ジンジャーブレッドのいちばん長い日(3)

 バファロール星の最古の法律は、約一万年前に出来たメトラ法典である。十二章千四百四十四節から構成され、世界の始まり(古い時代の書物にありがちな独創的な想像力を発揮したもの)から宇宙の創造の歴史、道徳規範、宗教的訓示(祈りのやり方や主に捧げるふわふわした毛玉生物を屠るやり方、ふわふわした毛玉生物を捕まえるやり方、主に捧げられることに我慢ならなくなったふわふわした毛玉生物がこちらを主に捧げようとして集団で襲ってきた時にうまく隠れる方法)とともに行政法や家族法、刑法などが記述されている。


 それからいくつもの時代を過ぎて、バファロール星の法体系も段階を踏んで整えられてきた。各分野の法典が整備され、いくつもの判例が積み上がり、社会の発展に合わせて新しい法が作られたり廃止されたりした。時折「苔にアルコールを与えてはいけない」「マントを身に着けているときには方程式を解いてはいけない」などの風変わりな法律が作られたりしたものの、全体としては概ね常識的に発展が進んでいった。


 しかしこういう牧歌的な時代は、惑星外の生命体との接触により終わりを告げた。何しろそれまでの法律の枠組みでは惑星外の生命体を法的主体として扱うことができないのに、当の惑星外生命体は自分たちより明らかに高度な技術を有しているのだ。この矛盾を解決するために、バファロール星の法体系はドラスティックな転換を余儀なくされた。山に生えている木は土地の一部に属するかどうかが大問題だった、のどかな時代が終わったのだった。


 それからまた何千年と過ぎて、今はバファロール星は銀河の一般的な法体系の中に自身を委ねていた。銀河規模の法では、例えば意思表示を伝達する場合でも、到達までに空間がねじ曲がったり時間が遡行したりブラックホールが発生したりするため、一本の条文に三百ページを費やすこともまれではない。そのため弁護士や検事、裁判官などの法律職ではサポート用AIを使用することが通常となっている。企業の法務部でもそれは同じで、サポートロボットを導入して業務にあたっているが、これらのロボットは導入時とその後のサポート期間で販売者側に多くの利益をもたらすため、各社が開発にしのぎを削っている分野になっている。


 そういうサポート用ロボットの一台が、今センの横に立っていた。内部には何億もの条文に高性能なプロセッサ、大容量のメモリが積まれているのだろうが、現在それらが使われているのは本来の業務のためではなく、法律改正に伴う月次アップデートのためだった。


「それで、このアップデートはいつ終わるんですか?」

「わからない。いつもなら夕方ころには終わるけど、先月は法改正が五百くらいあったから。夜までか、最悪明日までには」


 と、人事部の社員が言った。デスクの上にスノードームを置いている。雪の色が紫なので、近くのミュロプタン星の土産物だろう。


「それまで私の手続きは出来ないんですか?」

「そうね、法律的な処理が必要な手続きは法律職か法律ロボットのサポートがないとしちゃいけないことになっているから、わたし一人じゃできないの」

「他のロボットはいないんですか」

「いるけど、全部同じ機種だから、全部アップデート中」


 人事部のフロアを見渡してみると、たしかにあちこちに同じ型のロボットが立ち止まっていた。通路の真ん中でアップデートを始めたらしく、おそろしく通行のじゃまになっているものもいくつかいる。


「そしたら、ここで待っててもアップデートが終わるまでは何の意味もないってことですよね」

「そうね」

「じゃ、アップデートが終わったら呼び出してくださいよ。社内にいるようにしますから」

「そう、悪いわね」とまったく悪いと思っていない口調で人事部の社員が言い、センはその場を離れた。


 しかしそうは言っても、センには行く場所がなかった。今日は仕事をしにきたのではないのだから第四書類室には行く気にならなかったし、かといって変にうろちょろしていると爆発その他の事象に巻き込まれる恐れもある。少し考えて、センは三十一階にあるリフレッシュルームに行くことにした。


 三十一階のリフレッシュルームは広くスペースがとってあり、カラフルな机や椅子、本に雑誌、モニター、無料のドリンクバーが備え付けられている。社内のコミュニケーションの活性化や社員のモチベーションアップを図るためにつくられたらしいが、センはコミュニケーションとモチベーションアップの必要性を感じていなかったため、これまでほとんど行ったことがなかった。


 リフレッシュルームは空いていた。ぽつぽつと社員がいるだけで、仕事の話も聞こえてこなかったので、センは喜んだ。適当な雑誌を手に取ると、センはなるべく隅の方の椅子を選び、深く座り込んだ。


 センがだらだらと『週刊鉱物』のページをめくりながら、明日から何をしようと考えていると、足元を動くものがあった。見ると、TY-ROUがころころと転がっていくところだった。


「あれ、TY-ROU、どうしたの」

「あ、セン。僕は今おさんぽしてるところです。センこそどうしたんですか。みんなクビになったって言ってますよ」

「いや、私は何日か休むことになっただけだよ。他のロボットたちにもそう伝えといて」

「ちょっと待って下さい」と言って、TY-ROUは少しの間動きを止めた。「今シュレッダーロボットのネットワークでそう言っておきました。みんながっかりしてました」

「今度から本の読み聞かせのページ数減らすって言っておいて」

「言いました。みんな怒ってます」

「ほっといていいよ」


 センはTY-ROUを拾い上げ、乾拭きをしてやった。溝にたまった埃を取ってやっていると、エレベーターが三十一階についた音がした。センがそちらのほうを向くと、どやどやと大人数の社員が降りてきていた。

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