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 小窓の向こうにはのどかな風景が広がっていた。目の覚めるような蒼穹の縁に点々と綿のような塊が並び浮かんでいる。連なる青い峰々にくっきり落ちたその影は一見動いているとはわからない速さでゆったり流れていく。


「奇遇だね。前はあたしも住んでたんだよ。フォルトレスト生まれ、フォルトレスト育ち」


 アネッサの声が嬉しそうに弾んだ。遠くの山並みを追いかけていたアデレードは、もたらされた内容にぱっと振り返った。視線が絡んだ瞬間口許に弧を描いたアネッサにつられてアデレードも口の端を上げる。

 出身地や在住地の名前を外で耳にするのはどこか嬉しく親近感を覚えるものだ。何よりこのアネッサという人は本当に華やかに笑む。満面の笑みを向けられると思わず頬が熱を帯びる。彼女の造作が元々いいせいもあるけれど。


「それじゃあどこかですれ違ったことがあるかもしれないですね!」

「ああごめん、住んでたのは昔の話。街を出たのはもう十年以上前かな……。あたし、この前シュタルクから戻ってきたところでさ」

「十年!?」

「シュタルクですか!? 海を渡った向こうの?」


 姉弟が別々に叫んだ。背もたれに背を預け、アネッサはどちらともにそうそうと頷く。

 アデレードたちの住むフォルトレストの街はハルクローナ大陸のちょうど真ん中に位置する。南方のシュタルク大陸に渡るにはまず船が出ている港町まで行かねばならず、フォルト川を下っていくのが一番安全且つ楽なルートなのだがそれでも数日を要する大変な道のりだった。

 ところがアネッサはシュタルクだけではなく西海を越えた先の大陸ヒルフェスにも渡ったことがあると言う。姉弟はいよいよ絶句した。ちょっと見聞を広めたくてというのとはわけが違う。


「そんなに驚くことでもないさ。意外と回れちゃうもんだよ」

「ですが私が生まれた頃から今まで、ずっと旅をしているということですよね……」

「アーシェラント。今あたしの歳を考えただろ」

「い、いえ……それだけの間女性が一人で旅をするとなると想像を絶する困難もあったのではと」

「一人じゃないよ。連れとは今、別行動をしてる。クラレットの向こうで落ち合うことになってて」

「あの、もしかして彼氏さんか、旦那さま……?」


 身を乗り出したアデレードの声に期待が滲んでいる。アネッサは色の違う姉弟を交互に見比べると今度は吹き出した。


「違う違う。そういうのじゃないんだ。ご期待に添えなくて申し訳ないね。……まあ、でも」


 そうしてアネッサは窓の外に視線を投げた。


「大事な人にはかわりないか。これから先はずっと一緒にいるだろうから」




 三人がメリアントの街に入ったのはまだ空に黄金色の光が溢れる頃合いだった。ぽつぽつと開き始めた酒場の通りを抜け、真っ直ぐ船着場へと向かったアデレードたちはそこでもやはり長蛇の列にぶち当たった。


「すみません、まさか明日の便がもういっぱいだとは……」


 受付を済ませて外に出たところでアッシュが申し訳なさそうに頭を下げた。意気揚々と先導し、根気よく順番を待った挙句に告げられた事実としては全く歓迎できるものではなかった。けれどアネッサは大して気に留めていないようだ。


「あんたたちがすまながることじゃないよ。ちゃんと次の船のチケットは取れたんだし」

「でも、お連れの方と待ち合わせてるって」

「向こうも土砂崩れのことは知ってるから大丈夫」


 それより、とアネッサは天を仰ぐ。つられて見上げた空にはひとつふたつと明るい星が瞬き始めていた。通りの店からは明かりとともに食器の擦れる音や楽しそうな笑い声が漏れ、香辛料の香りがついた風が運んできたのは涼よりも空腹感。


「メリアントって何が美味しいの?」

「そうですね……魚がお嫌いでなければ私はお勧めですが」


 アデレードはぱちんと手を鳴らした。ワンピースの裾をひらめかせ、アネッサに身体ごと向き直る。


「わたしたちがよく行くお店がこの近くにあるの! よかったらアネッサさんも行きませんか?」

「それはいいね。……ああでもその前に宿を確保しておこうかな。さっきの混雑を思うと──」


 そう言いながらアネッサは今しがた後にしてきた建物を振り返る。つられるようにアデレードとアッシュも視線を投げたそのとき男性が一人慌てて飛び出してきた。辺りをきょろきょろ見回し、こちらと目があうとその色が変わった。


「すみません! ちょっと待って!」


 全速力で駆けてきた彼に見覚えはなかった。服装からしてチケット売場の係員。見るからに立派な胸章をつけているから窓口係よりは上の立場の人かも。

 肩を大きく上下させながら男性はアデレードたちの顔を順に見回した。


「あの、アネッサ、さま、いらっしゃいますか? アネッサ・メレリタ・ウィン……」

「ああ、あたしだけど」

「──大変、失礼しました。実は手違いがありまして……。明日のチケット、ご用意いたしております。恐れ入りますが今一度お戻りいただけますか」


 息を整え姿勢を正したあと深々と頭を下げた係員を前に、三人は顔を見合わせた。





 * *





 夜風に乗って微かに楽の音と歌声が響いてくる。夜半を過ぎたが飲み屋街はまだまだ営業真っ只中らしい。明かりの漏れる街並みを視界の端に収め、途切れ途切れに届く賑やかな音に耳を傾けてアデレードはバルコニーの手すりに寄りかかった。

 昇ってきたばかりの細い月が遠慮がちに光を投げかけていた。眼下に広がるのは細波の立つ静かな湖面。そのままどんどんと遠くへ視線を滑らせていけば対岸には幾つもの光を認められる。

 こうしてここから街の灯りを眺めるのは本当に久しぶりのことだった。ウィンザールの別邸は高台にあったからと、比較的高い位置にある輝きに見当をつけ思いを馳せた日々も懐かしい。


 ──十数日後にはあちらに向かう。行くのは実に七年ぶり。


 おもむろに目を閉じると街の灯りが残像となって瞼裏に映りこんだ。手すり上で組んだ両腕に顎を預け、アデレードは静かに息をついた。街並みは昔のままかしら。早く行きたいような、行きたくないような、なんとも言えない気持ちが胸を占めている。




 以来ウィルトールとは会っていなかった。すぐにクラレットに向けて立ってしまったようだし、アデレードの方も招待状が届いた後は準備に大忙しだったから。

 今この時間は何をしているんだろう。もう夢の中? それともまだ起きていて読み物でもしているかしら。

 思い浮かぶのは真剣な横顔とページをめくる長い手指。さらさら頬に落ちてくる蜂蜜色の髪を掻き上げる仕草。

 彼の長い髪はとても綺麗で見惚れる反面、読書には邪魔そうにも見えていた。前に一度、結び直すお手伝いを申し出たこともある。せめてまとめる位置を変えれば気にならなくなるのでは──そう思って。

 けれどウィルトールには苦笑いを浮かべてはぐらかされた。実際に髪を梳く機会に恵まれなかったのはちょっと残念だったけど、この話をエレムにするとそんな思いは一息に吹き飛んでしまった。真っ赤な顔とともに返された言葉は予想もしないものだった。


「アデレード……本当はもう付き合ってるんでしょう?」

「……えええ!? なんでそうなるの!? そんなわけないじゃない!」

「だって『わたしが髪を結ってあげる』なんて……私だったらとても言えないし出来ないわ。婚約した今でもそうよ。彼は結えるほど長くないけれど、櫛を持つ手が震えるのは間違いないもの。きっとそれどころじゃないわ」


 両手を頬に当てて心底恥ずかしそうに答えられると、そういうものなのかとアデレードも遅まきながら顔を赤くした。

 何てことを言ってしまったのか……だからウィルトールは困ったように笑っていたのかしら。小さな頃アデレード自身が彼に髪を結ってもらったことがあったから、その感覚で言っただけ。そんなに大それたことだったなんて思いもしなかった。


 ──もしかしてこのときも本当は不快だったのかもしれない。ウィルトールは優しいから、幼馴染のよしみで黙っていてくれただけで──。


 よぎった冷たい藍色にアデレードの息が止まった。早鐘を打ち出した心臓を押さえるように両手を胸に当てる。目の縁が熱い……。





「アデレード?」


 背中に小さく届いた声にはっと顔を上げた。振り返った先、隣室の掃き出し窓から半身を出していたのは背の高い佳人だ。ほどいて背中に垂らしただけの長い金髪が風に吹かれてふわりふわりと踊っている。その動きはまるで毛先から細かな光の粒子がきらきらと舞い散るような錯覚を起こす。

 昼間の印象と違って月の光を浴びた肌は滑らかに白く、どこか精霊めいた美しさと雰囲気を纏っていた。まるで別人だ。もっともそのイメージも、あっけらかんと続いた「こんな時間に何してるんだい?」という言葉によってすぐ修正されることになったけれど。


「あ、あの、目が覚めちゃって。……アネッサさんこそ寝なくていいんですか? 明日、早いですよね……?」


 目尻に滲むものをそっと拭い、どぎまぎしながら言葉を継ぐ。暗がりだし、まだ知り合ったばかりの仲だし、声音の差異は気づかないはずだ。きっと大丈夫。

 果たしてアデレードの思惑通りアネッサは何も言及しなかった。


「夜のうちにやっておきたいことがあったからね。これ」


 歩み寄ってきた彼女の手のひらに白い塊を見つけた。立体だけど直線的、ああこれは紙で折られた鳥か──そう思った直後にアデレードは目を見開いた。


「えっ?」


 ほんの瞬きをする一瞬の隙にそれは小さな白いくちばしとふわふわの羽毛を備えた本物の鳥になっていた。黒くつぶらな瞳が辺りをきょろきょろ窺っている。かと思うと翼の具合を確かめるように幾度か羽ばたいた。ふたりが見つめる中、白い小鳥はアネッサの手を離れるとあっという間に闇夜に消えた。


「鳥の姿をとって飛んでいく手紙なんだよ。もしあたしが来たら最優先で乗船できるように話が通ってたみたいだから、その礼文。おかげで明日クラレットに入れる」

「……アネッサさんがメリアントに来るのがわかってたってことですよね、すごい……」

「そうだね。あたしもびっくりした」


 アデレードがそっと隣を仰ぐとそれに合わせたようにアネッサも振り向いた。


「アデレードたちに会えて良かったよ。定期船のことを知れたし、お勧めの魚も美味しかった」

「提案したのはアッシュだからわたしは何も……。でもここまでご一緒できてわたしも楽しかったです。もっと一緒にいたかったくらい」


 そのとき湖からの風が通り過ぎた。思案げに小首を傾げたアネッサは次の瞬間どこか企みを含んだ楽しげな色を瞳に滲ませた。


「ねえ、もし眠れないんだったらちょっと話す? 『これも何かの縁だから』」


 どこか聞き覚えがあると思ったら昼間弟の使った文句だ。数拍遅れてこっくり頷くとアネッサは有無を言わせずアデレードの手を取った。

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