十五、報告の続き
秀尊の悲痛にも近い訴えに誰もが言葉を失い、時を止めてしまったように静かな空間がそこにはあった。そこに一石を投じたのは、相馬であった。
「ここにいる誰もがわかってます。だから、安心してください」
「処分のために行っていた外泊がなくなったのは、どうしてなんですか?」
冷静な話し合いを続けようと、増井は穏やかな口調で尋ねた。
「警察に全て喋ると言ったんです。早くこの苦しみから解放されたくて、全部もう、失くしてもいいとさえ思ったんです」
先ほどの口調とは打って変わって、秀尊の喋り方は、大人にひどく咎められた子供のようにぼそぼそと落ち込んでいた。
「なぜ、その覚悟があったら。本当に警察に訴え出てくれなかったんですかぁ」
前島は呆れた様な口調で、秀尊に言葉をぶつけた。それに対して秀尊は、何も言葉を返せなかった。その代わりに相馬が口を開いた。
「前島さんが仰ることは正論です。正論ですが、人間誰もが正論だけで生きてはいけません」
相馬に言われずとも、前島にもそのようなことは分かっていた。わかっていたけれど、つい口に出してしまったのである。
「恐らく矢神姫子も危ない橋を渡ってきた人間ですから、それなりの対抗をしてきたことでしょう。奥さんや会社の話でご主人の良心を揺さぶってきたんだと思いますよ」
「その結果、両者が折れてご主人が金品を渡し、矢神姫子は麻薬を渡さないことになったということですか?」
増井の問いかけに、皆が秀尊を注視したが、俯いたまま答える気配は見られなかった。聞こえていないという事はないであろうが、どう答えてよいのかわからない様子である。あるいは、言葉を発する気力もないのかもしれない。
「恐らく、そんなところでしょう。と、まぁ以上の事から我々は、ご主人には浮気に関する不義理はなかったと判断しまして、この様な調査結果を出させていただきました」
「はぁ…」
相馬の言葉に佐与子は納得しきれない返答をした。納得するか否かの問題だけではなく、秀尊が麻薬がらみの事件に関わっていたという事実が受け止められないのかもしれない。
「本来であれば、ホテルの出入りまでしか我々としても調べようがないのですが、前島さんが捜査上で偶々証言を取ってくれましたので、よろしいですか?」
相馬に促されて、前島は手帳を取り出して紐の栞を挟んだページを開いた。
「えーっと、七月八日、渋谷のミラールージュ。同じく十二日、川崎のミルキーウェイ。同じく十五日、池袋のウェストパラダイスⅡの三か所で従業員に聞き取りしましたが、いずれもシャワーを使用した形跡、ベッドを使用した形跡がなかったそうです」
「まぁ、そういう利用者は、すくないでしょうからね。男女で利用して部屋の乱れが少なければ、ベッドメイキングされる方には印象として残るでしょうね」
相馬は、そう言うと一冊の冊子を佐与子の前に差し出した。その冊子にも『調査結果報告書』と書かれており、先ほど差し出された物と全く同じ表紙であった。ただ違うのは、先ほどの物よりもページ数が少しある。
「念のため、二冊の報告書をご用意いたしました。今お出しした物は、ご主人は不倫している結果として作成しております。ですが、二冊ともお渡しすることは出来ません。どちらか奥様が今ここでお決めください」
しばらくの沈黙が続いた。佐与子は、二冊の冊子をじっと眺めた。秀尊は、相変わらず項垂れている。他の者は、佐与子の動向に注目していた。やがて、スローモーション再生の様に佐与子の手がゆっくりと動き始めた。その手に視線が注がれる。佐与子の手が徐々に報告書に近付いて行く。まだ、どちらを手に取るかわからない。あと少しで手が届くという所でピタリと止まった。だが、誰も何も言わずにじっと見守っている。佐与子は、目を瞑り大きく息を吸い込むと、勢い良く一冊の報告書に手を置いた。最初に提出した報告書であった。秀尊は、不倫をしていないとする報告書である。
「わかりました。では、こちらの方は僕が処分します」
相馬は、選ばれなかった報告書を佐与子の視界から退けた。
「では、以上で我々からの報告は、終わらせていただきます。すいませんが、こちらにご署名をお願いいたします」
相馬は、増井から一枚の書類と一通の封筒を受け取ると、まずは書類を佐与子の前に置き、ボールペンを添えた。
「調査結果同意書です。お読みいただき、各項目にチェックを入れていただき、最後こちらにご署名をお願いします」
佐与子が記入を始めると、秀尊の体が震えているのが見えた。静かに泣いていた。自分の犯した罪の情けなさからなのか、佐与子に対する申し訳なさや有難さからなのかはわからない。
「どうぞ」
佐与子は記入を終えると、スッと書類とボールペンを相馬の方へとスライドさせた。
「ありがとうございます。では、こちらがご請求書になりますので、期日までにお振込みをお願いいたします」
そう言って、封筒を渡した。
「あの…。主人はどうなるんでしょうか?」
佐与子は、潤んだ瞳で相馬に訴えかける様に聞いた。
「んー。ちょっと専門外なので…。前島さんどうなんですか?」
「え?まぁ、書類送検は最低でも免れないだろう。裁判になっても背景が背景だから、執行猶予はつくんじゃないか?」
「だそうです」
「ありがとうございます」
佐与子もついに緊張の糸が切れたのか、泣き出した。
前島は、携帯電話を取り出すと短く何かを伝えてすぐに切った。そして、秀尊のすぐ傍へと寄った。
「それじゃ、行きましょう。ご同行をお願いします」
そう言われた秀尊は、項垂れたまま静かに立ち上がり、佐与子の顔を見ることなく部屋を立ち去ろうとした。
「待ってるから」
佐与子の言葉に歩みが止まった。佐与子は、立ち上がると秀尊の前に歩み寄った。目を真っ赤に腫らしている。
「待ってるから」
もう一度行った。そう言うと、秀尊の頬に大きなビンタを食らわした。そのまま何も言うことなく立ち去ってしまった。秀尊は、情けなく笑いながら、相馬と増井に一礼して、前島と共に部屋を出て行った。二人は、面食らって思わず顔を見合わせた。
最終報告を終えた二人は、会社に提出する報告書の取り纏めを増井のデスクで行っていた。もう陽は傾き出しており、すっかり外は暗くなっていた。
「結局、あのコウキって男と矢神姫子は何だったの?」
増井は、ふとした疑問を呟いた。
「コウキと矢神姫子は、幼馴染だったみたいですよ。まぁ、矢神姫子は、恋人だと思い込んでいたみたいですけど」
「でも、麻薬売るために体も売ってたんでしょ?考えられないわ」
「まぁ、尽くすタイプってやつなですかね」
「私には無理だわ」
「でしょうね。センパイは、尻に敷くタイプでしょうから」
増井は、眉間に皺を寄せて相馬を睨んだ。
「まあまあ。それよか面白い話があるですけど。聞きます?」
「聞きましょう」
「矢神姫子は、豊一氏の実の娘じゃないって話です」
「え?」
「豊一氏は、起業してからずっと東京に住んでいるんですが、コウキの実家は千葉の茂原のほうなんでよね」
「それがどうしたの?」
「いや、それなのに矢神姫子とコウキが幼馴染っておかしいじゃないですか。豊一氏には弟さんがいてその娘が姫子だったらしいんですよ。ただ弟さんもその奥さんも早くになくなってしまって、豊一氏が養子にしたらしいんです」
「なるほど。複雑ね。でもなんでそんなこと知ってるの?」
「ちょっとしたコネと駒をつかいました」
相馬は、楽しそうに笑った。
「あー」
増井は、何かを思い出した様で突然大きな声を出した。
「びっくりした。なんなんですか」
「相馬君いつの間にもう一冊の報告書作ったの?」
どうやら相馬は、増井には内緒で秀尊が不倫をしていたとする報告書を作成していた。
「あー。これですか」
増井の言う報告書を親指と人差し指でつまみながら揺らして見せた。
「そう。それ」
「どうぞ。読んでみてください」
増井は、そう言われて奪うようにその報告書を手に取ると、パラパラと捲って中身を確認した。しかし、表紙以外は白紙のダミーであった。
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