アイスを離さないで (6)

「お疲れのようですね」

「はい、まあちょっとしたトラブルで」


 センはトラブルの原因がアイスクリームマシンであることは言わなかった。『アイスクリームマシン』はあまりビジネスパーソンらしくない単語だと思ったのだ。


 イエルは、センを街中のレストランまで連れてきた。門構えがしっかりしていて、天井が高くて、普段のセンの財布ではまず寄り付けないような店だった。


「まあ、一杯どうぞ」


 席について注がれた酒を飲み、センは息をついた。向かいに座っているイエルはウェイターを呼び止め、いくつかの料理を注文した。


「ところで……」


 食事がデザート(幸いにアイスクリームではなかった)まで進んだところで、イエルが口を開いた。ここまでイエルは当たり障りのない話ばかりしていたし、センもそれに合わせて波風の立たない話題ばかり選んだ。


 しかし、そのときのイエルは少しばかり口調が変わっていた。


「お伺いしたいのですが。センさんは今の職に満足してらっしゃいますか?」

「え? えーと……」


 センは自分自身に問いかけた。満足しているかどうかという問いかけを今まで聞いたことがないから、すぐには判断つかないと自分は答えた。


「ううん、難しい問題ですね」

「そうですか。ご自身のキャリアについてはどう考えてらっしゃいますか?」

「えーと」


 センはもう一度自分に問いかけた。自分から返ってきた答えは先ほどと同じだった。


「なかなか一口では言えないですね」

「そうですか。実はですね、センさんが転職には興味ないかと思いましてね」

「転職? ですか?」

「はい。僕の会社では、今人を募集してましてね。社員にも、知り合いで能力のある人間がいたら声をかけろという話があって」

「はあ……」

「どうですかね。システム管理者のポストでは、月に二十万デネブは保障されていますが」


 イエルが言った金額は、今のセンの給料の三倍弱にあたっていた。センは自分に問いかけてみた。とても素晴らしい金高だと思うと答えが返ってきた。


「まあ、いきなりでは答えは出ないでしょう。こちら、資料をお渡しします。読んで、じっくり考えてみてください」


 パンフレットやらクリアホルダーやらを手渡され、センはその処置に窮した。普段はほとんどものの入っていないバッグにそれを詰め込もうとしている間に、イエルは会計を済ませていた。

「いつでも連絡してください。僕はセンさんと働ける日を楽しみにしていますよ」

 別れ際、イエルは店の前でそう言った。



 家に帰って、センは今日イエルに言われたことを思い返した。どう解釈してもこれは引き抜きというものだろうという結論に達し、もらった資料に目を通してみた。


 資料にはよいことばかりが書いてあった。イエルの会社は『サビク技術総研』と言い、情報技術、惑星開発の分野で事業を行っているらしかった。毎年黒字を出しており、とくにここ十年は年に二パーセントの成長を達成している。株価も安定しているが、株主だけではなく従業員に対しても利益を還元しており、福利厚生の内容も素晴らしかった。社会保険にきちんとした年間休日に、同じ星系内に複数会社保有の保養所が用意してあるし、スポーツジムも会社に併設してあり、資格取得支援制度やリフレッシュ休暇制度、換毛期休暇制度、脱皮休暇制度その他もろもろが使えるようになっていた。


 世間の評判を調べても、サビク技術総研のスコアは素晴らしかった。就業者の口コミでは五点中四・五点をつけているし、きちんと法律を遵守している事業者の印であるアルファ・オメガ認定証を受けていた。


「へえ、会社で爆発が起きたりしないんだ」


 ベッドに寝転んで口コミをつらつら読みながら、センはサビク技術総研の社内の様子を想像してみた。今よりもっと文明的で、もっと理知的で、もっと快適な環境なのだろうと考えた。


 クリアホルダーの中にあった募集要項を読むと、金銭面での利点が目についた。給料はもちろん、住宅費の補助も出るし、書籍の購入補助も用意されている。もしここで勤めたらとセンは給料を試算した。これなら家を買ってもらくらくとローンを払えるし、自宅でスーパーで買った缶入りのアルコール飲料を飲むのではなく、ケンタウリ・モヒートを飲みにバーに毎日通うこともできる。たまにはどこかの星に――リゾート星として名高いアリューゲ・ガンマあたりに――旅行に行くこともできる。考えるだにすばらしい生活だった。


 翌日、センは第四書類室について、部屋の中をつくづくと見渡してみた。もし転職したらこの部屋にはもう来ることがないのだ、と考えてみた。一抹の寂しさをおぼえるはずだと思ったが、実際はまったくそんな感情は浮かばなかった。わーきゃーとうるさく人を見下してくるシュレッダーロボットたちと離れられると思うと、ふつふつと喜びすら湧いてきた。



「センはやく本読んでよ。早く見せしめ裁判の続きが知りたいよ」

「そうだよ、早く早く」

「ちゃんと給料分くらい働きなよ」


 日課の本の読み聞かせを済ませ、シュレッダーロボットがあちこちに散っていくと、センは社内をぶらぶら歩いてみることにした。何か自分をこの仕事に引き止めるようなものが無いかと思ったのだ。実際ここにとどまりたいかというとそうではないのだが、引き止められつつそれでもそれを振り切って出ていくほうが詩的でいいなと考えていた。


 開発部の階は紫色と茶色をまぜたような色の煙が充満していたのでそこは飛ばし、総務部や広報部や営業部の入っているフロアを歩いてみた。ここで申請書を貰うために一日並んだこともあった、あそこでプロモーションのサクラをさせられたこともあった、知らないうちに宇宙空間保険に入らされていたこともあった、と色々な思い出が蘇ってきた。そしてそれらのどれも、センを懐かしがらせるものはなかった。


(宇宙空間保険とは、その名の通り宇宙空間で発生した事件事故に対しての保険である。メロンスター社の商品開発部の金融課がつくりだした商品で、わずかな掛け金で宇宙空間で発生した事故――例えば隕石が船に衝突するとか――に対して保障を受け取ることができるというのが売りである。商品開発部の高度な数学を駆使した計算によれば、宇宙空間はほぼ無限といえるほどに広大で、それと比較すると航宙船はほぼゼロといえるほどに小さい。隕石も同様に極小とみなすことができるので、それらが衝突するのは六那由多年に一度しか起きることがないため、この保険は莫大な収益を上げることができるという試算だった。しかし彼らが見落としていたのは、自社製品が航宙船に搭載されている確率で、このミスにより宇宙空間保険は凄まじい赤字を計上してわずか一年で廃止となってしまった)


 センは最後にカフェテリアに向かった。アイスクリームマシンの方を見ると、妙に人影が少ない。なぜかと思えば、エリアマネージャーがアイスクリームをカップに盛っているのだった。


「あら、おひさしぶりですね」


 古典物理学の限界に挑戦しているようなアイスクリームの盛り方をしているエリアマネージャーは、センを見てそう言った。


「あ、はい」


 センは引きつった表情を浮かべて答えた。


「どうしたんです? まるで幽霊でも見たような顔ですね」

「いえ、そんなことは……というか、どうしてここにいらっしゃるんですか」

「社員健康増進プロジェクトの進行状況を確認しにきましてね」とエリアマネージャーはアイスクリームを食べながら言う。「でも、他は別として、このアイスクリームはあまりよくないですね。ちょうど新製品があるのに、それを入れていないなんて」

「そうですか。それでは私はこれで」

「せわしないですね。私はしばらくこの支社にいますので、何かありましたらどうぞ」

「はい」絶対に何かあるようにはしないぞと思いながら、センはその場をそそくさと後にした。そしてあと少しでエリアマネージャーとかかわらなくてすむようになるということに心から感謝した。

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