2
◎◎
下らない話をした。
取り留めの無い話をした。
過去について語った。
未来について、語った。
研究室から持ち出した実験用エタノールを水で割り、クエン酸や合成甘味料を入れて即席のアルコール飲料に変え、語る全てを肴に語り尽くさんと言葉を重ね、言葉を交わし。
その日の終りが来るまでを。
明日の朝日が昇るまでを。
惜しむ様。
愛しむ様。
イブキ・マナのその生まれた日を祝福し。
今日まで生きたことを、明日を生きられることを祝い。
愛を語らい。
俺は彼女の明るい髪に映える青藍のヘアーオーナメントを送り。
彼女はそれを、喜んで受け取ってくれて。
あとはただ語らい。
それで、日の光が昇れば訪れる【希望】と云う名の実験への餞別と、覚悟を決めるように。
ただそれだけの――安全も地位も保障され、それでも不安であったであろう彼女を慰めるための――それだけの時間は安寧と共に過ぎていく、そのはずだった。
だがそれも、一通の電話が、すべてを砕いた。
まだ朝日の昇らない頃。
アルコールに幾らか支配された脳髄に、その電話は衝撃と為って飛び込んできた。
【HOPE】が強奪された――と。
それは酔いを吹き飛ばすには充分過ぎた。
そして次の瞬間室内を満たした轟音と閃光に、俺の意識は刈り取られる。
それがフラッシュグレネードの齎した衝撃なのだと理解するのは意識の戻った数時間後のことだった。
◎◎
「――……」
目を醒ましたとき、四肢は椅子に括り付けられ固定されていた。最も初めにそれを確認した己を恥じた。
暗闇に叫ぶ。
「マナ!」
返る答えは、しかし彼女のものではなかった。
『――さて。現状を、君はどの程度理解し、その名を呼んだのか』
電子合成音声だ。
だが、その声に混じる冷徹な、あまりに冷徹な響きに、俺は戸惑いを抱いた。おおよそ己と同じ人間とは、終ぞ思えない、
脳内でパーツを組み上げ、ただでさえ少ない情報から選別と推測を重ね、発想を飛躍。詰問する。
「お前が【HOPE】を奪ったのかッ!」
『ふむ』
嘲りと共に鼻を鳴らす音。
『その若さでありながら【大東亜帝国統合研究所】筆頭研究員と云うだけのことは、あるようだ……しかし、君が私に尋ねるべきは、そのようなことでは、ないのではないかな? 今君の言ったそれは、既に推測が着いていることではないかね? であれば、君の初めの叫びこそがまさに正しく――』
俺は、
「黙れ! ならばマナは何処だっ? お前達は何をするつもりだ!」
『――ほぅ……?』
「俺が分からないと思うか。マナは【HOPE】の鍵だ。それをお前達は知っている。でなければ同時に奪取することなど有り得ない。重ねて一つ、マナを知るならばそれはお前達が【HOPE】について最高機密までを知る立場にあると云うことを示す。であるならば、お前達は【HOPE】で何を為す? あれは純粋なる環境改善能力を有するナノマシンに過ぎない。それを理解しているのか!」
『……なるほど』
俺の責め問いに、声はくつくつと笑った。
「なにがおかしい?」
『いいや、いいや。君の優秀さを再確認したに過ぎない。意識を取り戻し、まだ間もないにも拘らず、君はそこまで状況を把握しているのか。ならば話は早い』
「なんだと?」
何一つ見通せぬ闇の中でその声だけが響く。ゆったりとした語り口の冷徹が、僅かな熱を帯びた。
『我々は――世界救済の誉れを受けたいのだよ』
――なん、だと?
「くだらない!」
反射的に、思わず叫ぶ。
いったいなぜ、そんなものを求めるのか。
『そんなもの? 君にはこの価値を理解できないかね? 我々が救世主となれば、歴史に名を刻むも自在、民衆の支持が得、財貨を得、彼らを導く存在となる事、もまた自在だが?』
「そんなものに価値は無い!」
『否、あるのだよヒナギ・クロウ。人間を束ねることに、意味はあるのだ。それに、君の聡明なる頭脳は――これは決してお世辞でも嫌味でもないのだがね?――恐らく、既に察しをつけているのではないかな? 君が呼んだ彼の女性さえいれば、【HOPE】は幾度でも使えるのだろう? あの【HOPE】には、この国の住民たちが思っている以上の、思いもつかないほどの、環境の修繕能力がある――違うかね? 他ならぬ君は知っているはずだ。ならばそれを、最大限活用すれば、汚染すら気にする必要が無くなるということではないかな?』
「――ッ、貴様!」
それは、つまり。
『我々がそれを一手に担えば――さて。自ずとそこから出る結論は、言葉に変える必要も無いほどに自明ではないかね?』
「――――ッ」
そんな理由で。
そんなくだらない理由で。
「……マナは、何処だ」
噛み殺すような声が己の喉より出た。想いを噛み殺し、対象を噛み殺す、そんな声。冷えた、どす黒い、激情。
そんな、声。
だが闇より響く声は、それを嘲笑する。
『見当がつくことをさも無知のように振る舞い聞き出そうとするのは、
「…………」
『そう、口を噤むこともまた正しい。その賢明さに免じ、よかろう、教えよう。我々は彼女を害するつもりは無い。それは我々の思惑に反し、私個人の利益にも反するからだ』
「彼女を抱き込むつもりか。不可能だ。彼女の高潔な精神は、そのようなことを良しとはしない」
『それは君の主観に過ぎないのではないかね? ふむ、だけれども私は、それも考慮している。何のために君を拘束していると思っていたのかな?』
「…………」
『無論に無論……君が【HOPE】の開発者であり、初期メンバーであることは第一にある。しかし君は【鍵】にとっての【鍵】なのだと云うことを、もっと強く自覚するべきではないか』
「……無駄だ。俺がそれを望まない。彼女の足枷になど、俺はならない……」
『その割には、随分と、舌鋒が鈍ったように見受けられるが』
「……ッ」
嘲笑混じりの言葉に歯噛みする。
追い討ちが来る。
『君は、高潔と言ったが、その高潔な彼女が、己のために死に瀕する人間を放置できると思うかな? 見捨てることができると思うかね? いわんやその人物が、彼女にとって格別に大切な人物であればどうか』
「…………」
もはや、ぐうの音もではしなかった。自負よりも、知る事がある、彼女の苛烈な意志を。
俺のそんな様子に満足したのか、声は区切りを入れるように言った。
『さて、増上慢な前置きはこの辺りにしよう。それでは、今あったこと全てを踏まえて、君にはこれからの選択を――発言をしてもらおうか。ああ、そうだ。自らの命が懸かっていると云うことも、しっかりと心根に刻んでおくように』
電子合成の声が途切れる。静寂と対極の沈黙。
そして世界に光りが満ちた。
「っ」
あまりに急激な光量の変化に目がついていかない。あらゆる状況に対応できるように頭だけはクリアに保つ。瞳孔がゆっくりと収縮を開始。漸くに世界が見える。
「――マナ!」
叫んだ。
眼前に広がる一杯のディスプレイに、拘束された彼女の姿が映った。状況は俺も同じか。彼女もまた意識を取り戻していた。俺の声が届いたのか――恐らくは何処かに収音のマイクとカメラも在るのだろう――彼女もまた、俺の名を呼ぶ。
『クロウ!』
「無事か!?」
『ええ、私は。あなたは!』
「見ての通り拘束されているが、身体の異常は無い。或いは認知できない」
『……こんなときまでいつも通りね。私も同じ。だけれどそれは、きっと無事ということよ』
「お前が言うのならば、信じよう」
『信じてくれるのなら、私も信じる事ができるわ』
「…………」
『…………』
彼女は微笑み、俺もまた微笑んだ。互いに何も変わりが無いことを確認する。だが、問題は其処には無かった。
あのノイズのような声が、また、響く。
『安否確認は済んだかね? この通り、我々は平和主義者だ、それではこちらの案件に入ろう。現状を正しく認識してもらおう。君たちの生殺与奪の権は我々にある。言うまでも無いことだが――そして既に示唆は終えているように【HOPE】は発動状態で我々の手の中に在る。君たちから協力を願えない場合、死んでもらうことも厭わない……さて、では君たちの返答を聴こう。協力してくれるかね?』
「ふざけるな」
平和主義者が聞いて呆れる!
『ふざけているつもりはないのだが……何がお気に召さないのかな?』
「世界の支配を暴力で望む存在を、俺は許容しない」
『暴力ではない。現に一滴の血すら流すつもりは無い。血が流れれば反感を買う。無血で事を為す。血を流すのは非生産的だ、いずれは厭わないとしても、いま最適ではない。故に、君たちも、協力してくれれば安全を保障しよう』
「虚言を吐くな」
『事実だとも。でなければ――君は既に死んでいる』
「…………」
『しかし、無血とは言ったがそれは比喩だ。最善を尽くすが、現実とは常に最悪へと傾くもの。最終的な死者を出さなければそれでいい。だから例えば、イブキ・マナ君。君が協力を拒むのなら、まずはこういうことになる』
パン!
乾いた音。
熱感、冷気。一拍後の、激痛――絶叫。
「がぁぁあああぁぁっ!?」
『!? クロウッ!!』
「ぐ、がっ、……かはっ」
冷や汗が噴き出す。左肩から広がる激痛が全身を巡り生体パルスが制御を外れる。小口径の銃による狙撃だと理解できたのは腕が吹き飛んでも引き千切れてもおらず迂闊にも動かす事ができたために発生した更なる痛みに頭を灼かれたためだった。
画面の中でマナが血相を変えた。
『やめなさい! クロウに手を出しても何も無い!』
『そうかね? 私には君が、とても動揺をしているように見えるが?』
『それでも、私は協力なんて』
『何故? 誰一人不幸にはならない。クロウ博士の治療も約束しよう』
『詭弁ね! 不幸に為る者はいるわ。あなた方が支配権を得た世界で、必ず誰かが搾取され、不幸になるでしょう』
『ふむ。可能性の問題だ。搾取は起り得ない、全民の幸福があるだけ。それも完全なる平等のね。しかし、誰が何を為そうとも歴史が証明するように、それは結局避けられぬ事態だとは思わないかな?』
『詭弁よ』
『ああ、平行線か。では残念だが起爆剤を投じよう』
『! やめな――』
パン!
「あぐぁっ!!」
またも左肩に衝撃が走り痛みが疾駆する。
『さあどうするかね、勇猛果敢なるお嬢さん?』
ねばりつく雑音染みた電子の声が、嘲弄するようにマナへと語りかける。俺は意識のありったけを束ね、カツカツと痛みで歯の根の合わない口に強制的に言葉を紡がせる。
「マナ……話を、聴くな。俺は……どうなろうと……かまわ、ないっ」
『クロウ……』
「【HOPE】を悪用させては、為らない。あれは【希望】だ……お前と同じ、俺の【希望】だ。絶対に、薄汚れた欲望の道具になど、されては、為らない……! お前も! 【HOPE】も!」
そうだ。そんなことはさせてはならない。
「必ず助ける!」
全霊を賭せ。
全力を傾注せよ。
現状を打破し、状況を改善せよ。
焼けるような熱と冷気、そして痛みの中で、それでもそれを押し退け思考を回す。痛み。そんなものは無視する。
行動規範設定。
第一件――イブキ・マナの絶対的安全尊守。
第二件――【HOPE】の奪還――次点――破壊。
第三件――己の生存。
以上。
状況の類別を開始。
自己の拘束は堅固。生半可での解除は困難。自己は被弾。痛覚の信号による著しい肉体的能力の低下。
イブキ・マナの身もまた拘束。存在位置不明。
【HOPE】、敵対者手中にあり。
状況は、絶対的不利。
だが、それがどうした。
為さねばならない事があり、為すべき意思があるのならば、それは為す事ができるはずだ。否。為さなければ為らないのだ。
思考を回す。
何か、何か妙案を――
『刻限だ。時を告げる鐘を鳴らそうか』
「っ!」
くっ! これ以上のダメージは――
『やめなさい』
『……ほう?』
「……マナ?」
『やめなさい』
凛とした声が再び響いた。明確な意思。完全なる決意。それは。
「やめろ! 駄目だ! それは駄目だマナ!!」
俺は彼女の意図を察し、ディスプレイへと向かって叫ぶ!
だが、そこに映るマナの瞳には、もはや揺るがない決意があった。
『約束しなさい』
俺以外に向かってその声が放たれる。
『私が協力すれば、この人には、クロウには手を出さないと』
「駄目だ!」
叫ぶ。だが誰も取り合ってはくれない。
『それは、我々に対する服従の意志と受け取っても構わないかね?』
『……構わないわ』
『ならば確約し保障しよう。ヒナギ・クロウに対し、我々はこれ以上の危害を加えない。今の傷を癒せるようにもしよう。彼もまた協力を為してくれるのならば厚遇も考える』
『それは、無理でしょう』
『何故だね?』
見透かしたような含み笑いと共に放たれる雑音のその問いに、彼女は、僅かに微笑み、答えた。
『クロウは、間違っていることを間違っていると言える人だから』
「――――」
『――宜しい。相わかった。なに、なんとでもなるだろう。ではイブキ・マナ。稀代の歌い手よ。我々に協力していただこう』
『ええ、いいでしょう。まずはこの廃棄物の山で実践すればいいのかしら?』
『それについてはおいおい。今は、とにもかくに、人類の優秀な頭脳であるヒナギ博士を病院へと送り届けることを優先しよう。彼を失うにはまだ惜しい。そう、此処と――彼の職場のすぐ側には有名な救急病院があったはずだ。そこへと移送しようか』
「――――」
『ヒナギ・クロウ博士。お聞きの通りだ。乙女の清らかな思いが、君を救った、喜びたまえ。では、また用事ができたならば再び
『クロウ……ごめんなさい』
「――――」
そんな二者の言葉を最後に、再び周囲は闇黒へと染まった。
パン!
乾いた音がもう一度鳴り、着弾。
俺の意識は刈り取られた。
◎◎
「――意識を取り戻したとき、俺は救急病院の前に打ち捨てられていた」
だが俺は、病院へと諾々と担ぎ込まれるわけにはいかなかった。俺は立ち上がり、研究所へと走った。
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