ジンジャーブレッドのいちばん長い日(5)

「なんて言ったらいいんだろう。とりあえず……準備のいいことで」

「そうでもないですよ」


 先ほどまでセンの隣りにいた開発部の社員は、現在はセンの上に位置していた。すなわち、開発部の社員の重心をAとし、センの重心をBとした場合、その中点にTY-ROUが位置しており、センは両手でTY-ROUにつかまっているのだが、この場合にセンの両手にかかる力を求める(ただし重力加速度をgとし、センの重量をmとし、地上からの位置をpとし、摩擦係数をμとし、球面調和関数の係数は三百六十次までを使用する)といった問題がハイスクールの物理のテストで出せそうな状態だった。


 この二人と一台はリラックスルームから落ちたのだが、それから二十秒経った現在でもまだ空中にいた。なぜかというと、開発部の社員がパラシュートを用意しており、TY-ROUが開発部の社員の白衣を刃に巻き込み、TY-ROUにセンが全力でつかまっているからだった。


「なんでパラシュートを持ってたんです?」


 上を向いてセンが尋ねると、開発部の社員からは


「実験ですからね、万一に備えるのは当たり前です」


 と答えが返ってきた。


「なるほどね」


 センはまったく納得していなかったが、とりあえず返事をしておいた。もちろん自分の加速度を小さく保つにあたっては上のパラシュートが大きな役割を果たしているということがわかっていたためである。


「ところで、この穴はどこまで続くんでしょうか」


 センはがんばって下を見ようとした。リラックスルームから落ちてからだいぶ経つが、ぽっかりと黒い穴はまだまだ続いているようだ。


「どうでしょう。これはたぶん昔のメロンスター社の社屋ですよ。照明が地面を溶かして、社屋の天井を溶かして、フロアも溶かして、どんどん下へ落ちていったんでしょうね。私たちはその後を追っているってわけです。ほら、あれ見えます? あれは昔の会議室ですよ。あれは研究室。あれはエレベーター、それにあれはVRルーム」

「VRルーム?」

「時代を感じますねえ」と開発部の社員はしみじみ言った。「まあ、あの照明のエネルギー量から考えて、最悪でもこの旧社屋をぜんぶぶち抜いたところで熱を使い果たすでしょうね。ですから、マントルまでってことはないですよ」

「旧社屋って何階建てなんでしょう」

「えーと、どうだったかな……今よりも低かったはずですよ。そう、たしか八十三階建てだったかな」

「……上がってこれるのかなあ。電気系統とかは……」

「まあ普通に考えて止まってるでしょう。非常階段で上がりましょう」

「八十三階を?」

「もちろん。休み休みなら大丈夫でしょう、かえって運動になっていい機会かも」

「ポジティブですね。知ってます? ポジティブが過ぎると社会に害を与えるんですよ。きちんと研究結果も出てるんですよ」


 過度のポジティブさが歴史上悪い働きをした例は枚挙に暇がないが、近年では特にエルナト星系V-879のケースが人々の記憶に刻まれている。惑星V-879は人口わずか数千万の小さな星で、当時深刻な不況に見舞われていた。将来を悲観した人々による犯罪などが社会問題化し、政府は対策として住民全員にポジティブ思考を身につけるための六週間プログラムを受講できるようにした。効果はばつぐんで、住民の実に九割が受講前と受講後の心理診断で思考方式に有意な差を示した。そして同時にV-879の経済がもはや復興不可能なレベルにあることがわかったため、彼らはポジティブに現状を受け入れ、ポジティブに来世に期待することにし、V-879のメディアには「死に様を格上げする秘訣は小物使い! カラフルアイテムで脱マンネリデッドスタイル♪」「墓地を決める前に! 要チェックな三つのポイント」「数量限定! スタンダート葬儀がなんと五十パーセントオフ!」などのポジティブな記事が並んだ。現在ではV-879はもはやポジティブもネガティブも存在しない、無人の墓地ばかりたくさん並んだ惑星となっており、名物は葬式饅頭となっている。


 しかしメロンスター社開発部の社員がほぼ例外なくポジティブであるのは、六週間のプログラムを受講したからではなかった。彼らは勤務時間の大半で生命の危機にさらされており、そのストレスを軽減するための心理的な働きによって無意識のうちに物事のネガティブな側面を潜在意識のほうに押し込めるようになっているのである。


 数分後、セン達は最下層にたどり着いた。上から差し込む光はほんのわずかで、注意しないとすぐ何かに躓いてしまいそうだった。その上あたりにはパラシュートが散乱していて、センは何度か足を取られた。


「先に落ちた開発部の同僚たちのですね。先に上っていったんでしょう。私たちも後に続きましょう」パラシュートを身体から外している開発部の社員が言った。「ああそうだ、あなたはどこの所属のなんて人ですか? 念のため聞いておきたいんですけど。私はコノシメイ・ウマレタトキです」

「コノシメイ?」

「誕生時に出生届の読み込み機がちょうど壊れてたらしくて。コノシメイでいいですよ」

「はあ。私はセン・ペルです。庶務課の」

「なるほど、ありがとうございます。これで万一の時報告書にちゃんと名前を書けます」

「報告書?」

「まあ気にせず」


 といって、コノシメイは裾がほつれた白衣をはおり直した。「さて、行きましょう。たぶん非常階段はあちらですよ」

 歩き出したコノシメイの後を、センとTY-ROUは慌てて追った。



「……少し……休憩……しませんか……」

「いいですよ。ただ……」

「……なんですか」

「いえ、まあ後ででいいです」


 センはこらえきれず床に座り込んだ。埃っぽく土のにおいがする空気も構わず大きく吸い込み、大きく息を吐く。


 非常階段は明かりもなく、埃が積もりに積もり、タイルがあちこちはげていた。TY-ROUのライトで足元を照らしてはいるものの、上を見上げても下を覗き込んでも先は漆黒の闇の中に掻き消えている。


「……これで……今……何階まで……来たんですかね」

「十八階ですね。あと六十五階残ってます」

「うげえ」

「身体は休まりました? そろそろ行きましょうか」

「ええ……もうちょっと……待って……」

「私は良いんですが、あの扉を見てください」


 センはTY-ROUが明かりを向け、コノシメイが指差す先を追った。廊下に続くであろう扉がツートンカラーになっている。


「あの扉は本来一色に塗られているはずなんですが、二色になっていますよね」

「そう見えますね」

「何らかの理由により扉の色が変わった可能性があります」

「何らかって?」

「さあ……水がしみているのかもしれないですし、あるいは貯蔵していた試薬かなにかが侵食しているのかもしれないし、あるいは気の狂ったロボットが目に入るありとあらゆるものを二色に塗り分けようとしているのかもしれないし、あるいは新しい元素が合成されたのかもしれないし、あるいは……」

「早く上に行きましょう」


 センはよろよろしながら身体を起こし、服についた埃を払いながら階段をよたよたと上った。

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