十六、その後の話
クライアントへの結果報告で全てが終了するわけではない。もしもクライアントの要望があれば、弁護士の紹介をするなどのアフターケアの様なこともする。加えて、会社に対する案件終了報告書も提出しなければならない。これらが終わって漸く一つの案件が終わる。
これらから解放されると待っているのが代休である。探偵とは言え、サラリーマンという立場上、会社側もコンプライアンスにはうるさい。案件に携わっている間の返上した休暇をここで取り戻す。そうした理由で相馬は、この日、遅い朝を自宅で迎えた。
自分が思っているよりも体が疲れていたのか、時刻を知って驚いた。普通のサラリーマンであれば始業している時間である。寝ぼけていた為、一瞬背筋が凍らせたが、休みだと思い直して安堵した。兎にも角にも一日を始める動作として、テレビのリモコンを手に取った。
「次は、麻薬密売組織が一斉検挙された話題です」
テレビの中の女性アナウンサーの言う聞き覚えがあるワードが相馬の意識を吸い寄せられた。
そのニュースは、やはりコウキこと本名・堀田晋平と矢神姫子の逮捕を伝える物であった。他、十三名の逮捕者も伝えられた。過去の麻薬による逮捕者の実例を基にして、彼らの犯行手口も伝えられた。まず、出会い系と言われる交流サイトと知り合うところから犯行は、始まる。やり取りを繰り返していくうちに仲を深める。この時には、麻薬の話題など一切出さない。やがて、仲を深めると会おうということになる。そして、相手にもよるが、一回から三、四回目の逢瀬でホテルへ向かう。その場で初めて麻薬の話をする。最初は、少量を無料で分け与え、やがて常習者に仕立て上げて、金を搾り取るのだという。
ここからは、その後の警察の捜査で分かったことであるが、この組織の温床となっていたのは、矢神姫子の経営していた会社及び店舗であった。つまり、従業員の一部にもこの犯罪組織の片棒を担いでいた人間がいたわけである。
相馬が一番に心配したのは、手賀沼秀尊の事が報道されてしまう事であったが、事例の一つとして紹介されたが、どのチャンネルにおいてもA氏という仮称であった。或はネット上において名前が晒されてしまう危険性は否めないが、一先ず安堵した。
テレビニュースでのそのトピックスが終わると、気だるい体を重力に逆らわせて、起き上がった。特に出かける予定もなかったが、外に出ても恥ずかしくない程度のラフな格好に着替えた。思えば、私服に袖を通したのは随分と久しぶりである。案件に携わっている間は、ワイシャツにスラックスと部屋着の繰り返しだった。
家を出た相馬は、近場のコンビニエンスストアに立ち寄ると、三紙ほど朝刊を買って最寄りの千歳烏山駅方面へ歩いて行った。駅前の商店街にある喫茶店に入ると、コーヒーと朝食代わりのホットドックを注文して、着席した。自分が関わった案件がこうして全国紙の活字になると、不謹慎ではあるが感慨深いものがあった。
どの紙面も似たり寄ったりの内容ではあったが、その中の一紙だけは、コウキこと堀田晋平と矢神姫子の人柄や生い立ちなどについて書き記されていた。その中の一文が相馬の目に飛び込んできた。
“堀田容疑者と矢神容疑者は、どちらも千葉の生まれであり、幼い頃からの知り合いであった”
矢神姫子は、東京生まれの東京育ちの筈である。情報調査課の小峰の話によれば、父である矢神豊一は、千葉の家を出て東京で商売を始めた。姫子は、その後に生まれている筈であり、千葉出身とされるのはおかしい。しかし、小峰の話をもう一度よく思い出して気が付いた。
相馬は、店を出るとポケットから慌ててスマートフォンを取り出した。すると、タイミング良く着信があった。増井からである。
「あ、もしもし」
「お疲れさま。今大丈夫?」
「僕も掛けようと思ってたんです」
相馬が慌ただしい口調であるのに対して、増井は実に落ち着いた口調であった。
「どうかしたの?」
「今、新聞読んでいたら、矢神姫子が千葉県出身って書いてあったんですよ」
「え?彼女は、東京出身の筈でしょ」
「それで思ったんですけど。もしかして、姫子は、豊一の実の娘じゃないと思ったんですよ」
「どういうこと?」
「つまりですね。豊一氏の弟と豊一氏の元恋人であった二人の間の子だということです。裏付けないので僕の勝手な推測ですけど」
「そういえば、豊一氏の弟さん夫婦は、早世していたわよね」
「ええ。だから身寄りのない姫子を養子に迎えて育てたんだと思います」
相馬の推測は、現実であった。これもまた、その後の矢神豊一への取材で分かることであるが、その場で矢神豊一はこう言った。
「私は、世間体を気にして姫子を引き取りはしたが、本当は裏切られた人間の子供など育てたくなかったんだ」
この発言を含めて、その取材の時に発した、諸々の言動が仇となり、矢神豊一は後日記者会見を開くこととなる。その場で自身のグループ会社から不祥事を起こしたことを陳謝し、その責任を取る形で自身の社長職解任を発表した。
「あ、すいません。一人で先走って話してしまいました。何か用ですか?」
相馬は、自分の考えを伝え終えると冷静になって気恥ずかしさを覚えた。
「あ、そうそう。実は、クライアント…。佐与子さんから手紙が来てて、相馬君にも知らせようと思って」
「あ、そうなんですか」
相馬は、落ち着きを取り戻すと、自宅への帰路を歩みながら電話を聞いていた。
「とりあえず、離婚はしないって書いてあったわよ」
「あー。そうなんですね。よかった」
相馬は安堵した。自分が一芝居打ってまで引き止めたかった。それは、佐与子を思ってというよりも、夫・秀尊を思ってである。彼は、佐与子と別れてしまっては、きっとこの先立ち直れないであろうと思っていた。
「ご主人の身柄が落ち着いたら、田舎に引っ越して二人でやり直すって書いてあった」
そう聞いて、それが良いと感じた。二人を出会わせてくれたのは、東京であったけれど、二人は、東京に馴染めていなかったのかもしれない。
「あ、そう言えば。長峰主任のお子さん、無事産まれたんですか?」
相馬は、手賀沼夫妻の話題から、ふと思い出して聞いた。
「あー。うまれたみたいよ」
増井の口調が一変して話題にするのも嫌そうなことが手に取るように分かった。
「でも、主任。結構いいお年ですよね」
「良いも何も、もうあと数年で定年よ?私の父とそんな変わらないのよ?それが、二十も若い嫁さんもらってデレデレしちゃってさ」
増井の中の怒りのスイッチを入れてしまったようである。相馬は、苦笑いを浮かべて聞いていた。
「ならあれですね。増井さんも結婚されたらいいんじゃないですか?」
相馬は、からかうように言った。
「あ、それセクハラよ」
相馬は、そんな返事を予想していたが、増井の返事は違っていた。
「するわよ」
たった一言なのに、相馬には理解できず、少し沈黙した。
「え?するんですか?」
「そう。実は、その事を話そうと思って電話したの」
「え?あ、もしかして。前島さん?」
「そうよ」
相馬は、驚いた。増井は嫌っているのかと思っていたが、どうやら思う所でもあったのか、プロポーズを受け入れたという。
「まぁ、人の修羅場ばかり見るのにも疲れちゃったしね。今年一杯で退職することにしたの」
「これはまた急なことで…。でも、おめでとうございます」
「ありがとう」
「まぁ、式には呼んでくださいよ」
相馬は、また笑って茶化した。
「ご祝儀たくさん包んでね。じゃあ、また連絡するわ」
増井との通話が終わると、丁度自宅マンションに着いた。
そのマンションを見上げると、青い空の背景が鮮やかに感じた。気が付けば蝉も鳴き始めている。もう夏なのだと感じた。先ほどまでずっとスマートフォンを充てていた耳が、俄かに熱くなっている。しかし、相馬の心の中にはもっと熱くめり込まれたような感覚が重々しくあった。もしかすると、失恋なのかもしれない。青年は、そう思った。
月給探偵の初仕事 土村昌郎 @kdmshr
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