4.蕾は薄明に微睡む

「ウィルトールの中のわたしはいつまでも子どもなのよ」

-1-

「……アディ?」


 温かくて、耳に心地好くて、柔らかな低音が遠慮がちにわたしの名を呼ぶ。

 寝てるのかと問う声音は、少し呆れていて。

 でも、その顔がすぐに微苦笑を浮かべることをわたしは知っている。仕方ないなって許してくれることも。

 だから、わたしの口許が思わず緩んでしまうのも仕方のないこと。

 髪を撫でてくれる手のひらはどこまでも優しく、頬や目許を掠めていく熱はくすぐったい。


 ──しあわせなひととき。


 心に浮かんだ言葉をゆっくりと反芻する。それはまさに今この瞬間のことを指すに違いない。




 そよ風に促されてうっとりと瞼を持ち上げる。アデレードの目に真っ先に飛び込んできたのは、柔らかな緑の上に広がる己のワンピースドレスだった。スカートのそこここで踊っている木漏れ日が実に眩しい。

 アデレードは眉を顰めた。何やら違和感を覚えた。やおら居住まいを正し、まじまじとワンピースを眺める。

 袖と裾にお揃いのレースがあしらわれているワンピース。歩くたびに幾重ものレースがひらひら揺れるところが何より気に入っていた。可愛い。腰のところできゅっと結ばれているリボンも、アデレードの後ろ姿をより可憐に愛らしく演出してくれているはずだ。そして、絞った腰からふんわり広がるスカートは女の子なら誰もが憧れ絶賛するだろう絶妙なラインだ。可愛い。とてつもなく可愛い。

 これは次にウィルトールに会うときに着ていこう。確かそう決めた。そのワンピースを今着ていて、視線を僅かに上げてみれば見覚えのある庭園がある。だからここはウィンザール邸に間違いない。問題はいつからこの木陰で寝ていたかで──。


「起きた?」


 梢がさわさわ鳴るのを遮って、馴染みのある低音が降ってきた。振り仰げばそこにあったのはよく見知った顔だった。長い睫毛に優しげな目許、スッと通った鼻梁。口許には穏やかな微笑が浮かび、肩口で結われた滑らかな蜂蜜色の髪は木漏れ日を弾いている。いつもいつでも眺めていたい青藍の瞳──そこに自分を映してほしくて、でもいざ視線が絡むと途端に逸らしたくなる──そんな矛盾を覚えずにはいられない藍色が、アデレードの予想以上に間近にあった。


 目を見張る。声にならない声を上げ、慌てて彼と間合いを取った。

 疑問符だらけの頭で必死に状況把握に努めた結果、ようやく〝お茶のあとに読書に出てきた〟という事実をアデレードは思い出した。お茶の席での話から読書の重要性を説かれ、「天気がいいから外に出ないか?」という誘いを受けたのだ。

 そうして見てみれば青年の膝の上には分厚い本が、またアデレードが読んでいたはずの本はいつの間にか栞を挟まれ、己の脇に場所を移していた。

 少女の態度に始めこそきょとんとしていた彼ウィルトールは、やがてくすくす笑みを零した。もしかしなくても自分のおかした失態を笑われているのだと思うとアデレードは言葉もない。


「……ご、ごめんなさい!」


 謝罪を口にするだけで精一杯だった。大好きな人と一緒にいるときに、あろうことか眠りこけてしまうとは。そのうえ彼の肩に寄り掛かっていたようだ。失礼にも程がある。

 今すぐに地中深くまで穴を掘り、そのまま埋まってしまいたい衝動に駆られた。だがこう思うのももう何度目のことなのか。

 気にしてないよと笑ってウィルトールは本を閉じた。何かに想いを馳せるような穏やかな眼差しで梢を見上げる。


「ここには眠りの魔法でもかかってるのかもしれないな。昔から、アディだけじゃなくてさ、──」


 微笑みとともに続けられた台詞は、やがてアデレードを奈落の底に突き落とした。





 * *






「珍しいわね、アデレードがそういうのを選ぶなんて」


 のんびりかけられた丸い声にハッと我に返った。途端にアデレードの耳がまわりの雑多な音を拾い出す。

 いつの間に隣に来たのか、亜麻色の髪の少女がおっとりと、且つ興味深そうにアデレードの手元を見つめていた。慌てて口許に弧を描き、アデレードはそそくさとネックレスを陳列棚に戻した。


「そうかしら」

「アデレードって、どちらかというと可愛い感じのものが好きじゃない? 花柄とか、パステルカラーのものとか。でもは色も暗い青と銀の二色でしょう。なんだか大人っぽい感じ」

「いつまでも子どもじゃないもの。エレムだってそうでしょ? 結婚を控えているのはどこのどなただったかしら」

「……そうね、もう十八になるんだものね私たち」

「そうよ、大人の仲間入りよ」


 澄ました顔で言葉を返す。一拍置いて少女たちはくすくすと笑い出した。




 大通りに面した雑貨店にアデレードたちはいた。冷やかすつもりで入ったのがふたりとも予想外に魅力的な品を見つけ、友人の方はあっさり購入することにしたらしい。

 彼女の支払いを待つ間、アデレードはアクセサリーの陳列棚に目を落とした。

 幾つもの藍色の石を銀の鎖で繋ぎ止めたネックレス。一見白色に見えるシェル製のペンダントトップは傾きの角度によって虹色に煌めく。シェルの表面に彫られた可憐な花の絵や、藍の石の合間に連なる小さな四つ葉だけ見れば可愛い一品なのだが、全体的な雰囲気は先ほど指摘されたように大人っぽい。

 再びそうっと手に取った。鎖が、しゃら、と軽い音を立てる。アデレードにとって何よりも重要なのは石の色だった。


(ウィルトールの色だわ……)


 夜明け前の空を思わせる澄んだ青藍色。この色はどうしても大好きなあの人を、いつも微笑みとともに向けてくれる彼の優しい双眸を連想し、つい結びつけてしまう。これまであまり身に着けたことのない色の装飾品なのに、ただ〝同じ色である〟という事実がアデレードの心を捕らえて離さない。

 再来月には十八歳。一般的に成人したと見なされるとしだ。

 とはいえ明確に何かが変わったり、嬉しいことがあるわけでもない。アデレードにとって大事なのは、毎年誕生日を迎えてからの二ヶ月間はウィルトールと六歳差になるというその一点のみなのだった。すぐ七歳差に戻ってしまうとしても彼に近づけることに変わりはない。だからこそ大人っぽい格好や服飾品をちゃんと自分のものにし、もっともっと彼に近づきたい。今は言うなれば〝背伸び強化月間〟だ。

 実際このネックレスを身につけたならウィルトールはどんな言葉をかけてくれるだろう。似合うと思ってくれるだろうか。


(……でもこれじゃあけてるだけで『あなたが好きです』って言ってるようなものよね。勘のいいウィルトールのことだもの。気づかれたら恥ずかしいどころじゃないわ……)


 断腸の思いでネックレスを戻した。そして小さく嘆息する。こういうときは即断即決のエレムが羨ましい。

 自他ともに認めるお転婆で快活なアデレードと、のんびりおっとりしているエレム。ふたり並ぶとアデレードの方がいかにも主導権を握っているように見えて、実際に決断力があるのはエレムの方だ。





「それ、気になる?」


 突然耳朶を打った低音、それも想像以上に近いところから聞こえた声にアデレードは驚いて飛び退いた。息を呑んで、隣に立っていた人物をまじまじと確かめる。


「ウィルトール! どうしてここに……!?」

「通りかかったら、君が見えたから」


 軽く小首を傾げて青年が背後を指し示す。店の出入口からも、そばの大きな窓の向こうにも、往来を行くたくさんの通行人の姿が見える。店内からよくわかるということは、外からも中の様子がよく見えているということだ。

 いつから見られていたのだろう。まさか未練がましく見つめていたところも見られていたのだとしたら。顔が熱を帯びるのを感じ、アデレードはそれとなく自身の両頬をぴたぴた押さえる。


「意外だな」

「……え?」

「アディは明るい色が好きなんだと思ってた。そうだな……こういうの」


 ウィルトールが指したのは緑を基調とした微妙に色の異なる石を、目の細かい金の鎖で繋ぎ止めたネックレスだった。花を三つ並べた形のトップがついていて、文句なしに可愛い。


「それも嫌いじゃないけど……。わたし、もうすぐ十八になるのよ」


 既視感のある台詞を述べて軽く唇を尖らせる。その仕草がそもそも子どもっぽいことに本人は全く気づいていない。

 勿体ぶった言い方をしてはみたが、ウィルトールの示したネックレスは確かにアデレードの好みだった。趣味をわかってくれているのは嬉しいけれど、ただこれが子ども扱いされているということであればなんとも複雑な思いがする。

 拳を己の口に当て、ふうんと藍色のネックレスを熱心に見つめるウィルトール。その横顔を見ていると急に恥ずかしくなってきて、アデレードは青年の腕を引っ張った。


「もういいじゃない、外に出ましょ」

「アデレード、お待たせ。……あら、どなた?」


 エレムが戻ってきた。彼女は突如現れたウィルトールにきょとんと目を瞬かせている。




 三人はとりあえず店を出た。往来の邪魔にならない場所までくるとアデレードは二人の間に立ち、あらためて口を開いた。


「わたしの親友のエレムよ。同い年で、前に住んでた街メリアントで仲良しだったの。……エレム、こちらはウィルトール。ほら、わたしがメリアントに来る前はクラレットにいたと言ったでしょう。ウィルトールもその頃クラレットに住んでいて、よく一緒に遊んだの」


 始めの部分をウィルトールに、後半をエレムに向かって告げる。エレムはアデレードの説明を聞いて、ああと理解が及んだようだ。

 簡単な挨拶を交わした後、ウィルトールが振り向いた。


「今日は二人?」

「ええ、エレムと会うのは久しぶりだから、買い物とお茶を楽しもうと思って」

「ウィルトールさんも、宜しければご一緒に如何でしょう? これも何かのご縁と存じます。この先に美味しいケーキを提供する店があるそうなので、これから向かうのですけど」


 突然申し出たエレムにアデレードは目を剥いた。

 考えてみればウィルトールと街を散策したことは一度もない。会うのはいつも決まってウィンザールのお屋敷。お茶をしながらお喋りをして、それで終わりだ。時折帰りの馬車に乗ってきてくれることもあるけれど、時間にすればあっという間のこと。それに薄暗い車内で向かい合って座るのはなんとなく緊張する。結果、何の会話もなく別れることも少なくない。

 先ほど雑貨店でネックレスを前に言葉を交わしたあれはまるでデートのようだと、今更ながらに胸が高鳴った。その上この後も共に行動できるかもしれず、降って湧いた幸運につい口許が緩みそうになる。

 けれど期待はすぐに打ち砕かれた。ウィルトールが「せっかくだけど」と申し訳なさそうな笑みを刻んでいた。


「馬車を待たせてるんだ。どうしても外せない用があって」

「そうですか。ではまたの機会があれば」

「そうだ、その旨いケーキ、今度アディが再現して」

「えっ、わたし? ……同じように作れるかしら」


 自信なさげに呟くと、大丈夫だよとウィルトールが目を細めた。初夏の陽射しの下、さらと揺れる金色の髪が眩しい。どぎまぎしながらアデレードが首肯すれば、青年はふっと破顔した。


「本当は、一人だったら家まで送ろうかと、それで声を掛けたんだ。フィルさんも心配するから、あまり遅くならないように」


 む、とアデレードは唇を引き結ぶ。そんな少女の肩をぽんぽんと撫で、ウィルトールは通りの向こうへ歩いていった。





 * *





 楽しげに交わされる人々の笑い声と、食器の重なり合う音。今評判の店とあって店内は客で溢れ、なかなか賑やかなようだった。とは言え、木漏れ日の射すテラス席の方は掃き出し窓を一枚隔てているお陰で幾分静かに感じられる。

 瑞々しい風が吹き抜けた。ふんわり漂うハーブティーの香りを楽しみながら、アデレードは皿に盛られた色とりどりの一口ケーキを眺めていた。どれから食べようか少し迷って、固い生クリームにベリーの乗った見た目にも可愛い一品を口に運ぶ。


「ウィルトールさんって、とても素敵なかたね」


 突然振られた話題にアデレードが咳き込んだ。本来入ってはならないところにクリームが迷いこんでしまったようだ。そんな少女をよそに、エレムはゆったりと微笑みかけた。


「いつも話していたの、あのかたでしょう? アデレードが夢中になるのもわかると思って」

「む、夢中、なんて、そんな……」

「だって。どうしても外せない用事があるのに、アデレードのために止まって声をかけてくださったのでしょ? なかなかできないことだわ」

「それは……きっと、わたしが頼りないからよ」


 そうなの? と小首を傾げるエレムを前に、アデレードは八の字を寄せてハーブティーを啜る。すっきりした清涼感の残るそれは少しぬるい。

 ウィルトールがわざわざ馬車を降りて声をかけてくれたこと自体は純粋に嬉しかった。けれど、彼の一番伝えたかったことが「早く帰れ」では、会えた喜びも半減するというものだ。


「まるで保護者なんだもの。どうせウィルトールから見れば子どもっぽいのだと思うわ。この間フォーチュンクッキーを作ったときもね、」

「まあ! もしかして、私が手紙に書いたあれ?」


 すっとんきょうな声を上げたエレムにアデレードはそれよと唇を尖らせた。エレムの手紙にとして書かれていたので、アデレードも期待を寄せて試してみたのである。

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