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§§



 姉さんは単身なんて言ったけれど、クロウさんがそのあと執った行動はそれよりもずっと予想外で、はっきり言って滅茶苦茶なものだった。

 正面から【錆の森】を訪問したのだ。

 そして、滅茶苦茶といえばそれからこそが、本当に滅茶苦茶だったのだ。

 なにせ僕たちは、〝彼女〟たちに歓迎されてしまったのだから。


 【錆の森】と【錆の砂漠】には【境界線】がある。

 曲がりなりにも境界線。そこは生と死の世界が明確に分けられている。

 でもそれは、そこに具体的な仕切りがあるというわけじゃない。ウェイスター村のような簡素な壁があるわけでも、【大都】のような堅牢な城壁があるわけでもない。

 ただ、存在がいる。

 存在が、在るだけ。


 【鎮守の巫女アービトレイター】の【守護者キーパー】。


 オーキッド・アイネスに対するヒナギ・クロウのことじゃない。

 強いて言うならばそう、姉さんはきっと【キーパー】を知っていたからこそクロウさんを護衛と呼んだんだ。その真似のように呼んで。

 ではオリジナルはどのような存在なのか。もちろんそれこそ、クロウさんをも凌ぐような超人……ということはない。あの日とは別格だ。だけれど、それは彼らが劣るという意味では決してない。言うなれば彼らはスペシャリスト――その集団だった。

 拳法の達人。

 剣術の熟達者。

 銃火器の専門家。

 僕は、それがどういった類の人間なのか明確には説明できないけれど、いまの時代【強さ】が重要視されて、銃火器なんかは殆んど出回ってないことを考えれば、それがどれだけ凄まじい人種なのかは、あまりに明らかだった。

 そんな【キーパー】は、通常ダース単位で一人の【鎮守の巫女】を守っている。彼らの主な役目は【鎮守の巫女】の守護。そしてもう一つの役目が【境界線】の守護だった。

 【鎮守の巫女】は【錆の森】をそれぞれ区分けして受け持っているらしい。それは数人でのローテーションだったり、一人で延々とだったりするらしいのだけれど、【ステリレ】がこれ以上【錆の砂漠】へと版図を広げないように、絶えず【境界線】より内側で浄化を続けている。

 当然その区画ごとに【キーパー】が存在している。

 そしてその【キーパー】は、【鎮守の巫女】の守護だけではなく、区画の警護も担当しなくてはいけない。怪しい人物が侵入してくる可能性があるからだ。

 どういう人物かと言えば、例えばラーシュルード村の住人の一部。

 基本的には元いた場所にいられなくなった人が最後に流れ着く果ての地であるラーシュルードには、言っちゃ悪いけど柄の悪い人が多い。そういう人たちが何らかの目的で【鎮守の巫女】に接触しようとする場合がある。

 怨恨、報酬目的のかどわかし、依頼されての敵害行為……まあ場合によっては恋愛感情とか。そんな幾つかの理由で接触してくる人間は、すべて【キーパー】に拠って排除される。【キーパー】の大切な役目の一つは【巫女】を外界の誰かと接触させないようにすることなのだ。

 そういった話を、僕は事前に姉さんから聞いていて、だから下手をすると僕たちは危険になるぐらい手酷く追い返されてしまうんじゃないかと、そんな危惧をしながらクロウさんの後ろについていったのだけれど――


「止まれ! 何者か! これより先は【鎮守の巫女】セレグ様の守る地と知っての狼藉ろうぜきか!」


 三人の【キーパー】に普通に制止の声をかけられて。


「狼藉……言葉の選択が如何にも、だな。セレグ……セレグのミリューか、僥倖ぎょうこうだ。良い巡り合せだ。貴殿、取次ぎを願いたい。ミリュー様にヒナギ・クロウが尋ねてきたと」

「……正気か?」

「気が違っていないかと問われれば判断は困難だが、本気ではある」

「なんと胡散臭い……ええい! お前のような不逞ふていの輩をミリュー様に会わせるわけにはいかない! 立ち去れ!」

「……話の通じない男だ。ひとこと伝えてくれればいい。俺の名を出して取り次いで欲しい。それだけしておけば貴殿の大義名分も立つ。俺を放置し続けるほうが幾らか損だと言うことを後で知るのは、なんと言うか、気の毒だ」

「なにを」

「いいから、行ってくれ」

「…………」


 かなり強引な説得の末、【キーパー】の一人は不承不承と言う顔で【錆の森】の方へ消えて行って、暫くした後、


「ま、真に申し訳ありませんでした!!」


 ダッシュで戻ってきたかと思ったら、飛翔からの四足着地を決め、地面に頭を擦り付けんばかりに平伏(いわゆるDOGEZAだ)して、それから僕たちを【ザ・ライン】の内側へと招き入れてくれた。


「…………」

「…………」


 僕と姉さんは顔を見合わせた。

 なんというか、お互い何とも言えない顔付きをしていた。

 そして。

 そうして。

 【錆の森】を目前とする、【錆】の無い一角に通された僕たちを待っていたのは、


「ヒナギ――」


 【錆】の無い土の上に作られた、見事な造作の施された煌びやかな建築物から飛び出してきたこれまた煌びやかな衣装の――どこか姉さんに似た――妙齢な女性が、


「――ヒナギ様!」

「おっと」


 クロウさんに抱きつくという異常事態だった。


 ――って、抱きついた!?


「ヒナギ様! ああ、いつ以来でしょうか! ようやくわたくしのところへと戻ってきてくださったのですね?」

「五年と二月ほどになりましょうか。ミリュー様も変わらずお元気なようで安心しました」

「そのような敬語など、わたくしたちの間には不要でしょう!」

「いえ、しかし」

「良いのです良いのですまたお会いする事ができただけでも! ああそうだ【オオババ様】にも連絡を差し上げないと! そうですヒナギ様! 皆一様に会いたいと焦がれていたのです! すぐに遣いの者を出しますから、何時かのように何も言い残さずに消えるような無体な真似だけは――」

「いえ、ミリュー様」

「けーいーごー!」

「……ミリュー」

「なんですかヒナギ様?」

「幾つか、尋ねたいことが」

「婚約はまだしておりません!」

「…………」

「スリーサイズでしたら――」


 つかつかつか。

 スパタン!


「いっ! な、何をするのですか無礼な――」

「無礼はあなたです。いつまでクロウにしがみついているつもりですか、ミリュー?」

「――おー!」

「きゃっ!?」


 歩み寄ってどあたまをひっぱ叩いた(【キーパー】の前でそれをやるなんて何て命知らずな!)姉さんを視野に入れるなり、ミリューさんはクロウさんからぱっと放れ、がばっと姉さんに抱きついた。


「モグリのオーキッド! お久しぶり!」

「え、ええ……久しぶりね……なんと言うか、この抱擁も含めて……ああ、そんなに顔を動かさないで」

「柔らかーい!」

「ミリュー」

「いったいつからここにいたの!? わたくし全く気付きませんでした! それにしてもヒナギ様とオーキッドが一緒に尋ねて来るなんて、今日は年の瀬でしたかしら!」

「喜んでもらえるのはありがたいのだけれどその、そうも胸の辺りでぐりぐりと頭を動かされては……いえ、そうではなく。ミリュー、きちんとクロウの話を聴いてあげて」

「クロウ!? はい!? 何でオーキッドはそんなに気軽にヒナギ様の名前を!?」

「因みにクロウは私をアイネスと呼ぶわ」

「そちらも!? ひ、ヒナギ様本当ですかっ!」

「偽りは、含有されていない」

「なんと! わたくしの大切なお友達と大切な御客人がただならぬ関係に!」

「違うわよ」

「姉さん、表情が」

「違います」

「…………」

「ただのモグリの【浄歌士】とその護衛です」

「……そうなのですか、ヒナギ様?」

「恐らくは」

「ははー」


 そして彼女、セレグのミリューと言う通り名の【浄歌士】――【鎮守の巫女】ミリューさんは、意味有り気に笑ってこう言った。


「兎も角は、ようこそ――世界の果てへ」



 あまりにあんまりな怒涛の展開に、僕は完全に取り残されていたのだった。



◎◎



 流されるまま流されたので、展開を一部簡略化したいと思う。

 物凄い人数が集まってきた。

 【錆の森】のすべての人間が集まってきたんじゃないかというぐらい人が集まってきて、そして盛大な宴が始まった。

 この地方の粋を凝らした豪華な食卓。なんか見たことない食べ物とやたら泡立つ苦い飲み物。

 クロウさんは祭り上げられ、お偉いさんみたいに接待責めにあった。質問責めにあった。ボディータッチがやたらとあった。

 姉さんはずっと部屋の隅で微笑んでいて、僕は眼も合わせられなかった。

 かなりの時間、具体的には日が落ちるぐらいの時間が経って、ようやく登場人物が減った。

 或いは――たぶん揃ったんだと思う。


「――やーれやれ。若い者は拙速でならん。ヒナギ・クロウ。そなたの沈着さを分けてやって欲しいぐらいじゃ」


 その人は難儀そうに首をふり、ゆるゆると一堂を見渡したあと、ようやくに皺だらけの顔を破顔させて、穏やかな声でこう言った。


「兎も角――久しぶりじゃあのう、ヒナギ・クロウ?」

「はっ、無沙汰を晒しておりました」

「何を畏まる?」


 好々婆、と言うよりも寧ろ色気が勝ちすぎている笑みで、その人は微笑んだ。


「……立場が随分と変わりました。相応の礼を払うべきと考えます」

「感情は擦り切れ、機械的に礼節を重んじる、か。それはよいが、ふん、年寄り扱いは酷い」


 拗ねたような事を言う。


「年齢だけで言えばそなたのほうが遥かに上じゃろう? 儂が子供の頃となりの一つも変わっておらぬ。オルトロの【侵食】を経験したときともの」

「…………」

「ほれ。もう一度口を開いておくれ。敬語は要らないよ?」

「……何故俺の周りの女性はいつも、そうやって俺の敬意を無意味にするのだ」


 クロウさんの疲れたような、憤るようなその言葉に、姉さんがかみついた。


「口に出ているわ、クロウ。そしてその周りのと言うのは、まさか私が入っているのではないでしょうね?」

「違う。それは違う。違う。違うぞ、アイネス。何故睨む!?」

不本意DISLIKE。睨んでなんていないわ」

「睨んでるよ、姉さん……」

「睨んでいないわ。これは、そう、生まれつきよ」

「オーキッドはそんな険の強い美人さんではありませんわー」

「俺も、そう思う」

「クロウ」

「……エピネス、どうにかしてくれ」

「僕に振らないで下さいよ!」


 何とかできるわけ無いでしょ!


「演技上手な無感情め……まあ、儂が何とかせねばの。これオーキッド、やめよやめよ」

「……あなたがそう仰るのなら」


 嗜められた姉さんは、まるで子供がするように不承不承といった感じでクロウさんを睨むのをやめた。


「睨んでいません」


 心を読まないでよ、姉さん……。


「いや、しかし……どうやら違うようだな、初対面と言うわけでは、ないのか」


 クロウさんが、かいてもいない額の汗を拭いながら、仕切りなおすようにそう言って、視線を姉さんとミリューさんと、そして、彼女に向けた。

 彼女。

 縮んでしまったように小柄な身体の、幾つもの齢を重ねた女性だった。その優しい顔には、深いシワが幾つも刻まれていて。にも拘らず、とても綺麗な顔つきの、【浄歌士】特有の顔つきをした女性だった。

 この場にいるのは姉さんの親友にして【鎮守の巫女】――セレグのミリューさん。

 傍流亜流の逸れ【浄歌士】――モグリのオーキッド・アイネスこと姉さん。

 僕――オーキッド・アイネスの妹、オーキッド・エピネス。

 僕と姉さんの護衛、不死者――漆黒のヒナギ・クロウ。

 そして彼女。  

 通称【オオババ様】。

 僕でも知っている、前世代最高の歌い手。

 ステリレのイブキ。

 【浄歌士】本流血族――イブキの頭首。本来ならば【ステリレ】の人類最高到達域で神聖なる【浄歌】を絶えず歌い続けているはずの、いま最も強い権限と高き信頼を受ける、正真正銘の【浄歌士】。

 イブキ様。

 その人が、僕たちと場所を同じくしていた。


「俺は全員と面識がある。イブキ様とは」

「けいごーじゃー」

「……イブキとは彼女が幼少の頃から付き合いがある。ミリューとは」

「私は様付け無しなのですか……」

「……ミリュー様とは」

「けーいーごー」

「……、……、ミリューとも幼い頃からの知り合いだ。アイネスとは」

「……私も言ってみたかった」

「……………………、オーキッドさん」

「……敬語」

「アイネスとは数ヶ月前に知り合い護衛の任を拝命している。曰く、ナイト、だ。エピネスも同じだ」

「……僕には付け入る隙すら作ってくれないんですか、クロウさんは」


 るーっと涙をちょちょぎらせる。

 この人、気遣いが出来るのか出来ないのかやっぱり微妙だ。

 僕は隅っこの方でいじけて見せたがクロウさんは躊躇うことすらなく話を続けた。


「アイネスはミリューとは旧知のようだが」

「ええ、私とこのテンション高めの娘はそれなりに長い付き合いよ。時々私の仕事を持っていく以外は、やはりそれなりに良好な関係性を保っています」

「逆ですわー、わたくしの非番に回る地域をオーキッドが奪っているのですわー。ヒナギ様、どうか誤解なさらず。意地汚いのは私ではなくってオーキッ」

「……ミリュー、そう言えばあなた、昔キワナの村で全ら」

「きゃーきゃー!? い、いったい何を言い出すのですかオーキッド!! よりもよってヒナギ様の前でッ!?」

「取り乱すなんて、何かやましい事があったのかしら? いやね、クロウ。女なんてみんなこうですよ」

「……わたくしが悪かったからそんな事を言い出さないでッ!」

「…………」


 ぷい。

 姉さんはそっぽを向いた。


「…………」


 クロウさんはなんとも言えない表情をしたあと、口を開けて、重い疲労にやっぱり閉じて、それでもどうにか気を取り直し、なんとか言葉を発することに成功した。

 一種、義務感があったのかもしれない。この場の常識人は、僕とクロウさんだけだ。


「……そしてミリューは当然としても、アイネスはイブキともまた面識が有るようだ。エピネス、君は」

「僕はありませんよ。だけど、姉さんは」

「まあ、そうですね。私は、生きているのが不思議なそこの後期高齢者とはそれなりの付き合いがあります」

「相変わらず口が悪いのー」


 イブキ様が、目を細めながらそう言った。


「そうじゃよ、ヒナギ・クロウ。儂はそこの娘と、それなりの付き合いがある。何せ、オーキッドの母親と親しかったぐらいじゃからな」

「お母さんと、ですか?」

「ん? ああそうじゃよ、オーキッドの妹。そなたの母上、イオのリマナとは旧知じゃ。あれも【鎮守の巫女】に選出されてもおかしくないほどに、善き歌い手じゃった」

「お母さん……」

「全く以って、謎の女ではあったがの。十代の初め頃に、そなたの父親と、まだ幼いそなたの姉を連れて唐突にここを訪れおったわ。素性一切が知れぬくせに【浄歌】を唄い、儂と並ぶほどの【浄歌士】であり、言った通り【アービトレイター】に選出されながら、逃げるようにここを後にして、その後すぐに、亡くなってしもうた」

「…………」

「む、すまんな。まだ、辛いか。そうであろうの、そうであろう」

「い、いえ、僕は」

「……お前は、知らないでしょうが。ちなみに私は、ここで幼い頃を過ごしたのよ」

「え?」


 姉さんが話を変える様にそう言った。イブキ様が笑う。


「おおそうであったそうであった。僅かな月日であったが儂もいくらか苦労をさせられたわ。オーキッドはなんともはや快闊な子で」

「エキセントリックだったのですわ」

「おお、ミリューの言う通りじゃ。エキセン……まあそれじゃ。それで悪戯好き。今よりよほど質の悪い娘じゃった」

「覚えていないわ。捏造よ。これだからもうろくした後期高齢者は」

「訂正。今も十分に質、と言うよりも口が悪いの」

「…………」

「しかし、可愛い娘じゃった。他人ではあったが、儂は、目に入れても痛くないほどだったよ」

「……オオババ様」


 少し目を細めて、イブキ様は姉さんを見た。姉さんは困ったような顔をしていたけれど、どこか嬉しそうな色がそこにはあった。


「そうそう、オーキッドとも当然儂は面識があるが、そなたとも一度、幼い頃におうっておるよ?」

「え? 僕と、ですか?」


 それは知らない。すると、かなり小さいときのことだろうか?


「もう十年近くも前じゃ。ボロボロになったオーキッドが、心此処に在らずのそなたを連れて、助けを請いに来たことがあった」

「――!」


 そ、それは――!

 甦る。

 赤い花。

 血の彩り。


 【クロサビ】――うう!


「オオババ様!」


 誰が叫んだ。


「む。しもうた。そうじゃった、それは、そなたと語らぬと約束を」

「そう!」

「……すまん」

「謝る必要はないわ! 己の迂闊さを呪いなさい!」

「オーキッド! 幾らなんでもオオババ様にそんな言い方は!」

「いいえ! このくらいで構わないの! でないとこの年寄りは、きっと私のことも――」

「オーキッド!」

「――ッ」


 な、なにがなんだか。


「う、ううう」

「……大丈夫だ」


 誰かが、そっと、そう声をかけてくれた。


「うう」

「大丈夫、だ」


 そうして、抱き締められる。


「く、ろう、さん……?」


 それは、漆黒の彼で。


「俺がいる」


 低い、だけど優しい声。


「みなもいる」


 繋ぎとめるような温かさ。心臓の音がトクン、トクンと聞こえる。これは、クロウさんの。そして、きっと僕の。


「誰も、君を見捨てはしない」


 穏やかな音色。心地良い温もり。


「エピネス」


 そっと、名前を呼ばれて。


「大丈夫だ」


 その魔法のような言葉に僕は。


「……はい」


 小さく、頷きを返す。

 抱擁が、解ける。


「あ」


 僕は、まるで姉さんとの抱擁が終わってしまったときのような名残惜しさを感じて、そんな声を上げてしまって。だけど笑みが、薄い、優しい笑みが。


「エピネス。大丈夫だ」


 そっと伸びた大きな手。それが優しく僕の髪を撫でた。


「…………」


 僕は惚けたように成すがままになって。


「ひーなーぎーさーまーっ!!」


 空気を読まない人の魂を削ったような叫びで現実に強制送還された。


「わたくしも! わたくしもっ! 釣った魚には餌をギブミー!」

「君を釣った覚えが俺には皆無なのだが」

「そうよ。下がりなさいミリュー。クロウ、どうしてもそうしたいとあなたが言うのなら、特別にこの髪、触らせてあげてもいいのよ?」

「いや、それは……思わない訳ではないが」

「そう、そこまで懇願されては雇い主として一つぐらい願いを聞いてあげなくてはいけないわ。さあクロウ存分に」

「オーキッド! 抜け駆けは……許しませんわ!」

「ミリュー」

「何の話かしら? 私は忠実な護衛の心の底からの願いを無碍むげには出来ないと言っているだけで」

「アイネス」

「相も変わらず口先だけは巧みなことですわね! ですが! ヒナギ様! こんな性悪よりもわたくしのような従順な女を」

「何を言い出すのですか汚らわしい。私とクロウはそのような関係ではありません。しかし、そう勘違いされてしまっても不思議ではないほどに私とクロウの心は通い合っているのだから」

「だまらっしゃいオーキッド! わたくしはあなたのそういうところが嫌いなのです」

「私も、そう割り込んでくるあなたが好きではなかったわ」


 ばちばちばちばちっ!

 そんな音が聞こえてきそうなほど二人の【浄歌士】は睨み合い。


「…………」


 クロウさんは珍しくオロオロとした様子で、そんな二人の間を右往左往していた。


「まったく、騒々しい連中よな? 特に黒いのが質が悪い」


 いつの間にか隣にいたイブキ様がため息を付き、僕に向かって小さく同意を求めてきた。

 僕は、


「まったくです」


 そう思い頷きながら、嬉しくて笑った。

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