第三章 過去想々 TRAGEDY

1

 ――人の過去の大半は悲劇か喜劇だ。

 ……人はそれ以外を覚えている事が出来ない。

             G・T・グレムス 西暦2029年 過ぎ去りし過去



§§



 何かの音。

 涼やかで、凛と伸びる、澄んだ音。

 聴くだけ心が柔らかくほどける、こころよい音色。

 そして、明るい光りが射し込み――ヒナギ・クロウは目を醒ます。


「――――」


 瞳を開き、僅かに左へと傾ければ、窓辺に腰掛けるその姿がすぐに目に入った。

 彼女だ。

 春のように明るい色合いの髪が、朝の――恐らくは朝の柔らかい光りに照らされ、煌めくように広がっている。


「……歌っていたのか」

「――あら? もう目を醒ましたの? 今日は早いのね。おはよう、クロウ?」

「……ああ、おはよう」


 何時に無く饒舌じょうぜつな彼女に、戸惑いながら挨拶を返し。


「そうか」


 得心いって、跳ね起きる。


「今日はお前の」

「くす。クロウの癖に、覚えていたの?」

「酷い言い様だ」

「あら、文句が?」

「…………」


 いや、ないのだが。あるわけもないのだが。


「しかしそれでも、俺がお前の、それを忘れるというようなことは、あってはならない」

「目覚めるまで忘れていたのではないの? 昨日もまた、残業だったようだし。仕事中も忘れているのでしょう?」

「…………」


 お前は何故そうも、的確に俺の痛い所ばかり……。


「まあいい」

「自己解決ね」

「そうだ」

「自己満足ね」

「そうだ」

「……自己、自己。私のことは、何かしら思ってくれているのかしら?」

「……ああ」


 俺は、言った。


「愛している――マナ」


 彼女、イブキ・マナは、


「ええ、私もクロウを愛しているわ」


 星のような紫水晶アメジストの瞳を細めて微笑み、そう言った。



◎◎



 ベッドから降り、着替えとシャワーのためにバスルームへ向かう。肌がピリリとするぐらい熱めのお湯を浴び、意識をはっきりとさせる。こう言ったものは儀式のようなものであり習慣と変わらないが、平時と同じ行為は安定を齎しその日一日を円滑とする。まじないのようなものだが信じれば効く。そういうものだ。

 空圧式洗浄装置エア・シャワーなどの流行はやりもあるが、俺はお湯が使える限りはお湯を浴びる。汚染の危険性が多少あろうとも、アルコールやタバコと同じようにそう簡単に止められるものではない。熱湯の肌を焼くピリピリとした感覚は一種の依存性、中毒的な快楽を生じさせるのだ。


「……などと、どうでもいいことを考え」


 姿見でを確認し、溜め息を吐き、着替えを終えた俺は、リビングへと向かう。油の弾ける音と芳ばしい香りが漂ってくる。


「ありがたい」


 知らずそんな言葉が漏れ出た。冷蔵庫は空のはず。ここ数日口にしたのはビタミン剤ばかりだった。物価の急激な上昇の所為だ。ろくなものは食べていなかった。いや、汚染の件もある。十重とえ二十重はたえに浄化施設が山済みの水とは違うのだ。水にしても海水は汚染されている。

 窓から外を覗く。汚染霧スモッグにけぶる幾何学的高層建築物群。針山のようなこの街は、何もかもが汚染されている。

 いや、汚染されているのは街だけではない。食料は市場に出回っているものも安全とは言えないし、それでもそれを食べなければならない庶民は、不幸なのかも知れない。生きるために食事をするが、その食事は汚染され、毒染みているなど、何の悪い冗談なのか、と。

 しかし、ならば俺は幸福なのだろうか?

 ……幸福、なのだろう。彼女が持参してくれる食料は、確実に安全だ。あれが安全でないとするならば、この世界で安全なものを食べている人類など存在しないということでしかない。だからありがたかった。


「いや……無論。ありはするのだ、それでも難点は」


 だがそれを、今は目を瞑ろう。果てしない試練ディシプリンのようなその事実は、しかし食事が胃に入る喜びで中和されるはずだから。


「酷い言い様ね」


 リビングに居ながら俺が迂闊にも発してしまった独り言を聞き咎めたのか、IHヒーターの前で古風にもフライパンを奮っていたマナが、最前の俺の言葉を真似する形で拗ねて見せた。美人の彼女が魅せるその幼びた仕草は、寧ろ可愛らしかった。


「でも確かにクロウの考えている通りよ。私は料理がそれほど得意ではないわ。寧ろ苦手と言ってもいいでしょう。だけれどそれでも、こう、言わないかしら、『愛情は最高の味の素』だとか……」

「拗ねているのか誇っているのか冗談を言っているのかどれか一つにしてくれ」

「『愛情は最高の……」

「いや、何故それをチョイスする?」


 そして恐らくだが正答は調味料かスパイスだろう。


「いや、謝罪しよう。お前は両親の目を盗んで、来てくれているのだろうからな」


 俺などと、本来彼女は接点など存在しないはずなのだから。だからそう告げれば、彼女はその瞳を細めてこう返してくれる。


「ええ、そう。私は父と母の警戒網を抜けてここに来ているのよ。この食材だって」


 彼女はシンクに置いた野菜などを示す。


「あの二人が非情に溜め込んでいるものをちょっと拝借してきたものよ」

「……済まない」

「謝るぐらいならお礼を言ってちょうだい」

「ありがとう」

「ええ」


 それでいいのよと彼女は言って、食器棚から取り出した白皿の上にカリカリに焼けたベーコンを載せた。


「なんと……ベーコンか」


 そんなもの、もう十年は食べていない。


「合成だな」

「違うわ。本物よ」

「……豪勢だな」

「今日は特別な日だから」


 言いながら彼女はしなびれていないシャキシャキのレタスや変色していない赤いトマト、嫌な臭いのしないサニーサイドアップを皿に盛り付けていく。


「どうせこんなもの、あの二人は食べる量以上に貯めこんで、劣悪なことに食べきれず腐らせてしまう。それなら、私とあなたで食べたほうが遥かにいいでしょう」

「そうだな」

「……どうせ、私が誰かにこれを渡しても、その誰かは食べてすらくれないでしょうから」

「…………」


 かける言葉が、自分にあるのだろうか? 暫し自問し、自答を得る。


「大丈夫だ」


 何の意味も価値も無い言葉を紡ぎ、目前の女性を抱き締める。


「…………」


 マナもまた、俺の言葉の無価値さを知りながら、それでもそれを受け入れてくれる。

 俺達は知っている。現実は決定的に壊滅的で、俺達の味方など、いや、全ての人間にとって味方と為り得るものなど此の世には存在しないことを。

 現実は無価値で。

 世界は無意味だ。

 そんなことは、今の時代を生きるあらゆる人間が知っている。

 その辛辣な残酷さも含めて。


 二十二世紀に於いて深刻化していた環境問題は超過剰消費、強引な第2次産業革命による電子機器・新型発電施設の発展・登場を経て二十三世紀に至る今は破滅的に勢力を増した。

 酸性雨、温暖化、異常気象。そんなものは生温い。

 環境汚染、その至る環境の破壊、人体への弊害、この惑星へのきず。それは、深刻などと云う言葉では足りないほどであった。

 世界の森林の4割は朽ち果てた。どれほどの危惧種が絶滅したかも分からない。

 内分泌撹乱物質――環境ホルモンを筆頭とする化学物質による汚染は大量の畸形きけいや出生率の低下、遺伝子の致命的な異常などを齎した。特に胎児の致死率と畸形の有無は絶望的な数値となりつつあった。

 今はまだ。

 という、その程度の慰めも、有りはする。

 だが既に畸形と云うなら誰であってもそうだ。もはや過去百年と全く同じ遺伝子を持つ動物など存在していないだろう。

 ……俺やマナの、メラニンの観測できない髪や瞳の色もまた、そう云う理由だった。

 重金属による海洋、土壌の侵食も著しい。ゼロエミッションなどありえなく、産業廃棄物は致命だった。資源も枯渇している。

 大気の汚染もまた、甚だしい。南西大陸で起きた核分裂連鎖誘発型核融合実験施設の炉心融解メルトダウンもそれを加速させた要因だろう。死の灰も、黒い雨も、降った。レアメタルの採掘もあり、強烈な放射線を発する放射性物質は世界中に蔓延している。被曝など、既に珍しくも無い。

 汚染。

 砂漠化。

 破壊。

 この世界は、人の手に拠って滅亡へと向かっていた。


「――それでも」


 俺の腕の中で、マナは呟くように言う。震えを感じた。或いは怯えか。心が弱っているのかも知れない。そうであるはずだ。されど、マナの続けた言葉は、そんな中に於いても光りのあるものだった。


「それでも――私たちは生きている」

「――――」


 強い。そう思う。出逢ったそのときから変わらない彼女の強さ。俺はそれに惹かれたのだ。身分など何も違う、接点など無かったはずの彼女に。

 そう、彼女は貴種だ。生粋きっすいの、貴き者。


「私たちは、まだ生きていて。そして私やあなたには、この世界をどうにかできる知恵と技術が、チカラがあるわ」

「……ああ」


 その通りだった。

 そのために、そうであったからこそ、俺と彼女は出逢い、今ここに在り、今日を迎えている。


「【HOPE】は、今日完成する」


 俺は言った。10年、骨身を削り心血を注いだ世界を救うはずの、その名を。


恒常的Homeostasistic壊滅環境Overwhelm‐environment沈静型Pacificate適応性ナノマシンEcad‐type‐nano‐machine――【HOPE】。環境自体を改善し、重金属を固定し、化学物質を安定化、放射性元素の半減期を急速に早めることもできる。あなたがずっと研究を重ねて」

「お前と出逢って、完成した」

「……まだ、十全には信じられないわね。私の声に、そんな不思議な力があるなんて」

「声――正確にはお前の【歌声】だ」


 マナの【歌声】。彼女の歌声には、世界の誰にもない【力】がある。


 【原初の揺らぎアルファ・ウェーブス】。


 誰にでも在り、誰にも無い振動。

 この厳密には現代科学でも解析も再現も不可能な振動数は、あらゆるものに作用する。俺の国の言葉で簡単に表現するならば、それは【言霊】と云うことにでも為るのか。活性と鎮静。ある場合はとある【何か】のパフォーマンスを最大限に引き出し、またある場合は同じ【何か】の発現を最低限に抑える。そして何よりも重要なのは、アルファ・ウェーブスが物質に【指向性】を与えることだ。

 それは無機物に、何かを成すと云う【意思】を与えるに等しい、これまでの科学の常識を覆すような振動。観測こそが世界の在り様を示すと云う量子力学から見ても異端。そんな振動の発見が【HOPE】の完成に一役も二役も、決定的に影響を及ぼしていた。

 元々【HOPE】は、激発するガンの発現遺伝子に対する根本的で確実性のある劇的な組み換え・改善を目的として開発されていた有機ナノマシンだった。俺はその、一若年研究者に過ぎなかった。


「だが、俺は其処で、お前と出逢った」

「父――あの男の研究施設視察の時だったわ。今でも、よく覚えている。私のお守りを負わされたあなたの弱ったような顔を」


 くすりと、彼女は笑った。

 俺は渋面を作る。あのときのトラブルは、正直を言えば思い出したくも無い。イブキ・マナの性質は、あの頃より一つとして変わってはおらず、周囲と反することにかけて彼女は天才的だった。


「しかし、だからこそお前は、あの場所で歌を唄ったのだろう」


 運命と云う言葉を、生物学的以外の意味合いで俺はあまり用いたくはないが、あれは云うならば確かに運命のようなものだった。

 俺の制止を振り切り、【HOPE】の実験施設まで侵入した少女だったマナは、俺をいらうように研究室内で唄って見せた。今でも明確にその歌声は思い出せる。あの澄んだ、伸びやかで、美しい音色を。



『――ルーリア イロイア

 リュートリリス リールア

 ルーリア イロイア

 セイレーシス セロイルー

 アイルルー

 アイルー

 ヒューリーリールリ

 ヒュリルーリリ ヒュリルーリル、レイアソ レーイアーソ――』



 悠久の昔、まだ物理からは遠く真理にこそ近かった世界樹の民が祝福を込めて唄ったと言われるそんな優しくも儚い、悲しくも愛しい歌を、少女は唄った。

 そしてその【歌声】はアルファ・ウェーブスを紡ぎ【HOPE】に劇的な変化を齎した。その変化の研究を続けるうちに俺は主任研究員となり、マナは実父に研究への協力を義務付けられ、俺とマナは、そのうちに――


「【原初の揺らぎ】、ね。私はまだ、信じられない。あの時は本当に、あなたに歌を聞かせたかったから唄ったに過ぎなかったというのに、ね」

「……そうか」


 少女から成熟した女性へと変わった彼女が、何か疼痛のような響きを帯びるそんな言葉を口にした。

 【アルファ・ウェーブス】。

 研究の末に解ったことだが、生物は皆、この揺らぎを生じさせる事ができる。だが、物質に明確な作用を及ぼすほどの【歌】を紡ぐ事ができるのはイブキ・マナだけなのである。その【歌声】は再現も解析も出来ない。如何なるメディアや機器を使って録音を試みようとも、無力さに打ち拉がれるしかない。

 だからこその貴種。

 だから彼女は、囚われのかごの鳥のように、彼女の父親によって、いまだその自由の多くを束縛され。


「それでも、私は一切の後悔をしていません」


 マナは、俺を見詰めてそう言った。


「ああいう事があったから、私はあなたと出逢った。あんな事があったから、私とあなたは今日まで一緒にいられた。それの何を、後悔しろというの?」


 私の自由は制限されたけれど、一番自由でありたい【心】は何一つ束縛なんてされてはいない。

 彼女はそう言って、微笑んだ。


「そう、後悔はしていないわ。だけれどもし、後悔をするというのなら……」


 彼女は意味有り気に、俺の後ろへと視線を投げた。


「せっかくの私の手料理が冷めてしまったことを、クロウは後悔するべきなのよ?」


 こんなとき男は、苦い顔で唸るしかないのだった。



◎◎



 イブキ・マナの役目は【鍵】だった。

 彼女の【歌声】に反応し、世界を汚染する数多あまたの物質を安定的に固定しその危険性を極限まで下げる事ができるよう【HOPE】に意思を与えること。

 準備としての調整は終わり、ナノマシンは完成の域にある。環境の修復機構を促進するプログラムも備えた。有機物だけでなく、核となる原子を大気中・土壌中から取り込み、汚染物質をもパーツに変えることを可能にし、自己増殖性の機能も与えた。しかしその始まりと停止は、如何にしてもマナの歌声が必要だった。

 つまり、彼女自体が【鍵】なのだ。【HOPE】の活性化と沈静化、有体に言えば制御だった。それを可能にするのは彼女の歌声だけであり、そしてそんな不確定なものに頼らざるを得ないほどにこの国の住民は、世界の全ての人類は、困窮し、追い詰められていたのだ。

 世界が今一度、人が住まうことのできる場所に戻るかどうか。その全ては彼女の細い肩に――その【歌声】に懸かっていた。


「…………」


 そんな、双肩に人類の未来を乗せているイブキ・マナはと言えば。


「クロウ、もっと急ぎなさい」


 穢れた大気や強烈な紫外線から人を守る密閉円環歩道シーリング・ロードの中を鼻歌でも歌いかねない調子で歩んでいた。


「…………」


 俺はその後を、大量の荷物を抱えて追随していた。主に衣類である。だからそれほどに重さは感じない。感じはしないが、それでも荷物は荷物である。成人男性であっても研究職であることも鑑みてそれほど体力に秀でているわけではない俺にはそれはある程度の負荷とはなっていた。


「しかし」


 構わない。そんな思いも、ある。マナのためと云うのならば、この程度は、何一つ構うものではないのだろう。


「だから、何をしているのクロウ? 早くしないと置いていくわよ?」


 何故か不思議そうな表情で彼女は言うので、俺は答弁しながら両の足を動かす速度を上昇させる。


「待て。はやる気持ちは分かるが何も衣服は逃げまい」

「誰かが購入してしまうかもしれないわ」

「…………」


 もっともであった。

 仕方が無く更に足を速め、漸くに彼女の隣りへと並ぶ。


「あとどの程度巡る?」

「服はもうあと二~三着、揃いで欲しいわ。アクセサリーは、うふふ、クロウが何か贈り物をしてくれるのでしょう?」

「……お見通しか」

「10年一緒にいるのよ? 大抵のことは、分かってしまうわ」

「不快な思いをさせてはいないか?」

「そう尋ねられる事が少し不快ね。だけれどほら、言うでしょう? 【本草綱目ほんぞうこうもく】?」

「……いや、それは、もしや……?」


 真逆――【恋は盲目】と?


「そう、それよ」

「いや、いやいやいや」


 何をどうすれば文明開化以前の書物とそのことわざを取り違える?


「小さなことにあなたは絡むのね。それこそ盲目に為りなさい。【あ、バター・萌・空母】と言うでしょう?」

「……【痘痕あばた笑窪えくぼ】だっ!」


 なんだそれは。流石に声を荒げた。


「わざとか! それとも天然か! はっきりしろマナ!」

「養殖ではないわ」

「む」

「洋食でもないのよ?」

「いや、それは確かだが……」

「要職では、あるのだけれどね」

「…………」


 ……それは、そうであろう。

 彼女の父親のことを思えば、それは動かす事が酷く困難な事実であろう。

 彼女の父――イブキ・リュウガ。

 この国を治める絶対的統治者。小国であるこの国を世界でも屈指の経済大国へと仕立て上げた男。幼い今の帝を御輿として担ぎ上げ、統治権を掌握したあの男。非情とも言われる彼の手腕によって、今だ国には形を成していると言っても過言ではないだろう。過言ではないが、寡言でもない。人々が世界の破壊に追い詰められながらもなお暴徒と化さないのは、間違いなくその非情さゆえなのだ。

 非情。残酷なまでの非情さ。

 かの統治者は容赦をしない。不利益は斬り捨てるのみ。薪として炉に投げ込まれる。それだけのこと。しかしどれほどに困難とも知れぬそれを躊躇無く行えるのだ、あの男には揺ぎ無い信念とカリスマ(言い換えるならば野望か)があるのだろう。それはまた、娘であるマナにも言えることではあった。マナは絶対に一度決めたことを曲げるような人間ではなかったからだ。しかし、非情ではない。マナは寧ろ、情に篤い。その態度や言動からでは推し量ることも出来ないが、父親の非情さに胸を最も痛めているのは他ならないその娘自身なのである。

 その娘が言う。


「私はあの男の私的な補助役という、なんだか宙に浮いている立ち位置だけど、それなりの要職ではあるのです。特権を使って、クロウとデートができるぐらいには」

「……喜ぶべきことか」

「嘆き哀しむことではないでしょう?」


 全くその通りだった。


「うん、特権と言っても今日は特別にスケジュールが空いていたに過ぎないのだけれど。空けたわけなのだけれど……これ、どういう意味か、分かってもらえるかしら?」

「はて」

「……朴念仁」

「……?」


 何か恨みがましい目付きで睨まれた。


「クロウは本当に機微も伊呂波も分からないのね? この10年で痛感したわ。淡い乙女の恋心も、クロウには通じもしない」

「……? 何を言っているのか、全く理解出来ないのだが」

「理解できない……それはそれで大いに凹むわね。父へとクロウが【】完成形を提出することすら早めての今だとというのに……」


 マナは暫く俯いて何事かをぶつぶつと呟いたあと、その美しい顔を跳ね上げて、笑うようにしてこう言った。


「兎も角、明日になるまではまだ時間があるのだから、クロウは精一杯に私に貢ぎなさい」


 微笑みとも頬笑みとも着かない不思議な笑みを浮かべて彼女はそう言った。


「…………」


 俺はその笑みを見て、諾々だくだくと従うことを決めた。



◎◎



 昼食。

 この時勢にレストランなど開店しているわけも無く。

 俺の自宅へと一度戻り、速く遅くも無く昼食を胃に収めた。流石に朝ほどの豪勢さは無い。だがカップラーメンと云う嗜好品に有り付く事ができたのは僥倖であった。以前、何処かの企業がサンプルとして研究所に置いていったものをくすねていたのだが、まさかこんな形で食することに為るとは思ってもいなかった。


「……昔の人はカップラーメンが最後の晩餐だと聞いたらどんな顔をしたのかしら?」

「知らん。それに晩餐でも最後でもない」

「気分の問題よ」

「その気分をやめろ。安全は、俺が保障する。警備も、予測も完全のはずだ」

「そう、あなたが保障してくれるの」


 なら、安全ね。呟いて彼女は麺を音も立てずに啜る。


「だけれどやっぱり、昔の人がこれを晩餐だと言われたら、有り得ない、という顔をするのよ、きっと」

「……今の俺達からすれば、とんだ贅沢者だな」

「時代は変わるということでしょう。この世に不変など無いということでしょう」

「変わらないものも、ある」

「……なぁに?」


 優しい色。瞳の輝き。慈愛のような微笑み。それに一瞬、俺は言葉を躊躇して、それでも次の刹那には想いを言葉に変えた。


「俺の、お前を想う心は、きっと変わらない。変わりは、しない」

「…………」

「一〇年、一〇〇年、一〇〇〇年……例え永劫の時を経ようとも、俺が生きていようとも死んでいようとも、それでも俺がお前を想うこの心だけは恒久に変わらない。俺はそう、信じている」

「……そう」


 マナは微笑みのまま何かに耐えるように瞳を鎖し、小さく頷く。


「ええ。きっと変わらないでしょうね、あなたの想いは」

「…………」

「……期待している?」

「ああ」

「……私の想いも、きっと変わらないわ」

「そうか」

「問うまでも無いでしょう?」

「問うまでも無かったな」

「愛しているわ。誰よりも、クロウを」

「愛している。誰よりも、マナを」

「……今日という時間は、まだあるけれど、どうするのかしら?」

「お前の望むとおりにしよう。今日はお前のための日だ」

「そう」

「また、何処かに?」

「いいえ」


 彼女は小さく首を振った。

 それから、その輝く瞳で俺の灰色の瞳との間に線を結ぶように見詰め、言った。


「今日はもう、何処にもいかなくていいわ。だから、後はずっと、あなたと語らっていたい」


 お願いしても、いい?


「ああ。望むままに」

「夜更かしね」

「体調だけは」

「分かっています」


 ならば、何も言うまい。言う必要もあるまい。

 案ずる必要も無い。俺の知るイブキ・マナは、強く、聡明な女性なのだから。


「…………」


 だけれどそのとき、彼女の瞳には、言いもしれない澱のようなものが、浮かんでいた。


 一筋流れた涙を、俺は確かに見てしまった。



◎◎



「――だから、あのときには、もう。彼女は或いは、ああなることを、予測していたのだろう」


 今になり、そう思う。


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