愛の夢
@ichiko
第1話
秋の初め。乾いた風が肌を冷たく撫でる。秋の匂い。どこか空っぽになった気分。そう、ただのセンチメンタル。秋なんて嫌い。風に吹かれてうっかり頭でも打って死んでしまいそう。
リリリン、リリリンと虫の音。古い木造アパートのかび臭いにおい。小さな部屋。裸電球がぶらぶら天井から吊り下がっている。窓から吹き込む隙間風。ちゃぶ台と三つに折りたたまれたせんべい布団が二組。必要最低限、殺風景な小部屋。おもちゃみたいな、小さなお家。
あぁ、何だか危うい。こんな時は無性に吾郎くんに会いたい。吾郎くん。おーい、吾郎くん。
吾郎くんは私の大事な人。そう、私は吾郎くんにぞっこん。吾郎くんは優しくて、誰にでも優しくて、ちょっとおかしい。吾郎くんはでも、私に特別優しい。それは私が吾郎くんを愛しているからで、吾郎くんが私を愛しているから。
「ハナ」
優しい声がして重い瞼を開いた。
「あれ、吾郎くんだ」
見上げた先にある優しい瞳。吾郎君だ。
吾郎くんは私より七つ年上で、二七歳、独身の男の人。好きな物はから揚げとお味噌汁とミョウガ。何にでもミョウガをかける。吾郎くん。
吾郎くんは嫌いなものはないけれど、苦手なものなら沢山ある。嫌いと苦手には、似ても似つかないほど大きな違いがあって、嫌いはもう拒絶なのだけれど、苦手は許容なのだ。例えていうなら、それはもう、酢豚に入っているパイナップルとただのパイナップルぐらい違う。蜜柑と冷凍蜜柑。冷凍するだけで、とっても特別感。
「吾郎くん、私ね、丁度今吾郎くんに会いたいなぁと思ってたところだったの」
「うん」
吾郎くんは知っていたよとでも言うように頷く。吾郎くんの一番は、穏やかな瞳なのだけれど、次に素敵なのは口元。口元が優しく慎ましいのは、きっと世界で吾郎くんくらいなのだ。
「うふ」
思わず笑ってしまう。瞼を閉じる。ぬるいお湯の中を漂っているような、少し気だるく怠惰な、だらしない感覚。
吾郎くんは夏でも冬でもいつでも裸足だ。靴下を持っていないから年中裸足だ。私も小さい頃は年中裸足だった。いつの頃からか靴下をはくようになった。私はもう部屋の中を走るなんてことをしない。
吾郎くんは自動車の免許もパスポートも携帯電話も、あとエッチな本も持っていない。吾郎くんが持っている物はとても少ない。難しそうな本と二つの命。二つというのは、吾郎くん自身のと私の。
「雨の音」
小さく呟く。雨粒がトタン屋根を弾く音が聞こえる。
「・・・」
頭をもたげてみると、壁に背中を預けてどこか遠くを見つめている吾郎くんがいた。すりガラスの窓の向こうはもう真っ暗で、ぼんやりと私たち二人の輪郭が写っている。
私と吾郎くんだけの部屋。どこにも繋がっていない、私たちだけの小さな秘密基地。
裸電球の弱い光。橙色の小さな光。宙刷りにされて微かに揺れている。むくっと起き上がって電球を捻ると、ぱっと明かりが消えて真っ暗になった。
闇の中を、私は赤ん坊のように這って台所に向かう。手を伸ばす。暗さに目が慣れてくる。探し物はすぐに見つかった。小さなマッチの箱とロウソク。
勢いよく擦って火を付ける。
「あっ」
勢いよく付いた火は私の指先を少し焦がした。
「ハナ?」
後ろから吾郎くんが私の名前を呼ぶ。ロウソクに火を灯す。
「・・・」
私はロウソクを持ったまま吾郎くんの傍にすり寄る。ロウソクをちゃぶ台に置いて、吾郎くんの隣に収まって揺れるその灯し火眺めた。頭を吾郎くんの胸に預けると、吾郎くんの鼓動が伝わって来た。安心。
「・・・」
吾郎くんの血と骨と肉。私と吾郎くん。吾郎くんの匂い。乾いた干し草の匂い。流れる時間。吾郎くんの呼吸。私の心臓。時を刻む。
眠りにつく。ちゃぶ台のこっちと向こうに二人して布団を敷いて。真っ暗だからよくは見えないけれど、吾郎くん、布団の上で壁に背中をあずけて座っている。私はうつ伏せのまま、瞼を開いたまま、静かに呼吸を繰り返す。
「・・・」
沈黙の中に吾郎くんの気配。瞼を閉じる。
「・・・」
玄関の扉が開く音。
今日も行くのね、吾郎くん。
開いた扉から、雨の匂いが流れ込む。吾郎くんを連れていく。
扉の閉まる音。
吾郎くんには秘密がある。硬く深いところに、誰にも触れないところに持っている。それは吾郎くんのもので、吾郎くんだけのもので、私はそれに触れられない。触れたら死んでしまいそう。私が死んでしまうか、吾郎くんか、それともお互いか。三つ目なら別にいいのだけれど。
もしも私が吾郎くんの秘密に触れたとして、吾郎くん、吾郎くんは私を許してくれるだろうか。私は彼の秘密を知るのが少し、怖い。
布団の上で一人、空虚な体を小さく丸める。
朝。雨は止んでいて、顔を出し始めた太陽の朝日がチラチラ窓から差し込んでいた。
眠ったような眠っていないような、だるいような冴えているような変な気分だ。でも大丈夫。いつものこと。
「・・・」
目を擦り、ちゃぶ台の向こうを覗き見る。五郎くんてば、いつの間に帰って来たのだろう。窓辺に座って空を眺める優しい眼差しを見つける。
「ハナ、おはよう」
私の視線に気がついて、吾郎くんが言う。私の近くまで寄ってくる。何だか焦げ臭い、煤の匂い。
「・・・」
ぼんやり吾郎くんを見つめる。
「ハナにあげる」
そう言って、五郎くんは小脇に抱えていた茶色い紙袋を私に差し出した。
「温かい」
渡された袋を両手で受け止め呟く。袋を開けると煤だらけの焼き芋が三本ほど入っていた。
「もらったんだ」
そう言って吾郎くんは袋に手を突っ込むと一本取り出し、二つに割った。現れた黄色い断面を近づけて来るので口を開けるとのそのまま突っ込まれる。ふわりと湯気がたって甘い香りが口いっぱいに広がった。
「甘い」
手の甲で口を拭いながらそう言ってちょっと笑った。口をもごもごさせながら、指先で吾郎くんの頬にそっと触れる。
「・・・」
黒く汚れた頬。冷たく冷えている。赤くなっている耳。外の匂いがする。吾郎くんは何も言わない。焼き芋をもぐもぐしている。風に煽られたのか、黒い髪がボサボサだ。撫でるようにそっと触れる。吾郎くんは犬みたいに大人しくしている。そして時折私をじっと見つめる。私は心の中で小さくお帰りと囁く。
時刻はお昼少し前。いつもより少し早くお屋敷の前に到着すると玄関の呼び鈴を鳴らした。
駅からからだいぶ離れたところに、ぽつんとたたずむ一軒の閑静なお屋敷。周囲を緑に囲まれた、まるでおとぎ話に出て来そうな美しいお家。
「どうぞ」
呼び鈴の向こうから柔らかく落ち着いた女性の声。門の鍵を開け小花の咲く小道を進み、その先にある玄関の扉を開けた。
「こんにちは」
笑顔であいさつをする。
「こんにちは、花」
ロングスカートにサラサラと艶やかな髪。微笑みを湛えた、いかにも上品そう女性が足音もなく現れる。いつもスリッパを出してくれているけれど、履きなれていないため歩きにくく、本当は履きたくない。
「こんにちは、ユウコさん」
私が名前を呼ぶと頷いて、中に上がるように手招きする。
「今日は良い天気ね」
「そうですね」
先を行くユウコさんの後ろを歩きながら頷く。
「ユウコさん、今日のお昼は何がいいですか?」
「いらないわ」
いつも通りの答え。ユウコさんはあまり物を食べない。
「スウプか何か召し上がりませんか?」
「お腹、空いてないの」
そう言って、彼女は芳しい華のように笑う。
「今日もいつも通りお願いね」
そう言い残して、ユウコさんは螺旋階段を登って二階へと姿を消した。
エプロンをつけ、片手にハタキを持って埃を払う。棚の上に飾られた沢山の写真たち。どれもユウコさんと一人の男性が写っている。
ユウコさんの左手薬指には指輪がはまっている。このお屋敷に出入りするようになってから、一度だって、ユウコさん以外にこの広いお家の住人を見たことはないけれど、でもきっとこれらの写真に一緒に写っている男性が彼女の旦那さんなのだろう。だって肩を寄せ合って幸せそうな笑顔。とても、幸せそう。
花瓶の薔薇の水を変える。ユウコさんが育てた薔薇。ユウコさんは花が好きだ。広いお庭に咲いている花は全部、ユウコさんが育てているもので、季節ごとに咲く彼らはは年中芳しい香りを運んでくる。マーガレット、ラベンダー、クロッカスにユリの花、たんぽぽも咲く。いつだって、お庭にお花が絶えることはない。
よく絞った雑巾を持って二階に上がった。どこからともなくピアノの音が聞こえてくる。ユウコさんの部屋の扉。その向こうから聞こえてくる音。小鳥がさえずるみたいな、軽やかに跳ねるような旋律。
ユウコさんはいつもお家の中にいる。お花のお世話にお庭に出て、それから後はずっと、ピアノを弾いている。外に出ることもなく、誰かと話すこともなく、お屋敷の中でずっと暮らしている。そうして時々思い出したようにほんの少しの食べ物を口に運び、きっと眠り、そして起きる。
「・・・」
私はそっと扉の前に立ち止まって、その扉の向こうから漏れてくるピアノの音に耳を傾けた。曲調が変わる。ピアノの知識なんてないから、何の曲かはわからないけれど、さらさらと流れるような音が耳に心地良い。小川のせせらぎのよう。
ユウコさんのピアノ。
なんだか周りの世界が遠くなる。全部嘘みたいな手ごたえのない、ぼんやりとしたもの。柔らかくて、いつだって幸せに溢れている。この世にまるで、幸せしかないような、温もりしか知らないような、彼女の音、彼女の世界。どこまでもどこまでも。世界中の全てに愛されているような、そんな、音。
「いい匂いね」
一階のキッチンでスウプを作っていると、ユウコさんが降りて来た。
「もう出来上がります」
そう言って、私は最後に塩を一つまみだけ、鍋に足した。
「ユウコさん、少しだけ、召し上がりませんか?」
「お腹、空いてないわ」
「ユウコさん、味見だけ」
そう言うと、ユウコさんは小さく頷きながら微笑んだ。
「温かい飲み物も淹れますね」
そう言って急いでポットを火にかける。
「どうぞ」
そう言って、ユウコさんの前にお皿とカップを置いた。
「ありがとう」
大きなテーブルの端に腰掛けたユウコさん。小さな器から立ち上る湯気。すぅと小さく一口、スウプを流し込む。
「おいしい」
銀色に輝くスプーンを持って、ユウコさんは言った。子供のように無邪気な笑顔。本当に、子供みたい。ユウコさんが微笑むと、何だかほっとする。ユウコさんと一緒にいると、ほっとする。
「ユウコさん、」
「なあに?」
「聞いていいのか分からないのですけど、」
「なあに?」
そう言って小首を傾げる。私は少し目を伏せた。本当に尋ねていいことなのか、少し怖い。
「ユウコさん、寂しくはないですか?」
私が尋ねると、ユウコさんは目をパチクリさせた。
「失礼なことだったらごめんなさい。でもいつもお一人だから、いつも、お一人でいらっしゃるから」
喋りながら、やっぱり余計なことを聞くんじゃなかったとひどく後悔した。俯いたまま、顔を上げられないでいると、ユウコさんが口をひらいた。
「大丈夫、ありがとう花」
ゆっくり顔を上げると笑顔のユウコさんがあって、私はほっと胸を撫で下ろす。
「これ、見て」
そう言って、ユウコさんは胸から下げていたペンダントの裏を私に見せた。
「私、読めません」
そこには英語の綴りで書かれた短い文字が掘られていた。
「永遠の愛を込めて」
ユウコさんがそっと囁いた。
「あの人がプレゼントしてくれたの」
ユウコさんはそう言って幸せそうに微笑む。
「素敵ですね」
ユウコさんの幸せそうな顔を眺めながら私は言った。ユウコさんが幸せそうだから、私も今、幸せなのだ。多分、これが幸せという感情なのだ。
「花は、愛してる人はいないの?」
ユウコさんの質問に、吾郎くんの顔がすぐに浮かんだ。
「吾郎くん」
「吾郎くん?彼のお名前?」
「はい」
思わず名前が口をついて出てきてしまったけれど、まぁしょうがない。
「素敵なお名前ね」
ユウコさんに褒められて、どうしていいか分からなくて無言で少し照れた。
「もう長いの?」
「はい」
私は頷きながら、吾郎くんと初めて出会ったときのことを思いだす。あの頃、吾郎くんは住む家もなく、仕事もなく、ただ吾郎くんだった。でも吾郎くんは出会った時からずっと今も変わらず、ずっと吾郎くんだ。
気づいた時には、既に吾郎くんは吾郎くんでそこにいて、仕事が終わって皆家に帰るように、私は自然と吾郎くんのところに帰った。
吾郎くんは私に何も言わなかった。私がどこで何をしていようと、彼は彼の時間の中を穏やかに生きていた。
ぼんやり川を眺めていると、川に入って体を洗う吾郎くんがいた。川に石を投げて時間を潰していたら隣に吾郎くんがいて、草の上で大の字になって眠っていた。一緒に星を眺めて、たくさん歩いて、落ちているゴミを探して拾った。野良猫の発情期の鳴き声を聞きながら、生ぬるい風に吹かれた。川の生臭い匂いと饐えた汗の匂い。雨に濡れた草と土、増水した川の粘土色、その後の静寂。
一緒にごはんを食べた。もそもそと減らないパンを齧っている毎日だった。けれど一個のパンを分けた。半分にしたらあっという間に無くなった。
私たちは全部、今ある中で分け合った。全部、全部一緒に半分づつにした。私たちは二人とも持ち得る物の限られた存在だ。それは、もう隠しようもなくむき出しでそうだ。それが私と吾郎くんの多分、一緒の始まり。
私はいつしか吾郎くんを愛していた。
「どこで知り合ったの?」
ユウコさんが私に問う。
「川です」
私は答えた。あの場所を離れてからまだ何年も過ぎていないはずなのに、何だかとても懐かしいような、同時に恐怖に近い焦燥の念がお腹の奥底でふつと沸き起こった。追いつかれてやしないか、足を踏み外して引きずり込まれてやいないか。
記憶の中にある、私と吾郎くんの最初の場所。あの頃、気づけばいつでもあそこにいた。いつもあの川辺が私の帰る場所だった。恐ろしく、愛しく、憎らしいあの場所。
「川?」
「はい」
私の答えが可笑しかったのか、ユウコさんはクスクス笑う。
「花ってやっぱり面白いのね」
ユウコさんはまた小さく一口、スウプを口に運ぶ。
「おいしい」
そう言ってユウコさんが笑うので、私も笑った。
ユウコさんのお屋敷を出ると、最寄の駅前で今晩のおかずを買って帰った。寂びれた駅前にある唯一の古いお惣菜屋さん。
「これ、二百g下さい」
そう言うと、男だか女だか分からなくなった老人が億劫そうに腰を上げた。
「・・・」
パックをとって、詰めて、輪ゴムをかける。乱暴に白いビニール袋に突っ込むと、汚れたカウンターに置いた。
「ありがとう」
そういって、代金を払って袋を掴む。
二人で囲む夕食。お味噌汁とごはんと、里芋の炊いたん。それからお惣菜屋さんで買った野菜の和え物。吾郎くんはお味噌汁にまた沢山のミョウガを入れている。
「ミョウガってね、食べすぎると頭パーになるの、知ってた?」
「ならないよ」
「なるもん」
「ハナ、麦茶取って」
吾郎くんが手を伸ばすので、その手に手渡す。
「里芋おいしいね」
「うん、まだお鍋にあるよ」
吾郎くんが褒めてくれたのでちょっと嬉しくなってしまう。
「ねぇ吾郎くん」
「ん?」
「今度うちに招待したい人がいるの」
「ここに?」
「そう。だめ?」
吾郎くんは考え込むような顔で数秒黙った。吾郎くんは初めて会う人と話すのには、ちょっと苦労する。慣れない人や環境には、色々と時間がかかるのだ。
「それじゃ、その時は外にいることにするよ」
少しして、吾郎くんは言った。
「うん」
私は小さく頷いて、ずずっとお味噌汁をすすった。
「お待たせ」
アパートにお風呂がないので、近所の銭湯に行くのが私たちの日課だ。先に上がっていた吾郎くんと、暖簾の前で合流する。
どちらともなく歩き出す。私は置いて行かれないように、湯上りの温かい手で吾郎くんの手を握った。仕事で豆だらけの手。
「すっかり冷めちゃったね」
もう冷たくなり始めている吾郎くんの手をぎゅっと握る。
「今日は星がよく見える」
吾郎くんは暗い夜空を見上げて言う。星がきれいと言いながら、吾郎くんは白い月を見ている。吾郎くんはいつも月を見ている。
「・・・」
私も吾郎くんと同じように真っ暗な夜空に浮かぶ月を見上げる。吾郎くんは
「明日も晴れるね」
そう言って、暗い夜道を二人でふらふら歩く。
「電気、消すよ」
お家に帰り着いてすぐ、吾郎くんと布団を敷いて眠りにつく。電気を消すのはいつだって吾郎くんで、私はすっぽり布団にくるまって、いつも準備万端にしておく。
「・・・」
寝静まった夜。夜はやっぱりいつでも少し怖い。一人の時には、闇は私を優しく包み込むけれど、一人じゃない時は底知れぬ闇に落ちていってしまいそうになる。
微睡の中に吾郎くんの気配を探す。瞼が重い。今にも意識が飛んでしまいそうだ。
「吾郎くん・・・?」
緩慢に名前を呼ぶ。目をしばしばさせながら、ぼんやり霞み始めている視界の中に吾郎くんの輪郭を見つける。
干し草の匂い。
吾郎くんの匂いだ。
優しい手。
ごつごつした大きい手。
親指で私の頬を擦っている。吾郎くんの癖。少しくすぐったい。
「ふふ」
息を漏らすように、小さく笑った。瞼が重くて、もう気配でしか吾郎くんに触れない。
ねぇ、布団に入っていないと風邪ひいちゃうよ。
心の中で言うけれど吾郎くんに聞こえるはずもなく。本当はずっとこうして傍にいて欲しいと、思っていたりする。
キスはしない。触れるだけ。優しく、優しく。吾郎くんは決して人の優しさに驕らない。人の優しさを利用しない。いつでもどこにいても、ずっとどこまでも水平に吾郎くんの目は、世界は続いている。私はそんな吾郎くんを心から愛している。願いがかなうなら、私は吾郎くんの体の一部になりたい。共に生き、共に死ぬのだ。ずっと一緒。決して離れることはない。命が終わる最後まで。
朝、寝ぼけ眼で起きた私の隣には吾郎くんがすやすやと眠っていた。ちゃぶ台の向こうに、布団にくるまって寝息をたてている。布団から出て窓を開ける。肌寒い朝だ。深まる秋に、冬の臭いが混ざりはじめている。
「ハナ、」
私の気配に気づいたのか、吾郎くんが目を覚ました。まだ少し眠そう。
「おはよう、吾郎くん」
「おはよう、ハナ」
「まだ暗いね」
「うん」
「少し寒いね」
「うん」
空気はしんと静かで、静寂に満ちている。
「ハナ、」
「ん?」
「静かなところに行きたいな」
吾郎くんは独り言のように、ぽつりと言う。
「・・・」
私はそっと吾郎くんに近づく。吾郎くんのおでこに、おでこをくっつける。
大丈夫だよ、吾郎くん。
「吾郎くん、はやくー」
二人で朝ご飯を済ませて仕事に行く。玄関先で靴を履いて吾郎くんを呼ぶ。吾郎くんはゆっくりやって来て靴を履く。ボロボロのスニーカー。
「あ、待って」
そう言って、私は履いていた靴を脱ぐと携帯カイロを一つ持って来た。
「吾郎くん」
もう一度座って靴を履いて、そう言って吾郎くんに両手を差し出すと、彼は私の手を掴んで立たせてくれる。
携帯カイロをシャカシャカ振って発熱させながら並んで歩く。吾郎くんの一歩はゆっくりで大きい。
「吾郎くん、髪が伸びてきてる」
「うん」
「今度切ってあげる」
「うん」
「身だしなみはちゃんとしないとね、だめよ」
歩いていると、時々私の肩が吾郎くんに当たってしまう。
「・・・」
コンクリートの地面を歩く足音。ちょっと引きずり気味の吾郎くんの足音。色褪せたパーカー。
「・・・」
手を伸ばして、吾郎くんの腕を掴んで顔を押し付けた。吾郎くんの匂い。前が見えなくなってちょっと足元がおぼつかなくなる。
吾郎くんの仕事場は駅のホームだ。各駅しか止まらない小さな駅だけれど、吾郎くんはここで清掃員として働いている。
「じゃあね」
そう言って手を振る。
丁度遮断機が下りてカンカン鳴り始めた。始発の電車だ。大きな音をたてて電車が滑り込んでくる。遮断機が上がる。ホームを見ると、灰色がかった水色の作業服を着た吾郎くんがいた。腰にゴミ袋をさげて、閑散とした駅に箒と塵取りを持って立っている。
「・・・」
線路の真ん中で吾郎くんに手を振る。吾郎くんも手を振り返してくれる。
バイバイ。
声に出さずに口パクで言って踏切を渡った。
私が働く工場は吾郎くんの働く駅のさらに向こう側にある。おしぼりを作っている工場で、私はラインに入って、毎日毎日、真っ白な使い捨ておしぼりを箱に詰めては出荷している。
「おはようございます」
返事を返す人はいないけれど、一応挨拶はするのが日課だ。タイムカードを切って出勤する。更衣室で作業着に着替える。髪の毛の一本も落ちないように、髪はきっちり結んで帽子の中に仕舞い込む。現場に入ると、工場長より簡単に朝礼があり、すぐに作業が始まった。流れてくるおしぼりに異常がないか確認しては箱に詰めていく。決して難しくはないが、根気のいる仕事だ。機械の一部のように、私は働く。
お昼休憩になって、更衣室へ戻った。持って来たおにぎりをかばんから出して、パイプ椅子に腰かける。ずっと立ちっぱなしだったせいで座ると足腰が痛んだ。
「・・・」
布巾着からおにぎりを二つ取り出す。梅干しとおかか。吾郎くんは三つ。私は二つ。いつもお昼はおにぎりだ。吾郎くんは本当は梅干しがあまり得意ではないのだけれど、腐らないように梅干しを入れることは多い。今日はおかかを吾郎くんが作ったので、一個の大きさが梅より大分大きい。
「・・・」
黙々とおにぎりをほおばる。私の他に数人休憩をとっている人はいるけれど、誰も話さない。みんな疲れた顔で、黙々と食物を咀嚼するのみだ。
ラインに入っているのは皆パート契約だから、人間の入れ替わりは激しい。安い使い捨ての消耗品なのは、何もおしぼりに限ったことではない。
お昼休憩が終わって、次に休憩に出るチームと交代する。手を洗って風のシャワーで体を洗い、工場に入る。工場が古いせいか、ゴミを吹き飛ばす為の風のシャワーはいつも埃っぽい。
「・・・」
自分の持ち場へ向かいながら、何の気なしに作業中の様子を見ていた。
「え・・・?」
思わず足を止める。ラインの最後尾で作業をしていたおばさんが、箱詰めされた段ボールの中に、おしぼりではない何かを差し込んだように見えたのだ。
「ちょっと、邪魔だよ」
後からやって来た人に背中を押され、よろける。最後尾にいたおばさんがラインを離れる。どこにでもいそうな、ちょっと肉のついた、普通のおばさんだ。足が悪いのか、片足を引きずって歩いている。
「・・・」
私は彼女が最後に作業していた段ボールの箱を見た。
「・・・」
嫌な予感を確信しながら段ボールに近づく。黙ってそっと箱を見つめた。
「・・・」
心臓がどくどく脈打っている。段ボール箱には小さな小さな穴が空いていた。私は箱を開けると、中身を全部出した。銀色の小さな針が入っていた。咄嗟に私はその針を自分の作業着のポケットに隠した。急いで新しく箱を詰め替える。
午後の仕事はまるで何事もなかったかのように、つつがなく終わった。私の胸ポケットに入っている細く鋭くとがった針は、ちくちく私の胸を痛めていた。
「なぜ、そんなことをするのか、私には理解できないの」
私は今日あったそのことを吾郎くんに全部話した。吾郎くんは黙って私の話を聞いていた。
「理解できないの」
私は繰り返した。
「ハナ、」
「・・・」
「責めちゃいけないよ」
「・・・」
「誰も悪くない」
吾郎くんは静かに話す。
「悪いのはシステムなんだ。この社会を構築するシステムだよ」
私は吾郎くんの目を見た。
「ハナ、共存てどういう状態のことを言うんだと思う?」
私は吾郎くんの目を見つめたまま首を左右に振った。
「僕はずっと考えていたんだ。共存ていうのはどういうものなんだろうって。人間だって動物だけれど、人間には社会という概念が存在する。生きる、死ぬ以外に、人間は人間の価値を決める物差しを持っている。それが良いことか、悪いことかは問題にはしないことにすると、人間が本当の意味で共存できる唯一の方法は、共通の思想なんじゃないかな」
「吾郎くん・・・?」
「同じ一つの思想を持っていれば、人間は社会というシステムから離脱できると思うんだ。新しい物差しを作るんだよ。別の次元、別の世界に組み替えるっていうのかな」
「吾郎くん」
私は彼の体をぎゅっと抱きしめた。吾郎くんは優しい瞳で話すけれど、私は吾郎くんの言葉が上手く理解できなかった。けれど、吾郎くんの核心に迫っていっているような、そんな気がして追いつけなくて、このまま吾郎くんが見えなくなりそうで、なんとか繋ぎ止めようと手を伸ばした。
「ハナ・・・?」
吾郎くんは不思議そうに私の名前を呼ぶ。
「大丈夫だよ」
そう言って、吾郎くんは優しい声で私の体を包み込む。
「いつかハナにも分かるよ、きっとわかる」
吾郎くんは優しく私の頭を撫でてくれる。
「分からないよ」
分からないよ、吾郎くんが。
「時々、」
時々見えなくなる、吾郎くんが。
「怖い」
吾郎くんは何も言わず、赤ちゃんにするみたいに私の背中をさすっている。
「大丈夫、もう寝よう」
吾郎くんが言う。もっと混ざり合えたら理解できるのだろうか。私の体の輪郭をつくるこの皮膚が邪魔だ。
「なにかあった?」
日曜日。いつものようにお屋敷の掃除をしていると、不意にユウコさんに声をかけられた。いつもほとんど自室でピアノを弾いているユウコさんだったけれど、珍しくリビングでふらふらしていたかと思うと、私の顔を覗き込んでじっと見つめる。
「いいえ、ユウコさん」
私は咄嗟に首を左右に振った。
「そう?」
ユウコさんはそう言って唇の端をひょいと持ち上げ小さく微笑む。
「ユウコさん、」
少し緊張しながら再び口を開く。
「なぁに?」
太陽の陽が差し込む広いリビング。大理石の真っ白な床に陽だまりを作る。
「今度、家に遊びに来ませんか?」
唐突な私の申し出に、ユウコさんは驚いた顔で私を見返す。
「ユウコさん、いつもお家の中にいらしゃるから、たまには外に出てみてもいいんじゃないかなって。ごはん、一人じゃ美味しくないでしょう?あの、嫌じゃなかったら」
次第に声が小さく尻つぼみになっていくのが自分でもわかった。胸の中で期待と不安の混ざったまま自分のつま先を見つめ、ユウコさんの返事を待つ。
「嬉しい」
ユウコさんの返事に、私はぱっと顔を上げた。
「本当ですか?」
「えぇ、お誘いありがとう」
「それじゃ、今度の土曜日のお昼はどうです?」
「えぇ、楽しみにしてるわ」
ユウコさんは笑顔で頷いた。
午後になると、ユウコさんはいつものように自分の部屋でピアノを奏で始めた。私は二階から漏れてくる音を聞きながら広いお屋敷をピカピカに磨き上げ、夕食の準備に取り掛かる。家では煮物やおひたし、お味噌汁やあえ物など地味な食事だけれど、ここでは少ししゃれた食事を作る。今日はビーフストロガノフだ。ユウコさんはお肉の匂いが苦手なので、ハーブを良く効かせて十分に臭みを取る必要がある。それでもユウコさんはいつもほんの少ししか食べないのだけれど。
ユウコさんはいつも穏やかだ。吾郎くんの穏やかさとはまた別の優雅な世界を持っている。私はそれが時々とてもうらやましく思うのだけれど、時々とても苦しくなる。全て作られたもののような気がして。全て嘘みたいで。
ユウコさんと初めて出会ったのは今から数か月前の夏の暑い日だった。その日の夜はペルセウス流星群が流れる予報が出ていて、少しでもよく見えるようにと、星の大好きな吾郎くんと、仕事終わりに町はずれにある小高い丘で落ち合う約束をしていた。
けれども道に迷った私は吾郎くんと約束した丘まで辿り着くことはなかった。その代り、私はユウコさんの住む、素敵なこのお屋敷にたどり着いた。
その日は良く晴れた、星を見るには絶好の夜空だった。辺りの見慣れない景色に、次第に不安になりながらも吾郎くんを探して歩き続けていると、どこからともなく綺麗なピアノの音が聞こえてきた。綺麗な旋律に吸い寄せられるようにして、私はお屋敷の前で立ち尽くした。
そうやってピアノの音に心を奪われていると、夜空に流れ星がサァーと降った。夜空を見上げると、真っ暗な空に吸い込まれそうになって、自分が空に浮いているような心地がした。気が付くとさっきまで流れていた音楽は止んでいた。お屋敷を見上げると、二階の窓から、髪の長い女の人が顔を出して、同じように夜空を見上げていた。
「・・・」
その横顔はとても美しく、落ちてきた流れ星の妖精みたいだった。透き通った美しい人。それがユウコさんだった。
ぼんやりした目で口を半開きにしたまま、夜空を見上げるユウコさんを見上げていると、彼女が私に気付いた。その時、ユウコさんが手に持っていたレースのハンカチがふわりと舞い降りてきた。
「・・・」
妖精の羽根のように、ふわり、ひらりと舞い降りてきたそのハンカチを、私は拾った。
「・・・」
私はユウコさんにハンカチを差し出して見せたのだけれど、ユウコさんは首を横に振ってみせ、いらないと言った。それから窓を閉め姿を消した。流れ星のように、あっという間に消えてしまった。繊細なレースをあしらったハンカチと、私に不思議な心地を残して。
「ねぇ吾郎くん、」
その晩の夕食。まずは白菜のお味噌汁を一口啜り、私は口を開いた。
「この前の話しなんだけど、土曜日になったの。お客さん来るって話ね」
「うん」
吾郎くんもまずはお味噌汁から口を付けたようで、お椀を片手に頷く。
「土曜のお昼になったの」
「うん」
「お昼を一緒に食べようかなって思うの」
「うん」
「吾郎くんも、気が変わったら一緒に食べよう?」
「うん」
「吾郎くん、」
私はそこで一度言葉を切った。吾郎君はお味噌汁を飲んでいる。
「吾郎くん、お味噌汁にミョウガ、入れるの忘れてるよ」
「うん」
吾郎くんは頷いただけで何もしない。私もそれ以上何も言わなかった。
「吾郎くん買って来たよ」
歯磨き粉が切れてしまったので、近くのコンビニまで仕方なく買いに行った。一日ぐらい歯ブラシだけでもいいかと思ったのだけれど、吾郎くんがどうしてもと言うので、じゃんけんに負けた私が往復二〇分以上かかる距離を歩いたのだった。
「おかえりハナ」
玄関で私の視界を防ぐように立つ吾郎くん。なんだか様子のおかしい吾郎くんに首を傾げながら部屋の奥を覗く。
「・・・」
覗いた先には、何枚ものわら半紙が散乱していた。
「ちょっと夢中になっちゃって」
吾郎くんはそう言って首筋を掻く。
「紙がなくなったから、丁度今買いに行くところなんだ」
片手に鉛筆、もう片方の手に握ったお札をヒラヒラさせて私に見せる。
「どうしたの、ハナ?」
散らかる大量の紙をただ見つめていると、吾郎くんは不思議そうな声で言って私の顔を覗き込む。
「・・・」
何も言えないでいる私を置いて、吾郎くんは玄関を出た。
「すぐ帰ってくるから」
そう言い残して扉は閉まった。
「・・・」
散らかった部屋に取り残され、近くに落ちていた紙を一枚、拾い上げた。
水。
大きな湖。
白樺のような枝木が湖畔に茂り、空は一切の雲もなく澄み渡っている。
背の低い草が、サァーと一面に生えていて、そこには背の高いビルも、遮断機も、自販機もない。白黒で描かれた絵だけれど、私にはなぜかはっきりと色彩をもって見えた。ただ緑と青と透明が、ひっそりと揺蕩っていた。
絵はどの紙にも何度も何度も鉛筆の線が滲む程の強い筆圧で線が描きこまれていた。線を足しすぎて、もうどれが正しい線なのか分からなくなっているものもあった。どれもこれも、全部同じその景色。
「・・・」
いつの間に帰って来ていたのだろう。気が付けば隣に吾郎くんがいた。
「吾郎くん、」
けれども吾郎くんは私なんか見えていないみたいに、まるで何かに憑りつかれたかのように、既に買って来たばかりのノートに鉛筆を走らせている。
「吾郎くん、」
名前を呼んでも、まるで聞こえていない。もう乱暴なまでに鉛筆を走らせている。私はいてもたってもいられなくなって、吾郎くんの背中をぎゅっと抱きしめた。
「ハナ?」
吾郎くんの呆けたような声。
「吾郎くん」
恐怖やら不安やら、なんだか得体の知れない感情が胸の中で大きく膨らんで渦巻いて、怒ったような声になった。
「ハナ?」
吾郎くんの優しい声。いつもの優しい声だ。透明な膜の向こうに霞んでいた五郎くんがゆっくりと、穏やかないつもの吾郎くんに戻っていく。私の大好きな。
「置いて行かないで」
なぜか悲しくなって、泣きそうになったけれど、絶対になくもんかと思ったら、やっぱり怒ったような声になった。
「急にどうしたの?」
吾郎くんは小さい子でも見るように、小さく笑っている。
「ばか」
今度は本気で罵った。
吾郎くんには秘密があって、それは硬くて深いところに、誰にも触られないように持っている。
私は吾郎くんが大好きで、吾郎くんは私が大好き。きっといつでも最後は、吾郎くんはこの小さな部屋にただいまって帰って来る。私は今、吾郎くんの隣にいる。それだけで、それだけで、私はいいのだ。今一緒にいることが、今が全て。過去も未来も見ない、今しかない。こんな風に今にしがみついて生きていることは、間違いだろうか。
夜。眠りにつく。
「電気、消すよ」
吾郎くんが言う。
「ん、」
顔の半分まですっぽり布団にくるまって頷くと、電球の明かりが消えた。
すりガラスの窓を、時折風がガタガタ鳴らす。
「吾郎くん寝た?」
電気を消してしばらく、ちゃぶ台の向こうにいる吾郎くんに私はそっと問いかける。
「・・・」
吾郎くんからの返事はない。寝返りをうつ。
「吾郎くん、」
小さな声で問いかける。
「そっち行ってもいい?」
そう言うと、体をもぞもぞ動かす音が聞こえた。
「・・・」
自分の布団を抜け出して、吾郎くんの足を踏まないように移動する。そうして吾郎くんの空けてくれた布団の隙間に潜り込んだ。
吾郎くんの布団は温かくて、私は彼の腕を抱き枕みたいにして顔を擦りつけた。吾郎くんの匂い。
「痛いよ」
吾郎くんの少しくくぐもった声。私は少し嬉しくなる。
「大丈夫だよね」
問いかけるように、自分に言い聞かせるように呟く。吾郎くんがそっと私の頭を包み込んでくれる。
「うん」
吾郎くんは頷く。
「おやすみ」
吾郎くんがそう囁くと、なんだか急に睡魔がやって来て、私は瞼を閉じた。
「あ、ちょっと君いいかな?」
いつものようにラインでおしぼりの箱詰め作業をしていると、スーツを着た見知らぬ男性に呼ばれた。手招きされるので、作業していた手を止めて工場の隅へ移動する。
「あのね、君今日でもう来なくていいよ」
「え?」
「だから、明日からもう来なくていいから」
「どういうことですか?」
「詳しいことはこの紙読んで」
そう言って手渡された一枚の紙。
「・・・」
そこには『契約期間満了につき、雇止めのお知らせ』と大きな文字で記されていた。
「君まだ若いんだし、これからいくらでもやり直せるよ」
男はそう言って私の背中を力強く叩いた。
「でも私、まだ契約切れてません」
呆然と立ち尽くしたまま、私は問うた。少し声が震えた。
「え、なに?」
男は忙しそうに手元の紙をペラペラめくっている。
「私、何も悪い事してません。何も工場に迷惑かけてません」
「うーん」
男は目も合わせず適当に頷く。
「しょうがないよ、会社もさ、大変なんだから。下から削られていくのはさ、仕方ないよね、価値が低いものから削らないとさ」
私は何も言えなかった。
「ま、大丈夫だって。こんな仕事他にもいくらでもあるから」
そう言って男は去って行く。また次の従業員に声をかけ、工場の隅に呼び出し紙を渡している。
「・・・」
私は工場を見渡した。ラインが三つある古い工場だ。機械がゴウン、ゴウンと動く音。みんな同じ作業着を着て、機械のように黙々と作業している。人間の価値って何なんだろう。失ってよい命などないと教えられてきた私は、確かに命は平等だと思っているけれど、けれども命の平等を実感したことはない。生命活動は平等でも、生命の価値は多分生まれた時にはすでにある程度決まっているのだと思う。一度失敗したら、もう二度と這い上がってはこられないのだ。生まれた時にはもう、決まっているのだ。
「あんたも解雇?」
更衣室に戻ってぼんやり椅子に腰かけていると声をかけられた。初めて声をかけられた言葉が解雇だなんて。
「・・・」
見上げると、この前段ボールの箱にあの針を差し込んでいたおばさんだった。
「あんたでしょ、針抜いたの」
おばさんは悪い足をかばうようにして、隣の椅子に腰かけた。
「・・・」
私は黙っていた。その沈黙が肯定だった。
「誰かが怪我するので、それは危ないので」
私は言った。おばさんはゆっくりタバコをふかす。
「分かってたからね、そろそろ解雇されるって」
「え?」
「あんたみたいな若い子はまだいいけどさ、私みたいな不自由な年増がさ、これから何できるっていうのさ。気力も体力も、もう残ってないよ」
おばさんはゆっくり、たばこをふかす。
「・・・」
私はパイプ椅子から立ち上がった。
「若い方が辛いです。これから先、まだまだ長い時間を一人で、何の希望もなく生きていかなくちゃいけないんですから。若い方が、残された暗い時間は長いんですから。若いことが、生きてることが希望だなんて、そんな無責任な言い方しないで」
更衣室を出た。何も考えたくなかった。人生はすばらしいと、私だって昔はそう信じて生きていた。
帰り道。薄い水色の作業着を着た吾郎くんの姿をホームに探した。
吾郎くん。
すっかり寒くなった空気の中、吾郎くんは駅のホームにいた。銀色のコテのような物を持って、屈んで地面をガリガリ削っている。あのコテのおかげで、五郎くんの手はいつも豆だらけだ。腰には雑巾をぶら下げ、隣にゴミ袋を置いている。私はその姿を黙ってそっと見つめた。
遮断機が鳴りだした。私は急いで線路を渡った。線路脇のフェンス越しに吾郎くんを見つめる。
「・・・」
電車がホームに入って来た。吾郎くんはそれまでの作業をやめ、掃除道具を持ってホームの隅に移動する。ぷしゅーと音がして、電車は数人のお客さんを吐きだした。その間、吾郎くんはホームの隅の壁に張り付いたまま、微動だにせず、被った帽子を深くして立っていた。寂びれたホーム。誰も吾郎くんに気が付くことなく目の前を通り過ぎて行く。
「・・・」
やがて人がいなくなると、吾郎くんは再び地面に屈みこんで、コテでガリガリ削り始める。
豆だらけの手。吾郎くんの手。大きくて、汚れた手。やっほー、吾郎くん。ここだよ。ここにいるよ。
改札口を出た所の電柱にもたれながら待っていると吾郎くんはやって来た。
「吾郎くん」
名前を呼ぶと、吾郎くんは少し驚いた顔をして、それから目尻を下げて笑った。
「どうしたの?」
「吾郎くんを待ってたの、一緒に帰ろう?」
そう言って手を差し出すと、吾郎くんは私の手を大きな掌で包み込んだ。
「日の暮れが早くなったね」
「うん」
「今日何食べよっか?」
「なんでもいいよ」
「寒くなって来たから温かいものがいいね」
「そうだね」
黙って歩く。吾郎くんと私の影が、汚れたコンクリートの地面に影を落としている。
「ハナ、」
「ん?」
「どうしたの?」
「ん、」
吾郎くんは優しい。
「あのね、」
「うん」
「吾郎くんあのね、」
「うん」
「あのね・・・」
私は歩く足を止めた。繋いでいた手が離れる。吾郎くんが半歩先で私を振り返る。
「仕事、無くなっちゃった」
吾郎くんが手を伸ばす。私の頬を拭う。
「また探せば良いから大丈夫なんだけどね、でも・・・」
言葉が出て来なかった。自分に何が出来る訳でもない。機械の部品。
「馬鹿だねぇ、私」
どうすればいいのだろう。私は、これからもずっとこのまま・・・
「大丈夫だよハナ」
吾郎くんはそう言って私を安心させてくれる。
「もうすぐ変わるよ、何もかも」
吾郎くんは微笑んで、穏やかな瞳で私を見つめる。
「大丈夫だよ」
私の涙を、不安を拭ってくれる。
「消すよ」
いつものように吾郎くんが言う。私は首まですっぽり布団にくるまっている。明かりが消えて辺りが真っ暗になった。
「・・・」
暗くなると、闇に紛れて嫌な感情が忍び寄ってくる。鼻歌を歌う。ユウコさんのピアノの曲だ。あの幸せに満ちた世界を、心の中に浮かび上がらせる。何もかも忘れてしまえ。記憶よなくなれ。何もかも忘れて、私の脳みそよ、このまま眠りの世界へ飛んで行け。死ぬ時って、こんな感じなのかな。
「・・・」
いつの間にか鼻歌も途切れ途切れになって、うつらうつらしていると、誰かが私の頬を優しく擦っているのに気が付いた。私は重くなってきた瞼をなんとか押し上げる。
吾郎くんだ。
私の傍らに座って、私の顔を見おろしながら、マメのできた親指で頬を擦っている。
吾郎くん、
名前を呼ぶ。頬に触れている吾郎くんの親指に触りたくて手を伸ばそうとするけれど、私の腕はピクリとも動かなかった。
吾郎くん、
もう一度名前を呼ぶ。きっと吾郎くんには聞こえている。
「行かなきゃ」
吾郎くんの声。睡魔に引きずり込まそうになりながら微睡の中、ぽつりと落とされた吾郎くんの言葉。まるで自分自身に言い聞かせるようなその声が聞こえたと同時に、不意に彼の気配が遠ざかって行った。さっきまでそこにあった吾郎くんが、煙のようにどこかへ霧散していく。
いけない。
心電図が一気に高く跳ね上がる。ほとんど死んでるぐらい穏やかだった波が、鋭く一気に突き抜ける。けれどもやっぱり私の体はピクリとも動かない。まるで魔法にかけられたかのように地球の中心へ中心へ、重力に引っ張られる。布団が重くて、体が重くて少しも動かない。これは呪いだ。吾郎くんの呪い。吾郎くんは私に呪いをかけて、私の体を少しも動けなくして、そうして自分の秘密の場所へと出かけて行く。いつもそう。
錆びついた玄関の戸が閉まる音。はりつけにされた私の体。声にならない声。
愛してるよ、吾郎くん。
翌朝、吾郎くんの姿は小さなアパートの部屋のどこにもなかった。私は一人、膝小僧をぎゅっと抱えた。
約束の土曜。私の事情などお構いなしに日々、朝はちゃんとやってくる。部屋の中に吾郎くんの気配を探すけれど、どこにもない。もう何日経っただろう。
言いようのない気持ちを振り切るように、起きてすぐに買い物に出た。料理や掃除に追われてあっという間に時は過ぎ、お昼を少し過ぎた頃ユウコさんはやって来た。
「いらっしゃい」
呼び鈴が鳴ったので出ると、玄関の先にユウコさんが立っていた。
「こんにちは、花」
ユウコさんはこのボロアパートに似つかわしくない綺麗な恰好で、いつもは下ろしている髪を、今日は軽く結っていた。
「ユウコさん、今日は一段と素敵ですね」
お屋敷に居る時はあまり気が付かなかったけれど、ユウコさんが近くに来ると香水の甘いいい香りがした。
「少しね、緊張しているの」
ユウコさんは恥ずかしそうに言う。
「私滅多に家から出ないし、誰かのお家にお呼ばれすることなんて、最近ではもう本当になかったから、あ、これ、少しだけど食べて」
そう言って、ユウコさんは何やら高級そうな包みを私にくれた。
「ありがとう、ユウコさん」
そう言うと安心したのか、ユウコさんはいつものように笑った。
「どうぞ座って下さい、もう支度できますから」
ユウコさんは優しく微笑む。なんだか足がふわふわして、雲の上を歩いているみたいだ。
「ねぇ、随分と難しい本を読むのね」
ユウコさんの声がして振り返ると、押し入れに仕舞ってあったはずの、吾郎くんの本を勝手に取って眺めていた。
「ダメ、それは吾郎くんの本で、」
吾郎くんの物に触れられたくなくて、私は慌ててユウコさんの手から本を奪うと
守るように押し入れに仕舞い込んだ。
「吾郎くんて、前に言っていた花の・・・?」
「はい、」
押し入れの戸を閉めながら頷く。ユウコさんは私の行動に特に気分を害した風もないようだった。
「随分と賢い方なのね」
「いいえ、変な人なんです」
「そうなの?」
「急にどこかに行っちゃったり、同じ絵ばかり描いたり。それももう、何十枚も」
「私もピアノ、何時間でも弾くわ」
「それとは違うんです」
「どう違うの?」
「上手く、言えません」
自分で喋っておきながら、言葉にした全てが正しくないと思った。嘘じゃないけれど、ありのままを喋っているのだけれど、でもそうじゃない。そうじゃないのだ。それだけのことじゃない。バカみたいだけれど、自らの言葉に、自らの心が傷ついた。
吾郎くん、どこにいるの?
言葉が途切れた時、丁度お鍋が沸騰した。
「ユウコさん、お皿、並べ貰ってもいいですか?」
「えぇ、勿論」
「食器棚はそこです」
ユウコさんは私の指差した方の棚を開け、慣れない手つきでお茶碗やお箸を出し始める。
「全部二つずつあるのね」
そう言って、ユウコさんは二つ、二つと変な節をつけて繰り返しながら食器を並べた。
「いただきます」
小さなちゃぶ台一杯に料理の並んだ食卓を囲んで、ユウコさんと二人、手を合わせる。目の前に並んでいるのは、いつもユウコさんの家で作るようなお洒落なお料理ではなくて、いつも私と吾郎くんが食べているような地味なおかず。
ユウコさんがお箸を持った。いつも私が使っているお箸だ。吾郎くんのお箸を私が。
「どうですか?」
「おいしい」
お味噌汁を一口飲んだユウコさんにすかさず尋ねると、笑顔が返ってきた。私も何だかふと笑みがこぼれた。ユウコさんの笑顔を見ると心がとても安心した。
「おいしい」
ユウコさんはかみしめるように繰り返した。
「それじゃ、残さず食べて下さいね」
「そうね、本当にそうね」
ユウコさんは柔らかく笑った。全て許して包み込まれるような柔らかい笑み。ユウコさん。
「花が初めてうちに来た時も、確かお料理を作ってくれたわね」
「はい」
「それからね、毎週末うちに来てはごはんを作ってくれたり、お花のお世話を手伝ってくれたり」
「そうですね」
私とユウコさんはそっと見つめ合った。私は急に泣きたくなって笑った。ユウコさんもつられて笑った。
「私、ユウコさんのピアノが好きです」
「そう?」
「はい、とっても綺麗だもの」
「ありがとう、花」
「初めてユウコさんのピアノを聞いた時、この世にはこんなに美しいものがあったんだって、私とっても救われたような気持ちになりました」
ユウコさんのピアノは美しい。その美しさで世界の隅々まで照らしてくれる。私みたいなとるに足らない雑草でも、優しく光で照らしてくれる。ユウコさんのピアノは平等だった。どこにいても、例えすぐそばにいなくても、聞いた人の全ての心を包んでくれる。それはまるで神様のような光。
「ありがとう、花」
ユウコさんは微笑みながら言った。その表情は柔らかかったけれど、同時になんだかとても疲れているようにも見えた。
「おいしかった、沢山食べたわ」
一通りの食事が終わり、温かい緑茶をすすりながら、しみじみユウコさんが呟いた。
「誰かと食べる食事はいいものね」
「はい」
「いつもは吾郎さんと食べるのでしょう?」
「はい、吾郎くんと」
「それはいいわね。それは、いいことだわ」
ユウコさんはそう言って何度も頷いた。
「ユウコさん、」
私は何か話題を変えようとして、彼女の名前を呼んだ。
「ユウコさんはどんな風に旦那様と?」
私が聞くと、ユウコさんは嬉しそうに、まるで恋する少女のように目をキラキラ輝かせた。
「演奏会で」
「演奏会?」
「そうなの。ピアノのね、演奏会。あの人から私に声をかけてきたのよ?私、それまで恋なんてしたこと無かったから、あの人と出会って恋をして、それから私、主人のためにピアノを弾くようになったわ。初めて愛することを私に教えてくれた人、たった一人の特別な人よ」
ユウコさんはそう言って、幸せそうに微笑む。
「私、本当にできることと言ったらピアノぐらいで、でもピアノのお蔭で主人と出会えたのだから、感謝しなくてはね」
細くて長い、綺麗な指先。紅葉のような私の手とは全然違う。美しい人。ふと窓の外を見た。気温は低いけれど、太陽の温かな日差しが差し込んでいる。一瞬、いつも吾郎くんが座っている窓辺の陽だまりの中に、吾郎くんの姿が浮かび上がったような気がして、けれどもそれは残像となってすぐに消えた。
「ユウコさん、」
「なあに?」
「愛してるってどういう心地?」
「難しい質問ね」
ユウコさんは優しい瞳で私を見つめていた。そしてやがて伏し目がちにそっと微笑んだ。とても美しい表情だった。それから疲れた瞳で私の目を見て、今度はその目に影を落とし悲しそうに微笑んだ。
「・・・」
一秒。私はそっと彼女の唇に触れた。
「ユウコさん、」
名前を呼んだ。私の吐息がユウコさんの頬を撫でる。
ユウコさん、美しい人。いつも幸せそうで。ユウコさんの存在はピアノは、彼女はとても美しい。
あぁ、全てが遠くなる。何もかも投げ出して、置き去りにして、私をどこか遠くへ私を連れ出して。現実の何も追いつけないところまで。遥かなる楽園まで。
「・・・」
ユウコさんはそっと私の頬を流れた涙をぬぐった。私は五郎くんの手を思い出す。
「どうして泣くの?」
ユウコさんは微笑みながら問う。困ったような、私をあやすような表情だった。
「悲しいから、何もかもが悲しいから」
「悲しいとキスするの?」
「そうじゃない、そうじゃないの」
顔を上げユウコさんの目を見つめる。
「ユウコさん、私と、」
私と逃げて。
ユウコさんを見つめる。ユウコさんは何も言わない。いつもと同じ優しい瞳。私は言葉を切った。そしてふっと目を伏せた。
「私を許してくれますか・・・?」
呟くように囁いた。何なんだろう、この気持ちは。縋りたいような、何もかも吐き出してしまいたいような、私の何もかも。もういいよって。
ユウコさんは何も答えず、けれども私の愚かな問いに、なだめるように頭を優しく撫でてくれた。
ユウコさんとの時間はあっという間に過ぎ、空がすっかり暗くなった頃、唐突に吾郎くんが帰って来た。
「ハナ、」
疲れ果て横になっていると、吾郎くんの優しい声が聞こえて、私は目を覚ました。両手を伸ばすとただ吾郎くんの体を強く抱きしめた。干し草の匂い。
「疲れた?」
吾郎くんの声。
「ううん」
私は首を横に振る。
「吾郎くん、」
「うん?」
「吾郎くん、」
「うん」
私は体を離すと吾郎くんの顔をまじまじと見つめた。吾郎くんだ。
「・・・」
吾郎くんはじっと私を見つめている。しかし私の目をまっすぐ見つめていたかと思うと、ふと腰を上げ、ガラガラと大きく窓を開け放した。冷たい夜風が竜巻みたいにぶわっと転がり込んで来て部屋中の空気をかき乱す。台所に吊ってあったお玉や匙ががちゃがちゃ音をたてた。
吾郎くんは何も言わず、再び私の前にしゃがみ込むと再び、穴が空くくらいじっと私の瞳を覗き込む。
「吾郎くん・・・?」
無表情な彼の瞳の奥にある感情を探す。何か変だ。
「吾郎くん、今何時?」
何でもよかった。言葉を繋いだ。
「夜」
吾郎くんが口を開いた。
吾郎くんの苦手なもの、時間。吾郎くんはいつだって時間をきっちり決めない。携帯電話も持たない。きっと、縛られる感じが吾郎くんには窮屈なのだ、規格外なのだ。そんな吾郎くんは、なぜかさっきからしきりに正面に座る私の顔を指で擦っている。何か確認するみたいに。
「吾郎くん、痛いよ」
「うん」
「痛いよ」
「うん」
いつもの穏やかな雰囲気と少し違うので、私は吾郎くんにされるがまま、身を任せた。
「大丈夫だよ」
「うん」
「大丈夫、吾郎くん」
そう言って背中をさすってやる。大丈夫。
「今日来た人ね、ユウコさんって言うの。私が時々遊びに行ってるお屋敷の奥さん。ピアノがとても上手なの。とってもいい人よ」
言葉が唇を滑り落ちていく。
「今日は大事な集会があったんだ」
唐突に吾郎くんが話し出した。
「時間がない、急がないと」
そう呟くと、吾郎くんはもう終わりというように立ち上がった。すり抜けていく。
時々思う。私と吾郎くん。二人だけで世界が出来ていたら完璧なのに。でもそうもいかない。社会の中。私と吾郎くん。社会の隅っこで、もうほとんどはみ出るくらいすみっこで生きてる。二人だけなら完璧なのだ。この小さなお家で、私と吾郎くん、二人きり。どこにも繋がらず、二人だけの秘密基地。でもそうもいかないから。
きっと大きな何かを私と吾郎くんは失っている。今もこうしている間も。私はその音が時々とってもはっきり聞こえる。ぽろぽろ、ぽろぽろ。言葉にするのは怖いから、失っている物が何か言えないけれど。音が聞こえる。私も吾郎くんも弱くて、弱くて。きっと弱い部分が似ているから繋がっていられる。ユウコさんにはきっと分からない。私たちは弱い部分を舐め合って、支えあって、絆にして。ぽろぽろ、ぽろぽろ、失いながら隅っこで生きてる。生きてる。
朝。目を覚ましてゴミを出しに行こうとすると、昨日ユウコさんがくれたお土産の袋が、中身の入ったまま捨ててあった。
押し入れを開けた。吾郎くんの大事にしている数冊の本が入っているはずのそこには何も入っていなかった。綺麗に折りたたまれた布団。部屋の中に吾郎くんの気配を見つけられない。ぽっかり吾郎くんが消えていた。
「ただいま」
そう言って玄関の扉を開ける。
「・・・」
けれども部屋の中は真っ暗で、いっそ怖いくらいしんと静まりかえっている。すりガラスの窓から差し込む青白い月の光。いつも吾郎くんが見上げている窓辺。電気も付けずにそこへ座った。
吾郎くんは帰ってこない。
「・・・」
疲れた体に、そっと溶け込む夜。青。黒。白。しんしんと。そっとそっと。
心臓の鼓動。
あぁ、生きている。
鳥になって、銀色の魚、水になって。
何もなくなってしまえば、何もないのだろう。
心。
透明。
ずっとずっと透明。どこまでも。
静寂。
綺麗な水を飲もう。
息をしよう。
ずっと。
遥かなる場所。
一緒に行こうよ、吾郎くん。
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