第2話
吾郎くんと初めて出会ったのは、夏の太陽の、とても暑い日だった。いっそ痛いくらい。
その日も何人かの人間が私を取り囲み、見下ろしていた。みんな特に楽しそうな顔をしているわけでもなく、ただ疲労と貧困のにじみ出た目で私を見下ろしていた。いくつもの目はどれも、いつもそんな風に同じだった。
彼らが私に暴行を加える理由は特にない。たまたま私がそこにいて、彼らがそこにいて、たまたま同じ工場で働いていただけ。たまたま鬱憤がたまっていて、たまたまその鬱憤を晴らす方法が私を痛めつけることだっただけ。全部たまたまだ。
私は地面に転がっていた。彼らは私を無理矢理立たせて拳で殴る。私はただ崩れ落ちるばかりで、防ぐことも避けることもない。太陽の日差しが強すぎるせいで、目の前がピカピカと時折フラッシュバックする。足で蹴られて、踏まれて、彼らは笑うこともなく黙々と暴行を繰り返す。痛みしかない中で私はただ、太陽の熱だけを探していた。
髪を引きずられてどこかに連れて行かれる。地面に擦れて裂ける感じがしたけれど今更どうでも良い。生臭さの中に、得体の知れない何かが発酵したような腐敗臭が混ざる。私の働く工場のすぐそばには汚いどぶ川が流れている。あぁこれはその臭いだ。魚肉加工場である工場の裏手に位置するその川に、時々工場から出た廃棄物を垂れ流していることを私は知っていた。下っ端の私が知っているということは、誰もが知っているということで、そのごみ溜のどぶ川に連れていかれるということは、私もきっと今からそこへ捨てられるのだろう。
「こいつ、死んだ?」
それまでただ無言で暴力を繰り返すだけだった彼らのうち、一人が口を開いた。
「死んでない」
別の一人が言った。それから一瞬体が軽くなったかと思うと、急に重力に引っ張られて、私は川辺の土手を転げ落ちた。釣り針に引っかかって気まぐれで海に返される魚も、こんな感じなのかな。
どこでもいい。ここじゃないどこかへ行きたい。
転げ落ちながらそう、ううん、もうずっと前からそう思っている。
太陽に焼かれながらぼろぼろの体で倒れていると、不意に冷たい水を顔に浴びせられた。生温かくて気持ち悪い水の感触に、微かに瞼を開くと真っ黒な人影が見えた。今日はしつこいな。瞼を閉じた。
「大丈夫?」
また殴られるのかと思っていると、そんな言葉が降って来た。この日差しなんか少しも暑くないみたいな、なんとも穏やかな声だった。
「・・・」
私は黙っていた。少しも喋れそうになかった。自分の体を支えられる力が、体中のどこを探しても1㎜もなかった。
ふわり、体が浮いた。今度は叩き落されることなく、揺るかやかに着地をした。ふわふわ体が揺れている。うっすら瞼を開くと、誰かの背中におんぶされて、そしてどこかに向かって景色が移動していた。広い背中。瞼を閉じる。
ゆっくりと水を飲む。ちょっと鉄の味のするぬるい水。その人は私の頭を支えながら少しずつペットボトルに入った水を私の口へ流し込む。
「・・・」
瞼が腫れているのか、視界が狭い。その人は何も言わずしめらせた布で私の顔をそっと拭く。低い天井。青い。狭い。私とその人、二人できちきちだ。暑い。切れた傷口に汗がいちいちしみる。息を吸う。
「・・・」
声が出ない。もう一度息を吸い込む。肺が膨らむ。
「み、ず」
掠れた声が出た。その人が私を見る。私の頭を支えながら、もう一度水を飲ませてくれる。
「・・・」
私は夢中で飲んだ。さっきよりも飲みたいという意志をもってちゃんと飲んだ。ごくごく。
「・・・」
飲み終えると再び瞼を閉じた。怪我をしたところの痛みがさっきまでよりちゃんと感じられた。痛い。意識を遠くへ飛ばす。
ぷーんと虫の羽音が聞こえる。耳障りなその音に瞼を開く。暗かった。重い瞼。体も重い。首を動かすと、ぼきっと関節が鳴った。
痛む体で這うようにして外に出る。むしっとした生温い風が肌にまとわりついた。どぶ川の腐敗臭。月と、ぽつぽつ街の明かりが微かに届いている。川の音。振り返ると、青いテントでできた小さなお家があった。暑いわけだ。通気性のかけらもない青いビニールハウス。ゆっくりと、足を引きずるようにして歩く。川辺には沢山の雑草が生えていた。靴が片方ないので、素足の裏から緩い地面の感触が直で伝わってくる。その人を見つける。
「・・・」
彼はどぶ川の中で二本の足で突っ立って、じっと月を見上げていた。伸ばしっぱなしの髪。よれよれのTシャツ。穴の開いた古ぼけたジーンズ。みすぼらしい恰好をした男の人。
「・・・」
その後ろ姿を黙ってみていると、彼が私に気が付いた。いっそ表情が無いとも思えるくらい、どこにも余計な力の入っていない穏やかな顔。片手をあげ、私に向かって右左右と手を振る。それからじゃばじゃばと水飛沫をたてながら川辺まで上がってくると、そのまま雑草だらけの川辺に倒れた。ばたんと、急に倒れた。
「・・・」
視界から消えたその人にあっけにとられながら、うまく力の入らない足でよたよた歩く。すぐに、草むらの中で仰向けに倒れているその人を見つけた。
「大丈夫?」
彼の傍らに立ち、黙って見下ろすと、彼は私に尋ねた。私はこくんと頷いた。
「痛い?」
私は再びこくんと頷く。
「誰かにやられたの?」
その質問に頷くこともなく、ただ黙っていた。無言の肯定だった。
「仕事の人」
黙った後、小さな声で答えた。
「仕事?」
私は頷く。
「魚肉加工の、工場」
工場では私が一番下っ端だった。この春から働き始め、もうすぐ半年になる。一番若いということだけで、私が標的になるには十分だった。
遠く、土手の上を見つめる。ここからはあの工場の建物も明かりも見えなかった。少しほっとした。
「あなたは何してるの?」
私は尋ねた。
「何も」
彼は答えた。そして空を見上げる。
「月を見てた」
仰向けで寝転がったまま彼は言った。
「綺麗だ」
そう言って彼は少し笑った。遠く月を見たまま、笑った。穏やかに、微笑んだ。息を吸い込む。
「・・・」
私も月を見上げた。いつもと変わらない何てことない月だったけれど、彼が綺麗だというなら、綺麗だと言って良い気がした。
吾郎くんと私の初めての出会い。
まだ痛みの残る体を引きずって、私は川沿いを歩く。太陽は容赦なく私をガンガン照らしている。川沿いにはどこまでも雑草が茂っていて、歩くたびにサクサクと草をふみしめる音が聞こえる。アスファルトとは違って、どんなに太陽が地面を焼いてもそれほど熱くはなかった。
目的もなく、ただ川沿いをゆっくり歩く。体中の組織が頑張って動いて、私を歩行させてる感じがした。
「・・・」
少し疲れたのでその場にしゃがんで腰を下ろした。ぬるい風が空気を緩慢に混ぜた。膝小僧を抱えて顎を乗せ、じっとどぶ川を見つめる。
「・・・」
工場の名前が入った上着を脱いだ。中に着ていたティーシャツは汗まみれで絞れそうな程だ。どぶ川を睨んだまま、脱いだ上着を力の限り遠くへ投げる。すぐ近くに落ちた。膝小僧を抱える。もうどこへも動きたくなかった。石のようにじっとして、このまま焼けしんでしまって構わない。アイスクリームのようにとろとろ溶けて、なくなれ、私。
そうやってどぶ川を睨んでいると、視界の端に吾郎くんが映った。吾郎くんは汚いどぶ川にじゃばじゃば入って行って、水浴びをしている。
「・・・」
吾郎くんは私がいても特に気にすることもなかった。私は近くに生えていた雑草をむしった。太陽が熱くて首の後ろが痛い。
瞼を閉じて無心で草をむしっていると、人の近づいて来る気配がした。俯いたまま薄く瞼を開き視線だけ動かすと、隣で大の字で草の上に寝転がる吾郎くんがいた。
「・・・」
私は再び瞼を閉じた。吾郎くんは満足そうな顔で太陽に焼かれている。私も草の上にごろりと仰向けになった。瞼の裏の赤が見えた。
「ハナ、ごはんにしよう」
遠くから吾郎くんの声。何も考えず、ボケッと川を眺めていた腰を上げる。振り返ると青いお家から吾郎くんが顔を出していた。
「もらったんだ」
吾郎くんはそう言って、真赤に熟したトマトをごろごろと広げた。
「近くにね、良くしてくれる人がいて、育てた野菜なんかをこうして時々くれるんだよ」
そう言って吾郎くんは私に一つ手渡してくれる。ごよれたシャツでトマトの表面を擦って一口齧った。
「あまい」
瑞々しい果肉を口いっぱいに頬張りながら私は言うと、吾郎くんは微笑んだ。
「無農薬なんだって。だからみんなで毎日雑草を抜くんだけど、もうほとんど雑草取りばかりやってる」
「みんな?」
「そう、ぼくも時々手伝いに行くんだよ。彼らの生活はとても簡潔だ」
そう言って吾郎くんも一口齧る。口の端から汁が垂れている。
「朝起きて、顔を洗って体操をしたら畑に出る。彼らの中で役割はそれぞれ決まっていて、それぞれのチームごとに畑の世話をしているんだ。彼らは通貨に頼らない。そこでとれたもので生きている」
「農家さんなの?」
「いや、彼らは共通の思想を持った、同じ思想を共有している一つの集合体だよ、いや、それを目指している途中という感じかな」
私はぽかんと彼を見つめた。
「僕も理解するまで随分と時間がかかったから。今でもまだ十分に理解しているとは言えないけれどね、でも興味深いよ。彼らは新しい社会を作り出そうとしているんだ」
そこで吾郎くんは気持ちを落ち着かせるかのように、ふぅーと深く息を吐きだした。そして、
「ハナ、宇宙だよ」
吾郎くんは少し嬉しそうにそう言った。そうしてビニールハウスの隅っこから数冊の本を引っ張り出してきて私の目の前に広げた。
「宇宙の始まりについて書かれてる」
吾郎くんは懐中電灯で小さな活字を照らしながら言う。私は吾郎くんの正面に座って本を覗き込んだ。本には沢山の書き込みがあった。何やら公式のような数字やらアルファベットが不思議な形で組み合わさってあちこちに点在していたり、不思議な図が描かれていたりする。何度も何度も読み返しているのか、あちこちに折り目や線やマーカーが引かれており、本の端が茶色くぼろぼろになってきていた。
「難しい」
細かい文字の沢山書かれた活字を少しだけ追ってみたけれど、ちっとも理解できない。吾郎くんは私の声など届いていないのか、無言で活字を追っている。
「ねぇ、僕たちは一体どこからやって来たんだろう?」
そしてまるで独り言のようにポツリと呟いた。
「僕はどこから来たのかな」
吾郎くんは急に立ち上がるとビニールハウスの外に出た。裸足で二本の足で立って空を見上げている。私はそんなこと考えたこともなくて、何も言えなかった。一緒にビニールハウスの外に出て、吾郎くんの真似をして空を見上げてみる。
「・・・」
見上げた夜空には月しか見えなくて、私は月をじっと見つめた。空の黒の中に浮かぶ月。じっと見続けていると、自分がぐーんと月に近づいたような錯覚を覚えた。月に食われそうになって慌てて目を逸らす。酔った。
「どうして命の始まりを覚えていんだろう」
月を見つめながら吾郎くんがポロリと言葉を零す。誰に言うでもなく。
「生命の誕生には始まりの瞬間があって、確かに経てきているはずなんだ。けれども僕らは覚えていない。なぜだろう。もしその時の記憶があれば、もっと人類は生きる意味を別の枠でとらえられるようになるはずだ。僕という個体ではなく、人類という集合体の中のぼくと言う個体として。月を眺めていると、思い出せそうなきがする。時々、ふと、思い出せそうになる」
吾郎くんはそう言ったきり、ぷつりと言葉を切った。
「・・・」
私はなぜかとても悲しい気持ちになった。ふわふわと曖昧に漂う彼の世界に触れたくて手を伸ばした。
「・・・」
掌で包み込むように、頬に触れた。吾郎くんは初めどこか夢でも見ているようなぼんやりとした顔をしていたが、じっと私の目を見つめ、それから目尻を下げて、口の両端をすっと程よく持ち上げて笑った。
「・・・」
私は自分の今の心を言葉にできる語彙がなかった。黙っていると、五郎くんが私の手を取って、自分の額に私の手の甲を押し当てた。なんだかどこかの国の貴族みたいでくすぐったく、私は我慢できずにほんの少し、声に出して小さく笑った。
朝起きてうがいをする。水は公園でペットボトルに汲んで来る。近くの公園まで歩いて三〇分はかかるので、水は貴重だ。
午前中に吾郎くんと一緒にお家を出る。空き缶を拾うのだ。
木製のリアカーを引いて吾郎くんと街を歩く。リアカーと言っても、車輪がついているだけの小さい荷車だ。吾郎くんの手製。
リアカーに集めた空き缶を乗せ、午後三時過ぎ、いつもお水をもらいにくる公園にたどり着いた。まずは蛇口を捻って喉を潤し、それから持ってきた空のペットボトルに水を補充する。
「あ、空き缶おじさんだ」
静かだった公園に元気な声が響いたかと思うと、数人の子供たちが公園に入ってきた。そしてリアカーの横で地面に座っている吾郎くんを見つけ取り囲む。吾郎くんは輪の中心で子供たちの顔を見回している。私はその光景を横目で見ていた。手の甲で口元を拭う。
「今日も空き缶集めてるの?」
「そうだよ」
「毎日集めてるの?」
「うん、そうだよ」
「それお金になるんでしょ?」
「うん、」
「いくらになるの?」
「ちょっとだよ」
子供たちの質問に吾郎くんは穏やかに答える。
「おじさんホームレスなんでしょ!」
「うん、」
「なんでホームレスなの?お家ないの?」
「うん、無い」
「なんで?」
「売られちゃったんだ」
「なんで?」
「借金をかえさなくちゃいけなくて」
「えーシャッキン?」
「そうだよ」
吾郎くんはいつも通り。
「えいっ」
一人の男の子が、リアカーに集めた空き缶を、吾郎くんに向かって投げた。空き缶は見事、男の子の狙った通り、吾郎くんの後頭部に当たった。何人かの子供がその行動に避難の声を上げたが、何人かの子供は面白がって真似を始めた。
「・・・」
リアカーに一生懸命集めた空き缶が次々投げ捨てられていく。その的の中心が吾郎くんだ。
「ホームレスって真面目に働いていない人のことなんだよ」
子供の誰かが言った。
「ゴミだよ、こいつ」
大きな声でそう言ってはやしたて、空き缶を投げる。一緒になって投げていた子供たちが、徐々にヒートアップしていくのが分かった。吾郎くんは何もしない、何も言わない。
「・・・」
私は駆けだした。折角綺麗に洗って透明な水で一杯にしたペットボトルを放り出した。
「ハナ・・・?」
子供たちの輪を破って、吾郎くんをかばうように抱きしめた。吾郎くんは不思議そうな声で私の名前を呼ぶ。
「くさーい」
そう言って子供たちが私を指差して笑う。空き缶が吾郎くんに当たる。何かが自分の中で膨らんだのが分かった。ぎりぎりまで一気に膨らみ、溢れそうになって、止まらず、決壊した。
「ハナ」
規制を込めた声で私の名前を呼ぶと同時に、勢いよく振り上げられた私の手首を、吾郎くんが強く掴んだ。子供たちは私の異変に気が付いたのか、一瞬静かになった。
「・・・」
ゆっくり拳の力を抜いた。同時に、吾郎くんが私の手首を離した。手首にくっきりと、吾郎くんの手形が残っていた。
「痛い」
私は呟いた。地面に散らばった空き缶たちを見る。セミがうるさいくらい鳴いている。変なの、こんなにうるさかったっけ。セミたちの鳴き声がわんわんと頭の中を反響している。
「ハナ」
吾郎くんの声がした。声のした方を探して視線を彷徨わせる。
「・・・」
吾郎くんの瞳を見つめた。穏やかな、優しい瞳だった。
私は今、何をしようとした?
自分の拳を見つめる。ついこの前まで自分に振り下ろされていた拳だ。
「・・・」
無言で突っ立っていると、吾郎くんの大きな手が私の頬をぎこちなく拭った。吾郎くんは何も言わない。穏やかな瞳で私を見つめている。わんわんセミが鳴いていた。
吾郎くんは時々いなくなる。ふらりとどこかに消えることはよくあることで、それは私も同じだからさして気にはしないのだけれど、時々、まだ太陽が昇りきらないくらい朝早くに出て、次の明け方まで帰らないことがあった。そんな日は、目を覚ましてから眠りに着くまでずっと一人で過ごしている。
吾郎くんは何も言わずに出て行くので、その日は何の前触れもなく、急にやってくる。初めのうちは寝ているうちに出て行く吾郎くんに気が付かなかったけれど、最近は眠りながらでも何となく気配を察知できるようになってきていた。
「・・・」
ガサガサと物音。私はそっと瞼を開く。
「・・・」
吾郎くんは私の足を踏まないようにして、まだ暗い早朝の中へ出て行く。
「・・・」
ビニールの戸が閉まる。さくさくと草を踏みしめ歩き出す足音。私は体を起こす。隣に眠っていたはずの吾郎くんの姿はない。そっとビニールの戸を開ける。
「・・・」
息を潜めて、遠ざかる吾郎くんの背中を見つめた。吾郎くんの足取りに迷いはない。目指す目的地に向かって歩いて行く。私はそっとビニールハウスを出た。吾郎くんは後ろを振り返らない。
「・・・」
サクリ、サクリと足音が鳴る。一定の距離を保ちながら、私は彼の後を追った。
吾郎くんはどこまでもどこまで川沿いを歩いた。途中、いくつかの同じようなビニールやら段ボールでできた小さなお家で立ち止まって、手に持っていた白いポリ袋の中からパンやお菓子を出してはお家の前に置いていく。最後に袋ごと置いて、手ぶらになると、長い両手をふらふら振りながらまたどこまでもまっすぐ川沿いを歩いていく。私は吾郎くんの背中が小さく見えるくらいの距離を保ったまま、彼の後をずっとついて行った。
次第に空がうっすらと明るくなり始める。吾郎くんは時々立ち止まっては空を眺め、しばらくそうやって突っ立っていたかと思うと、また歩き出す。
川沿いをずっと歩いて、なんの目印もないところで吾郎くんは急に土手を登り始めた。少し吾郎くんとの距離を縮めて、私も急いで土手を登った。
「・・・」
足が痛くてしょうがない。片方失くした靴はとっくに履くのを辞め、私は裸足で歩き回るようになっていた。時々怪我もするけれど、前より大分足の裏が強くなっている気がしている。
「・・・」
土手を登ると、知らない風景が広がっていた。白い塔が見える。灯台のような、変わった建物。上に上に伸びている。
吾郎くんの背中を見失いそうになる。私は慌てて後を追う。ポツポツと家が建っている。吾郎くんは進む。次第に白い塔が近づいて来る。なんとなく予感を感じながら、私は吾郎くんの後を追った。
ボーン、ボーン、ボーン。
急に鐘の音が辺りに響きわたった。吾郎くんは鐘の音ぴったりに、ある門の前にたどり着いた。私は少し離れた場所からその後ろ姿を見つめる。
白い塔のそびえたつ、広い敷地。手前には古い学校のような造りの木造建築が一棟。鐘が鳴り終ると同時にそこからわらわらと人が出て来た。
「おはようございます」
わらわら出て来た中の一人が、優しそうな笑顔で吾郎くんに声をかける。お坊さんみたいに丸刈りで眼鏡をかけた男の人。その人は白いタスキを肩から斜めにかけていて、首から下げたヒモをグイと引っ張り出しすと、その先にはじゃらじゃらと鍵が沢山ついていた。彼はその中の一番大きなカギを取り出すと、門の施錠を外した。
「ありがとう」
吾郎くんは静かに一言礼を言い、中に入っていく。
「・・・」
私は電柱の影に隠れながら、じっとその光景を見ていた。すると坊主頭のその人が私に気が付いた。
「・・・」
私は唇を引き結んで、しばしその人と見つめあった。その場からピクリとも動かず見つめ返していると、その人は何も言わず門を閉め、再び門に施錠をした。
わらわらと中から出て来た彼らはみな灰色のもんぺとトレーナーのような一様に同じ服を着ていた。吾郎くんも灰色のもんぺ集団の中に混じって、校庭のような広場に整列している。灰色の彼らはみな一糸乱れぬ配列で並んでおり、その数は五〇人くらいはいるだろうか、誰も無駄口を叩かず並んでいる。
少しすると、今度は全身黒い甚平のような変わった服を着た人間が五人程出て来た。そして彼らの中心に、同じような修行僧のような恰好をした、全身真っ白な服を着た女性が守られるように一人いた。
白、黒、灰色。
この三色の中に混じるTシャツにジーンズという普通の恰好の吾郎くんは、何だか異端のように見えた。
全員が集まると、鍵を持っていた白いタスキをかけた坊主頭が笛を吹き始めた。灰色の彼らはその笛の音に合わせて勢いよく体操を始める。その姿を白と黒が見ている。吾郎くんも灰色たちと一緒に体操をしていた。
「・・・」
私はそのなんとも不思議な光景を電柱の陰から一人、見つめていた。
やがて体操が終わると、彼らは列ごとに分かれ、それぞれ輪になって話始めた。吾郎くんも同じ列に並んでいた人間たちと一緒に話の輪に加わっている。
「・・・」
私は視線を逸らした。彼らが何なのかはよく分からなかったけれど、さっきから胸の奥がざわついて、私はもう一刻もここから離れたかった。明確な理由はないけれど、とにかく直感的に嫌な感じがした。
「・・・」
私は背中を向けた。疲れ切った足で、元来た道を引き返す。最初はゆっくりと、けれど次第に歩く速度は増し、気付けば最後には走っていた。
土手を下り、そのまま走る勢いで川に入った。じゃぶじゃぶと水飛沫があがる。ぶるるると身震いをする。上がった呼吸をを落ち着かせようと、何度も呼吸を繰り返しながら、頭の中を空っぽにする。夏のぬるい空気が息苦しかった。
「吾郎くん、行こう」
私は空き缶を入れるリアカーをコロコロ押しながら吾郎くんを呼ぶ。吾郎くんは朝から難しい本を読んでいる。
「吾郎くん、」
出て来ないのでビニールハウスの中に顔を突っ込み、もう一度呼ぶと、
「ハナ」
そう言って、吾郎くんは今気が付いたみたいに私の顔を見て微笑む。あの日、吾郎くんを尾行したことも、あの白い塔にいた集団のことも、私は何も吾郎くんに尋ねていなかった。何となく、以前吾郎くんが彼らと呼んでいた人たちが、あの人たちであることは分かった。けれども私は何も吾郎くんに尋ねる気はなかった。触れてはいけないようなことの気がして。
「行こう」
本を開いていた吾郎くんの手を引いて、テントの外に出る。
「いい天気だね」
吾郎くんは眩しそうに空を見上げる。
「行こうか」
そう言って吾郎くんはリアカーを押す。私は遅れないようにその後を追った。隣を歩く横顔を見上げる。隣に歩くのに、近くて遠い気がした。置いてかれないように吾郎くんのヨレヨレTシャツの裾を掴むと、吾郎くんは私を見下ろして、優しく微笑んだ。その温もりに、私は心がほっと安らいだ。
「吾郎くんいるか?」
ビニールハウスで夕飯の支度をしていると外から知らない人の声がした。
「・・・」
私は緊張の面持ちで吾郎くんを見た。吾郎くんはひょいとテントの戸を開ける。
「こんばんは鈴木さん」
どうやら吾郎くんの知り合いらしいので、後ろから外を覗くと、灰色の髪の色をしたみすぼらしい老人がいた。私も同じようなみすぼらしさなのだけれど。
「あれ、吾郎くん、女の子だ」
老人は私を見付けるとそう言った。老人の声には外部の者を警戒するような色が混じっていた。
「ハナです」
吾郎くんが私を説明した。
「・・・」
私は小さく頭を下げた。老人は余所者を見る目でしばし私を見つめ、それか吾郎くんに向き直った。
「なんかないか?」
そう言って空のお椀を見せる。
「・・・」
吾郎くんはそれをそっと受け取る。作りたての今日の夕飯をそれによそう。炎天下の下、何時間も空き缶を拾ってお金に換えて、それで買った一袋五〇円のインスタントラーメンと食パンを混ぜて柔らかく炊いたものだ。最初は半信半疑だったそれも、食べてみると意外といけた。
「どうぞ」
吾郎くんはお椀を返す。老人はそれを受け取ると何も言わず去って行った。丸まってしぼんだ小さな背中だった。
「食べようか」
吾郎くんが言う。
「うん」
私は頷く。二人で手を合わせる。いただきます。
「おいしい」
私が言うと吾郎くんは微かに目を細めて笑った。
朝起きておはようと言う。おはようと、何の隔たりもなく言えることが、おはようと、何の障害もなく返ってくることが、とても安心した。吾郎くんは不思議だ。こうして一緒にいると、もうずっと昔から知っていたみたいな、懐かしい気持ちになる。おままごとの中でしかありえないと思っていた人間の営みの中に生きている感じがした。もうあそこへは戻りたくはない。
こんな風な毎日が、この時までは本当に続くと信じていた。冷静になってみればこんな不安定な生活が長くは続かないことくらい分かっていたはずなのに、でもこの時の私にとってはこれまでのどの瞬間よりも、この生活が一番私の人間らしい生活だった。それほど、吾郎くんという存在が私の心を覆っていた。だから、本当にこんな日常がこの先もずっと続くと信じて疑ってなどいなかった。
夜。何やら外が騒がしかった。私は気にしないようにして狭い暑い、ビニールハウスで瞼を閉じていた。眠っていることの良い点は、意識がないところにある。
翌朝目を覚ますと、吾郎くんの姿がなかった。あの塔の集団のことが頭をよぎり、胸の奥がざわめいて心が震えた。私はどこに行くこともできないで、無気力に蒸し風呂状態のテントの中で転がっていた。そのまま時間は過ぎた。
「鈴木さんが殺された」
朝日が西日に変わって来た頃、顔や手に真っ黒な煤を付けた吾郎くんが、帰って来るなりそう言った。
「殺された・・・?」
体を起こして吾郎くんの姿を見つめ、しばらくの沈黙の後、私は吾郎くんに聞き返した。吾郎くんはじっと私を見ている。鈴木さんと言えば、つい前の晩にごはんをもらいに来たあの老人だ。
「ここを出よう」
吾郎くんが言った。何が起きているのか意味の分からないまま、私は咄嗟に首を横に振った。
「いや」
もう、元いたところには帰りたくない。折角手に入れたこの生活を失いたくなかった。
「・・・」
吾郎くんは何も言わない。血の気の引いた顔で私を見ている。
「火で燃やされたんだ」
再び吾郎くんが口を開く。
「家に火を放たれた」
吾郎くんは何かに耐えるように、感情の全てを押し殺すように言葉を紡ぐ。
「彼には身内はいないから、誰も彼が死んだことに気が付かない。浮浪者の老人が一人死んだって誰も何も思わない。彼は確かにこの前まで生きていた。一人の人間として、生きていたのに」
いつも穏やかな吾郎くんの瞳が暗かった。
「・・・見たの?」
唇が渇いてしょうがなかった。私の質問に、吾郎くんは無言で答えた。それが答えだった。
「燃やし尽くされた後にね、何も残ってなかった」
私が彼の煤にまみれた手を握ると、彼はぽつりと言った。少し震えていた。
「分かった」
私はそれだけ言った。ここを出て行く。こんなに唐突に状況は変わるのだ。ここでなら生きていけると思ったのに。
二人で荷物の整理をした。私が持っていくものは何もなかった。五郎くんはいつも読んでいる、あの難しそうな数冊の本だけを紙袋に詰めていた。片づけをしているとき、五郎くんは何も話さなかった。私も黙っていた。
渇いた風に煽られながら、雑草だらけの川辺に寝そべる吾郎くんを見つけた。月を眺めていた吾郎くんの瞳が私を捉える。
「・・・」
そっと吾郎くんの隣に寝そべった。
「いつかロケットに乗って月にいきたいな」
吾郎くんが言った。
「地球を捨てて、月に住むんだ」
「月に住めるの?」
「住めるよ」
吾郎くんは言った。
「月は綺麗だね」
「・・・」
「ここから見る月が一番良く見える」
そう言った吾郎くんの穏やかな横顔を、私は見ていた。
「一緒に月に住もうよ」
私がそう言うと、吾郎くんが私を見た。
「一緒に、月に住もう」
私はもう一度言った。吾郎くんはまじまじと私の目を見ている。
「ロケットに乗って、月まで行こう」
「・・・」
「私たちだけの国だよ」
私は吾郎くんを見た。二つの瞳が重なる。
「置いていかないでね」
私は言った。少し笑けた。何だか笑えた。
「月にたどり着くまでは地球で生き延びよう」
「・・・」
「吾郎くん、」
「・・・」
「一緒に生きよう」
「・・・」
吾郎くんは無言で静かに頷いた。なんとも言えない顔をいていた。驚いたような、呆けたような、夢を見ているような。
同じ月に、私たちは約束をした。
この夜を最後に、私と吾郎くんはビニールハウスの小さなお家を出た。家賃三万、敷金礼金なし、お風呂も洗濯機もなし、トイレは和式有り、築四〇年のこの古ぼけたアパートにたどり着いた時の嬉しかった記憶を、私は昨日のことのように覚えている。
最初は日雇いの仕事ばかりだった。街へ出て、賑やかな喧噪にまみれた繁華街でティッシュを配ったり、チラシをポストへ入れて歩き回ったりした。ノルマが達成できなければもらえる額は減ったし、ノルマを達成してもなぜか最初に言われていた金額よりも大分少ないお金だったりすることがよくあった。けれど私は反論するどころか、大人しく封筒を受け取るだけだった。間違っていることは分かっていても、それを言葉に変換できなかった。けれどそれも悪いことだけではなかった。大人しく無害で安価な労働力だと思われたのか、時々次の仕事を紹介してもらえたりもした。
怒鳴られたり、からかわれたり、そんなことはいくらでもあった。けれど、足や拳で殴られることがなかったので、言葉でいくら殴られても少しも痛くなかった。それよりも吾郎くんが心配だった。
吾郎くんは人間社会には全く向いていなかった。人の多い繁華街では、私が何を話しかけてもずっと無言のまま、地面だけを見て歩いた。だからよく他の人にぶつかって、口汚く罵られたり、舌打ちをされたりしていた。吾郎くんは何も言わず頭を下げるだけのだけれど、私はその度に吾郎くんの心が硬くなっていくのを感じた。私は大きな赤ちゃんを連れて歩くように、吾郎くんの手を握って街を歩いた。吾郎くんはまるで別人になった。
「吾郎くん、」
その日の仕事が終わると、私は吾郎くんの元へ帰る。吾郎くんは自動販売機の隣の小さな隙間に挟まって座り込んでいた。いつも、吾郎くんは外でこうして私を待っている。日に日に弱っていく吾郎くんに、私はどうしたら良いか分からず、恐怖に近い焦りを感じていた。繋ぎとめるように手をつなぐ。
「吾郎くん、何食べようか」
貰ったばかりの封筒を見せて、私は笑顔で吾郎くんに話しかける。吾郎くんは何も言わない。私をおぶってビニールハウスまで歩いた、あの広い背中が、今は老人のようだ。
「吾郎くん、大丈夫だよ」
「・・・」
「私が守ってあげる」
暑かった夏はとうに終わって、季節は秋から冬にうつり変わろうとしていた。乾いた風が頼りない私たちの体を吹き抜けていく。
そんな生活を続けていたある日、その日も、いつものように外で待っているはずの吾郎くんを探しにいったけれど、どこにも吾郎くんの姿がなかった。あちこち探しまわって、何度も名前を呼ぶのに、吾郎くんは見つからない。
「・・・」
疲れた体で歩き回って、しかし私はふと足を止めた。何となく、吾郎くんの居場所は分かっていた。
「吾郎くん、」
名前を呼ぶと、吾郎くんは私を振り返った。
「おかえり、ハナ」
穏やかな瞳で微笑んで私を見つめる。
「・・・」
唇を噛んだ。口の中に仄かに鉄の味が広がる。
「吾郎くん、」
私は彼の名前を呼んだ。少し震えた。青いビニールハウス。狭くて、通気性の悪い小さなお家。お家の前には川が流れていて、よく草の上に寝転んでいた。今ではあちこち傷んでしまっているけれど。
「吾郎くん、」
返事がないので、もう一度名前を呼んだ。しかしこれ以上続けて口を開いたら涙が溢れてしまいそうで、私は唇を噛んだまま黙った。
「泣かないで」
吾郎くんが優しく、私をなだめるように言う。
「僕分かったんだ、やっぱり彼らのやり方は間違っていなかった。彼らがなぜあそこまで簡潔な生活を心がけて、なぜあそこまで社会とのつながりを絶とうとしていたのか、僕にもようやく分かったよ」
「・・・」
「この社会を作り変えるんじゃない。この社会を捨てて、新しい価値観で統一された世界を、生み出すんだ」
「・・・」
私は倒れ込むようにして、吾郎くんを抱きしめた。
「ハナ?」
吾郎くんは不思議そうに私の名前を呼ぶ。
「・・・」
私は何も言えなかった。いつも、肝心な時に何も言えない。吾郎くんの言っていることが何も理解できなかった。そもそも理解することを拒否しているのかもしれないけれど。
大丈夫だよ。馬鹿。
私だって、精一杯で、でも、私までここで折れちゃったら、またここに戻って来てしまうじゃないか。
大丈夫だって、言ってよ、吾郎くん。
吾郎くんの硬くなった心を出来るだけ優しく包み込むように、体中をかけめぐる沢山の言葉にならない交錯する想いを全て込めて、きつく、吾郎くんを抱きしめた。
「吾郎くん、」
涙をのみ込む。少し前まで一緒に住んでいたお家。
「ずっとここでは生きていけないよ」
言葉を絞り出した。そんなに考えなくて分かる。こんな風にビニールでできたお家で、ずっとなんて生きてはいけない。ここがあまりにも安全で安心しきっていたから、ゆらゆらと霞ませていただけ。錯覚だ。私は街になじんでいた。
「吾郎くん、約束したじゃない」
一緒に生きようって。
「・・・」
吾郎くんは長い間、黙っていた。私は吾郎くんを待っていた。何も話さなかった。
「ハナ、」
長い時間が過ぎて、吾郎くんが私を呼んだ。そして私の目を覗き込むようにして見つめ、目を少し細めて微かに微笑んで、
「帰ろうか」
そう言った。二人でビニールのお家を出る。
そんな私たちのようやく辿り着いたボロアパートは、私と吾郎くんが初めて手に入れた、社会の中の小さな居場所だった。いつでも帰って来られる、ようやく手に入れた、小さな住処だった。だから私は信じている。最後はいつでもここに帰ってくる。必ず。
窓の外は暗い。何度目かの夜が過ぎて、何度目かの朝日と夕暮れに染まる雲と、何度も繰り返している私の呼吸。
吾朗くんがこの小さなボロアパートからいなくなってからずっと、いつも吾朗くんが座っていた窓辺に座っている。月がよく見える。日の光も。草の匂い、土の匂い、風の匂い、吾郎くんの周りにいると、その全部がとてもはっきり感じられた。
吾朗くんはきっと生まれてくる時代が遅すぎたのだ。朝起きて、溜めた雨水を飲んで、畑を耕して、吾郎くんは狩りに出かけて、その間私は岩の洞穴で火を起す。吾郎くんが帰って来た時に温かいように。それから石や骨でアクセサリーを作っておしゃれなんかしちゃって、今日も無事に吾郎くんが帰ってくるのを待っている。
帰って来た吾郎くんは食べられるだけの少しのお肉を取って来て、それをこんがり焼くのだ。残った毛皮は絨毯や服にして。そんな風に生きて、ただそういう風に、吾郎くんと一緒に。
そんな時代は遥か昔に終わってしまった。
また何度目かの朝日が出て、沈んでいく。私は一人、ぼんやりと天井を仰いでいる。
一人でいる小さなアパートはガランとしていて広い。生き物の気配がなくて、みーんな停止してしまったみたいだ。時は流れているのだろうか。私の命は、このありあまる命は、ちゃんと時を刻んでいるだろうか。こんなこと誰にも言ってはいけないのだろうけど、こんな夜は特に私、自分の命をもて余してしまう。だだっ広い私という命という大海原は、暗くて深くて冷たくて、どこまでいっても私しかいない。だだっ広い、だだっ広い。終わりに向かって流れる水は、まだまだ尽きない。私は若い。こんな夜は特に、こんなに漠然とした夜には特に、私、自分の命をもて余して途方に暮れてしまう。
ぁ、羽虫が飛んでいる。あの河川敷を二人で抜け出して、私と吾郎くんが手に入れた住処。目の前をふわふわ飛んでいる。酔っぱらっているみたいだ。吾郎くんはまだ帰らない。もうずっと待っているのに。
鼻歌を歌う。思うように声が出ない。さっきからぐじぐじお腹が痛い。時折喉がひゅーと乾いた音を鳴らす。途切れ途切れ、鼻歌。頭の中で聞こえる、ピアノの、音。
小鳥のさえずる声、綺麗な花々、小川のせせらぎ、遥かなる楽園、甘い香り。季節が運んでくる風、木々の実り。さっきからもうずっと寒いのに、瞼を閉じていると、頭の中にそんな風景がふわりふわりと浮かぶ。全部実際には見たことなんてないはずだけど、でもとても鮮やか。そんな風景のピアノの音が、頭の中、ずっと聞こえているから。
手を伸ばす。浮かんでは消えるその幻のような風景を掴もうとする。風景は私がつまもうと手を伸ばすと霧のように霧散して消えていく。待って、待って。私は走り出す。不思議と足は軽やかに、少しの重力も持たずに進んだ。私は駆けた。前だけを見て走った。音が聞こえる。ピアノの音だ。軽やかに、楽しそうに、私を呼んでいる。あぁ、そうだ。私は知っているじゃないか。この柔らかな音を。この美しい世界を、決して幻なんかじゃなく、私は知っている。ほら、見える。そこにいる。ユウコさん。この世で一番、天国に近い人。
「ユウコさん、」
私はそっと彼女の名前を呼んだ。彼女は自室のベットで眠っていた。ふわふわの長い髪。白い肌。色の無い唇。ふかふかの布団が微かに上下に動いていなければ死んでいるみたい。まるでお人形。私はしばらく彼女のベットの傍らに腰掛けて、彼女の眠るその顔を眺めていた。ユウコさんは眠り続ける。部屋には、ユウコさんを見守る番人のように黙って、大きな黒々としたピアノが鎮座している。ふらりと立ち上がる。
「・・・」
ピアノの椅子に座る。ピアノは私を歓迎しなかったが、かといって拒絶することもなかった。
「・・・」
そっと開いて一指し指で鍵盤を押した。ポーンと音が鳴った。音が響いた。空気が震えて、ベットとピアノ以外何もない部屋の無機質な部屋の隅から隅までを貫いた。
冷たい、音だった。私はそっと椅子から立ち上がった。
「・・・」
涙が流れた。それを手で拭った。右、左、右、左、拭っても拭っても涙は止まらなかった。息が苦しい。溢れる涙を何度も何度も拭う。はぁーと何とか止まった息を吐きだす。涙が止まらない。悲しい。肩で息をしながら、溢れる涙を何度も何度も何度も拭った。
吾郎くん、どこ?
床に座り込んで声は出さずに泣きじゃくった。悲しかった。冷たい音が、その音を生み出した私の指先が、眠り続けるユウコさんが、白黒の鍵盤の硬さが、無機質な部屋でひとりぼっち。ひゅるひゅると通過していく。見えてないみたい、いないみたい。私の心はどこにあるのだろう。
溢れ続ける涙を、私はとうとう拭うのをやめた。止まらない涙をそのままにして、床を這うように、眠るユウコさんの傍に近づいた。手を伸ばした。
起きて、
心の中で呼ぶ。視界が涙で滲んで良く見えない。そっと、彼女の頬に指先で触れた。冷たいかと思ったら温かかった。
起きてよ。
「ハナ・・・?」
ベットの傍らで泣き疲れて眠っていると、ユウコさんが目を覚ましていた。
「・・・」
ぼんやりする頭で私はまじまじとユウコさんの顔を見つめる。
「ハナ?どうしたの?こんなところで眠って」
ユウコさんは小首をかしげる。
「・・・」
私は窓の外を見た。太陽の熱がさんさんと降り注いでいる。さっきまで無機質だった部屋は温もりで満ちてた。
「ハナ、随分と厚着なのね」
両手にお花を沢山抱えたユウコさんが言う。私の装いは冬で、半袖のサラサラした生地のブラウスに身を包んだユウコさんはクスリと笑って私に言う。
あぁ、これは夢の中か。
そう思うと何となく納得した。私は上に着ていた服を全部脱いで、キャミソール一枚になった。
「ユウコさん、お花きれいですね」
私がそう言うと、ユウコさんは柔らかく微笑んだ。
「そこのお庭で育てているの」
窓辺に近づいて行き、ユウコさんは言う。
「季節を感じながらね、植物たちと一緒に、私も歳を重ねるのよ。お庭におりてみる?」
ユウコさんはそう言って私の手を引く。あぁ、既視感。
「・・・」
ユウコさんに手を引かれながら、ポケットに手を突っ込んだ手に何かを感じた。取り出してみると白いレースのハンカチだった。初めてユウコさんと出会ったあの日、ユウコさんが窓から落としたハンカチだ。
「・・・」
頭の中を整理する。そうか、このハンカチを返しに、ユウコさんのお家を初めて訪れた日に私はいるのだ。
「きれいでしょう?」
ユウコさんは嬉しそうにお庭を案内してくれる。
「ほら、とっても良い匂い」
そう言って、私に花の香りをかがせてくれる。
「せっかく咲いているのに切ってしまうのはもったいないから、あまり切らないようにしているの」
ユウコさんは口づけをするように、お花の匂いを嗅ぐ。
「ユウコさん、」
「なぁに?」
「ユウコさんのピアノが聞きたいです」
私が言うと、ユウコさんは微笑んで、小さく頷いた。
ピアノの前に座ると、ユウコさんは背筋をピンと伸ばして、少し深く深呼吸をした。
「・・・」
鍵盤の上に、ユウコさんの細く長い指先が乗る。最初の音が響く。音符がポロポロ溢れ出す。ユウコさんは楽しそうに音符と戯れている。
「・・・」
不意に涙が溢れた。こんなに楽しい曲なのに、どうして涙が溢れるのか、自分でも訳がわからなかったけれど、大粒の涙は溢れて溢れて止まらなかった。
「ハナ?」
私の異変に気が付いたユウコさんが演奏をやめ、驚いた顔で歩み寄って来る。私は溢れる涙を止めようとしたけれど無理だった。
「どうしたの?」
ユウコさんは優しく私の背中をさする。そうだ、あの日もユウコさんのピアノを聞いて、こうして私はみっともなく泣きじゃくったのだっけ。
「弾いて下さい」
私は言った。
「もっと、いっぱい、教えて」
美しい世界を、こんなに美しい世界があることを。この何も知らない私に。私の世界を照らして。
私の涙が少し収まると、ユウコさんはそっと私の背中から手を離し、ピアノに向かった。そしてしばらくじっと遠く、前方を見つめていたかと思うと、そっと鍵盤に両手を乗せ、滑り出すように滑らかな旋律を奏で始めた。
「・・・」
美しい曲だった。滑らかに優しく、そして静かに強い。ユウコさんは瞼を閉じたままだった。瞼を閉じたまま、音を奏でていた。
「・・・」
音は私をゆっくりと飲みこんだ。緩やかに美しい旋律の底に、じわじわと重く悲しみが揺蕩っているような気がした。美しい曲だった。
「今のは、何ていう曲ですか?」
演奏が終わり、しばらくの沈黙の後私は聞いた。
「愛しうる限り愛せ」
ユウコさんは言った。
「愛の夢」
ユウコさんは悲しそうに微笑んだ。そう、初めてユウコさんのお屋敷を訪れたあの日と同じように。こんなに反対の気持ちが同居することがあるのだと、初めて知った。
目を覚ますと高い天井を見上げていた。
「ハナ?」
見慣れない景色に少し混乱していると、聞き慣れた声が私を呼んだ。
「・・・」
ユウコさん。私を優しい瞳で見つめている。
「花?気が付いた?」
ユウコさんの優しい瞳。
「家の前に倒れてたのよ。靴も履いてなくて、髪も服も汚れて」
ユウコさんは優しく囁くように言った。
「花・・・?」
ユウコさんが私の名前を呼ぶ。涙が流れていた。何度も何度も。つらつらと。あぁ、これは夢じゃない。こんなに熱い。
「ユウコさん、」
「なぁに?」
「夢を見たてたの」
「夢?」
私はユウコさんを見上げる。
「探したの、探してたの、ユウコさんを」
流れる涙のまま、私は言った。
「探してたの」
私の世界を照らしてくれる光。その光があれば、きっと道に迷ってもその歩いていける。ユウコさんは私の頭を優しく撫でてくれた。その掌が優しくて、私の涙はますます流れた。
「ユウコさん、」
「なぁに?」
「ピアノを弾いて?」
「ピアノ?」
「そう、ユウコさんのピアノが聞きたい。ずっと探してたの。ユウコさんのピアノの音だけ。全然聞こえなくなって、いつからか少しも聞こえなくなって。私、ユウコさんのピアノが聞きたい」
私が言うと、ユウコさんはそっとピアノの向かった。大きな、真っ黒なピアノは、主人を優しく迎え入れた。
「・・・」
ユウコさんの細くて長い指先が鍵盤に触れた。年老いたそのピアノはユウコさんの指先を優しく愛撫する。ポーンと音が響いた。温もりに満ちた、柔らかな音だった。ユウコさんの音だ。
ユウコさんの指先が滑らかに動き出す。ほろほろと音符がこぼれ出す。空気を伝って、私の鼓膜を震えさせる。柔らかな音。愛に満ちた。
あぁ、あの曲だ。愛の夢。
吾郎くん、聞こえる?
私が泣き疲れて再び眠るまで、ユウコさんはずっとピアノを弾いてくれた。
「花、ちょっと手伝ってくれる?」
ユウコさんに呼ばれたので庭に出る。
「向こうからこっちまで、ずっと、お水をあげてほしいの」
「はい」
「優しくね」
そう言ってユウコさんは微笑む。私はじょうろを持ってお花に水をあげる。まだつぼみの薔薇の生垣を超えて、パンジーの咲く花壇を通りぬける。白、青紫、淡い桃色、小さな小花が咲くお庭。冬でも花は咲くのだ。
生垣の隙間からユウコさんの姿を探す。空気は冷たく凛としていて、すっかり冬の匂いに包まれている。
生垣から覗いていると、ユウコさんが振り向いた。何も言わず小さく微笑む。
吾郎くんと私の、あの家には戻っていない。言葉ではっきり言われたわけではないけれど、ユウコさんは私がここにいることを許してくれた。
ユウコさんの生活はとてもゆっくりだ。今まで起きた朝がこんなにゆっくりだったことがあっただろうか、一日がこんなに長かっただろうか。
「花、郵便受けに新聞が入ってるから取って来てくれる?」
ユウコさんは思い出したように、時々私に仕事を出す。ユウコさんに言われること以外、私はずっとぼんやり窓の外を眺めていた。
月が出ている。白い月。お屋敷の中を響くユウコさんのピアノの音を聞きながら、月を見上げている。いつでも吾郎くんは月を見上げていた。
「・・・」
記憶の中を泳ぐ。吾郎くん。まるで月に何か書いてあるのかと思うほど、飽きもせず、じっと月を見つめていた。
大きなお屋敷は、小さなお家で暮らしてきた私には広すぎた。広すぎて落ち着かなくなると、私は必ずユウコさんのいるピアノの部屋の前のドアにくっ付いた。そうしてユウコさんのピアノの音を聞いていると、いつも心が落ち着いた。
「花?」
ユウコさんの部屋のドアの前でピアノを聞いていると、いつも必ずユウコさんは私を呼ぶ。ユウコさんはまるでエスパーだ。見えない扉の向こうが見えているみたい。
「・・・」
ユウコさんに呼ばれて、私はそっと部屋のドアを開ける。
「いらっしゃい」
ユウコさんは優しい微笑みで私を呼ぶ。私はその柔らかな微笑みに吸い寄せられるようにしてユウコさんの開けてくれた椅子の半分に腰掛ける。そっとユウコさんの肩にもたれるとユウコさんは何も言わず、私の肩をそっと包み込んでくれる。不意に涙がこぼれる。最近の私は泣いてばかりだ。別に悲しくなんてないのに、涙が溢れる。これまで泣くことなんてなかったから、その分溜めていた涙が沢山、私の中にあるのかもしれない。そんなことはないのだけれど。
私は泣くことにすごく抵抗があって、泣くことはいけないことだと思っていた。でもユウコさんは私が泣こうがどうしようが怒らなかった。ユウコさんの傍でなら私は何にも耐える必要がなかった。
ユウコさんの隣に腰掛けて、ユウコさんの弾くピアノを聞いていると、とても満たされた気持ちになった。優しくて、美しく、この世に悲しいことなんて一つもないような気がした。ユウコさんのピアノは美しい。圧倒的な美しさで私をこの世ではないどこか遠くの場所に連れて行ってくれる。そこは安らぎの場所。誰も来られない、誰にも壊すことのできない絶対的な愛に満ちた安息の地。
「ごちそうさまです」
元々小食なユウコさんより、私は食べなくなっていた。
ユウコさんは料理が出来ない。だからユウコさんの食事はとてもシンプルだ。野菜は生、魚も生、温かい物は電子レンジで温めるだけで出来るものだけ。それらは毎週水曜日に宅配で届く。ユウコさんのお屋敷に来ては料理を作っていた私はもう遠い。私は今、一切の料理をしなくなっていた。何かを作って食べるといことが、何だか怖い気がしていた。生きる為に行うその行為が、とても不潔でおぞましいことのように思えて。
「花、」
ベッドの中で目を開けて天井を眺めていると、ドアの向こうからユウコさんの声が聞こえた。私はベッドから抜け出してそっと部屋のドアを開けた。
「眠ってた?」
ユウコさんが聞くので、私は首を左右に振った。月明かりの照らす部屋。ユウコさんがそっと私の頬に触れた。何も言わないで、私を見つめている。
「私ね、」
まるで独り言みたいに話すユウコさんの声は小さかった。
「座ってもいい?」
言いかけた何かを飲み込んでユウコさんは言った。私は頷き、ユウコさんとベッドに腰掛けた。
「最近すっかり寒いわね」
ユウコさんの声。
「でも冬は好きよ」
私はユウコさんの瞳を覗き込む。
「冬には素敵な想い出が沢山つまっているから」
ユウコさんの瞳は優しかった、でもとても疲れていた。夜のせいだろうか。
「あの人との素敵な想い出よ」
ユウコさんは笑った。疲れた瞳で小さく笑う。その目がとてもたよりなくて、私はそっとユウコさんの手を握った。
「主人はね、とてもロマンチストでね、特にクリスマスなんかはすごかったの」
ユウコさんはゆっくり話す。
「大きなクリスマスツリーを買ってきてね、その当時私は一人暮らしで、小さなアパートに住んでいたのだけれど、部屋に入りきらない暗い大きなツリーよ、それを担いで家まできてね、」
ユウコさんは時が戻ってきたかのように、瞳をキラキラさせながら話す。さっきまでの疲労感が嘘のように消えている。
「私は、そんなの返していらっしゃいって言ったんだけど、あの人、クリスマスにモミの木がないなんて悲しいっていうの。それでも何度も返していらっしゃっていったのだけど、ちっとも譲らなくてね。いつもはそんなことない人なのにね、おかしいでしょう?それで何とか部屋に運び入れて、二人で飾り付けをしたんだけれど、あの人、自分で買ってきたツリーの一番上に飾る星が気に入らないって言い出して、もう大変よ?彼の納得いく星を探して、街中走りまわったんじゃないかしら」
ユウコさんは少女のようにクスクス笑う。
「あの人に初めて会ったのも、冬でね、クリスマスコンサートだったわ。色々な会社の方が集まる小さなパーティーみたいなところだったんだけれど。演奏している私に急に近づいて来て、それで君はいずれスターになる、僕が言うんだから絶対だよって、まだ駆け出しの、出会って数分のピアニストにね」
「・・・」
「彼は派手なことが好きで、よく周りの人に色々なサプライズを仕掛けてたわ。その計画を楽しそうに私に喋って聞かせるの。結局最後はいつも私が手伝わされることになるだけど」
ユウコさんはそこで一旦言葉を切った。床のどこか一点を見つめながら、飲み込みづらそうに唾を飲み込む。
「周りの人を喜ばせることが好きだった。だから彼は周りの人にとても愛されていたし、それを彼もよく知っていたわ」
ユウコさんは再び口を開く。話始めた最初の時の少女のような瞳の輝きはない。ひどく困難そうに、それでも話すことを止めなかった。
「プロポーズをされたのも冬だった。彼への想いを諦めかけていたから、とても驚いて、すごく嬉しいのに私、涙ばかり溢れてきちゃって。彼には奥さんと子供がいたから」
ふと、苦しそうな表情が消えた。急に力が抜けたかのように。そしてユウコさんは遠い記憶の箱の一番奥底に仕舞ってあった、きらきら眩しい宝物をそっと大事に取り出すように、眩しそうに少し目を細めた。光り輝く記憶を愛おしそうに眺めるみたいだった。決して汚れたり、壊れないように。
「彼は奥さんと子供のことはちゃんとするって言ったけど、そんなの無理だって私は分かっていたわ。小さな女の子よ。彼の子供。ついこの前幼稚園に入ったばかりだった。とてもかわいらしい子だったわ。私のこと、妖精さんみたいねって言ってくれたの。ピアノの妖精さんだって。大きな瞳を輝かせて、私のこと、まっすぐ見ていたわ。子供の幸せより大事な物がある?その子を殺すことは、彼にはできないって分かっていたわ。優しい人だから。私もそんな彼を愛したんだもの。それで何年目かの冬に、彼はこのお屋敷を私に残して、すっかりどこかへ消えてしまった」
私は黙ってユウコさんの話を聞いていた。お屋敷にある写真たてに映っていたあの幸せそうな夫婦は、ユウコさんとその傍らに立つ幸せそうな二人は、今はもう遠い昔の幻でしかないのだ。
「愛の夢は、彼の為に最後に弾いた曲。飢えた獣みたいなあなたがここに来なければ、私は二度とあの曲を弾くことはなかったわ。だから、あの曲は花、あなたに捧げます」
ユウコさんはまっすぐ私を見た。
「悲しいことは全部蓋をして、いつも心の奥底に仕舞っておくの。それでもうっかり蓋が開いてしまう時はピアノを弾くの。ピアノを弾けばいつだって思い出せる。喜びと幸せと、深い愛を」
ユウコさんは言葉を切った。疲れたように遠くを見つめる。ユウコさんの時間が遠く過去から現在に戻ってくる。ユウコさんはゆっくり瞬きをした。
「花、どんなに悲しくても、どんなに間違ったとしても、決して自分を捨てちゃいけないわ。自分の命は、自分のものよ」
ユウコさんはそう言うと、そっと私の頬に触れた。冷え切った細い指先はとても冷たかった。そして疲れ切ったようにそっと立ち上がると、足音もなく部屋を出て行った。
「・・・」
ユウコさんが出ていった後のドアを見つめる。ピアノの音が聞こえないかと耳を澄ませたけれど何も聞こえなかった。
「・・・」
カーテンを開けて窓の外を見あげた。月が出ていた。白い光り。不意にとても胸の奥が締め付けられた。今までずっとせき止められていた大量の雨水がダムに放水されるかのような激しい感情の波が駆け巡り、私の小さな心の中で逃げ場を失って苦しくなる。
「吾郎くん、」
小さな声で名前を呼ぶ。私は彼を愛している。吾郎くんは思い出の中にはいない。まだ生きている。私は彼を待っている。帰ってくるを待っている。私、吾郎くんを待っていたんだ。あふれた感情はどれも激しく、私を破壊してしまいそうだった。ユウコさんの時は止まっているけれど、私の時間は動いている。大丈夫、私はまだ動いている。私はまだ五郎くんを愛している。こんなにも待ち焦がれている。
探しに行かなくちゃ、吾朗くんを。
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