3

§§


「――――」


 漆黒の、十字教の牧師服に似た外套を纏いながら、彼はあの子へと視線を向ける。場違いに笑い出しそうになった。それはなんと言うか私の感性で説明してしまうととても柔らかく表現しても、【惚けている】、そんな表情だった。ただ、ふと我に返って思う。ひょっとすれば私自身も、同じような表情をいつかとっていたのかも知れない。そんな平和な思考ができるほどの余裕のようなものが、私に生じていた。理由は、分かる。例えそれを言葉に変えることはできずとも、私は、それを知っている。


 見上げる。


 彼はそこにいる。

 浮かべる表情は厳しく、凛々しい。

 漆黒の髪は激しい風に舞い、黒曜石の瞳は光りを燃やす。

 クロウ。

 ヒナギ・クロウ。

 他の誰でも無く、このひとが、私たちの窮地に此処にいる。

 決別したはずだった。

 もう二度と会わないはずだった。

 何の関係も無いはずだった。

 私も、彼も、同じくその思いを抱いていた。

 だけど、この人は此処にいる。

 此処にいて、私たちを守るように立っている。

 守護者。

 護衛。


 私たちを、守ってくれる!


 オーキッド・アイネスわたしはその事を、確信した。



§§



「BBAGOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO――!!!」

「――っ!」


 【クロサビ】が吼えて、僕は意識を何とか取り戻す。現状を認識する。


「君よ、今すぐに馬車を走らせろ。最速でだ。あとは、俺が何とかする」

「ヒナギさん!?」

「急げ!」

「は、はい!」


 漆黒の言葉に、僕は慌てて手綱を取る。


「シルヴィー!」


 呼んで鞭を打つ。

 嘶きが上がり、馬車が動き出す。

 でも!


「く、来る!?」


 【クロサビ】の腕がまた伸びて、僕たちを捕まえようと――速い!


「む、無理だ! シルヴィーよりずっと速――」

「信じろ」

「え?」

「俺が、君達を守る」


 その言葉は、とても力強くて。

 信じたくなるような。

 信じてみたくなるような。

 誠意と、決意の溢れる、覚悟ある、チカラある言葉で。


「――!」


 だから僕は、頷きながらシルヴィーを急かした――腕が迫る!


「ハアァァッ!!」


 気合一閃!


「す、凄い!」


 ヒナギさんの奮った刃は、迫り来る【クロサビ】の腕を叩き斬り。


「で、でもすぐに再生してしまうんじゃ!」

「それ以前に、刃が持たない」

「え?」


 その言葉に見れば、ヒナギさんの携えていた刃は、【錆】に覆われていて、次の瞬間には音を立てて砕け散った。


「超硬度単分子結晶刀が容易く分解されるか、単純な武威は意味をなさないな」

「じゃ、じゃあ一体どうするんですかッ!?」

「こう、するのだ!」


 再び迫り来る【クロサビ】の腕に対してヒナギさんは――


「グオオオオオオォオオオオオオオォオオォオオオォオオオオオオォォッ!!」


 徒手空拳の両手を叩きつけ、弾く――!?


「なっ!?」


 力の差は天と地ほど――それこそ大人と子供、巨人と人間ほどもあるはずの【クロサビ】の力を弾いて見せるなんて、ヒナギさんあなたは――い、いや、それ以前に。


「ヒナギさん、そんな事をしたら!!!」


 あなたの体は!


「ぐ、がっ」


 苦痛に呻いて、彼は御者台の縁に膝を付く。当たり前だ! 【クロサビ】は、触れたもの全てを【錆】に変える事ができる! 見ればヒナギさんの腕は、衣服など崩れ去って、その表面が全て【錆】に覆われている! その隙間からは幾条もの赤い血液が!


「ぐぅっ」


 呻いたのは、僕だった。幾つもの物事が頭の中で甦り、僕を苛む。このままじゃまた、さっきみたいに――


「……大丈夫だ」

「――ヒナギ、さん?」

「俺も、君たちも、大丈夫だ。必ず俺が、どうにかする。だから、安心しろ」


 立ち上がる。それだけ言って、ヒナギさんは立ち上がる。いつも悪い顔色はもはや蒼白を通り越して白に。両手からは止め処無く血が溢れ、足元はふらつき。

 なのに彼は立ち上がる。

 ヒナギさんは立ち上がる!


「大丈夫だ!」


 その言葉を僕に向けて!


「GOBABOWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO――!!!」


 【クロサビ】の再度の咆哮!

 周囲全ての【アカサビ】が泡立つ!

 僕の背が恐怖に粟立つ!

 だけど彼は揺るがない、そこに立ち、一直線に【クロサビ】を見据え!


「絶望に祈り切望の舞踏を今踊れ――」


 歌う!



 偏に魂を尊び高く生命に賛歌を唱え

 王は傅き賢者は書を捨て道化は勤めて勇者は歌う

 聞けよ悪魔よ惑えよ霊よ

 ここは同胞最果ての地



「――祈りの届く、最果ての空」


 ヒナギさんの両手から青い粒子が噴き上がる。彼曰く、体内のナノマシンを活性化させる文言。見る間に両手の【錆】が消え、血と粒子に塗れながらも傷一つ無い腕が再生される!

 そして粒子は有った傷を癒すだけには留まらなかった! 粒子が腕を取り囲む!それは、漆黒に侵される黄金の輝きを放つ!

 【クロサビ】が吼える! 【手】が迫る!

 ヒナギさんは!

 ヒナギ・クロウは!

 粒子を引き連れたままのその手で【クロサビ】の腕を――


「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――!!」


 正面から、防ぎ止める!!? 馬車がピンボールの様に跳ね宙に舞う。着地。姉さんが短く悲鳴を上げ、僕も溜まらず縁に縋り付く。

 そして、ヒナギさんは吼えた。



侵蝕イロージョンッ!!』



 その全身が、瞬く間に黄金の鎧に置換される。それは彼の身体の中にあるナノマシン――【変異型EVER】が【錆】と同じ原理で空気中の物質を変成させ纏わせる装甲! 黄金は瞬く間に夜色の闇に――【クロサビ】と同一の色に侵される! 

 鬩ぎ合う! 【錆】が、ヒナギさんの腕を鎧の上から貪り喰らい喰らわれたところからそこが再生していく! 人類を超えた暴力を、ヒナギさんは一身に支えてみせる!

 生半可なことじゃない。現にヒナギさんは苦悶に呻き、装甲は絶えず罅割れ再生と崩壊を繰り返し、それでも彼は僕たちを守り続ける。彼の昔話を信じれば今、ヒナギさんは発狂しそうなほどの痛みと虚脱に苛まれているはずなのに! なのに彼は、彼は!

 ヒナギ・クロウは、僕たちを守る!

 姉さんが言った通りに、その命すら懸けて! 懸命に!


「なんで」


 知れず、僕の口から言葉が零れる。それは、純然たる疑問だった。


「なんで、どうして……」


 なんで、そうまでして。

 どうして、そうまで為って。


「何故あなたは、立ち続ける事ができるんだ!?」



§§



「何故あなたは、立ち続ける事ができるんだ!?」


 責め問う者よ、応えよう。

 彼女達を傷つけた、あのとき言葉にすることも出来なかったそれに、今こそ此処で応えよう。


『誓ったからだ』

「え?」

『俺が、君たちに誓ったからだ』


 俺は言う。に向けて。まだ名も知らぬ、教えを乞えるほどに信頼を示すことも出来なかった少女に向け、今、語る。


『あの夜、必ず二人を、守ると誓った』


 【アオサビ】が二人を襲ったあの夜、俺はそう言った。守る事を誓った。


『護衛者となる意志を決めた』


 例え俺自身が、彼女達二人を傷つけてしまう存在であるとしても、その側に在れる限り、必ず守ると。


『世界の救いなど関係無く!』


 俺の願いなど無関係に。


『マナへの憧憬など関係無く!』


 俺の想いなど無関係に。


『贖罪など関係無く!』


 俺の望みなど無関係に!


『君たちを守ると誓った!』


 だからこそ!


『俺は立ち続ける事ができる!』


 痛みも、苦しみも、辛さも涙も、全てを耐え、耐え切れずとも、立ち続ける事ができる! 


『だから!』


 安心して。


『信じて欲しい!』


 今この窮地さえも、切り抜ける事ができると!


『俺が、守り抜く事ができると!』

「――!」


 少女の小さな顔に、驚きの表情が広がった。伝わった。そのはずだ。ならばあとは、この場を、斬り破るのみ!


『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――!!』


 高く、咆哮する!

 左腕に全力を込め、片手で【クロサビ】を押さえつける!

 右腕を離す。瞬時に回復し、精神を狂気へと誘いながら傷害を拒絶する。

 その右の拳を握り込む。

 仮称――【粒子剣武フォトン・アーツ】を励起する!

 この1000年練り上げた、ナノマシン制御の一撃。

 流れる赤き血の、その中に無限と存在する【変異型EVER】。その強力を束ねる。変異した【EVER】が齎す超人のチカラ、そのクオークにも近しき絶対尖鋭の粒子を右手に束ね結集し――貫く刃を形成――そしてその万力を、再構築した超硬度単分子結晶刀ハード・ナノ・ブレードに乗せて叩き込む!!


『おおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉッッ!!!』



 【粒子剣武】――種別剣技カテゴリー・ブレード――【共鳴剣・崩壊レゾナンス・ディケイド】!



 漆黒を纏う黄金の奔流が、黒き巨人を突き崩す!


「BAGOOOOO!? GOZOOOOOOOOOOOOOOOOOO!?」


 【クロサビ】の上げる絶叫!

 拳は、【クロサビ】の手を貫き、そして――

 バキバキバキバキ!!

 生木を裂くような音が鳴り響き、【クロサビ】の腕が半ばまで粉解する!


「――――!」


 その光景に少女が言葉を失う中、【クロサビ】は身悶え、悲鳴のような錆びた音を幾重にも発した後、大地に沈み込むようにして消えて行った。


『――――』


 奴にとっては掠り傷に過ぎないであろうそれも、同じナノマシンの影響と為れば吃驚程度は覚えるであろう。それ故の撤退。

 【クロサビ】は、暗雲と地響きを共に、消え去った。

 俺は、それを見届けた後――許容量を超えて痛みに、意識を失った。



「ヒナギさん!?」

「クロウ!?」



 意識を失う寸前、護衛対象二人まもるべきふたりの、そんな悲鳴染みた声を聞いたような――そんな気がした。



§§


 

「――……」


 目を醒ました彼の顔を真っ直ぐに見詰めながら言う。


「あら、起きたの? 遅すぎるわ」

「……済まない」

「謝るのなら、私ではなくてあの子に。それから、教誨師きょうかいしの真似事――いえ、話を聴いてあげるだけでも、お願いするわ」

「……アイネス」

「クロウは、いつも遅いのよ」

「済まない」

「早く行きなさい」

「ああ」


 私は、意識を取り戻したばかりの彼にそう言って、付きっ切りの看護をやめた。私と彼の話は、もっと先で構わない。今は、誰よりも傷付いている、大切な妹のために。



§§



「…………」


 焚き火の前。僕は膝を抱えていた。

 揺れる火を見るとも無しに見詰めて、膝を抱えていた。

 悔恨とか。

 慙愧とか。

 そう云う感情を、加害者である僕が浮かべちゃいけないことぐらい分かっていたけど、それは次々と、僕の胸の奥から湧き上がって。抑えきれなくなって、破裂しそうで。


「――耐え切れない、よぅ」

「ならば、耐える必要は無い」

「え?」


 その声のした方を向く。視線を上げる。

 ヒナギさんが、真っ直ぐに僕を見詰めていた。そのまま、彼は口を開く。


「耐え切れないものを抱え込んでしまったのならば、無理をしてそれに耐える必要は無い。背負い込んでしまったものが、己の許容範囲を超えるなら、その重荷を降ろしても、誰一人糾弾するものなどいない」


 ――ならば、耐える必要は無い。


「耐え切れないことから逃げ出すことを責める者はいない。それは、生物として当然の行動だからだ。もし君を弱者と責めるものがいるとすれば、それは一度として逃げたことない強者か、何も解らぬ愚者だけだ」


 だから、耐える必要はないのだと。

 ヒナギさんは、そう繰り返した。


「…………」


 正論に聞こえた。

 だから僕は、卑屈にせせら笑った。


「あなたが言いますか?」

「……そうだな。俺にその資格はない」

 ……いや、そう云う意味じゃなくって。

「耐えているのは、あなたでしょうよ」

「……?」

「分からないですか? 本当に分からないんですか?」

「…………」

「っ」


 僕は睨んだ。この人は。


「恋人を殺されて、死ぬこともできなくって、挙句一〇〇〇年よりも長く生きて、その末にやっと見つけたって言う姉さんに、僕にすらも拒絶されて、そのくせ媚びたみたいに、お人よしみたいに僕たちの前に舞い戻ってきて痛い目を見る。耐えているのは――あなたでしょう!」


 最後の方は、叫びのようなものになってしまった。でも仕方が無い。それは僕の本心だったから。理解できない。何でこの人は、こんなにも強く在れるのか。姉さんだってそうだ。姉さんもいつだって強かった。僕には、この人たちの事が、まるで分からない。


「何でですか……どうしてですか……」


 言葉尻が解けるように擦れる。

 分からない。

 分からない。


「……いない」

「は?」

「耐えてなど、いない」

「…………」

「俺は、本当は何一つ、耐えてなどいない」


 ヒナギさんは、暗い表情で、それでも真摯に、言った。その表情は、いつもと変わらない無表情だったけれど、言葉とは裏腹に、それでも痛みに耐えているように僕には見えた。


「俺は、何一つ耐えることはできなかった。マナを失ったことも、この身が不死と為ったことも、それを望みながら、君たちと別れたことも、何一つとして」

「…………」

「だが、それでももし、耐えているように見えたと君がそう言うのならば、それは、きっと――きっと俺は、強がっていたのだろう」

「…………」

「虚構を重ねた。欺瞞を束ねた。虚偽で覆い、嘘と偽りで塗り固め。耐え切れもしないくせに、耐えたフリをして、強がって生きてきた。恐らく、俺はそうして、今に至っている」

「…………」

「耐えているように見えたのか。だが俺は耐えることなど出来ない。それでも、耐えているように見えたのならば――きっと俺の心は、とうに擦り切れ、磨耗し切っているのだ。擦り切れた全てを、虚偽と虚構を塗り重ねながら。何一つ、確かに感じられぬほどに磨耗して」

「……それでも」


 それは、強さです。僕は言った。


「強さなどではない。俺は、強くない。愚かなだけだ」

「いいえ。ヒナギさんは、強い」

「…………」


 心が擦り切れても耐えているあなたは、絶対に、強い。


「僕には、それが出来ない」

「する必要も無い」

「駄目なんです、強くないと」

「何故だ?」

「僕が、オーキッド・アイネスの妹だから」

「…………」

「姉さんは、強いでしょう?」

「……そうだな。彼女は、強い。だが」

「分かってます。僕が一番分かってます。ヒナギさんが言った通りです。姉さんは、持っている強さと同じくらい――弱い」

「…………」

「でも、姉さんは弱さを持っているのに、強く在れる。強く、在ろうとする」

「…………」

「【浄歌士】だから、なのかもしれません……」


 僕の言葉は空気に解ける。


「姉さんは、とても辛い過去を持っているみたいなんです。聞いたことも、聞けたこともないですけど。その過去の所為で、【鎮守の巫女】に為ることもできなくって、モグリなんてやっていて。それは全部、過去の所為なんです」

「…………」

「僕はそれを知らない。覚えていない。ずっと昔のことだから。養父さんが死んだばかりの、酷い衝撃を受けて心が無くなってしまった頃の話だから。僕は、覚えていないんです。覚えているのは、笑うことも無くなって、辛そうに日々を生きている姉さんと」


 姉さんと。そして。


「血の花になって、死んでしまった養父さんの姿だけ」


 もう殆んど思い出せないのに、脳裏にこびり付いたように鮮明に映る、養父さんの、その死に際の。

 僕は頭を振る。


「そんなものしか知らない。他は何も、覚えていない」

「……そうか」

「はい」

「いや、そうではあるまい」

「……?」

「君は強さを欲する。それには、理由があるはずだ」

「…………」

「君は、知っているのだろう。君の父親が君に注いだ愛情を。君の姉が、幸福に生きていた日々を。本当は、きっと知っているのだ」

「…………」

「だから、君は強さを求める。自身がその全てを砕いたと、その思いがあるからこそ、君は二度とそうならぬよう、そうであったとき耐え、前に進み、導き取り戻す事ができるよう、強さを、求めている。それは、俺とは全く異なる、真の強さだ。誰かを守ろうと欲するときに生じる、俺の磨耗と怯懦とはベクトルを異にする、正しき強さ。それを知れ。君は――」


 僕は。


「君は、もう十分に、強い」

「――――」


 焚き火の炎が、漆黒に陰影の彩を咲かす。彼は、そうして小さく笑った。


「アイネスの妹君。君は確かに、その存在だ」

「――――」


 僕は。


「―――ぅ」


 僕は。


「――うあ」


 僕は、泣いた。


「うわぁああぁあああああぁぁあああああぁああああああ――!!」


 大声を上げて、只管に。みっともなく、泣いた。


「――――」


 泣き叫ぶ僕を、ヒナギさんはずっと見守っていてくれた。



◎◎



 それは、短い短い昔話。

 僕の過ちの物語。

 どうか聴いてください。

 覚えているだけの悲劇を。


「――ああ」


 ヒナギさんは、頷いてくれた。



◎◎



 僕のお母さんは、僕を産んですぐに亡くなったらしい。顔も覚えていない。

 僕のお父さんは誰なのか知らない。

 僕が知っているのは僕を育ててくれた姉さんの養父とうさんだけ。

 養父さん。

 優しくて、厳しくて、強いひとだった。

 他のことは覚えていなくとも、おぼろげに、そう云うことは覚えている。小さくて小さくて、幼すぎるときのことなのに。

 お母さんは【浄歌士】の血を引いていたらしい。

 姉さんは幼い頃から、【浄歌】が歌えたけれど、養父さんはあんまり歌わせたくなかったみたいだった。

 僕には歌の才能は無くって、でも姉さんの歌を聴いているだけで満足だった。

 別に歌を歌いたいわけじゃなかったからどうでも良かったけど。けど、うん、僕は姉さんには、ずっと憧れていたように思う。姉さんは美人で、【浄歌】が歌えて、何でもできて。お父さんもいて。だから、憧れていたように思う。でないと、あんな事を僕がやった理由が分からない。


 あの日。

 アーレイアの春の訪れをお祝いするお祭りの日。


 確か姉さんは、舞台で【浄歌】を歌うことになって。僕は養父さんとそれを見ていて。姉さんが綺麗で。その声が羨ましくって。僕は思わず、歌ってしまったんだ。

 そして【奴】は来た。

 僕が呼んでしまった。

 そこから先はもう、本当に断片としても覚えていない。幼かったから。忘れたかったから。

 ただ、何本もの血の花が咲いた事だけは覚えている。

 養父さんも、僕と姉さんを守ろうとして。

 ……アーレイアの町は、滅んだ。

 僕と姉さんは逃げて、偶然生き残って。


「――そうして、今に至るんです」


 僕は、短い昔話を終えた。


「…………」


 ヒナギさんは、ただ耳を傾けて、最後に、


「……そうか」


 ただ、それだけを言った。


「はい」


 僕は一筋、涙を流した。



◎◎



 そうして僕は、ヒナギさんに、自分の名前を初めて教えた。

 オーキッド・エピネス。

 それが僕の名前で、養父さんが残してくれた、最後のもので。

 ヒナギさんは。


「よい名だ」


 そう、言ってくれた。




第四章、終

第五章へ続く

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