ヌガーとともに去りぬ(2)

 第四書類室では、シュレッダーロボットたちが輪になってハンカチ落としで遊んでいた。センはロボットたちをよけて机にたどりつくと、転職情報を調べてみた。


 統計では、転職市場の複雑さは毎年同じ測定不可能という値を示している。転職市場には雇いたい企業と、雇われたい人間と、なんとか金を稼ぎたい人材紹介会社という三つのプレイヤーがおり、各プレイヤーの利害は二つまでしか同時に満たすことができないということが定理として証明されている。そのため市場の均衡はつねに微妙に変動しつづけ、現在ではそのエネルギーを利用して脱穀や製粉まで行われている。


 そのような市場に何も知らない素人が一人で乗り込むのは、ワニがうようよといる川の中へ全身にクリームと香辛料を塗り込んで裸で飛び込むのと同じようなものである。ただしクリームと香辛料を塗り込んでいる間にこれは少々妙だと気づくことはできるが、転職市場で妙だと気づくことができるのはたいてい骨だけになった段階でのことである。


 当然ながら、センは自分がワニで泡立つ川の前に立っていることに気づいていなかった。いくつかのサイトを見てみて、そこに書かれている美辞麗句――あなたの本当の力だの、年収五十パーセントアップだの――を真に受け、高揚感でいっぱいになった。シュレッダーマネージャーの職種で検索してみても求人は一件もなかったのは見なかったことにした。


 センはついでに先ほどの開発部のストリーミングを見てみたが、まだ修正は完了していないようだった。開発部の社員たちがおやつにクッキーだのチョコだのヌガーだのを食べているところが延々とうつされている。コメントでは疲れたユーザーがおいしいヌガーの情報についてやりとりしていた。少しばかり眺めた後、センはぷつりと画面を閉じた。


「センー、そろそろ本の時間じゃない?」


 ハンカチ落としに飽きたらしいシュレッダーロボットたちがデスクの周りにやってきた。もしここをやめるとすれば、このロボットたちとも別れることになるのだ。


 ここで少しは寂しさを感じたほうが詩的かと思ったが、そのような感情は芽生えそうになかった。「時間は守ってよ、まあ原子時計も内蔵していない生命体には無理かもしれないけどね」などと言ってくるロボットたちと関わらずにすむと思うと、むしろ高揚感がいや増す。センは本を読んでやりながら、帰りに求人誌でも買って帰ろうと考えていた。



 ナッツをかじり、出来損ないのケンタウリ・モヒートを飲みながら、センはバーのカウンターの隅で雑誌のページをめくっていた。『ワークナビ』とでかでか表紙に書かれたその雑誌は、夢のような好条件の求人がたくさん載っている。笑顔の人間が楽しく働いている写真をつけているものや、好条件を全面に押し出したもの、未経験可をプッシュしているものなどいろいろあった。センは笑顔の人間が楽しく働いているものにはバツをつけ(というのも、笑顔で楽しく働くような人間に対してセンは根本的に相容れないものを感じたので)、他の求人情報をつらつらと眺めていた。


「おっと、そこにいるのはセン・ペルかい? 久しぶりだね」


 急に声をかけられ、センはびくりと振り向いた。そこには高そうなスーツに身を包んだアトルが立っていた。


 アトルはメロンスター社の花形部門である新規事業開発室に所属する、筋金入りのエリートである。そしてそのエリートぶりを――意識的にしろ無意識にしろ――ひけらかしており、またその相手としてたびたびセンを選ぶので、センのほうではアトルを球面調和関数と同じくらい毛嫌いしていた。


 ちょっといいかな、とアトルは言い、センがいいと言わない間にすぐ横に座った。高い酒を頼み、それを一口飲むと、アトルははじめてセンの持っている求人誌に気づいたらしかった。


「それ、どうしたんだい。転職でもする気かな」

「いや、違うよ。転職なんかする気がないからね。本屋で旅行雑誌と間違えちゃって、仕方なくめくってたんだ」


 センは本能的に、メロンスター社の人間には転職を考えていることを伝えないほうがいい気がしていた(開発部の人間は別だ。彼らは新製品の回路とかダイオードのスペクトルとか以外は眼中にないし、こちらに関わってくることもしない)。


「そうか。ならいいけどね」

「ところで、どうしてここにいるの? サバティカルを取ってたんじゃないの?」


 センは求人誌から話をそらそうと、普段なら絶対にしないだろうアトル自身に関する質問をした。効果はばつぐんで、アトルは待ってましたとばかりにとうとうと話し始めた。


「サバティカルはとっくに終わってるよ。ははは、だめだね、休んでてもすぐビジネスのことに頭がいっちゃって。だいぶ前に復帰したんだ。それで、昨日急に招集がかかってさ。サプライチェーン・マネジメントに関するスタッフミーティングの最中だっていうのに、緊急ってことで呼び出されて。それからはばたばたもいいとこさ。引き継ぎを全速力で済ませて、専用船に飛び乗って。まだちょっと宇宙酔いが残ってるよ。日課のジョギングもできなかったからね」

「はあ」


 センは先ほどの自分の発言を早くも後悔し始めていた。ケンタウリ・モヒートをぐびぐびと飲み込む。


「なんでそんなに緊急で呼び出されたかというと、極秘のプロジェクトが今走っててね。そこの追加人材として呼ばれたわけ。内容は言えないんだけど、でもそれを聞いて興奮したよ。歴史的なものになるよ、これは。そりゃあ難しそうではあるけど、でもそれを乗り越えることにスリルを覚えるタイプだからさ。さっきまでホテルで資料に目を通してたけど、このままじゃうまく眠れないと思って、一杯やりにきたんだよ」

「なるほどね。よく眠れますように。じゃあ私はこれで」

「まあまあ。君は明日もそんなに忙しくないんだろ? 少し付き合ってくれよ。そうだ、この前読んだ条件概要書で面白い話があってね……」

「すいません、ケンタウリ・モヒートを十分おきに一杯ずつください」


 センは店員に向かってそう頼んだ。今日は何杯のモヒートを飲むことになるのか、検討がつかなかった。

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