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 生地の中にを書いた紙片をひとつずつ忍ばせて焼くフォーチュンクッキーは、食べる際にその内容に一喜一憂する遊び心満載のお菓子である。

 本来運勢を書いて入れるそれをエレムはほんの悪戯心でアレンジした。未来の夫となるその人へ、短い恋文をしたためたフォーチュンクッキーを贈ったらしい。結果は上々、ますます仲が深まったと手紙には綴られていた。


「わたしはさすがにエレムみたいには書けなかったから、それっぽい感じの文章をたくさん考えたの。〝恋が始まる〟とかそういうのを……。そうしたら」


 ウィルトールがクッキーを口にする。ぱりんと半分に割れた中から小さく折り畳まれた紙片が出てきて、その時点では彼は確かに微苦笑を浮かべていた。

 それが内容をあらためるうちに青年の眉間には皺が刻まれていった。一体どの文句を引き当てたのか、もしかして気に障る内容だったのかしらとアデレードがドキドキしているとウィルトールは溜息をつきながら問題の紙片を差し出してきたのだった。渋い面持ちで、「ここ、誤字スペルミス」という言葉とともに。


「スペルミス?」


 目を丸くするエレムにアデレードは項垂れたままこくりと頷く。正直こうして話すことも、思い返すことさえも恥ずかしい。


「……それでね、普段からもっと活字に慣れるべきだってお説教が始まって、今から読書しようって流れになったの。天気がいいから外に出ようかって」


 アデレードはウィルトールの後をとぼとぼついていった。気持ちのいいそよ風の吹く木陰に座り、めいめいに本を開いた。悄気込しょげこんでいた気分は初夏の風と木漏れ日に癒され、緩やかに穏やかに宥められていった。

 と、ここまではちゃんとはっきり覚えている。問題はその後だった。どうやらアデレードは本を読むうちに寝入ってしまったらしい。

 彼にもたれて寝ていた失態、そして無慈悲に告げられた台詞はアデレードを打ちのめし、眼前が真っ暗になった思いがした。


「昔から、アディだけじゃなくてさ。みんなここに来ると寝ちゃうんだ。とても気持ち良さそうにね」


 ウィルトールは終始笑みを崩さなかった。

 けれど一緒にいる相手に寝られて面白いわけがないだろう。もしかしたら「大口開けて寝ていたよ」というあの言葉自体、遠回しな嫌味だったのではと勘繰ってしまう。──もちろん、そんなことを言う人ではないとわかっているけれど。

 本当にふわふわとおめでたい頭だと思う。だから呑気にあんなまで見るのだ。


「さっきだって早く帰れとかどこに行くのかとか、もしかするとわたしが出歩くことすらあまりよく思っていないのかも」

「それだけ心を砕いてくださっているということじゃない?」

「ウィルトールの中のわたしはいつまでも子どもなのよ」


 そう口に出して、アデレードはますます落ち込んだ。自分で言って自分でショックを受けているのだから救いようがない。

 エレムは人差し指を口許にやり、うーんと宙を仰ぐ。初歩的なことを聞いていいかしらと前置きしてから身を乗り出した。


「ウィルトールさんって、お独りなのよね? ……どなたか心に決めたおかたでもいらっしゃるのかしら」

「……心に決めた?」

「何故お独りでいるのかということよ。お家柄も悪いわけではないし、縁談のお話だってきっと山のようにあるでしょう?」

「縁談は、今のところはないみたい。来ても受けるつもりはないって」

「でも、こればかりはね……。幾ら本人がそのつもりでも、ままならないことだってあるわけだし」


 エレムの言葉はアデレードの記憶の中から違う事実を呼び覚まし、すぐに返事をすることが出来なかった。たっぷり間をおいてから、遠慮がちに囁く。


……?」


 エレムは丸い瞳を束の間見開き、やがてゆるゆると和ませた。


「……今となっては感謝してる。とっても良いおかたなのよ。お互いに一目で気に入って……〝ご縁〟ってこういうことなのね」


 微笑を浮かべ、しみじみと答える友人の姿に嘘偽りは感じられなかった。だからアデレードも心からの笑みを返せた。


「幸せにならなきゃだめよ、エレム」

「ありがとう。アデレードもよ。あんなに素敵な幼馴染がいるんだもの。少し、羨ましい」

「……良いことばかりじゃないわ。小さい頃からの全てを知られているし」

「じゃあもう怖いものなしね。大人になったところも少しずつ見せていって、どきっとさせられたらこっちのものよ」


 澄まし顔で平然と言ってのけたエレムに今度はアデレードが目を丸くする番だった。友人は花が綻ぶように微笑んで、優雅にカップに口を付けた。





 * *





 お茶を済ませ、更に二軒ほどお店を見てまわったあと、馬車に乗り込むエレムをアデレードは見送った。エレムからも「家まで送る」と申し出があったが、寄りたい場所があると言って断った。

 そうして向かったのは昼に立ち寄ったあの雑貨店だ。店に飛び込み、再び出てきたアデレードの手には小さな包みが増えていた。


(どちらも買っちゃったわ……)


 憧れの色のネックレスと、予想外に勧められたものと。……どちらかひとつだけとは、とても選べなかった。

 薄暮の風に誘われ空を見上げればすっかり夜の色が広がっていた。頭上には澄んだ藍色を背に数多の星々が煌めいている。

 親友と交わした楽しい会話を思い返しながらアデレードは家路を急いだ。




 浮かれた気持ちのまま辿り着いた家の前に、立派な馬車が停まっていた。父の邸ならまだしも母と住んでいるここに、一体どんな客が来ているのか。

 訝しげに視線を投げるとエントランスにはふたりの人影があった。ひとりは弟のアッシュ、そしてもうひとりは後ろ姿だ。背格好からして男性であり、エントランスの灯りを受けて輝く滑らかな金の髪が目に留まる。

 不意にふたりがこちらを向き、アデレードの心臓が跳ねた。思わず物陰に隠れたがどうやらこちらに気付いたわけではないようだった。そろそろと投げた視線の先で、ふたり──アッシュとウィルトールは何か話し込んでいる。その横顔はふたりとも今まで見たことのないような真剣さそのもの。


 ──ウィルトールの〝どうしても外せない用〟とは、弟とのものだったのだろうか。それなら昼間会ったときにそう言ってくれればよかったのに。


 アッシュが家に入った。ウィルトールはエントランスを離れ馬車の方へと歩いていく。帰ってしまうのかもしれない、そう思ったときには一歩前に踏み出していた。


「ウィルトール!」


 背中に声をかけて駆け寄る。振り向いた青年が一瞬息を呑んだのがアデレードには見えた気がした。ウィルトールの纏う空気にどこか違和を感じたものの、それが何かを考える間もなく両肩を掴まれ、顔を覗き込まれていた。


「アディ! 無事か!?」

「え、ぶじ……?」

「早く帰るよう言っただろう? あの子は一緒じゃなかったのか」


 ウィルトールは少女を上から下までつぶさに観察する。青年の反応に気圧されながらも、アデレードは僅かに反抗心を滲ませた目で見返した。


「さっきまで一緒だったわ。でもエレムは南の街に向かったの。旦那さまになる人がそこで待ってるって、それで馬車に──」


 突如吐かれた溜息がアデレードの言い訳をそこで止めさせた。青年の顔には苛立ちとも呆れともつかない色が漂っている。

 アデレードは眉を顰めた。


「怒ってるの?」

「……怒ってないよ」

「うそ、怒ってる。そんなに怒らなくったっていいじゃない。まだ遅い時間でもないし……子ども扱いはやめてって言ってるのに」


 肩に置かれていたウィルトールの手を振り払い、アデレードはそっぽを向いた。

 楽しかった気持ちはすっかり萎んでしまった。面白くない。買ったものも、自分の想いも、全てが無意味で薄っぺらく感じる。

 どうしていつもこうなのだろう。寄り添いたいのに、こんなに想っているのに、彼を求めて伸ばした手は物の見事にかわされてしまう。想いを受け止めることさえしてもらえない。


「……きみが言うのか」


 突如耳朶を打った低い声音にハッと意識を戻した。次の瞬間には肩を引っ張られ、身体ごと青年の方に向けさせられていた。頬に伸びてきた彼の手がアデレードの顔を持ち上げ、真正面から藍の双眸に捕らえられる。いつも己の姿を映していてほしいと願ってやまない深い藍色。そこに宿っているのは今まで見たこともない、刃のような鋭さ。

 アデレードの背筋が震え、息が止まった。胸の前で合わせた手の中で包みがくしゃりと音をたてる。


「本当にいいの?」

「……な……なに、が」


 ウィルトールの瞳が迫ってくる。彼の前髪がアデレードの額をくすぐる。ふたりの間には吐息が絡むほどの距離しかない。後ずさりたくても青年の手がそれを許さない。


「――やめてもいいの?」


 静かに紡がれた語に心臓が大きく跳ねる。アデレードが目を見開くのと、場にそぐわないのんびりした声が掛けられたのとはほぼ同時だった。


「ウィルトールさん、どうぞ。……あれ、姉さん? 帰ってたんですか?」


 ウィルトールの肩越しに弟の姿が見えた。その一瞬で青年の表情が揺らいだ。瞳に宿っていた燃えるような激情は瞬く間に消えて、縛めは呆気なく解かれた。ウィルトールはそのまま踵を返すとアッシュのいるエントランスへと歩いていった。




 ふたりが家の中に入ってからもアデレードは動けず、その場に立ち竦んでいた。


「……姉さん?」


 しばらくしてアッシュが顔を出した。一向に入ってこない姉を訝しみつつ手招きしている。やや時を置いてから重い足取りでのろのろ向かえば、弟は呆れた顔で腕組みをしていた。


「入らないなら閉めますよ」

「……ウィルトール、は……?」

「今、母さんと話をしてます。……何かあったんですか?」

「どうしよう……怒らせちゃったわ」


 声に出すと急に現実味を帯びてきてアデレードは口許を押さえた。じわりと涙が滲み、息が震えるのを唇を噛んで必死に抑える。


 ──怖かった。


 これまで何度も怒られ注意もされてきたが、今日みたいに激しい感情を向けられたのは初めてだった。彼のことを怖いと思うのも。


「……何を言ったか知りませんけど……。甘えるのも大概にした方がいいですよ」

「甘えてなんか……」

「ウィルトールさん、今日は朝からあちこち飛び回ってたそうですね。あー……何か予期しないことが起きたみたいで。このうえ姉さんの我儘まで全部聞いていたら倒れてしまうんじゃないですか? ……姉さん、聞いてます?」


 アッシュの言葉がすり抜けていく。弟にまで甘えすぎだ我儘だと指摘されると立場がない。情けない。

 熱い雫がひとつ零れて頬を滑り落ちた。拭おうとして、アデレードは手の中にある包みに気がついた。そこに籠る虚しい想いにも。

 どんなに外見を装ったって意味がないのだ。彼と釣り合いたいのならまず内面から大人にならねば。

 そう思う一方で、アデレードには『本当に?』という声が聞こえた気がした。次いで、『違う』という声も。

 突きつけられた強い言葉がいつまでも耳に残り、頭の中をぐるぐる回っていた。その意味が、心の奥に染み込んでいく。


 やめていいのか。

 子ども扱いを。昔からのよしみで付き合ってやっているのを。

 ──全てを。


 内面がどうとか、そういうことはもはや重要ではない。今さらアデレードがどう取り繕いどう努力したところで、彼の隣にはいけないのだ。

 海の潮が引いていくように、身体中の熱がすうっと奪われどこかに消えていく。代わりに絶望にも似た思いが胸の内に冷たく広がっていった。




 奥から母とウィルトールが姿を見せた。アデレードが明らかに赤い目をしているのがわかるはずなのに母は何も言わず、少し離れた場所からこちらを見ている。


「──ごめん」


 近づいてきた青年の静かな声が降ってきて、思わず肩を震わせた。目を合わせるのが怖くて顔を上げられない。


「……さっきは言い過ぎた。ごめん、悪かった」


 ウィルトールらしくない、抑揚のない声だった。何か言うことすら恐ろしくて黙っていると、しばらくして青年の気配が離れた。アデレードが振り仰いだときにはもう背を向けられ、どんどん離れていく。その背中は近いようで、遠い。アッシュと挨拶を交わし、エントランスの向こうへ消えていく。

 このままでいいの、ともうひとりの自分が囁いた。このまま別れてしまったら彼は本当に手の届かない場所へ行ってしまうのではないの、と。


「待って!」


 衝動的に声を投げていた。夕闇の中、振り返る青年の目が小さく見開かれる。蜂蜜色の髪がさらりと肩口を滑るのがやけにゆっくりと視界に映り込んだ。

 飛び出して駆け寄って、見上げる。両手の中にあるネックレスの存在を確かめながら、ともすると怯みそうになる心を叱咤した。


「……わたし、ウィルトールに甘えてた。いつも勝手なこと言ってた……。ウィルトールは迷惑かもしれないけど、でも、やなの。お願いやめないで……」


 止まったはずの涙が再び盛り上がる。ぼやける視界で、それでもなんとか彼の姿を捉えるべく必死に見つめる。

 好きなのだ。

 怒られても怖くても、妹にしか見られてなくてもやっぱり想いは止められない。好き。ウィルトールのそばにいたい。


 ──彼が自分の知らない場所で、自分の知らない誰かに微笑みかけるなんて、そんな未来は耐えられない。




 長い長い一瞬が過ぎた。ウィルトールの顔付きからは何の感情も読み取れなかった。もしかしたらまた我儘を言ってしまったのかもしれない。アデレードの視線は自然と落ちていく。


「──なかなおり」


 夜風に紛れそうなほど小さな囁きが、静かに耳朶に響いた。


「……え?」

「仲直り、しようか?」


 扉から漏れる光に照らされた青年の顔はどこか憂いを帯びて見える。けれど彼の口の端は僅かながらも上向きに、青藍の瞳には柔らかな光が確かに浮かんでいた。それがアデレードには本当に救いで、嬉しくて。


 ──だってこれはいつもわたしに見せてくれる、わたしの大好きな顔。


 これからもそばにいていいのだと、安堵した途端にアデレードの足から力が抜けた。変わらないやり取りがこんなに嬉しいものだったなんて。


「……アディ?」


 座りこんでしまった少女の前にウィルトールも膝をついた。大丈夫か、と問う穏やかな声にアデレードは小さく頷く。




 そのときアデレードの胸にするりと、あることが思い浮かんだ。その瞬間からアデレードはまるで何かに取り憑かれたようにそれしか考えられなくなった。


「ねえ……、わたしもクラレットに行きたい」

「……え?」


 ウィルトールが怪訝そうに眉根を寄せる。

 クラレットの街で開かれるウィンザール家の婚約パーティー。ウィルトールも前後数日は向こうに行くと言っていたそれが再来月に迫っていた。

 婚約パーティーを「またとない良き出会いの場」だとほくそ笑んでいた父の顔が脳裏をよぎった。気の進まない縁談だったにもかかわらず「一目で恋に落ちた」と微笑むエレムの顔も。


「お兄さまの婚約のお披露目会に……わたしも行っちゃ、だめ……?」


 宵の風がふたりの間を吹き抜けた。青年の、夜空と同じ色をしたその双眸をアデレードはただまっすぐに見つめた。

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