいろありがとうございます」

「もし怖くても頑張って笑顔を見せてみな。アデレードの好きな人もきっと笑ってくれるよ」


 アデレードは頷いて、早速おまじないを実行した。すぐに紫紺の瞳が柔らかく細められた。





 * *





 天頂に近い太陽が真上から容赦なく照りつけている。背後から時折吹いてくる風が暑さを和らげてくれている分、まだ過ごしやすいかもしれない。

 船着場を後にしてきたアネッサは行く手に伸びる石畳の坂道を改めて見上げた。くっきりとコントラストをつけた道に人気ひとけはない。混雑する大通りを避けわざと細い道を選んできたので当然といえば当然なのだが、何よりこの道がだったはず。


 片手でひさしを作って先を眺めていたアネッサはおやと目を丸くした。緩く弧を描く道の中ほどにある建物の勝手口らしい扉の横。その奥まって陰になった部分に人影があった。明暗の差が強くて判然としないが、石壁にもたれた立ち姿から感じる雰囲気はなんとなく見知ったものである気がする。

 どうやら向こうは早くからアネッサに気付いていたようだ。組んでいた腕を解き、迷いのない足取りでさっと明るい日差しの下に姿を現したのはやはり見覚えのある顔だった。


「迎えに来てくれたの?」

「鳥が飛んできたからね」

「待ちくたびれただろ」


 悪戯っぽい笑みを送れば彼は首をゆるく横に振る。

 陽の光を受けて輝く蜂蜜色の長い髪。薄明の空を思わせる藍の双眸。そこに見えるのは安堵の色だった。


「元気そうで安心した。──おかえり、アン」

「チケットありがとね、ウィル。驚いたよ。あたしがメリアントにいるってよくわかったね」

「勘が当たっただけだよ。大したことじゃない」


 凪いだ湖面のごとく静かに笑む青年をアネッサは愛しげに抱き締めた。

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