第五章 【錆の森】 STERILE
1
――森よ、森よ、偉大なる森よ。そなたは一体、何処より来たのか?
……その答えは、母なる海以外の解答を持たない。
G・T・グレムス 西暦2027年 ポントスの森
§§
「私は、オーキッド・アイネス。それ以外の、何者でもないのよ?」
私の前で黒曜石の瞳の彼は、
「―――――――」
何かを言って、笑った。
§§
「正直な話とか、していいですか?」
僕はのんびりと馬車を走らせながら、特に何か解決したわけでもないのに着いて来たクロウさん――気が付いたらそう呼んでいた――にそう言ってみた。
「構わない」
返答はいつも通りの簡素なもので。まあ、だから僕もそのまま口にしてみた。
「僕はクロウさんが嫌いです」
「…………」
「正確には、一切の感傷的な物言いを省いて包み隠さず正直に一片の嘘も偽りも無く言葉にすると――僕はクロウさんが大嫌いです」
「……嫌われた、ものだな」
「大嫌い、でした」
「…………」
僕は前を向いたまま言う。
「姉さんを傷つけたクロウさんが憎くて憎くて大っ嫌いでした」
一端言葉を切る。繋ぐ。
「死んだらいいとか思いましたし、バケモノとか罵りました」
「…………」
「怒りもありましたし、憎悪もありました。だけど、今は不思議と、そうでもないんです。寧ろ、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ。居てくれたほうがいいとか、思ってしまって」
「…………」
「ねぇ、クロウさん。きっと世界は、寂しがり屋な神様が創ったんです。人間は、多分大切な人と一緒じゃなきゃ生きていけないんです。それはきっと、どんなにすごい人でも同じで。だから、クロウさん」
僕は最後まで、漆黒色の彼を見らずに言った。
「早く、姉さんと仲直りしてください」
彼は。
「了解した」
やっぱり簡素に、そう言った。
§§
「…………」
そういう話を聴いている方の身にも為ってみなさいよ、と、思わなくもない私だった。
【クロサビ】との遭遇。
あれから三日が過ぎていた。
「…………」
クロウが眼を醒ましてから、あれ以来、私はろくに彼と話をしていない。何を言うまでも無く、私が彼を避けていたからだ。
「……私は、一体、何を」
妹ならばなんと言うだろうか。今の会話から考えれば、きっと、私らしくないなどと、そう思っているのだろうけど。
らしくない。そういえば確かに、らしくは無い。
必ず真実と向き合ってきたオーキッド・アイネスの振る舞いにしては、あまりに幼稚ではないか。
私は彼を避けている。
決意を持ちながら、それに拠って訪れてしまう終わりを恐れて。
……いや。彼ならばきっと、終わらせはしないはずだ。だけれど、私が望んでいれば、違う。自惚れや自己陶酔ではなくて、【浄歌士】としての本能が告げる。彼はきっと、私の願いならば叶えてくれる。でも、だとするならば……私は、彼と再び袂を別ちたいのだろうか?
違う道を行きながら、また重なったこの道を早急に斬り捨てて。
「…………」
それはあまり、快い考え方ではなくって。
「……ひどいひと」
意図しない言葉が漏れた。口元を押さえる気も湧かない。そのまま鬱屈として、小さく唸る。
「うー」
とてもではないけれど、クライアントや妹には見せられない極めて幼い素振り。本来の私なんてこんなものに過ぎない。
「……ああ」
そこまで思考が至ってようやく理解した。
どうやら私は、拗ねているらしい。
◎◎
「あなたはいつだって、遅いのよ」
遅過ぎる、わけではないけれど。
幌の向こう側へ。私はそんな言葉を、初めて荷台を訪れた黒色の彼へと投げた。
「……済まない」
「…………」
また謝らせてしまった。そんなつもりなど欠片もないのに。いや、にぶいこの人が悪いのだと、そう思うことにしよう。でないと、何か物に当たってしまいそうだから。
「それで? あなたはどうして、此処にいるのかしら、クロウ?」
「…………」
ヒナギ・クロウは、軽くノックをしてから幌の淵を持ち上げ、何を考えているのか理解し難い、ひょっとすれば困っているようにも見える表情で、私に向かって頭を垂れた。
「……なんのつもり?」
「……なんの、つもりなのだろうか。俺にも、全く分からない」
「…………」
「…………」
二人の間に、寒々とした風が吹いた気がした。
「こ、こほん」
咳払い。生まれて初めて、やる咳払い。
えーっと……。
「クロウ、もう一度尋ねるわ。あなたは、何をしにいらしたの?」
「……重ねて、よく分からない。恐らく、謝罪なのであろうとは思うのだが」
「…………」
「…………」
まさか、沈黙がこれほど寒々しいものだとは思いもしなかった。
「と言うよりも、いっそ恐怖すら覚えるわね」
「?」
「いえ、クロウ? 謝りに、来たのではないの?」
私は、少なくともそうだろうと踏んではいたのだけれど?
そう言うと彼は、頭を垂れたまま、首を傾げ言う。
「いや、それは確かなのだ。アイネスを傷つけ、妹君にもまた、危険が迫り」
「名前で呼んであげなさい。あの子、あなたに教えたのでしょう?」
「……ああ。エピネスにもアイネス、あなたにも危険を近づけた、それは護衛者にあるまじき無作法ではあるのだが」
「だが?」
「よくよく考えれば、その一件に関して俺は、護衛者ではなかったようなのだが」
「…………」
あー。
「そうね、そう、ね。確かにそれは、そうだけれど」
私が、平手を張っているのだし。道を違えていたのだから。
「謝罪は、適切のようで、何処か違う。俺は、何をすればいいのか、正直のところ全く分からない」
「…………」
私もたった今、似たような心境に陥ったと言ってやればこの目の前の男、さすがに少しは反省するだろうか。そんな思考が一瞬脳裏を過ぎり、仕方なく私は溜め息をつく。
「……ふぅ。ねえ、クロウ」
勤めて優しく、らしくなく、私は言葉を選んで、まだ頭も上げようとしない朴念仁に言葉を投げてみる。
「一言、仮にでもともかく謝れば、私の広い度量がそれを許すとは、そうは思わないのかしら……?」
「…………」
漆黒は。
「いや」
頑として首を横に振った。
「あなたは決して、それを許しはしないだろう。なあなあに事を放置しはしないだろう。恐らく俺が意図せぬまま謝罪を口にすれば、それこそを糾弾し、俺の今持つ想いはこれより先完全に届くことも無くなる。それだけは避けねばならないと愚考する」
「この……
「…………?」
どうしようもない。
いっそ今浮かべている表情を怒りか笑みかに傾ければいい加減この男でも分かるのかも知れないが。自身の鉄面皮が、こう言った場合に恨めしい。
「だけど」
そうね、一つだけ、聞けてよかったことも、あったもの。
「クロウ、あなたは今、想いを持っていると、そう言ったわね?」
「……ああ。確かにそう言った」
そう。
「そう。なら、クロウ。その想いを、口にしなさい」
「…………」
「迎合の理由も、決別の理由も見つけられないのなら、あなたはその想いを、素直に私にぶつけるしかない。違うかしら?」
「……いや」
――その通りだ。
彼は頷き、そしてようやく、顔を上げた。
黒色の瞳が、ようやくに私と出会う。
「綺麗ね」
澄んでいて、強くて、真っ直ぐで。まるで、
彼はその瞳で私を見て、そうして言った。
「アイネスと共に在りたい。一緒にいさせて欲しい」
「…………」
瞳を閉じる。少し上を向く。溢れる何かを、押し留める。
「馬鹿」
「馬鹿」
私はもう一度罵声を吐いて。
どうにか瞳を開いて笑って見せる。
そうして、こう返すのだ。
「私は、オーキッド・アイネス。それ以外の、何者でもないのよ?」
私の前で漆黒は、
「―――――――」
何かを言って、笑った。
「それで構わない」
「…………」
ディスライク。もう少し、言葉を選べ。バカ。
◎◎
「姉さーん、いい加減に馬車に乗ってよー」
間延びした妹の声が聞こえてくる。私は立ち止まって振り返り、表情も変えずに言う。ぶーたれた表情の妹は、辟易とした様子でシルヴィーの手綱を引いていた。
「お前は、姉が健康のために運動をしようという意向を無視するのですか。酷い妹ですね。姉に肥え太って死ねと言うのですか。酷い妹です」
「そんなこと一言も言ってないよー。大体姉さん幾ら食べても太らないでしょうー? ……胸以外」
「なにか言ったかしら?」
「うーうーん、ぜんぜーん」
「……人に見せない努力と言うものを、女はするものなのです」
「姉さんは【浄歌士】でしょう?」
「【浄歌士】は
「……詭弁だ。姉さんが詭弁を使い出した」
「やはり、酷い事を言いますね、お前は」
「酷いって、酷いのは姉さんでしょう? 何で僕まで馬車降りてシルヴィーの手綱牽いて歩いているのさ?」
「姉が歩いているのに妹が馬車に乗ると言うの?」
「だから姉さんも馬車に乗ってよ」
「全く、道理の通らないことばかり言う妹ね」
「どっちがだよぅ!」
「……ふむ」
見かねたのだろう、クロウが介入してきた。
「疲れたと言うのならば俺がエピネスを背負うと言うことも」
「却下するわ」
「どうして姉さんが即答するのさ!」
「どうしてって……どうしてかしら?」
「姉さん!」
「でもお前、クロウに背負われることに耐えられるの?」
「あ、えっと、それは、その……」
「まあ、お前は貧相だから」
「姉さんと比べないでよ! 年齢差があるでしょ!」
「なにお前、撚りにも拠って私を年増扱いするつもり?」
「いっ! ちが、違うよ姉さん? 僕は、姉さんは魅力的な身体つきをしている妙齢の女性だと言いたかっただけで!」
「あら、そう」
「う、うんそうだよ。そう。僕みたいなガキと姉さんじゃ違うって言いたかったんだよ」
「ふーん?」
それで?
「く、クロウさん、僕のことは、お気に為さらず……ぅぅ」
妹はダパーと滂沱の涙を流しながら、そう言った。
「よし」
私は満足して頷き、前に向き直る。
大分暫くして、
「アイネス。俺があなたを背負うと言う選択肢も――」
不届きな事を言い出した護衛には、足元の石を拾って投げつけて黙らせた。
◎◎
「ふう」
一息をつく。
「流石にこの辺りまでくると、見えてきたね」
妹がそう言った。私は首肯を返す。
まだまだかなりの距離はあるけれど、既にそれは見えてきていた。
幾本も幾本も重ねに重ねて立ち並び聳える、巨大な樹木の森――いいえ、そうではない。それは樹木であって樹木ではなく。
それこそはステリレ――【錆の森】。
そこに聳えるあらゆる巨木は、全て【錆】に拠って構築されている。
【ロクショウ】。
そんな名前の、特殊な【錆】。【錆の森】にしか存在しない、まるで植物のように振舞う【錆】の集合地。それが【ステリレ】。
「それで、姉さんどうするの? あの辺に見える色が違うところが【境界線】でしょ? そこ越えちゃったら【イブキ】の領域でしょうよ」
「そうね。本家……だけではないでしょうけれど【アービトレイター】がいるでしょうね。その護衛や侍従も大勢」
「世界を守っている人たちだ」
「性格は悪いのよ?」
「…………」
「何を疑いの眼差しを向けているのお前は」
「知り合い、どのくらいいるの?」
「十分の一、にも満たないでしょうね。それでも多いほうでしょう、モグリにすれば」
「知り合いが多くても話し合い、出来ないでしょう?」
「話し合いはできるわ。ただ、そうね。その話し合いの
「駄目じゃん」
「駄目じゃないわ」
「駄目でしょ?」
「駄目だわ」
私は妹から視線を外し、後方に控える漆黒へと向き直った。
「そういうことだから諦めましょう。私も物見遊山の心持でここまで同行しましたが、流石に【ザ・ライン】を越えてまで近づく事ができるほどの権力を有してはいません。あなたが何を思って【ステリレ】を訪れるのか、それがクロウの言う世界を救うということに必要なのかどうかも分かりませんが、これより先は【イブキ】の禁裏。限られた者しか進むことの許されぬ領域です。ですからクロウ、諦めてください」
「…………」
私の言葉を聞き、クロウはやや視線を落としたあと、また真っ直ぐに上げて、こう言った。表情は真剣だ。
「先に言ったが、アイネスやエピネスより聞いた件の
「そう。確かにその可能性は高いでしょうね」
私は頷く。クロウも頷きを返す。
「高い。そしてエピネス曰く、首領格の男は主が世界を統べるためにと言った」
妹が頷く。
「はい、そうです。確かにそう聴きました」
「それはつまり、世界を支配しようとしているものが【浄歌士】を攫っているということに為る」
「極論ではそうでしょう」
「確かに極論だ」
「極論は間違いである事が多いわ」
「そうだな。あなたの言うとおりだ。だが、恐らくは合っている」
「何故?」
「エピネスに対し首領格の男が言った言葉だ」
それは、世界を統べると言う例の――
「いや、そうではない」
「はい?」
違う? では、なに?
そんな疑問を抱くと、クロウは妹へと視線を転じた。
「エピネス」
「は、はい」
……何をどぎまぎしているのですかお前は?
「お前だけが目的ではない。その男は確かに、君にそう言ったのだな」
「え、えっと、はい。そう言ったと思います。で、でもそれはたぶん姉さんのことで」
「いや」
「違うん、ですか?」
「いや、無論その意味もあるはずだ。だが、何かもっと、大局的な意味合いがあるようにも感じられる」
「…………」
「重ねて無論、俺の取り越し苦労であれば幸いではあるが、しかしこの位置関係も、看過しかねる。位置的にあまりに【ステリレ】に近い。安全を確認するに越したことは無い」
「安全……クロウ、あなた何をするつもりなの?」
「……仕方があるまい。行くしかないか」
「…………」
私は額に手を当てた、クロウの。
「風邪を引いているわけではないが?」
「そのようですね。以前から思ってはいましたが、クロウは理知的でも決して慎重な判断をするタイプの人間ではないのですね……はぁ」
「何故溜め息をつくのだ?」
何故って。
「私の話をきちんと聴いていましたか? 私の権限では【ステリレ】に近づくことも出来ないのですよ?」
「分かっている。だから仕方が無いと言った」
「どうするつもりなんですか、クロウさん?」
口を挟んできた理解の遅い妹に、
「エピネス、決まっているでしょう。一体どう言う手段を執るのかは知りませんが――」
私は、深く溜め息をつきながらこう言った。
「この男は、単身【ステリレ】に潜入するつもりですよ」
「…………」
妹は、言葉を失った。
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