第3話
白い塔は高くそびえていた。
「・・・」
次第に夜が白み始めてくる。私は施錠された門の前で鐘が鳴るのを待っていた。
ボーン、ボーン、ボーン
辺りに鐘の音が鳴り響く。心臓が震えて倒れそうになるけれど、何とか踏みとどまる。木造の寄宿舎のような建物からわらわと人が出て来る。灰色の服。いつかの夏に、電柱も影に隠れながら見た景色だ。
「・・・」
私は得体のしれない生物たちを見る目で彼らを見つめた。
「おはようございます」
門の前で立っていると、一人の男性が私に近づいて来た。坊主頭にメガネ、肩から白いタスキをかけている。
「来ると思ってましたよ」
男はそう言って門の施錠を外した。がちゃがちゃと束になった鍵が音をたてる。
「吾郎くんを、返して」
私は静かに口を開いた。灰色の群衆が整列を始める。その中に吾郎くんの姿を探す。
「そのような人物はここにはおりません」
坊主頭の回答に私は視線を鋭くさせる。
「うそ」
私は静かに呟いた。鍵の外された門を乱暴に押し開けて、私は敷地の中へと足を踏み入れた。坊主頭は私を止めようとはしなかった。一糸乱れぬ整列を見せる灰色の群衆の中に突っ込んで行く。
「吾郎くん、」
私は必死で吾郎くんを探した。灰色の集団は皆私が見えていないみたいに、まっすぐ正面を向いて整列している。私は夢中だった。吾郎くんに会いたい。今すぐ。
「・・・」
何かが近づいて来る気配を感じて、私は動きを止めた。ぎこちなく視線をそっちへ向けると、真っ白な衣装を着た一人の女性が私に近づいて来ていた。
「・・・」
その女はひどく静かに微かに微笑みを湛えながら私に近づいてくる。そして女と目を合わせた瞬間、私はまるで魔法にかけれらたかのようにその場から一歩たりとも動けなくなり、まるで地面にくぎ付けにされたように1㎜たりとも女から目をそらせなくなった。
「・・・」
女は笑みを湛えながら、足音もなく近づいてくる。笑ってはいるけれど、その目は計り知れない分厚い仮面を被っているような、得体の知れない、どこか恐怖を感じさせるものがあった。衣装の白が眩しくて目が痛い。
「マヤ様」
灰色の服を着た彼らが彼女のことをそう呼び、次々に跪いていく。気が付けば私以外みな彼女にひれ伏していた。
「ようこそ光の会へ」
女が口を開いた。女性にしては低い声だった。
「私たちはあなたを歓迎します」
そう言って、女は私の額に手をかざした。すると周囲からはため息のような深い感嘆の声が湧き起こった。女に手を翳されると不思議とその部分が温かく、じんわり頬が上気した。
「安心しなさい、我ら光の子供」
そう言って女は私を抱きしめる。途端に抱きしめられた全身が温かくなり、凍えるように寒かった体が一気に温かくなった。体の内側がじんわりと温かい。見えない膜に覆われ守られているような、何とも不思議な心地だった。
「・・・」
体が離れると私は膝から崩れ落ちた。なぜか体に力が入らない。
吾郎くん。
心の中で名前を呼んだけれど、私の目には笑みを湛えた眩しい女が一人、映っているだけだった。それしか見えなかった。まるで世界には彼女しかいないみたいに、私の脳は彼女に支配されていた。
「立てますか」
マヤ様と呼ばれるその女の姿を見つめていると、別の誰かに声をかけられた。
「・・・」
私はぼんやりマヤ様を見上げていた。すると無理やり両腕を掴まれた。緩慢な動きで横を見ると、黒い服を着た男女に両脇を支えられていた。
「・・・」
私は何もしゃべることが出来なかった。全身の筋肉が弛緩して全く力が入らない。黙っている私を半ば引きずるようにして、黒服の二人はどこかへ運んでいく。私は何の抵抗もできないで、ずるずると彼ら二人に連行されていった。
「着替えなさい」
連れて来られたのは馬小屋のような狭く小さな物置だった。埃っぽくて光もあまり届かない薄暗い小屋。
「・・・」
目の前に差しだされたのは麻のようなざらざらした生地の薄い布だった。
「・・・」
差し出されたそれを私はぼんやり見つめた。黒服の二人は一瞬顔を見合わせ、何かを確認し合うように頷き合うと、男の方が小屋を出て行った。
「・・・」
女の黒服と二人で小屋に取り残される。
「あなたにいくつか説明をします」
女が口を開いた。
「・・・」
私は地面にぺたんと座ったまま女の顔を見上げる。
「ここは新しい世界を作ろうと志す者の集まる、いわゆる選ばれた人間だけが生きることを許された場所です」
女は淡々とした口調で話す。
「マヤ様はこの光の会の創始者で、そして私たち光の会の中で最も徳を積まれたお方です。マヤ様には特別な力がある。それはあなたが身を持って体験したことだと思います。私たちは日々、マヤ様の教えを守り、この世界をより良いものするため、日々修行を行っています。修行によって、私たちの魂は浄化され、より高次元な人間へと進化することができる。私たちは新世界へ行くことができる。マヤ様と共に、私たちは新たらしい世界を作るのです」
女は淡々と話すが、その目には不気味な光が宿っていた。
「あなたは自分の足でここへ来た」
「・・・」
「それをマヤ様は歓迎した」
「・・・」
「従ってあなたには試練を受ける義務があります」
女はもう一度、先ほどのザラザラした生地の服を私に差し出す。
「これを着なさい」
女は私の耳元で囁く。
「吾郎くんは?」
私は口を開いた。
「そのような人間はここには存在しません」
女は冷たい声で私を突き放す。
「ここに来た人間は誰も名前をもっていません。人間社会で与えられた名前など、汚らわしい不必要な物です。名前を持っているのはマヤ様ただお一人だけ。マヤ様は選ばれたお方ですから」
「吾郎くんはここにいる」
「名前で呼ぶのをやめなさい」
女は憎しみを込めた口調で言い捨てる。
「吾郎くんを返して」
私がそう言い終わるかのうちに、女が私の頬をひっぱたいた。それを引き金に、私は女に飛びかかった。さっきまでの無気力が嘘のようだった。猿のように女にめがけて飛びつくと、力まかせに女に爪をたてた。
「おいっ」
女と取っ組み合いになって暴れていると、物音に気が付いたのか、先ほど部屋を出たもう一人の黒服の男が勢いよく小屋の戸を開けた。男は入ってくるなり、私の手首を掴んで捻りあげると自由を奪った。男に羽交い絞めにされ、いとも簡単に私は地面に押さえつけられた。
「何をしてるんだ」
男は私ではなく、黒服の女に言った。
「暴力は禁止されているはずだ」
男の言葉に、女は肩で息をしながら歯を食いしばるだけで何も言わなかった。
「自分で懺悔するわ」
女は歯の隙間から絞り出すようにそれだけ短く言って、小屋を出て行った。
「・・・」
女がいなくなって、男が私を見下ろす。
「早く着替えなさい」
男は低い声でそう言って小屋を出て行った。
「・・・」
一人小屋に残され、地面に落ちていた麻の服を拾い上げる。
「・・・」
私には、ここに吾郎くんがいるという確信に近い自信があった。根拠は無いけれどマヤ様と呼ばれたあの女に額に手を翳された瞬間、そう確信したのだ。
「・・・」
私は麻の服を頭から被った。吾郎くんに会いたい。
服を着替え小屋を出ると、今度は薄暗い地下室に連れて行かれた。ぼんやりしていると絶対に見落としてしまいそうなほど、入り繰りはひっそりと存在していた。防空壕のように、地上から見えるのは入り口だけで、そしてその入り口は、背の高い雑草の影に隠れるようにしてひっそりと口を開けていた。
下へ続く階段を下る。黒服の男は私を先に行かせ、背後からランプの明かりで行く先をほんの少し照らす。
一番下まで降りると、少しひらけた空間に出た。監獄のように、大きな檻があった。
「・・・」
檻の前で突っ立ていると、背後から男が無言で、中に入るよう言ってきた。
「・・・」
私は檻の中に入った。錆びた鉄の柵がキィと音をたてて閉まる。いつの間にそこにいたのか、白いタスキをかけた坊主頭のあいつがそこに立っていて、私の入った牢屋に鍵をかけた。
「これから数日間、ここで身の清めの試練を行う」
黒服の男が檻の向こうから私に言った。
「・・・」
私は黙って男を見つめた。
「この試練に耐えた者だけが、この光の会に入ることを許される」
そう言って、男は私に背中を向けた。
「吾郎くん、ここにいるんでしょう?」
私は男の背中に言葉を投げたが、男は何も言わず渡井に背を向けた。するとの持っていたランプの明かりが遠ざかり、一気に暗さが増した。男と坊主頭の背中が小さくなっていく。私は鉄の檻の中でその後ろ姿を見送った。姿が見えなくなり、二つの足音も聞こえなくなると、辺りは真っ暗闇に包まれた。
「・・・」
暗闇の中に一人取り残されると、私はその場に腰を下ろした。膝を抱える。瞼を閉じてじっと暗闇に溶け込む。暗闇には慣れていた。耳を澄ます。何も聞こえない。床が硬くて冷たい。ザラザラした麻の服もちくちく痛くて嫌だ。でもどこか懐かしい感じがする。この感じ。何もない。からっぽ。ずっとここで生きて来た。何も選ばず、何も拾わず、じっとして生きてきた。私には何もなかった。ありあまるこの命の他に、私にはもともと何もなかったのだ。それを思うと、この一人ぼっちの暗闇も、少しだって怖くないような気がした。少し前までの私自身を慈しむように、私は暗闇に身を任せた。
「食事だ」
声が聞こえて顔を上げると、目に入った光の強さに一瞬意識が飛んだ。
「・・・」
檻の向こうに黒服の男と坊主頭が立っていた。お盆に乗ったおにぎりが一つと、コップに水が一杯。檻の隙間から投入されたそれを、私は受け取った。
「・・・」
まずは水を口に含む。それからおにぎりを口に入れた。塩味がした。一口食べて、急に気持ちが悪くなったので、食べるのをやめた。
「食べなさい」
黒服の男は私に指示した。
「いらない」
私は小さな声で言った。
「食べている時に喋ってはいけない」
男がいうので聞き返す。
「食べるということは命を頂くということだ。その様な神聖な儀式を行っている時に喋ってはいけない」
男は表情一つ、声色一つ変えず話した。まるでサイボーグのような男だった。
「・・・」
私は黙っておにぎりを食べた。気持ち悪るさは倍増し、時折身震いをしてしまいそうな程だった。彼らは私が全て完食するまでそこにいた。その間、男の持つランプの明かりが周囲を照らしていた。私はまるべくゆっくり咀嚼し飲み込んだ。そして私が全て食べ終えると、彼らは何も言わず再び出て行った。
何時間も何十時間も暗闇の中でじっとしていると、時折ふと不思議な物が見えるようになった。綿毛のようなふわふわと柔らかそうなもので、不意に目の前に現れては消えていく。何度目かの時に掴もうと手を伸ばしたけれど、少しも触れなかった。見えてはいるけれど、実体がない、まるで亡霊のようだった。
「なにを歌っている?」
食事を持ってやって来た男が私に尋ねる。おにぎりとコップ一杯の水が差し入れられる。私は横目で男を見上げた。ランプの明かりが強すぎて目を逸らす。質問には答えなかった。
鼻歌を続ける。
途切れ途切れ、頭の中で流れる音楽を空気に乗せる。
暗闇に飲み込まれないように、自分の中の光を見失わないように、美しいあの曲を繰り返す。
「出ておいで」
座っているのもしんどくなってきて、横たわっていると、鉄の檻が開いた。かかっているはずの鍵は、いつの間に外されたのか、かかっていなかった。
「・・・」
ようやく解放されたのだと思ったけれど、思うように体に力が入らずしばらくぼんやりしていた。すると檻を開けに来たその人が私の体を起こした。
「立てる?」
そう問われて、なんとか足腰に力を入れて踏ん張る。その人は手に持っていたロウソクを高く掲げ、行く先を照らしてくれた。一段一段登る階段から転げ落ちないように、背中を押してくれる。
「・・・」
這うようにしてふらふらと外に出た。外は夜だった。月が見えた。素直に月が綺麗だなと思った。月の光が私の目を射すことはなったが、冷たい風が体を突き刺した。毛布で全身を包まれる。埃っぽくてコンコンと咳が出た。
「おめでとう、125番」
私を毛布でくるみながら、私の後から出て来たその人は言った。
「私は117番」
灰色の服を着ていた。同じ歳くらいか、もう少し下か、女の子だった。彼女は自分をそう名乗った。
「あなたも今日から光の会の一員よ」
彼女は目をキラキラ輝かせながら言う。
「・・・」
嬉しそうなその顔を、私はぼんやり眺めていた。
「あなたのベッドはこっち。服はこれを着て」
117番は私の手を引いてベッドに座らせると、隣にポイポイ必要な物を置いた。
「朝の起床はいつも6時。鐘が鳴るから心配しないで。その後は私と同じように動いてくれればいいわ」
部屋には他にも二段ベットが置かれており、既に就寝しているらしい同部屋の人間に気を使ってか、彼女は終始小声だった。
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
今までより一層声を潜めて、彼女は言う。
「幹部様の一人を塔送りにしたって本当?」
ベットの隣に座りながら彼女は少し興奮したように喋る。
「幹部様?」
私が聞き返すと、彼女は驚いた顔をした。
「あなたここの事本当に、何も知らないの?」
彼女の問いい、私は黙って頷いた。
「いい、ここで一番徳の高いお方はマヤ様、それは知ってるわよね?」
私はコクンと頷いた。
「その次が幹部様なの。黒い服を着てる人たちのことね。幹部様は私たち灰色の光の子の中でも、特に優れた人だけがなれるの。幹部様になるには毎日の修行で徳を積んで、試験に合格しなくちゃいけないの。幹部様になれば光の会の為にできることも多くなるし、マヤ様のお世話も出来るようになる。幹部様の言うことは、マヤ様の次に絶対なの。だから、幹部様に塔送りにされる人はいても、幹部様を塔送りにした人なんて今まで一人もいないわ。それなのに、今まで五人いた幹部様が、あなたが入ってきたと同時に突然一人いなくなってしなった。みんなあなたが追放したんだって噂してるわ」
彼女はこそまで淀みなく話すと、さらに顔を寄せて来た。
「それで、実際のところどうなの?」
興奮と恐怖の入り混じったような、何ともいえない顔で彼女は問う。
「知らない」
私は答えた。
「どういうこと?」
彼女は引き下がらない。
「白い塔ってなに?」
私は質問で返した。
「ずるい。まぁいいわ、そのうち分かることだから」
彼女は少し拗ねたように唇を尖らせた。
「白い塔っていうのは・・・」
そこで彼女は言葉を切った。考え込むようにしばし黙る。
「私も良くは知らないの。光の子はここと畑と道場くらいしか出入りできないから」
私は彼女の目をじっと覗き込んだ。彼女も少しぼーっとした目で私を見つめ返す。さっきまで活発に喋っていたのに、急に催眠術にでもかかったみたいになったので驚いた。
「あなたって少しマヤ様に似てる」
あまりにも彼女がぼんやり私の目を見つめるので、少し気持ち悪くなって目を逸らすと彼女が言った。
「ごめんね、疲れてるでしょう」
私のベッドから立ち上がり、彼女は言う。
「おやすみなさい」
そう言って、同じ二段ベッドの二階へ登って行く。
「ねぇ、」
眠りに入ったと思うと、二階のベッドから再び彼女が顔を出した。
「私ずっとここの一番下っ端だったの。あなたが来るまでに何人か試練に合格した子もいたんだけどね、みんな気が付いたら消えちゃってた。どこに消えたのかなんて聞かないでね。だから頑張って修行して、幹部様になってね。あなたならなれる気がする。そしたら私のこと、連れていってね」
最後ににっこり笑うと、今度こそ彼女は二段ベッドの上へと消えた。
翌朝。低く鐘の鳴り響く音で私は目を覚ました。支給された二枚の灰色の服には、125とマジックで書かれている。
鐘が鳴り響く中、一斉に起きだす灰色の群衆たち。誰も一言も発することなく、手早くベッドを整え外に出て行く。
「・・・」
その様子を眺めていると、117番が私の腕を掴んで一緒に外に引っ張り出した。
冷たい風が全身を包んだ。やがて幹部様と言われる黒服が数人現れ、体操が始まった。マヤ様の姿は今日はなく、笛の音に合わせて、まるで軍隊のように統一された列の後ろで、私は黙って従った。
彼らの生活は至ってシンプルだった。朝起きて体操をして、その後各チームに分かれて今日の修行内容を確認。三度の食事以外はずっと修行を行っていた。
彼らの言う修行とは主に畑仕事だった。雑草を抜いたり、水を撒いたり、その他掃除洗濯も行う。食事の支度だけは各チームごとで持ちまわりとなっていて、決められた時間に決められたことを行い、その内容を幹部様が確認して回る。ただあらゆる電子機器を排除していた為、お風呂を沸かすのもお米を炊くのも火を起したり、洗濯も洗濯板と石鹸であらわなければならず、水も井戸だった。従って自由な時間はほとんどなく、大半の時間を修行に費やすことは必然だった。
それから週に二回、各チームごと、道場と呼ばれるガランとした何もない板の間の部屋に行き、そこで何時間も座禅を組んだり、空手のような組手をしたりした。
幹部様にいわせると、精神と肉体の両方を鍛えるための修行を行うことが大事のようで、途中でリタイアをすると、更に苛酷な修行を与えられることになった。
一度、組手の修行の途中で力尽き床に座り込んでいると、幹部様に前に連れていかれ、皆の前で後手に縄で両手を縛られ、両足もきつく縛られた。何をされるのかと思うと、そのまま宙吊りにされ、あちこち竹刀で叩かれた。意識が飛びそうになると、頭から水をかけられた。
その他にも週に一度、マヤ様の講話があった。ただマヤ様のお話が聞けるというその日を、皆は心待ちにしているようだった。
「みなさん、自分は不幸だと思いますか」
拾い講堂に集められ、檀上に立ち、スポットライトを浴びるマヤ様の講話をきく。有る者は拝むように両手を合わせ、有る者は熱心な瞳でマヤ様を見つめている。
「人間というものは生まれながらにして不完全な生き物です。その不完全さ故に人は過ちを犯します。つい先日も一人、過ちを犯した者がありました。その者はとても優秀で、素晴らしい使命感に溢れていました。その者は自分の犯した過ちを悔い、私に懺悔にやってきました。私は彼女の話を最後まで聞きました。そして彼女の過ちを受け入れることにしました。彼女にやり直すチャンスを与えたのです。みなさん、自分の不完全さをどうぞ認めてあげて下さい。そしてその不完全さと正面から向き合うのです。逃げてはいけません。狭き道です。修行を積んで、己の不完全さを克服するのです。そうしてくじけそうになった時にはあなたの周りを見渡しなさい。そこにはあたなと同じように苦しむ者がいます。その者は他人ではありません。同じ苦しみを抱える、あたな自身でもあるのです。どうそみなさん、その者を愛してあげて下さい。それはあなた自身を愛することになるのです。人を憎むことは簡単です。己の不完全さを不完全であるがままに曝け出すだけなのですから。しかし、憎しみからは何も生まれません。私がみなさんを心から愛しているように、みなさんも自分の現身である他人を愛してあげなさい。そうすればあなた方は救われるでしょう。この苦しみに満ちた世界から解脱することができるでしょう。その時、私はあなたがた一人一人に、心から祝福を授けるでしょう。私はずっとここであなた方を許し続けます。救済を求める者が一人でもいる限り、光の会はあなた方を歓迎します」
マヤ様の話が終わると、講堂に割れんばかりの拍手が沸き起こった。盛大な拍手の中、ぼんやりとマヤ様を見上げていると、不意に手を握られた。
「・・・」
視線を動かすと、117番だった。
「・・・」
私は彼女の握る自分の手を見つめた。117番は何も言わず、静かに涙を流しながら私をそっと抱きしめた。
「大丈夫よ」
そう、私の耳元で囁く。すると、周りにいた男女が私の肩に手を置き、それぞれ私を憐れむような励ますような視線で何度も頷いたり手を握ったりし始めた。もう一度117番を見ると、泣きながら笑顔で私を見ていた。
「どこ行くの?」
真夜中。一人ベッドを抜け出し外へ出ようとすると、小さな声で呼び止められた。
「トイレ」
私は振り返って、二段ベットの上から覗く顔に言った。
「時間外の外出は禁止されてるの、知ってるでしょう?」
黙って117番を見つめる。
「行かなきゃ」
「どこに?」
彼女は鋭く質問を返した。
「吾郎くんを見つけないと」
私は言った。手に持ってたロウソクの火が揺れた。
「誰か来る」
117番が呟いた。遅かった。
「誰なの?」
鋭い口調が廊下に響く。
「・・・」
私はロウソクの明かりを持ったまま部屋のドアの前で静止していた。
「何をしてるの?」
黒服を着た幹部様だった。
「・・・」
私は何も言わなかった。
「来なさい」
幹部様が私の腕を強く引いた。二段ベッドの上は沈黙を守っている。ぐいぐい腕を引っ張られて、私は連行された。
「入りなさい」
連れて行かれたのは高くそびえる白い塔の一室だった。塔の中に入る時、入り口の扉に幹部様が手を翳すと、指紋認証が解除され、沈黙を守っていた扉が開いた。あらゆる電子機器を排除されたこの空間において、それはとても異様な物に見えた。
「あなたは規則を破りましたね」
幹部様は私を小さな小部屋に入れるとしっかり扉を閉めそう詰問した。
「・・・」
私は黙っていた。
「答えなさい」
幹部様が再び口を開くけれど、私はなおも黙っていた。
「いいでじょう」
幹部様は諦めたのか、少し冷静な口調に戻った。
「ここに連れて来られたということがどういうことか、あなたは分かっていますね?」
私は無言で首を左右に振った。
「これからあなたには規則を破った罪を浄化して頂きます。あなたが自分の罪を認め、それを正しく改める心の浄化をされない限り、あなたをここから出すことは出来ません。あなはたマヤ様と共に新世界へ解脱することも出来ませんし、あなたはこの汚らわしい現世で苦しみ続けることになります」
幹部様は淡々と述べる。
「いいですか、あなたにはこれから自分自身と向き合って頂きます」
幹部様はそう言って、部屋の片隅に置かれていた椅子に私を座らせた。
「この椅子はただの椅子ではありません」
そう言いながら、幹部様が私の足首を椅子の足に縛り付け始めた。私は足をばたつかせて抵抗したけれど、なぜか思うように力が入らなかった。さっきから部屋の中が甘ったるいような不思議な匂いがする。
「いいですか、あなたはあなた自身と向き合わなくてはなりません。不完全なあなたを、まずは認識し、認めるのです」
幹部様は私の頭にヘルメットのような重い帽子をかぶせた。両目まで真っ黒な布で覆われ、視力を奪われる。両手まで後ろで拘束された状態で、私はパニックに陥った。
「安心しなさい。大丈夫です」
幹部様は私の肩に手を置いて囁く。
「今から弱い電磁波をあなたの頭に流します。これはあなたの知らないあなたを目覚めさせる為の修行です。不完全なあなたは進化するのです」
何も見えなかった。手足の自由も視力も奪われ、幹部様の言葉だけが唯一となった。
「あなたがこの試練を乗り越えることが出来れば、きっと新しいあなたを私たちは迎え入れるでしょう。安心しなさい、あなたはあなたの中にある自分自身と戦うことで救われるのです」
幹部様はそう言うと私の肩から手を離した。部屋のドアが閉まる音。防空壕のようなあの暗い地下室に閉じ込められた時よりも圧倒的な恐怖が私の心を支配していた。言いようのない恐怖がじわじわとせり上がってくる。ふと、こめかみ辺りに小さな痛みが走った。
「・・・」
ただでさえ恐怖で混乱している頭に戦慄が走る。声を出そうとするけれど、気づけば口もふさがれていた。
「・・・」
心臓がバクバク早鐘を打ち、その度にこめかみに鈍い痛みが走る。なんだか甘ったるいような匂い更に濃くなっている気がして、全身の力が抜けていくような、ふわふわ雲の上を歩いているような心地になっていく。次第にぴりぴりと痺れるような頭の痛みが心地よく感じられていく。
ふと目の前が明るくなった。明るくなったかと思うと、また急に暗くなる。体は椅子に縛り付けられているはずなのに、体がふわふわと浮いているようだった。まるで幽体離脱でもしたかのような不思議な心地で、重力を持たない私の魂はふわふわと宙をさまよい出す。どんどん、どんどん上へ上へのぼっていく。このまま天国へたどり着いてしまいそうだ。辺りを見回し吾郎くんを探す。あまり遠くまで行くと吾郎くんを見失ってしまうと思った。だから下を向いてあちこち見回していた。すると今度は急に下に向かって一気に引きずり降ろされた。もの凄い速さで引きずられ、気が付けば私は椅子に縛り付けられたまま、地面に転がっていた。頭が痛くて痛くて割れそうだった。視界は真っ暗で何も見えなかった。手足の自由が利かず、地面に額をこすりつけたまま動けない。すると頭にぶるぶると震えるような強い衝撃が走った。激痛の源のようなそれは、断続的に続いた。息が苦しかった。悲しくなんてないのに涙が自然と溢れた。
助けて。
心の中で助けを呼んでも誰も助けには来なかった。
吾郎くん。
心の中で名前を呼んだのを最後に、私は意識を失った。
「ハナ、」
優しい声がして私は目を覚ました。
「ハナ、」
聞き覚えのある声だった。
「吾郎くん・・・?」
久しぶりに名前を呼ぶ。
「ハナ、」
吾郎くんの声だった。
「吾郎くん」
涙が溢れた。まだ痺れの残る手で吾郎くんの体を、拳で殴った。殴っても殴っても、へなちょこパンチでは全然吾郎くんに届いている感じはしなかった。
「ハナ、痛いところはない?」
涙でぐしゃぐしゃの顔を、吾郎くんが優しく撫でてくれる。私はただ頷いた。
「吾郎くんはどこも痛くない?」
涙で霞む視界。涙は溢れて止まらない。
「僕は大丈夫だよ」
吾郎くんは穏やかに答えた。いつもの吾郎くんだった。
「吾郎くん、」
幻ではないのを確かめようとして、私は彼の頬に手を伸ばした。彼は確かに実体を持ってそこにいた。
「もう大丈夫だよ」
吾郎くんは私にそう微笑みかける。いつもの優しい瞳だ。
「吾郎くん・・・?」
なんだか奇妙なズレを感じて、私は彼の名前を呼んだ。優しい瞳が私を映している。映してはいるけれど、微妙に焦点が合っていなかった。
「吾郎くん・・・?」
もう一度名前を呼ぶ。
「どううしたのハナ?」
吾郎くんは私の声に反応して私の頬に触れるけれど、それはまるで私の顔の表情を読み取ろうとするかのように、指先で私の顔を探っていた。
「吾郎くん、見えてないの?」
震える声で私は尋ねた。
「見えてるよ」
吾郎くんは穏やかに答えるけれど、その目はやはり焦点が合っていなかった。
「どうしたの吾郎くん」
私は体を起こして吾郎くんの瞳を覗き込む。
「何でもないよ、大丈夫だよハナ、大丈夫だよ」
吾郎くんは何度も大丈夫と繰り返す。
「・・・」
私は辺りを見回した。
「・・・」
医務室だろうか。白いベッドが何台も並べられていた。
「吾郎くん、ここ、どこ?」
私は二ぢと離れないようにと、彼の手を握りながら問う。
「塔の中だよ。ここには滅多に人が来ないから大丈夫」
吾郎くんは至って穏やかに答える。
「吾郎くんここで何してるの?」
「マヤ様の手伝いだよ」
吾郎くんは笑顔で答えた。
「色々な薬品を作ってたんだ」
吾郎くんはそう言って慣れた足取りで壁際の棚に手を伸ばす。
「これ、ハナが嗅いだのはこの薬なんだけど、」
吾郎くんはそう言って小さな小瓶を私に見せる。
「これを薄めて匂いを嗅ぐだけで、不思議な体験をすることができる。ハナも体験したでしょう?こう、ふわふわと体が軽くなって、肉体という檻を飛び出して自由になったでしょう?」
焦点の合わない穏やかな瞳を輝かせながら、吾郎くんは言う。
「吾郎くん、」
私はベッドから立ち上がり、彼の手を握った。
「帰ろう?」
震える声で私は言った。
「どこへ?」
吾郎くんは首を傾げる。
「私たちのお家」
私は言うけれど、吾郎くんは言葉が理解できないといった風に首を傾げたままだった。
「帰らなきゃ」
私は彼の手を引くけれど、彼は動こうとはしなかった。
「どうして?」
私は問う。吾郎くんは答えない。
「私、ずっと待ってたの。吾郎くんのこと待ってた。でも待ちきれなくて、ここまで探しに来たの」
吾郎くんは答えない。繋いだ掌に力を込める。
「吾郎くん、もう帰ろうよ」
私は吾郎くんの手を握っていたけれど、吾郎くんは私の手を握ってはいなかった。
「ハナ、」
優しい声で吾郎くんは私の名前を呼ぶ。
「僕はここで生きていく」
吾郎くんの声は穏やかだった。私は吾郎くんの手を離したくなくて、必死で握っていた。
「マヤ様となら新しい世界にいける気がするんだ」
吾郎くんは言う。
「マヤ様は選ばれたお方だ。僕はマヤ様に救われた。僕に生きる希望を与えてくれた。この社会は間違っている。弱い物は弱いまま、何もできず消されていくなんて間違ってる。弱いことが悪であるような、そんな社会はいらない。理想の社会を作るんだ。人は不完全だからこそ、完全な物を作ろうと努力することができる。マヤ様は僕にそう教えてくれた。それが僕の生きる意味だ。マヤ様の理想は僕の理想でもある。マヤ様は僕の希望なんだ」
吾郎くんはまるで自分自身と会話しているようだった。一切、私という存在を無視して話していた。
「・・・」
私は黙って吾郎くんを見つめていた。吾郎くんであって吾郎くんでない人がそこにいる気がした。
「吾郎くん、私のこと覚えてる?
怖かった。
「私のこと、知ってる?」
吾郎くんを怖いと、初めて思った。繋いだ掌が震えていた。
「・・・」
沈黙が流れた。短くて、途方もない程長い数秒の沈黙だった。
「誰かいるの?」
部屋の外から聞こえてきた女の声が私たちの沈黙を破った。
あぁ、終わった。
直感でそう思った。
「誰かいるなら返事をしてちょうだい」
声が近づいて来る。部屋の扉が開いた。
「・・・」
私は吾郎くんの手を強く握った。離れてしまいそうだったから。
「いるんじゃない」
女は入って来るなり、とろけるような笑みを作ってみせた。白くて長いスカートがさらさらと揺れている。
「おいで」
女は吾郎くんだけを見ていた。私なんて少しも見えていなくて、ここに存在していないかのようだった。
「・・・」
私は吾郎くんの手を強く握っていた。その場で石になったかのように、動けなかった。
「・・・」
吾郎くんは動かなかった。女が吾郎くんに近づく。両手を広げ、抱きしめる。
「・・・」
一瞬、吾郎くんの全身が温かくなった。まるで体温が急に上昇したかのように、女が吾郎くんに触れた瞬間、繋いだ掌から熱が伝わってきた。
「・・・」
女は吾郎くんを抱きしめる。我が子を抱くように、優しく愛撫する。
「おいで」
女が吾郎くんの耳元で囁いた。
「・・・」
ほんの一瞬。一瞬だった。小さな、囁くような吐息が、吾郎くんの口から漏れた。私は吾郎くんから手を離した。もう、離れていた。
「・・・」
女は吾郎くんを見つめ、満足そうに微笑む。
「マヤ様、」
吾郎くんは縋るように女の名前を呼ぶ。
「・・・」
見たくなかった。
「・・・」
でも見ていた。マヤ様は女の匂いをまき散らしながら吾郎くんを誘う。ぴったりと体を寄せ合って、腕を絡めて、足で巻きつく。吐息をかけて吾郎くんを誘う。
「・・・」
私は瞬きもしなかった。目を見開いて、二人のその様を凝視していた。
「・・・」
二つの唇が重なる。そして唇だけに特別な生命力が宿ったかのように蠢き貪り合う。
「よくできました」
ようやく唇が離れると、マヤ様は言った。吾郎くんは突っ立っている。
「おいで」
マヤ様が私を呼ぶ。
「・・・」
私は目を見開いたまま棒のように立っていた。マヤ様はそんな私を笑って見つめる。分厚い仮面を被っているような、底知れない笑みだ。
「・・・」
マヤ様の唇が私に触れた。触れた唇からじんわり熱が伝わってきて、脳をぼんやり麻痺させる。子宮のあたりが温かい。這うようにして蠢く彼女の唇から、まるで命を吸い取られるかのように全身の力が抜けて行く。
「もっともっと、まだまだ足りないわ」
マヤ様は囁く。
「全然足りないの」
マヤ様はゴムのように力の抜けた私の体を抱きしめる。
「もっと、私を、愛して」
マヤ様はそう言って再び私の唇を塞ぐ。マヤ様の両腕が体に巻きついて胸が押しつぶされる。息が苦しくて涙が溢れた。
「マヤ様」
吾郎くんの声が聞こえた。吾郎くんがマヤ様を私から剥がす。ゲホゲホ咳込みながら酸素を吸う。マヤ様が大声で叫んでいる。獣みたいな咆哮をあげ、吾郎くんに爪をたてる。
「・・・」
私は蹲りながらその姿を見つめた。悲しかった。
「・・・」
吾郎くんを見つめる。吾郎くんは見えない目でマヤ様を見ていた。顔を引っ掻かれて血が出ている。吾郎くんはされるがまま、マヤ様に身を任せていた。
「ハナ、」
吾郎くんが私を呼ぶ。
「なに」
私は静かに答えた。マヤ様は叫び続けている。だだをこねた子供のように。
「棚の中に注射器とね、青い瓶に入った液体があるから取って来てほしいんだ」
吾郎くんも静かに言った。
「わかった」
そう言って私は立ちあがった。さっき吾郎くんが開けた戸棚を探す。
「あったよ」
マヤ様に首を絞められている吾郎くんの背中に言う。
「持ってきてくれるかな」
少し掠れた声で吾郎くんが言うので私は吾郎くんの手に透明な注射器と青い小瓶を手渡した。
「ありがとう」
吾郎くんは苦しそうに、けれども落ち着いた様子でそれを受け取った。
「・・・」
私はマヤ様を見つめた。鼻水と唾液と涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。吾郎くんは慣れた手つきで注射器に液体を注ぎ込み、それを何の躊躇いもなくマヤ様の肩の辺りに刺した。
「・・・」
尖った針の先端が、荒れ狂うマヤさまの肩に刺さり、吾郎くんの親指が注射器のお尻を押し込んだ一秒後、マヤ様はぷつりと糸が切れた。動きを停止したマヤ様はだらりと吾郎くんにもたれかかり、動かなくなった。
「・・・」
しんと静かになった部屋で、私と吾郎くんと壊れた人形の三匹が呼吸をしていた。
「眠っているだけだから大丈夫」
そう言って、吾郎くんはマヤ様を持ち上げるとベッドに寝かせた。
「たまにこんな風になるんだ」
吾郎くんはマヤ様を寝かすとそう言った。
「初めて会った時から思ってたんだ。哀しい人だって」
「・・・」
「でも僕たちは誰も、彼女のことを笑えない」
吾郎くんは遠くを見つめる。
「ハナは見つけたんでしょう?」
吾郎くんは言う。
「ハナの月を見つけたんでしょう?」
吾郎くんは全部わかっているのだ。多分、全部知らないけれど、全部分かっている。私は頷いた。吾郎くんは微笑んだ。
「ハナはこれからも見つけるよ、いくつでも見つけられる」
まるでさよならだった。吾郎くんからのさよなら。
「私、誰にも言わない」
私は口を開いた。
「マヤ様が本当はこんな大きな獣だなんて、誰にも言わない」
吾郎くんが私を見た。焦点の合わない瞳で私を見つめる。
「私を離さないで?」
私は今にも泣き出しそうなのに、吾郎くんは微笑んでいる。
「僕はもうここから出られないよ」
「どうして?」
「目が見えない」
「それがなに?」
「弱い者は社会で生きてはいけないんだよ」
「私が助ける」
「ちがうよ、ハナ」
「なにが?」
「僕はもう二度とあの世界に戻りたくはないんだ」
吾郎くんはふと視線を下に落とす。
「彼女を捨てられない」
吾郎くんの言う彼女がマヤ様であることを、私は理解していた。口を開く。
「捨ててよ」
私は言った。残酷な言葉だった。私は一人の人間を今、殺せと言ったのだ。すみっこで一緒に生きて来たはずなのに、今、吾郎くんとの絆が見えない。
「・・・」
吾郎くんは何も言わなかった。
愛なんて知らない。恋なんて知らない。ただ吾郎くんと一緒に生きたいだけ。
「愛って、共に生きることでしょう?」
静かに私は問うた。
「愛って、命のことでしょう?」
言葉が空気に触れて、形にならずに消えていく。
「吾郎くん、」
時が止まったみたいだった。私だけ、時が止まっていた。彼らは時間を刻み命をすり減らし、着々と終わりへと歩を進める。私だけ、私だけここに止まっている。
「吾郎くん、私、疲れちゃった」
もう進むことはない。
「少し眠ってもいい?」
「いいよ」
吾郎くんは優しい声で言う。吾郎くんは優しく微笑んで私を見つめている。私は少し笑った。
「おやすみ、吾郎くん」
マヤ様の隣のベッドに横になって、私は瞼を閉じる。
「おやすみハナ」
吾郎くんの優しい声。
「ねぇ吾郎くん、」
「ん?」
「いつか私を迎えに来てね」
「うん」
「待ってるからね」
「うん」
「愛してるよ」
「うん」
「嘘だよ」
「うん」
「嘘だよ」
「うん」
「吾郎くん、」
意識を手放す前にもう一度名前を呼ぶ。
愛してる。
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