アイスを離さないで (7)

「いやあ、決心していただいてありがとうございます。ぜひ一緒にがんばっていきましょうね」


 モダンな雰囲気のカフェで、イエルは顔に満面の笑みを浮かべた。


「それでは、この書類とこの書類、あとこの書類にサインをしてください」


 センは言われるがままにサインをしていった。そして、ペンと書類を揃えてイエルに返した。


「はい。それでは、こちらが控えですから……と、すいません、呼び出しが。ドリンクでも飲んでてください」


 イエルは席を外し、店の外へ出ていった。センはソファ席の背もたれによりかかり、言われたとおりグラスを持ち上げた。グラスの中には、店に入ったときにイエルが頼んだ、何なのかよくわからない飲み物が入っていた。たぶん、よくある周期的に流行っては消えていく栄養価の高い果物のジュースの類だろう。


「まずい」


 飲み物は一口でやめて、センは書類の写しをつらつら眺めた。ひどく細かい字でぎっしりと紙が埋められているために中身を読む気にはならなかったが、これでメロンスター社からおさらばできると思うと、紙切れに対してありがたさを感じた。

 センがだいじに書類をクリアホルダーにしまっていると、イエルが戻ってきた。


「すみません、お待たせして」

「いえいえ」少しばかり待たせられるくらい、センにとっては何ともなかった。

「それでですね……」イエルは席に座ったが、声にやや陰りがあった。「申し訳ないのですが、ちょっと人事のほうで手違いがあったみたいでして」

「え?」

「はい……それで、センさんの入社時期を少し遅らせていただけないですか。二週間ほどになりますが」

「えっ。二週間ですか?」

「はい……本当にすみません」


 イエルは恐縮しきった様子で言った。


「それはこの惑星基準で二週間ですか? よくわからない辺境の星の基準で二週間っていうことになってて、知らないうちに違約金が発生していてしかもそれが複利で増殖してて気づいたら郵便受けがローン会社からの督促状でいっぱいになってるってことはないですよね?」と、センはこういう場合にメロンスター社でよくあるケースの懸念点を投げかけた。

「いや、基準はもちろんこの惑星ですし、違約金なんて発生しませんよ」

「よかった。なら全然問題ないです」


 センは、イエルの顔に一瞬哀れみの表情が浮かぶのを確かに見た。しかしそれはすぐに消え、イエルはもとのきちんとした社会人の顔になった。


「よかった。そうしたら、それまでの間は今まで通り現在の会社で勤務していただけますか。こちらの準備が整ったらすぐご連絡しますから、そうしたらメロンスター社の退職手続きに入ってください」

「今すぐ会社辞めちゃだめですか?」

「いや、そうすると空白期間が発生して、税と年金の手続きが面倒になりますからね」


 役所で税と年金の手続きをすることを考えて、センはぶるりと身震いした。「そうなんですか、それじゃあおっしゃる通りにします」

「そうしてください。それじゃあ、用意ができたらまたすぐご連絡しますから。それに何かわからないことなどあったらいつでも連絡してきてください」


 イエルはにっこりと感じよく笑った。いささかがっかりはしたものの、センはまったく楽観的にかまえていた。



 翌日目が覚めた時、センは違和感を覚えた。やけに身体が軽い。すっきりと起きられる。入ってくる日の光が喜ばしい。


 これは常に無いことだった。センは二日酔いか睡眠不足かでどろどろと目覚め、なかなかベッドから出られずにぐずぐずと時間を過ごし、眩しい朝日に抵抗するように布団にもぐりこみ、いよいよ遅刻ぎりぎりとなって急いで起き上がりばたばたと支度をして家を出るということを毎朝懲りずに繰り返しているからだ。ところが今日は目覚ましの時刻の十分も前に起きることができた。


 出社後も気分のよさは続いた。いつも通りぶうぶうと不満を述べ立てるシュレッダーロボットにも慈悲深く腹を立てずに対応することができたし、いつもなら絶対にやらない第四書類室の掃除もちりひとつ見逃さずにやりとげ、その上シュレッダーロボットの新しい配置プランを六通りも作ることができた。しかも、センはこれらすべてを午前中にやりとげたのだった。


 センは実に気分よく前向きに過ごしていたとはいえ、その気分のよさがどこからきているものなのかはまったく不明だった。しばらく考えてみて、もしかして昨日飲んだ周期的に流行っては消えていく栄養価の高い果物のジュースが原因かと思いついた。ああいうものには本当に効果があるのか、はやるわけだとセンは感心した。


 しゃきしゃきと歩いてカフェテリアへ向かい、新メニューのヘルシーランチを注文してみた。野菜メインでよくわからない色と味のドレッシングがかかったそれを突き回していると、カフェテリアの中で社員に声をかけて回っている総務部のロボットがそばに寄ってきた。


「こんにちは。無料で健康診断を受けてみませんか? 五分で済みますよ」

「健康診断? どんなことやるの?」

「全身をスキャンして問題点を探し、診断結果をプリントアウトしてお渡しします。ご希望でしたら身体図を刺繍してテーブルマットをつくりますよ」

「刺繍はいいかな……でもなんでいきなり健康診断を始めたの」

「社員健康増進プロジェクトの一貫なんです。でも刺繍ほんとにいいんですか? がんばってレゼーデイジーステッチを覚えたんですよ」


 刺繍入りのテーブルマットについてはいい加減にあしらいつつ、センはロボットについていった。ロボットはセンを第二医療室へと連れていき、設置されていたボディスキャナーを差し示した。


「あそこに乗ってください。で、そのままじっとしていて貰えれば自動で身体全体をスキャンします」


 言われたとおりにセンがじっとしていると、スキャナーが機械音を発しながら動作し始めた。光が輪を描きながらセンの周りを上下に動き、しばらくすると傍らのプリンターから結果が吐き出されてきた。


「はいどーぞ」


 左手で結果用紙を受取り、右手でロボットから刺繍枠を取り上げ、センは診断結果を眺めていった。身長や体重、血糖値や血圧などの各種指標、それに病気にかかるリスクなどがチャートにまとめられている。たいていは標準の範囲内だったが、一つ気になるところがあった。


 それは身体の透過図だった。骨だの内臓だのがうつっているのだが、頭のところに見慣れない影があった。人差し指と同じくらいの大きさで、節足のようなものがいくつもついている。


「なんだろこれ……」

「ガンですかね」とロボットが無邪気に言い、いそいそと同じ色の刺繍糸を取り出した。

「いや、ガンではないですね」


 聞こえた声に、センは文字通り飛び上がった。


「え、エリアマネージャー! 何でここにいるんですか?」

「健康診断を受けた社員の反応を観察しようと思いましてね。ところでこれはガンではないですが、放っておくと身体に害を及ぼすことは間違いありません。今ここで除去していきなさい」

「そんなことできるんですか?」

「もちろんです」


 と、エリアマネージャーは壁際の棚から、先端に爪が複数ついたバズーカのようなものを取り出した。


「えーと……なんでしたっけその地球人の部位……う……うじ……蛆……えーと……まあいいや、その首の後ろの髪で隠れてるところ出してください」

「言い方に差別感情が出てたんですが」と言いつつ、センは素直にエリアマネージャーの指示に従った。いくらもうじき転職するとはいえ、今のところ自分の生殺与奪権を握っているのは目の前のこの人間である。


 エリアマネージャーはバスーカのようなものの先端をセンの項にあて、トリガーを引いた。キュルキュルと不気味な音がし、それはどんどん大きくなっていった。


「すいません、えっと、この機械は何なんですか?」

「これはあなたの体内の人工物を取り出すものです。具体的に言うとあなたの皮膚、筋肉、脂肪、血管などを速やかに切り裂いて中のものを吸引します」

「あのう、血管などを切り裂かれたら生命活動の維持が困難になるんですが」

「大丈夫です。切り裂くと同時に該当部位の四次元位置の固定を行い、吸引が終わりしだい固定を解除した後組織の修復を三ミリ秒以内に完了させます。また作動前に神経を麻痺させておくので痛みも感じません。理論的には」

「実践的にはどうなんですか?」

「今回でサンプルを取ります」

「えー……それはまた別のきちんと準備が整った機会にやったほうがいいのではないかと……それに、そもそも私の中にあるものは何なんでしょうか……」

「私がやるんです、全てに問題ありません。では動いたらいけませんよ、動くと正常に修復が完了しないかもしれません」

「あ、やめて、わ、ああああああああ」


 耳の奥まで引っ掻き回すような音の中で処置が行われた。終わると、センは一気に十歳も年取ったような疲労に襲われ、床に膝をついた。


「やっぱりそうでしたね」


 エリアマネージャーは機械をとんとんと叩き、筒の中からあるものを取り出した。エリアマネージャーがつまんでいるそれは、まるで金属でできたカミキリムシのようなものだった。


「な、なんですかそれは」

「製品名SY-766、通称『スパイ虫』ですね。対象者の飲食物に粉末状にして入れて使います。対象者の体内に入るとこの形をつくり、脳波を記録して対象者の見聞きしたことを保存します。その後この虫を回収することにより機密情報を収集することができます。また対象者の行動を活発にさせるために脳の該当部位を刺激したりするなど、脳操作の機能も備わっています」

「うえ」

「機密情報へのアクセス権のある社員にはこの虫対策に体内にナノマシンを注入してあるのですが……ああ、あなたのアクセス権レベルはあなたの職務内容に伴って最低でしたね。それでしたら対策がされていないはずです」

「気持ち悪い……触覚ある……あんなの体内にいたのか……」

「これは標的を定めて仕込む、例えばターゲットの会社に勤める社員をヘッドハンティングなどを装って呼び出して虫入りの飲食物を取らせるなどの形で仕掛けることが多いのですが、あなたの場合は違うでしょうね。シュレッダーマネージャーをヘッドハンティングするなどリアリティがなさすぎて、さすがのあなたでも気づくでしょうしね。とするとどこかの店で店員を巻き込んで仕掛けたものですかね? あなた、近々で外食したことはありますか?」

「……そうですねえ……あったような、なかったような……」


 センは事実をごくりと飲み込んだ。ここであったことを話したら、現実が見えていない愚か者扱いされるのはおろかヘッドハンティングに応じた裏切り者として処罰されかねない。


 しかし、とセンはショックからやや回復した頭で考えた。そうなるとあの転職話はすべてウソだったのか。快適な職場環境、給料アップ、バー、バカンス、それらすべてが夢と消えた。身体から力が抜け、センは顔からぺしゃりと床に倒れ込んだ。


 冷たい床に頭を冷やされていると、センの中には徐々に怒りが湧いてきた。描いた夢が大きかっただけに、それをかき消されたショックもひとしおだった。そしてその失望をもたらしたイエルに対して、ふつふつと復讐心が芽生えてきた。


「……エリアマネージャー」

「なんです?」

「それって……記録したデータはどうやって読み込むんですか?」

「汎用的なコンピュータで読み込める規格になっていますよ。以前使った時もそうでしたし」

「そうなんですか、それじゃあ……」



 数日後のある晴れた昼下り、センとエリアマネージャーは人気のない展望台にやってきていた。眼下にはちょうどサビク技術総研の社屋があった。


「それなんですか?」

「新しいフレーバーのアイスクリームです。ギャラクシー味といって、青色のソーダ味のアイスの中に星を表す小さなポップキャンディが入っています」


 ギャラクシー味とやらのアイスクリームを八段ほど重ねたものを食べながら、エリアマネージャーはサビク技術総研から目を離さなかった。


「そろそろ三時ですね」

「ええ。三時まで、五、四、三、二、一……」


 ゼロ、とエリアマネージャーが言った瞬間、サビク技術総研の社屋の窓という窓から明かりが消えた。ややあってから、社屋の一角で小規模な爆発が起きた。爆発それから二回、三回と続き、ついで外にいたドローンや掃除ロボットが窓や玄関に次々と特攻した。


 眼下の阿鼻叫喚は、センの体内にいたスパイ虫が生み出したものだった。スパイ虫は一旦取り出された後、記憶装置に機密情報の代わりにマルウェアを埋め込まれ、もう一度センの体内に戻された。マルウェアはプログラムのTrueとFlaseを入れ替えるという強力なものだった。その数日後のイエルからの呼び出しに、センは何も知らないふりをして応じ、睡眠薬が入れられた飲み物をそれと知りながら飲んだ。そして二重スパイと化したスパイ虫はサビク技術総研へ送り込まれ、今日の三時に発動がセットされたマルウェアは無事に大混乱を引き起こしたようだった。


「そう言えば」センは社屋の棟の一つが焼け落ちていくのを見ながら言った。「社員健康増進プロジェクトの視察って、終わったんですか?」

「そうですね。カフェテリアメニューの変更はあまり効果がないようでしたので、ジム利用の補助とアイスクリームフレーバーの変更のみ全社で実施します。あなたも利用してください。そのほうが後で会社が出す医療費が少なくて済みますからね」

「はあ」と答えながら、センは今後一生ジムには行かないようにしようと心を決めていた。

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