3
§§
大東亜帝国帝都統京。
それは【アオサビ】が群れをなして棲む【錆の森】を抜けてさらに彼方、僕の観た事がない海を超えた向こうに存在する落日の島国の中心なのだという。
そこはこの世界で初めて【錆】が産まれた場所で、そして今も分厚い錆の壁に包まれている――という話を聞いたことがある。
そもそも、クロウさんみたいな黒髪黒瞳のニホン人自体が絶滅危惧種とか
理由は、ちょっとよく解らない。
僕がパニックを起こして訳が分からなくなっている間に、いつの間にかそう決まってしまったらしい。
クロウさんもあまり乗り気じゃないみたいだけれど、姉さんは一度言いだしたことは絶対に曲げないし、こう言った時に制止をかけるとむしろ意固地になるへそ曲がりだから、はっきり云って何を言っても無駄って感じだった。
まあ、クロウさんがいてくれれば怖いモノなんてないから、姉さんも強気なんだと思う。
僕個人にしてみれば、またあの目に傷がある野党たちに襲われたりしたら怖いし、そもそもどうやってこの大陸の周囲全てを覆う【錆の森】を超えるのかが分からないし、不安がない訳じゃない。
でも、それ以上に僕は、約束した海がこんなにも早く見れるのだということに、何処か胸を躍らせていたんだ。
クロウさんと二人で海を見る。
その夢の様な出来事が目の前に迫っていると思うと、胸が弾んで仕方がなかった。
だから、僕たちは目指したんだ。東の
……あまりに無知な僕は、その旅の理由も、この胸の奥に芽生えつつあった感情の意味も、まだ理解できていなかったというのに。
◎◎
幌のなか、浄歌士の衣装に着替えつつ、姉さんがボソリと呟く。
「……胸回りがきついわ」
僕はあらぬ方向を見つつ肩を竦め、鼻で笑いながら答える。
「フッ……太ったんじゃない? 最近の姉さんよく食べるから」
「お黙りなさい、キシャー!」
奇声を上げてカマキリのようなポーズをとる姉さん。僕も負けじと荒ぶる鷹のポーズで応戦する。
「無駄乳!」
「貧乳!」
「年増!」
「幼児体型!」
「……時々クロウさんのマントの臭いとか嗅いでるくせに」
「ごふぉ!? お、おまえ、どうしてそんな事を知って……いるの?」
適当な事を言ったら姉さんがすごく狼狽した。
顔を真っ赤にして、ちらちらと幌の外――たぶんクロウさんが護衛の為に陣取っている辺りの様子を伺う。
うーん、珍しいモノを見てしまった。
何だか姉さんが、普通の面白い人みたいになってる。
僕はそれが嬉しくて、更に二三言葉を重ねて、どんどん姉さんは真っ赤になって、最後には涙目になっていた。
「ディスライク……やっぱりおまえ、最近私への風当たりが強くないかしら?」
そう言われても、僕にはその自覚がないし、変ったのは姉さんのほうだと思うのだけれど。
とかなんとか。
そんな会話を交わしつつ、姉さんはいつもの振るほどに長い袖の衣装に着替え終えた。春色の髪の上では青藍の髪飾りが躍っていて、姉さんはそれを気にするように触っている。
幌から出ると、そこは四色の世界だった。
空の青と、【錆の森】の緑と、【錆の砂漠】の赤と、幾つもの白い建物が織り成す四色の世界。
そう、僕たちがいたのは【境界線】の東の果て、人類生存限界圏の最も東に位置する都市、大都に次ぐ6000人もの人々が住まう太古の叡智が眠る街イーシュケンだった。
この街では、太古の文明の遺産が次々に発掘される延々と地下に続く大穴【グレート・ウォール】を中心に、失われて久しいらしいコーソーケンチクビルが犇めいている。
そんなイーシュケンの外防壁から突出する形で建てられた神殿位。
集まった観客さん達の中から歩み出てきたピッシリとした服装の、ロマンスグレーの髪を生やした壮年の顔役、ナレンさんが声をかけてくる。
「準備は整いましたかな?」
イーシュケン、その人類生存限界圏の名は伊達ではなくって、この辺りはどれだけ浄歌してもすぐに【アカサビ】に浸蝕されてしまう。【錆の森】にも近いから、時々はぐれ【アオサビ】がやってきたりもする。とにかく人間が住むには不向きな場所で、かなり密度の高いサイクルで浄歌しないと生存すら危うい。だから姉さんみたいなモグリの【浄歌士】だけでなくって【イブキの一族】の直系に近い人たちも頻繁にやってくる。つまりナレンさんたちは結構僕たちを見飽きている。もちろん敬意は払ってくれるし報酬も払ってくれるけど、他の街なんかよりは距離感が近いのだ。
そもそも変な人が多いのもイーシュケンの特徴だ。
イーシュケンは叡智の街。学者さんがとても多い。太古の昔に地下に埋没した人類の遺産を発掘して、それを研究する人々であふれかえっている。研究し尽くしたものはどこか大きな都市が引き取っているらしくて、それがこの街を支える主要産業になっている。
でも、学者さん達が幾ら研究しているからって、僕にとってここにはいつ来ても驚かされるものばかりで、寧ろ知らないものしかない。
そう言った未知のものと常に隣り合わせの彼らだから、神聖不可侵の【浄歌士】に対しても相応の態度が出来るわけだ。
といっても、
「はい、準備が整いました」
「――――おお」
姉さんの姿を見てしまえば、感嘆を零さずにおれないほどには、まだ人間臭いところもある訳で。
「それでは浄歌を始めます」
◎◎
一面の分厚い【アカサビ】だらけだった土地が、まあ、辛うじて耕作可能になるぐらい浄歌されて、ナレンさん達はとても喜んでくれた。
がめつい姉さんが報酬を決っていた量より多く貰おうと追加交渉をしているうちに、僕はナレンさんの奥さんとお話をした。
彼女はツナギを着たとても人がよさそうな人で、時々こっそりお菓子をくれたりする実際いい人だ。
そんな彼女が、こんな事を言った。
「それにしても珍しいこともあるものだわー」
彼女は糸のように遅い目をさらに細めながら、ニコニコとした表情でこう続けた。
「同じ時期に【浄歌士】さまが二人もここを訪れてくださるなんて」
「二人って……姉さん以外にも誰か来ているんですか?」
僕は問い掛けつつ、頭の中の引き出しを急いで開ける。
確かイーシュケンは【イブキの一族】のうちエウロースのペレロという【浄歌士】が取り仕切っているはずだから、そのペレロさんが来ているのだろうか?
しかし返ってきた答えは違っていた。
「そうそう、ヴァイローさまと名乗られた緑の髪の方が」
「ヴァイローが」
それまで。
それまでずっと、旅の間もほとんど口を噤んでいたクロウさんが突然、会話に割って入ってきた。
ナレンさんの奥さんは一瞬クロウさんの容姿に驚いたようだったけれど、この町の人特有の対応力ですぐに順応したみたいで、
「ええ、ええ、イスカリオテのヴァイローさまと名乗っておられました」
と、そう教えてくれた。
クロウさんが、露骨に眉根を寄せた。
初めてと言っていいぐらい困惑と不安が綯交ぜになった表情を見せていた。
そんな表情を見てしまえば、当然僕も不安になってしまって。
「あ、あの」
そう声をかけようとした、その時だった。
シルヴィーが嘶いた。
それはあまりに突然で、その泣き声は、まるで何かを恐れているようで。
「――ッ!」
最も迅速に行動したのは、誰あろうクロウさんだった。
彼は腰に佩いた刀を抜刀すると、すぐさま姉さんの前に立ち、【錆の森】を、そしてその上空を厳しい眼差しで睨みつけた。
変化は、すぐに来た。
地鳴り、地鳴りだった。
その場にいた全員、僕らにはそれに覚えがあった。全員が嫌っていうほどに知っていた。
それは、その振動は――
「【
けたたましい警報の鐘と共に、誰かが街のなかからそう大声で叫んだ。
§§
この1000と余年の研鑽で、ようやく少しは使えるようになったこの肉体の、そのうち視力を増幅する。
【錆の森】。
そこに繁茂する【ロクショウ】の上空を、何かが飛んでいる。
最大まで視力を増幅した時、俺はそれが、何らかの飛翔体であることに気が付いた。
見る間に巨大になり、高速で接近するそれは――旧文明の遺産。
全長45.7メートル。全高7.2メートル。重量10トン。計4つの双発噴出式可動翼を有する鋼鉄の鳥。
圧縮水素エンジンによってかつて
その名は――
「【
ナレンを名乗った男が、呆然とそう呟いた。
「そんな、なぜあれが、売却したのはずっと昔で、燃料だってありはしないはずで」
この都市で発掘され、何処かに売却されていたものらしいその航空機は、確実に接近しつつあったが、その下部には、何かがワイヤーで吊るされているのが俺の強化された視覚では見て取れた。
強風になびくそれは、人型の――まるで人型の錆のようで。
地響きが強まる。
【アルゲンタヴィス】が爆音を立ててイーシュケン上空を通過。同時に、その人型の物体が投下される。
そして、それは来た。
先触れは、【錆の森】から湧き出た。
【アカサビ】が粟立ち、波打つ。
次いで、無数の、百を超える【アオサビ】の群れ。
それが、【アルゲンタヴィス】の後を追うかのように、獰猛にがなり立てながら森より溢れ出てきたのだ。
「そんな!」
エピネスが悲鳴を上げた。
その理由は聞くまでもなかった。
ほんの今し方アイネスが浄歌したばかりのその土地で【海嘯】が起こる訳がないのだ。
だが、異変はそれにとどまらなかった。
ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ――!
【ロクショウ】が悲鳴のような軋る音を立てて次々に倒壊する。その全てが、一瞬で黒く、黒く染まって――
「あ、あああああああああああああ!」
エピネスの恐怖の声。
大地を割ってそれが姿を現す。
『ZEGIGEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE――!!』
全長五十メートルはくだらない巨影。
世界に三体しか存在しない暴力の化身――【クロサビ】が、顕現した。
◎◎
俺がまず行ったことはなんだったのか。
それは恐らく物語のナイトとしては正しくなく、そして実際の守護者としては当然の判断だった。
「アイネス! エピネス! 馬車に乗って逃げろ!」
有無を言わせない調子でそう怒鳴った。
何故【海嘯】が起こり、何故【クロサビ】たちがここに現れたのか。その理由を追及している時間がなかった。兎にも角にも彼女たちを危機から遠ざけること、それだけが優先された。
イーシュケンと、そこに住まう人間がどうなろうと構わなかった。そんな事に割くだけの思考の余裕などなかった。
だと、いうのに。
「クロウ、お願い」
アイネスが、言う。
「時間を、稼いで。守るために、守って」
「――――」
逡巡の暇はなく。決断は妥協よりも早く。奥歯を割れるほどに強く噛み締め、開き、応える。
「――心得た」
抜刀していた超硬化単分子結晶刀の切っ先を前方へと――こちらへ迫る【アオサビ】の群れと【クロサビ】の威容に向け、円を描く。
『【侵蝕】』
1000年の間に、心を蝕む【錆】によって侵された黄金の鎧を身に纏いつつ、唄う。
『絶望に祈り切望の舞踏を今踊れ
偏に魂を尊び高く生命に賛歌を唱え
王は傅き賢者は書を捨て道化は勤めて勇者は歌う
聞けよ悪魔よ惑えよ霊よ
ここは同胞最果ての地
祈りの届く、最果ての空――』
出し惜しみをしている場合ではなかった。始めの始めからの全力である。
地面を踏み割るほどに強化された脚力で、総てを置き去りにする速度で駆ける!
瞬く間に接敵、目についた【アオサビ】を吠える間も与えず斬り伏せながら、【変異型EVER】が生み出す粒子と振動、その強力を束ね刃に結集する。
空が陰った。
反射的見上げれば、迫るのは【クロサビ】の巨手!
『【
俺は、瞬時の判断でその一撃を地面へと叩きつけた。
轟音。
俺を中心として半径百メートル周囲の地面が深々と抉れるまでに砕け、無数の岩盤が【錆】へと降り注ぐ。
【アオサビ】が岩雪崩に巻き込まれ、【クロサビ】も足をとられて一瞬動きが止まる。
『【粒子剣武】――カテゴリー・エリミーネート』
その隙を逃さない、俺は追撃を放つために体内ナノマシンの粋を集め――
「エピネェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエス!?」
劈くようなアイネスの悲鳴に、振り向かざるを得なかった。
§§
クロウさんの指示通り逃げようとして、姉さんの意思で踏みとどまって、それでも【クロサビ】に怯えて。
ガチガチと歯を鳴らしながら、でも奮い立たせたなけなしの勇気は、
「~~~~!?」
背後から忍び寄った男の手で口元を塞がれたことで、消えてしまった。
「黙れ」
聞き覚えのある、その硬く冷たい声。僕は背後を仰ぎ見る。視えたのは、左目に傷のあるあの男の顔だった。
「暴れなければ、お前には危害を加えない。お前の姉にもだ」
その言葉に、頭の中が真っ白になる。
なんで?
どうして?
そんな言葉が何度も巡る。
なんでこいつがここにいる?
どうしてこんな大変な時に?
答えは出ないまま、僕はその男に手早く拘束され、手足の自由を失う。
肩に担ぎ上げられた時、浄歌の体勢に入っていた姉さんが僕の異常に気が付いて、あっ、声を零した。
「エピネェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエス!?」
姉さんが叫ぶ。
姉さんが、僕の名を呼ぶ。
それは、すごく久しぶりの事で、本当なら嬉しいことの筈だったのに、あまりに状況があんまりで。
――姉さん!
口を塞がれた僕は、心の中でそう叫ぶ。
クロウさんも僕に気が付いてこちらに走って来ようとしてくれるけど、無数の【アオサビ】が彼に一斉に襲い掛かって、それを許さない。
――クロウさん!
僕の声は届かない。
あっと言う間にその場から連れ去れる。
僕を担いだ傷の男は無言で進み……爆音。
空に、あの銀色の鳥がいた。
飛行機。
クロウさんが教えてくれたそれなのだと、僕は理解した。
先端に流線型の何かがついた鋼鉄の鳥の羽が回転し、暴風を吹き付けながら速やかに降下してくる。
「エピネス!」
走り寄ってくる姉さんを、舞い上がった土煙が遮る。
「よし、行け」
銀の鳥の横っ腹が開いて、そこに乗り込みながら傷の男が命令をすると、鳥は――飛行機はまた上空へと舞い上がりはじめた。
「むぐっぅうう、ううううう!!」
僕は精一杯に助けを叫ぶ。
「
土煙と【アオサビ】を切り裂いて、クロウさんがこちらへと突っ込んでくる。
凄まじい速度で舞い上がる飛行機。
「届けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
跳躍し、必死の形相で僕へと手を伸ばしてくれるクロウさん。
だけど。
僕の目の前で。
無慈悲に。
「我らが主は、お前には用がないそうだ」
傷の男が、それをクロウさんに向けて撃った。
パーン。
乾いた音を立てて射出された超音速の弾丸が、黒衣の彼を貫いて、そして、彼は地上へと墜ちていく。
「エピネェェェェェェェェスッ」
漆黒の叫びと、黒曜石のきらめきは、イーシュケンごと【錆】の中に呑み込まれていった。
「おやすみ。目覚めた頃にはお前は、祝福の城に立つだろう」
傷の男のその言葉と、首筋へのかすかな痛みと共に、僕の意識もまた、闇へと墜ちていった。
第六章、終
第七章へ続く
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