2

§§



「セイハーッ!!」


 ヴァイローの渾身の一撃が、まとめて両断した。

 突入した【城】の内部は、その純白の外見とは裏腹に魔境と化していた。

 内面の総てに、血管のような赤い、脈動する【錆】のラインが走り、その内側を何か私の理解を超えたものが流れていく。

 床にもまたその血管は這っていて、その血管からは人型の【錆】――【ヒトガタ】が無尽蔵に生えて、私達に襲いかかってきた。


「これももとは人の複製であったものだ! 脳髄を弄られ、錆びて朽ち果て、その末路として【城】と同化したのだろう。臆すなよオーキッド・アイネス!」


 ――吾が必ず、汝を妹君の前まで連れて行く。

 彼女はその端正な顔を、斬り倒した【ヒトガタ】が噴きだす【血液】に汚しながら、凄烈な表情でそう言った。

 私は頷きを返す。

 ヴァイローは、私にギリギリまで【浄歌】を使うなと旅の中で告げた。


「イブキ・リュウガは、汝を見縊っている。それが慢心であるか汝の心の揺らぎを

見通してのものかどうか、吾には分からぬ。だが、確実に言えることがある。もしもこの世界で、【隷属歌士】として覚醒した【クイーン】に、その心に届く歌を紡げるのは肉親たる汝だけであると」


 既に戦闘の中で、ケルベロスは失われてしまった。

 だから戦いは殆どヴァイローに任せきりだった。

 孤軍奮闘――一騎当千――鎧袖一触。

 【アオサビ】の群れに対しては流石に分が悪かった彼女も、【ヒトガタ】に対しては有利に事を運んでいた。

 【ヒトガタ】はその動きが他の【錆】に比べれば緩慢で、また装甲も薄かったからだ。

 ただ……。



「ぁあああああアアアア、いヤだアアああああ、死にタクないいいいいいいイイいいいいいいいい」

「痛ゐイタイいたい痛いィィィィィぃィィィィいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」

「やめろ、ヤメロオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」



「……っ」


 思わず耳を覆いたくなるような断末魔。【ヒトガタ】達はみな、絶えず恐れの言葉を吐き続けていた。

 まるで恐怖を唄うだけの機械のようだった。

 ヴァイローが、私を鼓舞するために声をあげる。


「耳を貸すな! あれらの心は最早【錆】に喰われこの世に無い! 仮にあったところで――」


 彼女は血が出るほど下唇を象牙色の歯で噛み締めながら、苦渋の表情で剣を振る。


「吾らには救えぬ――ッ!」


 もしもそれが出来るとすれば【中核クイーン】――エピネスだけ。

 それが分かるから、私達は進むしかなかった。

 男性も、女性も――中には私に良く似たイブキ・マナのクローンさえも――立ちはだかる【ヒトガタ】を軒並み斬り殺し、血河屍山けっかしざんを築きながら、【城】を只管に駆け上る。左目に傷のある男を斬り捨てた時、ヴァイローは少しだけ悼むような顔をした。それでもなお、止まらない。


「チィェストォォォォ!!」


 形振り構わない一刀。

 だけれどそれが、遂に道を拓く。

 つまり――【玉座】へ!



「エピネス!!」



 私は、叫んだ。

 そこ――十字教の大聖堂のような作りの、だけれど禍々しく無数の【錆】の血管が這いまわる悪夢の空間に、妹は居た。



『――アイルー ヒューリーリールリ ヒュリルーリリ ヒュリルーリル、レイアソ レーイアーソ――』



 宙に浮く碧い液体の満ちた水槽の中、荘厳な玉座に座り、その身はたくさんの触手に蹂躙されながら、虚ろな声で歌う白髪赤目の少女。

 オーキッド・エピネス。

 私の――妹!


「避けろ!」

「!?」


 突然横手から突き飛ばされる。


「くっ……」


 聞こえたのは苦悶の声。

 ハッと顔を上げれば、ヴァイローがその右肩を、褐色の肌を自らの鮮血に濡らしていた。

 彼女の腕に、【玉座】から放たれた触手が深々と突き刺さっていた。

 液体の檻、【玉座】に座る【女王エピネス】が、茫洋とした眼差しで、ヴァイローに右手の人差し指を向けていた。


「エピネス、どうして……」

「どうしてもなにも、あの外道に操られているのであろう……よッ」


 ヴァイローが、レゾナンスを右手から左手に持ち替え、蠕動を繰り返す触手を切断、苦鳴を上げながら引き抜き、私の傍までふらつきながら後退してくる。


『――――』


 エピネスが、両手を掲げる。

 妹の全身に絡みついていた触手が分裂、碧い液体の中で鎌首をもたげ、一斉に飛来する!


「やぁらぁせぇんんよッ――【超攻勢防御結界ゴスペル・サークル・ディヴァインド】!!」


 白と赤の床を斬り別つように、ヴァイローがレゾナンスを突き立て、【浄歌】を綴る。

 ガガガガガン!!

 連続する衝突音。

 屹立したレゾナンスを中心に、【錆】がドーム状に展開していた。イスカリオテの血が為す、【錆】変成の技。音叉刀の共振を利用した半径十数メートルの結界。だがその結界の真価は、ヴァイローの全力はそんなものじゃなかった。

 ドームの表面が変形、無数の刃となって触手の第二陣を迎え撃つ!

 ギャガン!

 ガギャガギャガギャガギャギャギャン――!

 【錆】が触手を斬り、抉り、触手が【錆】を喰らい、貪る。

 一進一退の攻防。壮絶な応酬の只中で彼女は叫ぶ。


「吾が拮抗状態を作り出す。オーキッド・アイネス、汝は妹君を救うため、その至力を! 想いを! 歌に代えよ!」


 赤銅色の肌に大量の脂汗をかきながら、右肩から止まらずに流れ続ける出血を厭いもせず、彼女は歌い続ける。

 ただ時間を稼ぐために。

 会ったばかりの私を信じ。

 私が妹を救うと信じて。

 彼女は私を見ることもなく、ただその背に信頼を宿している。


「――――」


 私は、目蓋を閉じる。


「……エピネス、お前は本当に無知で、バカで――」


 思い出す。旅の日々を。

                        ――肉体の変容を容認する。

         ――私は【楽器】。歌を奏で、連なる浄音を束ねる【楽器】。


「どうしようもないほど私への敬意がたりず」


 色とりどりの弾けるようなその笑顔を。

                        ――精神の変質を許容する。

        ――この身は琴線、爪弾かれるまま世界を震わす【波涛】の糸。


「ひとの大切な護衛にまで色目を使って、それに私は嫉妬して」


 陽だまりの似合う彼女を。眩しいその笑顔を。

                        ――魂の虚無化を受容する。

                  ――紡ぐ調べ、激しく熱く冷たく静かに。

      ――深化するその音色を残響、増幅する――私の魂は【拡声】の器。


「――だけれど、お前は愛しい妹。私が、お前をくびきから解き放ってみせます!」


 すべてを取り戻すために。

 ――眼を、啓く。



 私は――【覚声の浄歌士アービトレイター】――浄めの歌を唄うもの



 私の【浄歌】が――世界を揺るがす!



§§



「――煌めく星の、その静けき光り

 降るせ冷たき、玲瓏の音よ

 燈せう火の、その温もりを知る――」



 ――絶唱。

 一切己を無にし、音の世界に没入し、そのウロに激しい感情を怜悧に反響させ唄う、人を逸する超絶の歌唱。

 オーキッド・アイネスの【浄歌】は、人の分を超えその域に到達していた。



「――涙散り、夜の闇

 呑み込むような暗黒、されど瞬くは、導たる星の

 今確かに此処にある輝き――」



 吾――イスカリオテ・マージナル・ヴァイローは、その歌声に聴き惚れていた。

 息つく暇もなく押し寄せる【女王】の触手、その波状攻撃は苛烈を極め、一瞬の油断が致命傷を産む。

 紙一重で受け切り、ギリギリで結界を維持することに注力する。

 そのような切羽詰まった状況下にありながら、吾はその歌に聴き惚れていたのだ。

 アービトレイター。

 それは世界の調停者にして調律者。

 イブキ・マナの再来にしてそれを超えるもの。

 オーキッド・アイネスの歌声は、この世を書き換えるほどの力を帯びていた。



「――永久に誓え、違わぬ祈りを

 星の記した、輝く歌を――」



 彼女の歌声は白眉であった。事実、周囲の【錆】は瞬く間に昇華されていった。



「――ユメは醒め、やがて廻り――」



 これ以上望むべくもない最上であった。



「――現の世、泡沫の世界――」



 だが。



「――それでも、夢は、かなう……必ず……」



 しかし。



『――――



 その絶唱を以てしても――【隷属歌士】には及ばない。



「ぐ――」


 数え切れない数の触手が束ねられ巨大な槍を形成――攻勢防御を突破して結界を貫通。

 内部で再び分裂し、吾が全身を触手の刃が切り刻む。


「――がぁあああああああっ?!」


 激痛に歌唱を維持することができず、一瞬にして結界が砕け散る。

 これが【女王】だと?

 【暴君】の間違いではないか!





 先ほどまでの微睡はどうしたのか、突如大音声をあげるオーキッド・エピネス。

 何故だ? 如何に【女王】、如何に【暴君】とて、アイネスの歌声が一切届かぬはずが――


「――まさか」


 吾は愕然と呟く。

 【】。

 姉が妹を思うその切実な祈りが、アイネスの絶唱が、【暴君エピネス】の眠れる才を揺り動かし覚醒に導いたとでもいうのか!?


 ――まさか、!?





 驚愕覚めやらぬ中、立ち尽くす吾の前で、【暴君】から発せられる気配が爆発的に上昇、物理的な圧力となって吾らを吹き飛ばす。


「きゃあああああああああっ!?!」


 それまで必死に抗っていたアイネスの歌が強制的に阻まれ、極度の集中――神憑り状態にあった彼女の意識が消滅、【暴君】への抵抗力が完全に失われる。

 加速し増加する圧力。

 大聖堂の壁が幾何学的なモーションで展開・消滅し、ハリケーンをも凌ぐ強烈な突風が吹き荒れ、大伽藍となったその場から、とうとう吾らは排除される。

 吹き飛ばされて宙に舞う中、右手で咄嗟にレゾナンスを、左手で意識を失ったアイネスを抱きかかえ、吾は黒々と開いた奈落の底へと降下してゆく。



『――――』



 吾らを見降す、覚醒した【暴君オーキッド・エピネス】のその瞳は、怖気がするほどひたすらに虚ろな、闇に濁った赤だった。



§§



「では――第二楽章を始めよう」



 リュウガの純白の右手が、真っ直ぐに暗黒の空へと掲げられる。

 変化は劇的だった。

 【

 常軌を逸した巨大建造物が、それを形作る【錆】が、グニャグニャと形を変え、一層の異形へと変貌を遂げる。一帯すべての【錆】達が、一斉に【城】だったものへと走り出し、次々に飛び付き――一つに融け合い混じり合い、それは球体を形作る。

 純白の真球。



 それは【】だった。



 純白の【卵】の表面に、幾筋ものヒビが走る。

 そしてそれが、産まれ堕ちる。



――!!』



 

 大空を遮る翼。

 地を割る強靭な下肢。

 絶対尖鋭なる三つ爪の腕。

 千の巨木を束ねたよりも太い尻尾。

 全身を覆う、純白の鱗。

 ――【魔竜ドラゴン】。

 空想上の魔物が、神代の化身が、荒ぶるままそこに在った。


『――!』


 強化された俺の視覚が、それを捉える。

 150メートルはある【魔竜】の巨体――その左胸、心臓の位置に、碧く輝く球体があった。

 そこにがいた。


「【女王】は気高き肉親の薫陶を受け覚醒へと至る。囚われの姫君を救うため、騎士はついなる試練へと挑み朽ちる。世界の再構築、その第二楽章の名は、さしずめ【英雄葬送曲】とでも名付けようか」


 愉悦を隠そうともせずリュウガはのたまう。その純白を、白き鱗の巨竜が抱えあげる。


「挑みたまえ愚かなる騎士ドン・キホーテよ。【大海嘯】はいま、世界の七割を【錆】に沈めた、もはや猶予は一刻とない。滅び往く世界、錆び逝く世界に、その全霊を以て抗ってみせたまえ」


 本当に神にでもなったつもりなのだろう。

 リュウガは芝居がかった言動を際立たせ、俺を煽る。

 白龍のその鱗に指を這わせ、怖気の走る笑みで囀る。


「さあ、私のかわいい娘よ」


 純白が、狂気に嗤う。


「お前の愛する男を、殺すがよい」

『RUGUUGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!』


 【魔竜】の咆哮は、【囚われの姫エピネス】の絶叫だった。


 その巨躯が信じられないような速度で翻り、俺へと襲い掛かる。

 振り抜かれた尻尾はその巨大さを以て一瞬にして視界を占領し、回避すら許さずに俺の全身を打ち据えた。


『ガアアアアアアアアア――ッッ!?』


 数百メートル……いや、下手をすれば数キロの距離を吹き飛ばされ、地面へと激突。それでも止まらず俺の体は凄まじい勢いで剥き出しの岩盤だらけの地面を転がっていく。

 鎧が耐久限界を迎え粒子となって消滅。

 剥き出しの肉体が損傷していく。


「――――」


 どれほどの時間転がり続けたのか。

 やっと止まった時、俺の身体は見るも無残な有様だった。

 右足と左腕はあらぬ方向を向き、白い骨が突き出ている。

 左脚はない。見れば遠くに落ちている。

 腹腔に穴が開き、内臓が零れ落ち、一部は千切れている。

 右目が潰れ、血の涙が滴る。

 満身創痍。

 反射的に【シークレット・キーワード】を唱え体内ナノマシンを活性化させるが、それでも再生が追いつかない。

 ざまあない。

 無感動にそう思う。

 世界から、急速に色が失われていく。

 感情が劣化し、錆び付き錆び逝き、ポロポロと剥落していくが、それにすら心がもう反応しない。後先考えず湯水のように力を浪費した、その当然の末路として訪れるべき限界がやってきていた。所詮はあの日から、奇蹟によって延命されていた命なのだ。


「――――」


 白黒モノクロームの世界で、【魔竜】が、巨大すぎるがため逆に緩慢と見える動作でその翼を羽ばたかす。

 旋風を纏い、飛翔。

 竜は天上へ陣取り、空から神の託宣が降る。


「……ヒナギ・クロウ。私は一度、君に嫉妬を覚えた。マナを奪われたことは屈辱的であった」


 そんな感情など露も見えない声は、ただ状況を楽しんでいる人形師のそれ――唾棄すべき神気取りの言葉だった。


「長く永い対立の日々であったが――いよいよもって最期を迎えるといい。……エピネス」


 神の命令に、【魔竜かのじょ】は黙してただ従う。

 白き鱗の竜の、その鰐にも似た口腔がひらかれ、喉奥に忌むべき焔が灯る。


「……エピネス」


 俺は。

 その竜に。

 その心臓に。

 オーキッド・エピネスに、俺は唯一残された右手を伸ばし、


「俺は、君たちを――」





 ――【魔竜】から放たれた、すべてを焼き尽くす破滅の焔の奔流に呑み込まれた。

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