幕間(1):約9枚

ニフリート・ハーネラは祈らない

about 34 years ago……


 深夜――声にならない悲鳴を上げて、七歳の少年が目を覚ました。開かれた目に見えるのは、何の変哲もない天井の闇。

 それに気づくまで、彼は汗と震えが止まらなかった。ここは二段ベッドの上段で、周囲に横たわっているのは、同じようにベッドの上下で眠る子どもたちだ。真夜中なのはさっきまでの悪夢と同じだが、それ以外は全て違う。違う。

 ニフリート・ハーネラは深々と息を吐いて、額の汗をぬぐった。そこには大きく、十字の傷痕がある。ほんの一ヶ月前、惨劇の夜に付けられた。そう、まだひと月! 目を閉じるたび、流れた時間など忘れて、ニフリートは同じ一夜の真っ只中に戻される。血と硝煙の臭い、仰向けに倒れた父と母。

「ベムリ」

 少年は下段で眠る、残された家族の名前をつぶやいた。下から返事はない。急にそのことが不安になって、彼は年の割に大きな体を起こした。

 ニフリート。露西亜ヴェナヤの言葉で翡翠を表す、その名と同じ緑の目で、闇を見透かす。同室の子どもたちは、よく寝息を立てていた。

 何で大柄の自分が上段なのかと不満に思いつつ、そっと下に降りる。

 寒がりのベムリはすっぽり毛布をかぶって、ほとんど白に近い金髪が少しだけはみ出していた。歳の頃は多分六歳から七歳、正確な所は分からないが、ニフリートは勝手に年下で、弟分だと決めつけている。何しろ父が彼を連れてきた時は三月ごろで、誕生日はその日ということに決まったのだ。ニフリートは二月生まれだった。

 毛布にもぐり込んで、頬や体をくっつけると、すぐにベムリは目を覚ました。青い瞳が彼を見て言う。「おはよ」

「寝てろよ。まだ夜だ」

 ニフリートは毛布を引っ張り上げて、頭までかぶった。良く温まっているそれに心底安心する。ベムリがきちんと生きている証だ。父も母も、頭や心臓に銃弾を撃ち込まれ、念入りにとどめを刺されていた。間違えてもよみがえりっこない。けれど、ベムリだけは生きててくれて良かったと思う。

 あんな事件がなぜ起こったのか、ニフリートには分からない。父が警察官で、麻薬密売グループの摘発に貢献して、残された構成員が報復に来ただとか、そんな事情は聞いても理解出来ないし、理解したとしても、やはり納得しなかっただろう。とにかく、それは起こった。神さまは何も答えてくれない。

 今、ニフリートに分かるのは事実だけだ。あの夜、母に起こされて寝ぼけたまま地下へ隠された。しばらく上が騒がしかった。静かになっても呼びに来ないし、寒くて仕方無いので、ベムリと一緒に上へ出た。そして、廊下で仰向けに倒れた父と対面したのだ。額に穴を開けられた顔は、まるで作り物のようだった。

 これは本当に父だろうか、それとも人形だろうか。ニフリートが判じかねていると、ベムリは階段下の電話を取った。受話器が外れ、ぶら下がっている。

「ニーちゃん、警察のひとだって」

 ベムリはそのまま電話の向こうと話し始めた。

 その傍でニフリートは野球バットを調達し、素振りしてみる。家の中には、見知らぬ誰かが動いてる気配。はっきりとした物音も。何か話しているのだ、おそらく敵は二人か三人。バットを握る手に力がこもる。

 見知らぬ男たちが、自宅に侵入してきた――恐ろしいことだが、彼は同時に思う。これは勇気を示す機会だ、と。

 大人と子供とはいえ、不意打ちで頭にストライクを決めてやればヒーローだ。きっと父も母も鼻が高いに違いない。そう考えると、わくわくしてくる。

 彼は何が起きているのか、理解していなかった。侵入者が襲ってきたのは、分かる。父が怪我をさせられたのも、分かる。ただ、死んだなどとは思いもよらない。そんなことはカートゥーンアニメの登場人物にだけ起こることで、人間が本当は死ぬ物だとは、この時の彼は知らなかった。

「ベムリ、いくぞ」

「ニーちゃん、隠れようよォ。おまわりさん、もうすぐ来るって」

 それは夢の中で何度も後悔する場面だった。せめてこの時、ベムリの言うことを聞いてやれたなら。

「とうさんの仇討ちだ。イヤならおまえだけ隠れてろ」

 けれどニフリートは、勇者の剣みたいにバットを構えて、声のするリビングへ進んでしまう。

「それに、かあさんを助けないとな」

 十月、この地方では外気温も氷点下の季節だ。火の消えた家の中は寒く、手が震えてくる。それをさすりながら、忍び足で目的地へ。

 リビングの前に来ると、ニフリートはそっとドアの隙間から様子をうかがった。母が父と同じように仰向けで倒れ、その上にニット帽の男がのしかかっている。男がナイフで母の服を切り裂くと、間に大きく穴を開けた乳房がこぼれ落ちた。男はそれに構わず、片乳にむしゃぶりつく。その他のことは、もはや彼の目には入らなかった。

 ニット帽の男より手前にはもう一人仲間がいたが、それに気づかず突撃し、雄叫びをあげてバットを振り回す。

 この時、相手が『撃つより殴る方が早い』と判断したことが、彼の命を救った。銃把がハンマーのように額を一撃し、天地が何百回転もして、床に転がり大の字に伸びる。殴った男はその腹を何度も踏みつけ、あるいは蹴った。

 痛くないほど痛い、初めての感覚だった。自分の意志とは無関係に体がのたうち、叫びを上げる。肺の空気を出し尽くしてもなお悲鳴は止められない。

 額からは信じられないほど血が流れ、片目を塗り潰す。ベムリが金切り声で名前を呼ぶのが分かったが、どうにもならない。

 誰かが銃を撃ち、声が消える。それが何を意味するのか考えたくもなかったが、すぐに理解させられた。殴ったのとは別の男が、銃口を向けるのが見える。多分、あれで撃たれたら、もっと苦しくなるのだ。そんなことには耐えられない。

 いやだ、助けて――そう言いたくても舌は引きつり、うまく呼吸も出来なかった。ここ最近ぐらついていた乳歯が折れて、口の端からこぼれる。

「ニーちゃん」

 血まみれのベムリが覆い被さるのと、銃声が響くのは同時だった。そして、外からサイレンの音が。

 男たちが慌てだし、更に何発かを撃ち込んできたが、弾丸は全てベムリの体に受け止められていた。通電されたカエルじみて体が跳ねる。流れる体液がニフリートの寝間着を汚し、たちまち熱が冷えていく。ベムリは少し体を起こし、にこりと笑った。血の泡をこぼしながら不明瞭な声で語りかける。

「だいじょぶ。いたくないんだァ」

 ニフリートは、ベムリが自分の痛みを消していることに気づいた。

「だって、おれ、ゾンビだしさ」

 そこでスイッチを切られたように、ベムリは意識を失った。ニフリートは落ちてくる体を受け止め、かき抱こうとしたが震えてうまく出来ない。ついに抱擁出来ないまま、踏み込んだ警察が二人を引き剥がし、担架へと載せていった。痛みは無くても怪我は本物だ。このままベムリは死ぬのだと彼は思った。そう、『死』ぬのだ。

 その空虚な一語が、胸の真ん中、「今まで気づかなかったのかい?」と、ニフリートを嘲笑っている。それは生まれた時からずっと付きまとう存在だった。だが彼は本当に知らなかったのだ、人は死ぬ物だとは。父と母を汚していた液体は、侵入した男たちがスプレーか何かでぶっかけた塗料に過ぎないように感じていた。

 でも、これは、二人の体から出てきたのだ。今のベムリと同じ。自分の額や鼻や口から流れる物と。みんな内側から破けていた、大事な何かが砕けて散らばっていた。液体は父や母やベムリで、床に広がり染み込んで、どこかへ消え行こうとしている。痛みや命が、こんなにハッキリと目に見えるものだったなんて。

「ごめんなさい。ベムリ。とうさん、かあさん、ごめんなさい、ごめんなさい」

 うわごとで謝りながら、ニフリートも意識を失った。それからの一週間ほど、彼には自分がどこでどう過ごしていたのか記憶がない。

 ようやく記憶が繋がるのは、病室のドアを前にした時だ。入り口にかけられた名札に、ベムリの名が。名字はまだ無い。おっかなびっくり入室すると、一つだけ置かれたベッドの上で、ベムリがぼんやりと毛布にくるまっていた。冷たい青の瞳は、ニフリートが目の前で手を振っても反応が見えない。

「ベムリ」

 手を握り、名前を呼ぶと、ようやくこちらを見た。

「……ニーちゃん」

「生きてるよな? 俺は、生きてる」

「うん。生きてる」

 それ以上は喉が詰まって言葉にならず、ニフリートは泣き出した。

 ゾンビは一度死んだからか、もう滅多なことでは死なないと言う。頑丈なのだ。けれど、不死身ではない。自分も生きているが、死んだら死にっぱなしで、ゾンビにはなれない可能性の方が高いのだ。互いが生きていることを神に感謝すべきなのか、両親を奪ったことを恨むべきなのか、ニフリートは成人した後も、未だに分からない。


 そして、ハーネラ家の惨劇から数えて二十一年後。

 ニフリートは撃たれて死んだ。殺したのは、ベムリだ。

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