真夏の潤い(8)

 終業を知らせるチャイムが鳴り響き、廊下にはいそいそと昇降口に向かう生徒たちのはずんだ声があちらこちらから聞こえている。授業の終わった放課後は、張り詰めた空気が緩んで開放的な雰囲気を感じさせるが、今日で1学期も終わり、明日から待ちに待った夏休みが始まるとあって、いつもの開放感に加え、無邪気なくらい高揚した空気が流れている。僕は夏休み中に読みたい本があったので、途中図書館に立ち寄ってから昇降口へ向かった。

 昇降口の前までくると、下駄箱の前で熱心に話している女子生徒2人の声が耳に入り、「あ」と思った次の瞬間、一方から「沢木くん」と声をかけられた。例の一件の後、戸塚と上原さんとの関係は快復し、今もこうして2人仲良く立ち話をしている。むしろ、あの一件を経て、彼女たちの友情はより深まった感さえある。

「ねえねえ」と戸塚は僕の腕をつんつんとつつきながら

「香織ちゃん、軽音楽部に入ったんだよ」と笑みをたたえたような声音で言った。僕は「え?」と思い

「……部活動があるのは火曜日と木曜日だから、上原さんは……」

と奥歯に物の挟まったようなもごもごした声で呟くと、上原さんはやや声を潜めて

「主治医の先生にお願いして、透析の日を月・水・金に変更してもらうことにしたの」

「変更してもらったんだ」と僕が言うと

「今すぐってわけにはいかないけど、夏休み中に日程調整してもらって、9月から活動するつもりなんだ。最初はできるだけ平日に重ならないように火・木・土にしていたんだけど、もっと高校生活楽しみたいなって気持ちが強くなって、部活動にも参加して好きなこと思いっきりやろうと思ったの。……お母さんにはちょっと負担になっちゃうけど了承してもらえたから、担任の先生にも相談して今さっき顧問の先生に入部届け出してきたの」

「負担って?」

「透析した後って体力が消耗してものすごく疲れちゃうの。だから、透析のある日は学校まで車で迎えにきてもらって、そのまま病院で透析してもらってから車で帰っていたんだ。今までは大学生の兄がたまたま火曜日と木曜日の午後は授業がなかったから学校まで迎えにきてくれたんだけど、月・水・金だとお母さんしかこれないの、それで……」

滝沢さんが昇降口で偶然見かけた男の人というのは、迎えにきた上原さんのお兄さんだったのかと、僕は心の中で頷いた。

 「パートは何? 香織ちゃん声きれいだからヴォーカルとかいいんじゃない」

「そうかな……」と上原さんはやや謙遜するような調子で言い

「……歌うのも好きだけど、私小学生の頃にエレクトーン習っていたから、キーボードがいいかなって思ってるんだ」

「そっかぁ。軽音楽部って毎年文化祭でステージ発表しているから、私絶対に観に行くね」

「ありがとう」

彼女たちの会話を聞きながら、僕は心の中で「滝沢さんとはどうなったんだろう」と考えていた。滝沢さんとは部活で頻繁に顔を合わせていたが、彼の口から上原さんのことは聞いていない。今回の件についての真相は知っているが、上原さんのデリケートな部分に関わることなので、僕のほうから伝えるのはどうかなと思い何も話していない。できれば上原さんが直接滝沢さんに話してくれるのが一番望ましいのだが、まだ自分から積極的に打ち明けるところまで心の整理ができていないのかもしれない。

 「……なんか今回の件で少し考え方変わったかもしれない」と、ふいに上原さんはしみじみと呟いた。

「今まではいこじなくらい病気のこと隠していたの。……私ってどちらかといえば負けず嫌いでプライド高いほうだから、透析受けてることで友達から心配されたり同情されることがいやだった。……失明して透析受けるようになってから、中学のときの友達が様子見にきてくれたの。でもね、みんなには私が糖尿病だってことは言ってなかったし、他の人と同じような生活しているように振舞っていたから、突然障害者になった私の姿見たらきっと面食らうに決まってる、そう思ったら怖くて会うことすらできなくて、いつも居留守使ったりして避けていたの……。……でも、それって友達のこと全然信用していないってことだし、嘘ついてまで隠そうとしていることそのものにもいやな気持ちを感じていたの。結局、私は自分のプライドを守ることばかり執着していて、相手が私のことを気にかけてくれる気持ちそのものを理解しようとしていなかったんだよね。……今回の件をきっかけにいろいろ考えちゃってさ、私に必要なのは、自分の状況にきちんと向き合うことと、相手の気持ちに歩み寄る姿勢なんだって気づくことができてね……、ああいう形だったけど2人に私のこと知ってもらえたら、なんか今まで重荷に感じていたものが少しだけ軽くなったような気がするんだよね。……まあ、直ちゃんや沢木くんみたいに受け止めてくれなくて不愉快な思いするかもしれないから、踏ん切りがつくまでまだまだ時間掛かりそうだけど……」

たんたんと話す上原さんの言葉を聞きながら、僕の判断は決して間違っていなかったと確信した。多分、心の傷を相手に示すことは、今まで自分ひとりで抱え込んでいた悲しさ・心細さ・不安感などの不の感情が詰まった荷物を相手に差し出すことに似ているのだと思う。差し出された荷物をしっかりと自分の手で受け止めてあげれば、その人の気持ちは支えてあげた分だけ軽くなる。受け止めてあげたからといって、逆にこちらが重荷に感じるということはない。むしろ、同じ荷物を支え合っているという連帯感のようなものが生まれ、より一層お互いの親密さが増すのだと、今回の経験を通じて強く感じた。

 「滝沢くんも受け止めてくれたよ」

との上原さんの言葉に、滝沢さんの件については何も知らない戸塚が「え?」とあからさまな疑問の声をあげた。

「直ちゃんのときと同じ理由で、滝沢くんにも不愉快な思いさせちゃったことがあったの。私と彼、偶然同じ電車に乗るから少し前から一緒に登校していたんだけど、私のせいで気まずい思いさせちゃってね……、次の日から一人で登校していたんだけど、後ろから黙ってついてきていることは気配で分かっていたの」

これでは本当のストーカーではないかと、僕は心の中で苦笑した。

「……ちょっと怖かったけど、ある日勇気出して後ろからついてくる滝沢くんに声かけてね、そのときのこと謝って、私が透析受けていることを話したの。ちょっと驚いていたみたいだけど、『打ち明けてくれてありがとう。大したことはできないけど、俺でよければいつでも相談に乗るし、何か手伝えることがあれば遠慮なく言ってよ』って言ってくれたの。少し前から、私の読みたい本を朗読してMDに吹き込んでくれたり、私のためにいろいろ気を使ってくれていたから、そう言ってくれて本当に嬉しかったな。……そんなこと言ってもらえたら、少しくらい彼に甘えちゃってもいいかなって思っちゃって、……透析の日程変えたのもそのあたりのことがあるんだ」

「どうして?」と戸塚が聞くと、上原さんははにかみながら

「だって……、土・日空けておけば、デートしやすいじゃない」(完)

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春の快メール 松江塚利樹 @t_matsuezuka

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