2

◎◎


 ラーシュルードはそんなに大きな村じゃない。だけど住んでいる人は意外と多い。それはラーシュルード自体が一つの村のことを指すんじゃ無くって、【錆の森】と【錆の砂漠】の【境界線ザ・ライン】に点在する幾つもの村の総称だからだ。

 もちろんすべて【境界線】の外側、【錆の砂漠】の方にあるんだけど、どのみち不毛地帯。生活はとても厳しい。

 だからみんな助け合って生きている。協同体って言えば分かりやすいかも知れない。飛び地みたいに生活が辛うじてできるオアシスみたいなところはあるけれど、ラーシュルードはやっぱりとても厳しいところに位置している。

 生物なんて殆んど全て住むことの出来ない【錆の砂漠】と、他に類を見ない【ロクショウ】が存在し【アオサビ】の溢れる絶無の生態系を有する【錆の森】。その境界線に棲む事ができる生物なんて本当は存在しない。だけれど逆に言えばそこは、他の誰も寄り付かない土地と云うことに為る。他の場所の5倍もの密度で【浄歌士】が巡らなくては人が住めないそんな土地だけれど、そう云う特異な場所だから、いろんな村や町、大都なんかから、事情があって住めなくなった人たちが最後に流れ着くのが苛酷極まりないこのラーシュルードの村落だ。

 そう云う場所に住んでいるから辺境人。

 ただ姉さんの話しどおりならそれは本来別のものを顕す言葉らしい。

 【錆の森】に棲む【辺境人】。

 僕は出会った事が無いけれど、とてもその暮らしは苛酷そのものなんだろう。でもそれは、ラーシュルードの暮らしが苛酷じゃないと云う意味じゃない。彼らの生活の場【境界線】は【錆の砂漠】と【錆の森】の境。そして【錆の砂漠】は、やがて【錆の森】に呑み込まれる運命にある。

 【侵食】は続いている。

 唯一の救いは【錆の森】はある理由から酷く安定的で、なかなか広がらないと云うこと。まあ、【錆の砂漠】では【侵食】は頻繁に起きて【大侵食】だって他のとこより起こりやすいっていうんだから生活が苦しいのは変わらないんだけど。

 兎角そう云う理由で【浄歌士】の需要は絶えないのだけれど。


「……でも、【錆の森】には【鎮守の巫女アービトレイター】がいるから」


 ある理由と言うのがそれ。イブキの一族のその直径本流の当主が率いる最高峰の【浄歌士】達。それが広がればもう人類に生きる術の無い【錆の森】を抑え続ける【鎮守の巫女】。

 ステリレのアービトレイター。

 彼女たちは代わる代わるに永遠と【浄歌】を歌い続けているらしい。


「【巫女】には姉さんの知り合いも実は多くって……って言うか、姉さんは元々【巫女】になるはずだったのに」


 為らなかったのは、養父さんが、死んだから。僕がいたから。だと、思う。小さいときのことは本当に全然覚えていないけれど、カギが掛かったように――カギを掛けたように思い出さないようにしているけれど、時々ふとした切っ掛けで、思い出す。半年前もそうだった。

 これから起きることも、そうだった。



◎◎



「シルヴィー!!」


 僕は全力で手綱を引く!

 シルヴィーは嘶きを上げて急峻な崖を曲がってみせた!


「はっ!」


 既にそれ自体がかなりの努力の賜物なのだけれど、僕は容赦なくシルヴィーに鞭を打つ! おもんぱかっている余裕なんて皆無だった! 兎にも角にも今は加速を! 只管に加速を! 逃げなければ! 逃げなければッ!!


「――ぅぅ!」


 追って来る。

 御者台から乗り出して後方を見れば、そこには幾つもの馬が追って来る! 十頭から為る黒い馬の群れ! それは一頭の例外も無く鞍を敷き人が乗り、その人たちが手にしている金属光を纏ういかめしい塊は――

 パン! パパパパパン!!


「ひぐっ!?」


 乾いた音が連続する。銃声! 旧時代の遺物! 人殺しには過ぎた暴力の塊! そのあんまりな音に僕は思わず身を竦めて、落車しそうに為り慌てて御者台にしがみつく。しがみついてまた鞭を振るう。


「た、助けて……!」


 誰にでも無く願う。


「助けて!」


 叫ぶ。だけどこの願いは届かない。だってここには誰もいない!


「姉さん!」


 縋るように呼ぶけれど、振り向いてまで叫ぶけれど、幌からだらりと下がる細く白い腕は動きもしない!


「シルヴィー!」


 命綱の老馬は既に呼吸が上がり、いつ足を滑らせて崖を滑落してもおかしくない!


「う、うぅ、ううう……!」


 うめき声が止まらない。


「なんで……なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで――なんでこんなことにっ!!?」


 分からない。ちっとも分からない!

 いつも通り普段通りのはずだったのに!

 山間のラーシュルードの初めの村で、姉さんは【浄歌】をうたって【錆】を祓って、次の日は別の村でも急を要すると言われて無茶なのにわざと無茶をするようにもう一度うたって、その日のうちにさらにもう一回、計三回もうたって限界を迎えて、倒れるように眠って、僕はそれを仕方が無いなって馬車まで運んで――そこまでは、そこまでは姉さんの無茶以外は普通のはずでいつも通りのはずで、だけど、だけどだけど! その後が違っていて! 半日ぐらい馬車でとろとろと走って、姉さんには休んでもらわなくっちゃいけなかったから、報酬を貰ったその足で僕たちはまた次の村を目指していたのに、突然眠っていたはずの姉さんが走れって叫んで、そしたら何頭もの馬に乗った黒服の人たちが押し寄せてきて、僕は夢中でシルヴィーに鞭を入れて走って、走ってそしたら幾つもの破裂音が、悲鳴、姉さんの手が幌から零れて、声、停止を呼びかける声、恐怖、僕はシルヴィーを急かして、恐慌――覚えてない! 覚えていない!

 そして今だ!

 気がついたら山道でカーチェイス! 意味が分かんない! しかも追っ手は鉄砲を持ってて、殺す気!? 僕を、姉さんを殺す気でッ!?


「分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない――分かんない!」


 酷く混乱していた。僕は惑乱していた。

 もう全然意味が分かんないっ!!

 どうして僕たちが追っかけられんのさッ!?

 何で僕たちが命を狙われるのさッ!?

 分かんない分かんない分かんない!


「いやだ、助けて、助けてよ……誰か、助けて!!」


 また無意味に叫んだ。何処にも届かないはずの叫びを。でも、変化は起きた。最悪な方へ。


「――ぁ」


 大体がいつまでも逃げられるわけが無かった。偶然狭い山道だったから馬車を牽いていない普通の馬でも馬車を追い越すだけのスペースが無くって、逃げ続けていられただけ。


「ぁぁ」


 泳がされていただけなんだ。鉄砲は急き立てるだけの意味でそもそも当てるつもりも無かったんだ。


「ぁあ」


 道が広くなるまで、それに考えが至らないようにさせる思考の幅を狭める精神的な枷でしか無くって。


「ああ」


 そして、道が開けてしまえば――


「ああああ!!」


 こうやって、簡単に包囲されてしまう。


「――――」


 幾つも銃口をポイントされて、僕は、おとなしく、馬車を、止めた。

 デザインはバラバラにチグハグの、だけれど一貫して黒服の男たちは馬車を取り囲んだ。


「降りろ」


 左目に刀傷のある男が言った。有無を言わせない、岩のような口調だった。


「……う、ぅう」

「降りろ」

「ぅうぅぅ」


 僕が怯えて、降りられないでいると、別の男が馬上から降りて、僕を強引に立たせようと髪の毛を掴んだ。


「降りろってんだよ!」

「あっ、い、痛い痛い!」


 無理矢理に引き摺り落とされる。髪の毛が引っ張られて頭皮が吊り、ぶちぶちぶちと、幾本かは髪が千切れる音がした。地面に這い付くばらされる。


「おい、手荒に扱うな」


 誰かが言った。


「無事届けろと、そう言われているだろうが」


 誰かが返す。


「生きてりゃいいつってなかったか?」

「声に問題なけりゃって言ってたんだぜ」

「おお、そうだそうだ」

「それが無事と言うことじゃないのか?」

「まあ腕足なら折れても問題なかろう」

「そう言うこったな」


 誰かに誰かが答えてその誰かにまた誰かがそして誰か。繰り返されるそんな異なる言葉。ただ、共通項も有った。


「ううう」


 僕は呻きながら考える。こう云った事に慣れた雰囲気。見ないでも分かる。この人たちは、日常的にこう云う事をして生きている!


「安心しておけよ」

「――え?」


 冷えた言葉に顔を上げる。傷の男が氷のような目付きで、僕を見下していた。


「お前だけが目的ではない」

「――っ!?」


 そ、それは!


「おい、幌の中を暴け。女がいるはずだ。そいつも連れていく」

「や、やめろ!」


 咄嗟に叫ぶ。


「姉さんには手を出すなっ!」


 そう、姉さんだけは!


「僕はどうなっても構わない! だから――」

「無駄だ」


 氷の声。


「その女もまた、我等の主に必要とされている」

「な――」


 なん、だって?

 僕が、姉さんが、僕たちが必要?


「主は言った。世界を統べるためには、必要だと。だからお前たちは我々に従え。そうすれば、痛い思いもしないぞ? 死にもしないぞ?」


 そして、その言葉に合わせるように、黒服たちは一斉に銃器を僕に突きつけた。


「――――」


 言葉も無かった。

 詰みだった。

 動けば撃たれて死ぬ。抵抗しても死ぬ。抵抗しなければ――きっと終わりだ。

 完全な打つ手無し。

 もう、これは。

 どうしようも。


「あ? そうだぜ。おかしら」


 誰かが嬉々として傷の男に言った。


「なんだ?」

「いやね、このガキは無事に連れてこいつってましたけど。そっちの女は……」

「ああ」


 そこで、傷の男は、怖気が走るほどの気味の悪い笑みで、嗤った。


「そっちは歌えればいいそうだ」


 なん、だって……!?


「へ」

「けけ」

「くひひ」

「けかか」

「ひっひぃ」

「かぁっ」


 男たちは笑う。下卑た笑いを浮かべる。そして、馬を降り、馬車へと向かって歩き始める。

 ちょ、ちょっと待って。

 待って。何処に行く? 何処に行くって言うんだっ。

 待って、待って。そっちには、その馬車のなかには。

 そこには姉さんが。

 気を失っている姉さんがいるんだぞ!?


「ふん」


 傷の男は、冷笑した。


「好きにしろ」


 歓声が上がった。

 黒服たちが馬車に殺到する。


「や――やめろぉぉっ!!!」

「おっと」


 腕を掴まれる。


「離せ!」

「できんな」

「死ね! 離せ! 退け!」

「できんと言っている」

「この――っ」


 僕は万力のような力で腕を掴む男を振り払おうとして――



「あぁ――やめ――て――」



「――――!」


 その声に、脳味噌が沸騰した。

 激情が、爆発した。


「ヤメロォォォォォォッッ!!!」


 叫ぶ!

 僕は――禁忌を実行した。


!!」


 禁戒を歌う。


「何をして――っ!?」


 ゴ、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!

 地響き。違う。これは胎動。知っている。僕は知っている。この鳴動の先の地獄を。

 僕は聞いた。

 僕は見た。

 僕は知った。

 あらゆる地獄の極限に位置するそれを。

 僕は、それを拒絶した。

 絶対禁忌。

 窮極禁戒。

 だけど、姉さんを、救うためならば――僕はそんなものに囚われはしない!


!!」


 禁断の歌を唄いて。

 そして、それはやってくる。


 暗い闇黒を引き連れて、膨大量の【錆】が噴出する。極相に行き着いた【錆】が。



§§



 何が起こっているのかを、私は把握できていなかった。ただ、指先一つ動かせない極度の疲労に苛まれて、現実と夢の境界を行き来する脳髄が、何かの危険を告げていた。

 馬車は激しく揺れて。

 妹の叫ぶ声と老馬の嘶きだけが幾度も聞こえ、その合間に破裂音が並ぶ。

 やがて馬車の振動は止まり、そして。


「ひいっひ」

「きへぇ」

「かはは」

「ぐふ、ふ」


 低劣に下劣な笑声を従えて、何人かの存在が馬車の中に乗り込んできたことを私は感じた。だけれどその事実に対して頭が上手く働かない。心身が正常に機能していない。【浄歌】の過剰な紡ぎによる弊害。【浄歌士】のみが発症する【空虚ウロ】と言う名の病。しかし、大してよくもないことに、私の心身は徐々に正常さを取り戻す。

 荷台から引き摺り下ろされ、地面の上に落とされる。


「――――」


 声も出ない。

 そして、殺到する、男達の手が。穢れた温度と硬さだけで成り立つようなごつごつとしたがさがさと荒れた手が、私の身体を這い回る。衣服が剥ぎ取られていく。すぐに下着だけの姿へとされる、手がなお這い回る。


「――嗚呼」


 声が、出た。全身が、帯びたくも無い熱を帯びる。

 思い出したくも無いものが、それでも反射のように次々と脳裏に浮かぶ。熱、脂、苦味――悦楽。

 捨ててきたもの。

 過去へ置いてきたはずのものが。

 甦り始める。


「――ぁ」


 嫌。

 嫌だ。

 それは嫌だ。

 あの頃に戻ることは、絶対に、嫌。


「――ぁぁ」


 動かないはずの手が、縋るように伸びる。


「――っ」


 引き千切る。覆い隠す。見せたくない。あのひとに、私の今の姿など――

 せめて。

 せめて私の目の届かない場所へ!

 それを掴み、振り上げ、振り下ろす。


「~~~~!」


 だけれど。


「――――」


 私はそれを、捨てる事ができなかった。

 青い黄金の髪飾り。

 短い時間の間に、彼が贈ってくれたたった一つの品物。私には、それを捨て去る強さなど無く。

 私は、今度こそ本当に縋るようにそれを握り締めて――


「おっ? なんかいいもん持ってんじゃねーか?」


 一人の男の手が、私の握る髪飾り掛かって。

 駄目。やめて。やめて。


「放せよ! 俺が高く売ってきてやっからさ!」

「おい! 全員で分配だぞ!」

「知るかよ! 早いもん勝ちだぜ!」

「なんだと!」


 たかる。私の手に。あの人の、髪飾りに。


「ぁぁ――」


 私は。



「あぁ――やめ――て――」



 誰にも届かないそんな脆弱な抵抗の声を上げて。

 そして――聴いた。



「ヤメロォォォォォォッッ!!!」



 その、禁忌の歌声を。



!!」



 妹から大切なものを奪った、その禍き滅びの歌を。



!!」



 地鳴り。地震。鳴動。十年前と一つとして変わらない全てを引き連れて、それは現れた。

 大地が弾ける!

 吹き上がり吹きすさむ【錆】の嵐。

 その全ての集約点、そこに、闇黒が顕現する。



「BAGOWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO――!!!」



「――あぁ」


 その闇黒――【クロサビ】は、全てを震撼させるほどの雄叫びを上げた。



§§



 その【錆】――【クロサビ】は、大地を揺るがすような雄叫びを上げる。

 全長50メートルを超えようかと云う巨体、にも拘らずその姿は、酷く【人】に酷似していた。燃え上がるような【錆】を纏った巨人。否、悪魔か。

 はるか遠方からも観測されるであろう。その頭上には暗雲が立ち込め、嵐が荒れる。

 凶悪なる存在。

 ガン・エクノオーシャルのそのあらゆる破壊と武力の象徴。限られし極所に僅か三体しか存在せぬその凶悪が。

 今ここに顕れ出でていた。



§§


「何故、【クロサビ】がっ!? まさか、お前の歌が!?」


 傷の男が叫んだ。腕の拘束が緩む。


「――放せ!」


 僕は【禁歌】を中断して、男の腕を振り払う!


「な――待てッ! 離れては――」

「死ね!」


 待つ訳が無い!

 僕は全力で姉さんの声が聞こえた方へと走る!

 地響き。きっと奴が動き始めたんだ。あの悪魔が――僕を、狙って。

 僕は奴の餌だから。

 でも、今は喰われてなんかやらない!!


「姉さん!」


 叫ぶ!

 【クロサビ】の出現に混乱していた男達の間に突撃して、姉さんに縋りつく!


「姉さん! 起きて!」


 無残に、ありえてはいけないことに、絶対に駄目なのに! 辱めを受けた姉さんを抱き起こす。

 何て事を何て事を何て事を!

 許さない!

 僕の姉さんを!

 たった一人の血の繋がった家族になんて事を!!

 絶対に許さない!!

 激情が僕の髪を逆立たせる。


「シルヴィー!」


 呼ぶ。

 仲間を。

 嘶き、応えが。


「姉さん! 起きて! 馬車に乗って!!」

「――あ……お前」

「早く!」


 息も絶え絶えの姉さんを、どうしようもないぐらい軽いその身体を担ぎ上げて!


「てめぇ!? どこに行くつもりだッ!」


 名前も知らない――どうでもいい最低な奴の一人が僕の肩を掴む。跳ね除ける。睨む。


「――ッ、な、おま、何て眼を――っ!?」


 野卑粗暴な男はたじろいだように一歩引いて、僕の肩から手を放す。ざわめき。僕はその間に姉さんに肩を貸して立ち上がる。


「てめぇっ!」

「勝手な!」

「動くんじゃねえ!」


 喚くなよ!


「――――」


 周囲を睥睨する。

 消えろ。

 失せろ。

 死んでしまえ!

 僕の大切なものを傷つける人間なんか、みんな死ねばいいんだ!

 憎悪が、怒りが、燃えて、燃えて――


「馬鹿共! 逃げろ!」


 傷の男の叫び。そして、地響き。


「――来た」


 ズゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッゾッゾッゾゾゾゾゾ――!!

 大地自体がナメクジか何かに為って這いずる様なそんな嫌悪以外のなにものも喚起しないような邪悪の。

 来る!

 空が翳った――違う――った!


「な、なんだっ!?」

「ひっいっ!?」


 僕は見上げる。一直線に向かってくる、【錆】に塗れた腕を! 【クロサビ】の伸ばすその【腕】を!


「ど、どきやがれガキ!」

「邪魔だ、邪魔だぁッ!!」

「待て! 置いていくなよ!!」


 男たちは逃げ出す。

 脱兎の如く蜘蛛の仔を散らすように。だけど、僕は知っている。奴はそれを許さない事を。

 影が広がる。

 僕を目指していたそれは、更に伸びる。

 そして、


「うぎゃぁぁああああああああああああああああああああああああ!?」


 巨大すぎる【手】が、男たちを、一掴みに握り締め――


「ゲ!? ゲゴォガオォォォ――ッ!?」

「ガッ!? ゴッゲェェェ――!?」

「エゲゲゲゲゲゲゲ!? バグウウウ!?」


 絶叫が上がった。絶望のような絶叫が。

 嗚呼、それは全ての表現を無為にしてしまう最悪の事象。だけどその惨劇をただ一言で言い表される。


 ――


 耳を覆いたくなるような絶叫が幾つも挙がる。挙がり続ける。蝕んでいる、食んでいる、喰らっている!

 何人もの人間が、僕の目の前で錆びに喰らわれて覆われて、そして――赤い花が咲いた。


「――――」


 真紅色の花。


「―――ぅ」


 一瞬に咲き誇ったそれが。


「――ぅ、ぁ」



ドロドロと融ける。

バラバラと崩れる。

ゾブゾブと蠢く。



「――うわああぁぁあぁぁあああぁああああああああ――!?」


 叫ぶ。

 赤い花。

 真紅の花が咲いた。

 その花は確か――と言った。

 死んだ。

 死んだ。

 死んだ。

 僕が、殺した!

 ガタガタガタ――

 体が震えだす。

 思い出してしまう。思い出してしまう!

 養父さんが。

 養父さんが死んだあの日を。

 僕が殺してしまったあの日が、フラッシュバックする。

 僕を、僕を守ろうとして死んだ養父さん。僕は、僕は姉さんの大切な家族を、奪ってしまって。


「うわぁぁぁぁぁああああああぁああぁあああああぁ――!!!」


 叫ぶ、その場に崩れる。姉さんが、滑り落ちる。でも構っていられないぐらい、そっちにこそ対応しなきゃいけないのに、僕は、僕は、僕は。


「ああぁあああぁあああぁああぁぁ――」


 うずくまる。

 頭を。頭を抱え込む。白い頭を。あの日から一切色を無くしてしまった髪を。

 震える。

 恐怖に震える。

 自分が怒りと憎悪に任せてやってしまった最悪の行為を理解して、僕は怯えて震える。

 人を、殺した。

 僕が、この悪魔を呼んで、僕が。

 ひとを、ころした。


「――――ッ」


 怯えた。

 震えた。

 僕は、周囲の全てを忘れて――


「――ごめんなさい――」


 許されるわけも無いのに、謝罪を口にする。


「――ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ――」


 ガタガタと震えて、頭を抱えて、途方に暮れて、だけど僕の口から溢れるのは恐怖に根ざした言葉だけ。


「――ゴメンナサイ。ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ――」


 姉さんがいるのに。

 側では逃げることも出来ない姉さんがいるのに動くこともできず。


「――ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ――」


 目の前で死んでいく人たちがいるのに。

 僕の所為で死んでしまった人たちがいるのに、顔もあげられず。


「――ゴメンサゴメンサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ――」


 恐怖で震えるだけ。

 罪に慄くだけ。

 怯えているだけで。



「BWOOOOOOOOOOGOOGAGOOOOOOOOOOOOOOOOO――!!!」



「ひうぐっ!?」


 あまりの大音声! 空気がびりびりと振動する! 【クロサビ】が吠え立てた。僕はびくっと震えて、反射的に顔を上げてしまった。


「――ぁ」


 そして、見た。

 僕を覗き込むように見る、その禍々しい巨人の、虚ろな眼窩の奥に燃える、鬼火を。

 いつの間に、こんなにも近く――決まっている僕が怯えている間に――睨みこまれて――恐怖――【錆】なのに、生きてはいないはずなのに――まるで生きているかのよう――意志――恐怖――絶望――絶対者を前にした最弱者――怯え――飲まれる――怯懦――恐怖!

 今度こそ僕に向かって巨大な【手】が伸び――

 ――瞬間、僕は全てを忘れて――

 ――擦れた声で叫んだ。


「――たす、け、て――」



「――――」



「――?」


 銀色の線――光り?――が、黒い錆びの体表を走って、その動きが、一瞬、ほんの一瞬止まって、瞬間、僕の体は何かに包まれた。浮遊感。そして、重力に引かれる。

 覆っていたものが、取り払われる。


「――――」


 僕が降り立った場所。そこは、馬車の御者台の上で。どさっと、音を立てて、だけど丁寧に、僕の横に誰かが横たえられる。


「――姉さん」

「……大丈夫……生きているわ」


 弱々しく笑いながら、姉さんがそこにいて。


「でも……酷い様でしょう? とても――殿方の前であるべき姿ではないわ」


 ――あなたは、そう思わない?

 そんな姉さんの問いの答えは、


「……あら」


 ふわりとその肢体に掛けられたマントで返って来た。

 漆黒色のマントで。

 そして彼は言うのだ。

 まるで姫君のピンチに遅れて現れるヒーローのように。


「済まない。この場所を特定することに時間を取られた。一切俺の不徳の為すところ。糾弾は後日、確かに承ろう。故、今は――」


 彼は。

 ヒナギ・クロウは!


「――この場を切り抜け、生き残る事を最善と考えるが、如何に?」


 御伽噺のヒーローなら絶対に言わないようことを言って、刃を、構えた。


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