幕間(2):約8枚

ベムリ・リンドは祈り続ける

about 34 years ago……


 二月、ハーネラ巡査長、つまりニフリート・ハーネラの父は、道端で凍死していた幼児を見つけた。おそらく四歳程度、身なりは悪くなく、浮浪児という感じではない。家出したのか、捨てられたのか、それは永遠の謎だ。その日はひどい吹雪で、ホームレスと酔っぱらいが何人か凍死していた。

 しかし数日死体置き場に安置され、ゾンビになったのはその幼児だけだ。幼すぎたためか、自分の家族も住所も名前も歳も、何もかも覚えていない。そこで誰かが便宜上、空白(ブランク)にかけて、ブランカ(白)と女の子のような名前をつけた。

 ハーネラ巡査長はそれに怒って、『ベムリ』と名付けたものだ。

 巡査長は身元の知れないその子を、しばらく預かることにした。何だかんだ半年が過ぎ、一年が経ち、このまま正式に引き取るつもりだったのかもしれない。

 けれど手続きを踏む前に、惨劇によってハーネラ夫妻は死んだ。今、ニフリートとベムリを保護しているのは、児童養護施設〝グラナッティオメナ〟だ。

 惨劇の傷を癒やし、退院して数週間、二人の少年は肉体的にはさほど問題はなかった。けれどニフリートは毎夜悪夢にうなされては飛び起きて、ベムリの毛布にもぐりこんでくる。その逆はない。我が身に降りかかった出来事は、ベムリにとって妙に現実感が無く、物の意味が何もかも分からなくなりかけていた。しかも、それは初めての感覚ではない。

 ふとベムリが物心ついた時には、心の中にいつも吹雪が荒れ狂っていた。白い嵐は現実の何もかもを彼から遠ざけ、覆い隠してしまう。体からぬくもりを奪って、死者のような無感覚に変えていくのだ。そうして吹雪の中心で自分は座り込み、何も考えず、感じず、虚ろな目で白い世界を見つめていた。

 後から聞いた話だが、当初ハーネラ家に連れてこられたベムリは、まるで人形のように無表情で無感動だったそうだ。自分では全く覚えていない。

 彼の記憶は、ニフリートが手の中からミニカーのおもちゃを奪った所で始まる。頭の中で、ふいに火花が弾けた感触。

「かえせ、バカ!」思わずグーで殴った。

 ああ、自分は怒っているのだ、と他人事のように知る。そのまま二人はおもちゃを巡って喧嘩になり、その時にはもう、ベムリの心から吹雪が晴れていた。この世によみがえってから初めて、心にスイッチが入ったのだろう。ハーネラ家に来て三ヶ月目のことだ。そこから抜け出して、ベムリは初めてあの吹雪を恐ろしいと思った。

 白い世界は完璧だった。心を乱す不安も恐怖も無い。自分は永遠にその世界で一人なのだと満足していた。そう、思い返せば、空っぽになった頭の中で、自分は吹雪にさらされ続けるのを望んでいたのだ。

 だが一度そこを出て振り返ってみると、雪と氷の中心はまさしく白い地獄だった。そこには何も無い、ただ永遠に落下し続ける虚無。

 ニフリートと一緒にいれば、もうあそこに戻らなくてもいい。ベムリは雛鳥の刷り込みじみてそう確信した。

 けれど、今。惨劇を経て、再びベムリの心には吹雪が吹き始めている。止む気配がないどころか、これから嵐が来て自分を閉じ込めるという予感があった。白い弾丸が絶え間なく小さな体を打ち、感覚を凍らせていく。それから身を守ろうと縮こまると、もう二度と手足を伸ばせなくなって、死の引力がベムリを捉えようとしていた。

 不思議なことに、あれほど吹雪を恐れた気持ちはもう無く、ひんやりとした安らぎがある。自分はニフリートと一緒に生きていたかったのではないだろうか。もうそれも分からない。自分には元々何も無かった、家族も、名前も。ハーネラ夫妻は優しくて、あの家は日溜まりのようだったが、それも壊されて今はない。

 もしかして今まで自分は夢を見ていて、ニフリートも夫妻もいなかったのではないだろうか? だったらそんな物を見るのはもうやめよう、暖かい夢なんて見ずに永遠に凍り付いていればいい。

「ベムリ」

――なのにどうして、あの子の声が聞こえるんだろう?

「……ニーちゃん」

 ベムリの口は中まで凍ってカラカラに乾き切っている。唇は霜付いて、動かすとバリバリと音がする気がした。けれどそれは幻だ、白い病室は快適に温められて、自分の体には雪の一片たりとも付いていない。目の前に焦点が合うと、頭に包帯を巻いたニフリートが笑っていた。彼に握られた手が、鮮烈に温かい。

「生きてるよな? 俺は、生きてる」

「うん。生きてる」

 自分が自然にそう答えたのが、ベムリは一瞬信じられなかった。これは吹雪の中で、まだ自分が見ている夢の続きなのだろうか。ベムリの両手を握ったままニフリートは泣き出して、こちらの困惑には気づいていない。嗚咽混じりの声で、ニフリートの口にした言葉が、ベムリの胸にするりと入った。

「……生きててくれて、良かった……」

 心の中で渦巻いていた吹雪の残響がかき消されていく。そうだ、自分は生きていたいのだ、彼や彼の周りの人たちと一緒に。吹雪が吼え、ベムリに戻れと怒号する。彼はそれを振り切り、声を上げて泣き出した。赤ん坊が産声でもって、ぺしゃんこの肺に最初の空気を入れるように、自分の中で潰れていた命を膨らませる。

 胸の中、再び脈打ち始めたその鼓動を聞きながら、ベムリは祈る。ニフリートが生きていることを、神に感謝して。


 ニフリートが夜ごとの悪夢に悩まされるように、ベムリの心にもたびたび吹雪は忍び寄ってきた。今のところ、彼は自力でそれを追い出すことに成功していたが……吹雪はやってくるたびに、必ず冷たいひっかき傷を残しては去っていく。その痛みが、また不意に現実感を失わせた。

 不安定なベムリの心を引き留めてくれるのは、この緑の目をした少年だけだ。ふと夜中に目を覚ました時、悪夢に怯えたニフリートがベッドに侵入してくることを、ありがたく思う。そのことで同室の仲間にからかわれることもあったが、事情を知っている職員がそれを注意すると、あまり言われることもなくなった。

 今夜も、吹雪が自分を呼ぶ声がする。今また、自分の手を握るニフリートの手が、その体温が、氷雪の無慈悲な世界を遠ざけていた。

「殺してやる」

 不意に、ニフリートが絞り出したその声は、彼の体から立ち上る陽炎のようだった。惨劇からひと月目の決意。

 熱に浮かされたように、ベムリは「殺そう」と合わせる。

「とうさんと、かあさんと、お前と、俺たちみんなのふくしゅうだ」

 刃物のようにギラギラした眼が、生きる目的を見出して緑に輝いていた。

「地獄の果てまで追いつめて、必ず殺してやる」

 それは映画の台詞でも取って付けたような感じだったが、言いたい気持ちはベムリにも分かった。いつか自分たちは、本当に人を殺すだろう。当たり前のように彼はそう納得していた。あの優しい人たちを、実の両親を殺されたニフリートは、きっと自分より哀しくて辛いはずで、そうしないと生きていけないと思ったから。

 ニフリートの手を握り返して、ベムリは自分を現実に繋ぎ留めようと試みる。彼は生きようとしていた、その手がかりを求め、ささやき声で歌い出す。

「……やっつけてやる、やっつけてやる。心臓を銃で撃ち、頭を斧でかち割って♪」

 ニフリートは怪訝な顔をしたが、すぐに即興の歌詞を続けた。

「やっつけてやる、みなごろしだ。邪魔するやつは、ゆるさない♪」

 二人は互いに笑みを見せてリレーした。

「首を斬って、火をつけて」

「墓穴ほって、たたき落とす」

「やっつけよう」「やっつけよう」

「二人で」「いっしょに」声を合わせて。「「みなごろし」」

 そして、ハハハ、イヒヒと笑い声。

 生きるも死ぬも殺すも、もはやカートゥーンの出来事ではない。殺伐としたその歌が、少年たちを悪夢と惨劇の記憶から守る呪文だった。生きる意味と目的を与えてくれる。そうやって二人はいくつもの夜を越えていった。越えるたびに、彼らは戦い方と殺し方を覚えていった。復讐は果たされる。罪は重ねられる。


 ベムリにとって最も重い罪は、親友を自ら手にかけたことだ。その後で地獄を見たことも、あの吹雪の世界も、この罪に比べれば些細なことだった。

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