ジンジャーブレッドのいちばん長い日(2)

「えーとですね、端的に言うと、あなたはすでに死んでいるんです」

「は?」


 センは市役所の奥の小部屋に通されていた。パイプ椅子とがたついた机の、蛍光灯の照明が白っぽく、棚にはファイルされた書類がみっしりと詰まっている部屋だった。

 しかしそんな部屋の様子も、センの目には入らなかった。目の前の、『住民課課長』と入った職員証を下げた役人が、もう一度同じセリフを繰り返した。


「つまり、あなたは死んでいるんです。わかりますか?」

「わかるはずないでしょうが。死んでいるって……私はこれでも生きてるつもりですよ。それともなんですか、役所での手続き待ち中に隕石でも落ちてきて、死んだ自覚がなく幽霊になってずっと市役所に取り憑いてるんですか? いやだなあ、こんなところで。どうせならバーとかで浮遊霊になりたい」

「そういうわけではないんです。あなたは肉体的には死んではいません」

「あ、ほんと。よかった」

「私が死んでいると申し上げたのは、つまり……行政的に、という意味です。先ほど職員が非住民税の訂正手続きをしていたときに、誤ってあなたの戸籍を死亡ステータスに変更してしまったのです」

「え」

「すぐに取り消し手続きをしようとしたのですが、ちょうど近くの恒星でコロナ質量放出が発生してまして、中央サーバーとの通信ができなくなってしまったんです。死亡ステータスの取り消しは中央サーバーとの通信が必要なので、つまり……そのう……」

「つまり?」

「あなたはしばらく死んだままになるということです」

「なるほど」センはとりあえずそう言った。そして言われたことを考え直してみた。

「えーと……ということは?」

「いい点としては、死んでいる間は税はかかりません」

「やった!」

「ただし悪い点としては、あなたには人権が無くなります。たとえばあなたに誰かがコールタールをぶちまけたとしても、その相手に損害賠償を請求することはできません。つまり、法的主体になれなくなるということですね」

「えー、そんな」

「コロナ質量放出はだいたい五日程度で終わると思います。サーバーとの通信ができるようになれば、すぐに訂正します。それに、わざわざ言わなければあなたが人権を無くしたとはだれにもわからないでしょうし、普段通りに生活していただければ問題ないかと」

「えー」

「ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません。深くお詫びいたします」

 紋切り型の言葉を受け、それ以上追及しきれずにセンは市役所を出た。



 翌日朝、センは電話を手に持って逡巡していた。昨日市役所で聞いておけばよかったと考えていた。


 センが迷っていたのは、人権がない場合には会社に行かなくてもすむかどうかだった。法的主体になれなくなるということは、つまり労働契約の主体ともなれなくなるということだ。それならば働かなくてよいだろうと思ったが、大事なのは人権が戻ってきた時どうなるかだった。


『おはようございます、第四書類室のセンです。ちょっと人権が無くなってしまったので、取り戻すまで出社できません』

『なるほど、わかったよ。取り戻せたらまた連絡してくれ。休んでいる間も給料は出すし、戻ってくるまでデスクをきちんと綺麗にしておくよ』


 と、こううまくいくなら喜んで電話するのだが、そういかない可能性もあった。例えばこの機会に永遠に労働契約を打ち切られたりする恐れも無いでもない。何もなかったような顔をして普段通り仕事に行くのが無難だとも思えるのだが、しかし五日間の休みには抗いがたい魅力があった。とうとう、センは人事部に電話をかけることにした。


「おはようございます、第四書類室のセンです。ちょっと人権が無くなってしまったので、取り戻すまで出社できません」

「なるほど、わかったよ」

「ではまた」


 センは素早く電話を切ろうとしたが、電話の向こうで人事部の社員が声を上げた。


「ちょっと、ちょっと待て。いくつか手続きがある。今日は出社して、その手続きをやってくれ」

「手続きですか」

「そうだ」

「手続きだけですか? 働かなくてもいいですか?」

「そうだな、ちょっと待ってくれ。今労働法一万選を調べるから。えーと。そうだな、人権を喪失した場合は労働義務はないみたいだ。あとで法務に念のため確認するけど」

「人権を取り戻したあとは、また働けます?」

「うん、大丈夫だと思うよ。不意の事故等で働けなくなった場合でも、その問題が解消されればまた職場に復帰できるようになってるからね」

「よかった。それなら行きますよ」

「うん。人事部に来てくれればわかるようにしておくから」


 センは幸福に満ち溢れた気分で電話を切った。人生とはなんて素晴らしいのだろうか、とセンは考えながら出かける支度をし始めた。

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