ヌガーとともに去りぬ(3)
翌日、センはまるでガス状惑星の中に落ち込んだような気分で目が覚めた。よろよろとベッドから身体を起こし、ふらふらとしながらシャワーを浴び、ぐらぐらする頭を支えながら身支度をした。キッチンに入り、ごくごくと水を飲んだ。
(なんだあれは……)
水を飲みながら、センは調理台のほうを見た。そこには、先を鋭くした絵筆が刺さっていて中にイソギンチャクがたくさん詰め込まれたスリッパが、三つ重なってまな板の上に乗っていた。
「だいぶやらかしたみたいだな……いてて」
昨日の記憶を呼び起こそうとしたが、八杯目のケンタウリ・モヒートを口に流し込んでからの記憶が、水に濡れて上を自転車が通った新聞紙並みにめちゃくちゃになっていた。
記憶だけではなく、胃も頭も等しくめちゃくちゃになっていた。少しばかり身体を動かすとたちまち両方から悲鳴があがる。今日はもう無理だと、センは人事部へ電話をかけた。
「おはようございます、第四書類室のセンです。体調不良のため今日は休みます」
「えーと、ちょっと待って? 今なんて言った? 第四書類室の?」
「センです」
「セン……えーと……あ、あった、あ、でもこれは」
「もういいですか、全身的に限界なんですよ」
センは壁にもたれながら言った。今すぐ電話を切ってベッドに倒れ込みたかった。そのためなら多少の犠牲――書類を書くとか――もいとわない気持ちだった。
「えーと。センなんだな? ほんとに?」
「もちろんですよ。なんなら明日何かしらの書類にサインしても構いません」
「そりゃよかった。じゃあ明日待ってるから、ちゃんと来るように」
センはぶつりと電話を切り、這ってベッドまでたどり着いた。そしてたちまち意識を失った。
次にセンが目覚めたのは夕方になってだった。体調はやや回復していたが、まだ全身に気だるさが残っていた。しかしながらベッドにずっと転がっていると暇なので、センは本棚の前へ行って寝ながら読む本を選んだ。
「どれにしようか……この『ロボットのハートを掴む――学習パターンからみる黄金ルール――』は効果なかったしな……『だるいときに読む本』、これもう全ページ覚えてるくらい読んだし……ん?」
センは一冊の本を引っ張り出した。見覚えの無い本だった。買ったのを忘れているのかと思ったが、紙の色が変わるほど古びている。
「こんなの前からあったっけ。『人間の間の』……『基盤について』……『ディスクール』……」
表紙がかすれていてタイトルが読み取れなかった。中身をぱらぱらめくってみたが、文字が細かくてちらちらする。センは諦めて本棚へ戻した。そういえば昨日転職情報誌を買ったなと思い出したが、部屋のどこにも見当たらなかった。帰ってくる途中で落としたかどうかしたのだろうか。センはあきらめてベッドに倒れ込み、ごろごろと転がった。
翌日、センはだらだらと会社へ向かった。人事部に顔を出すと、昨日話した社員がやってきた。
「やあ、やっと会社にこれたんだな。よかったよ」
たのもしく、さわやかに人事部の社員が言った。こういう反応はあまり慣れていないので、センはいささか困惑した。
「いや……どうも」
「何枚か書類を書いてもらわないといけないんだけど、大丈夫かい」
「ええ、まあ……難しいやつでなければ」
「そこは大丈夫、名前を書くだけだ」
渡された何枚かの書類には、『欠勤届け』だの『不在事由書』だの『届け提出届け』だのと題してあった。細かい文字がたくさん書いてあったので、センはろくに読まずにサインをしていった。
「あ、そうだ。ついでなんですが、退職届の用紙ってありますか」
「あるけど、どうしたんだい。辞める気なのかい」
「いや、そういうわけではないんですが。シュレッダーロボットたちに食べさせる紙が不足してて」
「ああそう。じゃあこれ、たくさん持っていきなよ」
八百七十二回退職できる分の退職届の束を持って第四書類室に行くと、室内の様子は一昨日とまったく違っていた。またロボットたちが勝手に模様替えしたのかと思いながら、センは自分の机を探した。段ボール箱の中に完全に分解されて詰められていた。
「あれ、センだ」
「センだ」
「久しぶりだね、もう戻ってこないと思ってたよ」
相変わらず人に対する敬意がないロボットだと思いながら、センは机を組み立てた。まあそれもあと少しのこと、退職届を提出するまでだと考えると、少しは気が晴れた。
「ん?」
机の組み立てを終え、おのおのの仕事場にシュレッダーロボットを送り出していたところ、センはあることに気づいた。TY-ROUがいないのだ。
「TY-ROUはどこいったの?」
センは最後に残っていたシュレッダーロボットに聞いてみた。
「知らないよ、何それ」と即答が返ってきた。
「ほんと? 不揮発性記憶装置からデータ読み出すの面倒くさがってない?」
「……じゃあいってきまーす」
シュレッダーロボットはそそくさと逃げ出すように持ち場へ向かってしまった。
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