電話をかけよ、言葉を告げよ

 エヴァ49をミリヤの護衛にしてホテルに残し、サイゴは事務所に戻った。待ち構えていた球体猫の繰り出す、超高速残虐パンチをかわしながら、食事を出す。

「ほら、食べた食べた」

 ぶにゃあ、とダミ声で鳴き、「ケッ、しょうがねえな。食ってやるからありがたく思え」という顔で松悟はマグロ缶に口をつけた。これで一安心だ。

 壁のコートかけに、サイゴは背中が見えるようにジャケットをかけた。文字が歪まないよう、丁寧にハンガーを通す。ソファに腰かけ、珈琲を一口、溜め息を少し。

 ジャケットに描かれた『向』の一字は、サイゴが姓として使っている向良ではなく、先代鎮伏屋・ヒュウガの名から取られている。

 漢字で、日に向かう、と書くのだ。俺はこの字が好きなんだ、と師匠でもあるその男はよく言った。死と向き合え、故人が生きてきた証しと想いに報え、そして向き合ったその先へ進め、その手伝いをするのが葬式と鎮伏屋の仕事だ、と。

(どこへ向かうか分からなくても……どこへ行きたいかぐらい、決めたいもんな)

 ヒュウガはこの自分に鎮伏屋の名と、生き方と、一挺の銃を譲り渡した。それを受け取った者として、サイゴは時折、師のことを思い起こす。

 死体密売組織との銃撃戦に巻き込まれた時、「この人に付いていったら死ぬ」と思い、それが三度目になると「この人に付いていかないと死ぬ」に変わった。さんざんコキ使われたし、「このクソ野郎いつか殺そう」と、ゴミバケツに頭を突っ込まされながら考えた夜もあったものだ(実は今も諦めていない)。

「……いつ考えても、嫌な思い出しか浮かんでこないんだよなあ」

 少し笑って、サイゴは残りの珈琲に口をつけた。出会った時からヒュウガは白髪だらけで、今はとうに老境に入っているはずだ、今度生きてるかどうか確かめに行こうと思う。師匠ならどうするか、などと訊く必要は無い。

 今回の仕事も、次の仕事も、次の次の仕事も、サイゴが一人で決めることだ。そして確かめるべきは、ミリヤの意志ひとつ。

 霊柩バンで問うた時、彼女は無言のまま答えず、サイゴは話を切り上げた。目まぐるしく状況が変わり続ける中で、あの少女は何を選ぶだろう。


                 ◆


 夢を見た。体中が痛くて、真っ暗な中、はるか頭上にある眩しい円を見上げている。それは太陽などではなく、自分が今落ちてきた穴の出入り口だ。

 初めてのキャンプ、森で遊んでいたら、不意に地面が抜けた。すりむいたり、ぶつけたりした傷が痛くて、ここがどこだか混乱してまた泣く。

 小さなミリヤには、それしか出来なかった。まるで地の底、ひっくり返った格好のまま、身動きできないほど狭い。このまま誰にも見つけられなかったらどうしよう? 今は昼間だけれど、夜になってしまったら? 雨が降ってきたら? この傷が悪くなって死んじゃったら? 嗚咽が止まらなくなり、心細さに溺れそうになる。

(やだ、やだやだ、だれかたすけて)

 光が不意に遮られ、びっくりして息を止めると、大きな影が自分の名前を呼んだ。

(おとうさん! おとうさん、みりぃはここだよ!)

 穴は大した深さではなかったのだろう、ニフリートは腕を伸ばすと、軽々とミリヤを掴んで引っ張り、そのまま抱き上げた。幼いミリヤはわんわん泣きながら、安心してその腕にしがみつく。大きな手が頭を撫でて、母や叔父が、大丈夫かと駆け寄ってくるのをぼんやりと感じながら、ミリヤは夢から覚めた。

『ワイト・アクション映画の金字塔〝スキーバルカオンの黒犬〟二十周年を記念して、今週の映画チャンネルは、シーマイヤー監督特集!』

 サンタズホステル・アロラの客室に置かれたテレビを眺めながら、ミリヤはベッドに寝転ぶ自分を見つけた。なんだか全身が湿っぽく、たっぷりと水を吸った雑巾のように、重たい気分。抱えた枕にも、涙のシミ。

『ただいま中継で、スキーバルカオン映像記念霊園とつながっています』

 ガーデンパーティーがしつらえられた墓地に、場面が切り替わった。ドレスやタキシードで盛装した俳優たちが笑顔で手を振る。

 サイゴにホテルまで送り届けてもらった後、ミリヤはすぐベッドで横になった。さんざんに泣いて、泣いて、泣き疲れて今まで眠っていたようだ。

『この墓碑銘に刻まれた名前は、全てこの映画に出演したスタント・ワイトたちの氏名です。ええ、ワイトとしてのではなく、生前の。彼らの尊い功績に感謝と敬意を』

 ワイトに嫌悪感を示す人間も、不思議と映画のスタントには文句をつけない。母もこの映画が再放送されると、いつも観ていた。昔、父と共にこの映画を観ていたのかもしれない。そこに、叔父のベムリも一緒だったのかもしれない。

 その三人は――人殺しだ。母は祖父に銃弾を撃ち込み、祖父は母を性的に虐待し、ニフリートとベムリは祖父のみならず、何人も、何人も殺して。

 ちりっとした嫌な感触が、不意に脳裏をよぎる。ライターをつけようとして、火が点きそうで点かなかった手応え。何か危険な考えが出てこようとしている。


――そもそもニフリートが父親であることに、自分がこだわる必要はあるのか?


 どうして、あの人が自分の父親だと言えるのだろう。

 たった三年だけ、自分と一緒に暮らしたから?

 血がつながっているから?

 母と結婚していたから?

 法律上そうだから?

 もうすでに死んでしまった存在に、今更、あなたは父親なのだと親子関係を強要することに、一体何の意味があるのだろう。

 死んだままでいてくれれば良かったのに。

 自分は父に会いにインゴルヌカに来たのではない、ただその体を探していただけだった。彼の魂の在り処にさして注意など払ってもいなかった。だのに、もしかして親子になれるのではと勘違いをした自分は、なんておめでたいのだろう。

 おぼろげに、父は家よりも大きな巨人として印象に残っている。ミリヤは山のようなその体によじ登るのが大好きで、肩車されると空を飛んでいるような気がした。

 サヴォンリンナで数度、ロッククライミングに挑んだのも、どこか父の影を追い求めていたのだろう。だがそれもジムの中だけで、本物の岩壁に挑んだことはない。〝父親〟は、長い間ミリヤの中で、おとぎ話のように現実感のない存在だった。

(でも、お父さんは、ここにいる)

 死者のための都ネクロポリスで、死体になってもちゃんと〝生きて〟いる。思い出を抱えて、やり場のない戸惑いと怒りを持って、今はどこを彷徨っているのか。

 一瞬――逆光の中で手を伸ばし、安心させようと微笑む父の姿が、よみがえった。さっき見ていた夢の光景、穴に落ちた娘を心配して、助けに来た。三歳までしかない父親の思い出、自分の空想なのか、本当にあったことなのか自信はない。

(でもあの人は、夢でも、幻でもなく、確かにいるんだ)

 そのことは無視できない。彼の存在を自分の中から無きものにして、何もかも放り出してインゴルヌカを出たとして、それはもう、ただの逃げではないのか。

 だって、彼に残された家族は自分だけだ。警察にも役所にも任せられない、禁忌の存在マインドワイト。彼に父としての責任があるなら、自分にも子の責任がある。

 つまるところ、血でも愛でも法でも、それは決して一方的ではなく、互いに不可分なだ。ごくごく単純で初歩的なこと、家族の根本、ただ「関係がある」ということ!

 自分はあの人に関係がある。

 あの人は自分に関係がある。

 彼はミリヤがこの世に生まれるそもそもの因果を作った張本人であり、まずこれが責任第一級。そしてその原因の片棒を担ぐことになった母に対してまた責任第一級。ミリヤが誕生する場におそらく居合わせ、その後三年彼女を養育した実績もプラス。不慮の事故により死亡したが、このたびトラブルにより復活したので――

(あ、なんだ)

 腑に落ちた。

 なんだ、全然有効ではないか。彼は、まったくもって完璧に間違いなくこの世でただ一人の、クソ大馬鹿野郎で考えなしに娘を「知らないガキ」とか抜かして責任放棄しようとした父親ではないか。全力で平手打ちの刑に処すべし。

――バカなこと言わないで! 私、お母さんのそんな過去知りたくなかった! 言うだけ言って後は忘れろとか、自分は消えるなんて無責任よ! ……ねえ、あなたは必死に生きてきた、その上でたくさん酷いことを、悪いことをしてきた。それは償わなくちゃいけないことだと思う。

――でも、その前に、お父さんはどこまでも、私のお父さんなのよ?

 あの時すでに、ミリヤ自身が答えを出していたのだ。

「私すごく、ムカついて来た!!」

 絡まった毛玉のように、胸の中はごちゃごちゃして、いまだ整理はつかないが、その全てを解きほぐせるまで待つ時間はない。

 顔を拭い、テレビを消す。事務所に戻ったサイゴに電話しなくては。改めて、依頼は取り下げない、父を、そして叔父のベムリを、お願いしますと頼むのだ。

 二人を見つけて、会って、もう一度話をする。あの人は、死にたかっただなんて軽々しく言った自分を、怒りはしても殴らなかった。どうでもいいなんて、思っていなかった。だから、これぐらいで終わりにしようとするのは、あまりに無責任だ。

 携帯を取り出して電話をかけるミリヤの隣、一人がけソファに座って、エヴァ49は黙々と編み物をしながら、それを見るともなしに見ている。


                 ◆


 瞼を指でいっぱいに広げるが、いくらジロジロ見た所で、それが黒く染まった仕組みはさっぱり分からない。ニフリートは諦めて手を離した。解放されたベムリは、コキコキと首を鳴らした後、思い出したように問う。

『なァ、ニーちゃん、そういやクオナとミリィちゃんどこだよ?』

 ギクリとした兄に、ベムリは不思議そうにもう一度訊ねる。誤魔化そうと思えば簡単だろう、何しろこいつは、十六歳のミリヤに会ったことを忘れているのだ。そもそも、二人がサヴォンリンナに行ったことすら、知らないのではないか。

「……クオナは、死んだ。病気だってよ」

 闇に染まった眼球で、ベムリは黒い水面のような天井を仰ぎ見る。

『ソー、か。ソーかァ』

 うつむき、慰めるようにニフリートの背中を優しく叩いた。

『じゃ、ミリィちゃんと今は二人かァ?』

 やはりその追撃からは逃れられない。ベムリの中で、物事の時系列はどうなっているのだろう。今更、自分があの娘について何を語れる?

 穴だらけの絵になりながらも、自分が死んだ直前の出来事は、ベムリとの会話でかなり明瞭になっていた。それは単なる事実の羅列ではなく、あの日感じた雨の冷たさも、弟に銃を向けねばならない苦しさも、撃たれた瞬間の衝撃も全て、生々しい感覚となって自分の中に戻ってきている。

 そしてその中には当然、妻と娘を確かに愛していたという気持ちもあった。この、今隣にいるこの世で最も古いともだちを、ともすれば引き換えにしてしまってもいいと思えるほど、二人の存在を愛しく思っていた。

『ニーちゃん、どしたんだよォ』

 肘でベムリが腕を小突く。機械のものに変わってしまった声で、小さく笑う。

 こいつのことも、ミリヤのことも、クオナのことも、自分はいつも中途半端だ。父と母を失ったあの夜も、いや、その前からずっと、自分は考え無しで行動する大馬鹿野郎だった。その場その場の感情だけで動いて、まるで動物のようだ。

――知らねえガキだ。他人の空似だろ。

(ああ、ちくしょう)

 自分が一つ一つの物事をもっと大切にして、冷静に見て動いていれば、周りの誰もがもっとずっと幸せでいられたのではないか。死んだ体、呼吸も体温もない静か過ぎる、そのくせ異様なパワーを秘めた肉体。自分がそんな状態になっていることが腹立たしくて、死ぬつもりだったというミリヤの言葉に激昂して、あいつの話を聞いてやろうともしなかった。それでも父親か? それでもクオナの夫か?

 あばらで歯ぎしり出来るものなら、今のニフリートの胸中はまさにそんな荒れ方をしていた。葛藤の果てに、観念して口を開く。

「あいつは、置いて来た」

『ハ?』

 意味が分からないという顔をしているベムリに、ニフリートは言葉を続けた。

「お前は、十六歳になったミリヤに会ってんだよ。さっきクリニックにいたろ、クオナそっくりの、あいつだよ。俺は……あいつが死にたかったとか言ったからカッとなっちまって、その」

 頭をかきかき、どう言ったものかと言葉を探して首を巡らせると、ベムリが背を向けて部屋の隅へ歩いて行くのが見えた。何をしているのかと見ていると、壁際でクラウチングスタートを決め、こちらへ走ってくる。そして。

『このタマ無し野郎――ッ!!』

 ベムリはニフリートの胴体にドロップキックを決めた。二人は体ごと廃屋の壁をぶち抜き、外へと転がり出る。漆喰が砕け、木材が折れ、屋外のアスファルトが割れ、ホコリと粉塵が舞った。呆然と見上げた夜空、ベムリの憤怒相に遮られる。

『置いて来ただァ? 知らねェーだァ? 十三年寝てる間にミソかフィラメントか腐ったのか! 死ね! もう三度死んでテメェのちんこ噛みちぎれ!』

 その他、イエスもマリアも思わず耳を塞ぐ数々の汚い罵倒が雨あられ。

「わ……わかった、俺が悪かった!」

 弱々しくニフリートは謝意を示して手を上げるが、顎にフックを喰らわされる。

 ああ、ベムリがこんなにマジギレしたのは、そう、初めての賭けポーカーで熱くなりすぎて、勝手にこいつのバイクを担保にした時以来だ。

 あの時は、誘ってきた連中が全員グルでイカサマしていたのが分かったのでボコボコにしたため事なきを得たが、バイクが無事でもベムリは許さず、その日の夕食に衣をつけて揚げた固形石鹸を食べさせようとしてきた。死ぬかと思った。

(まあ、今は死んでるんだけどな……)

 そこまで思いを馳せたところで、ベムリが手を止めた。

『お前ェー。家族は一緒にいるモンだろォ』

「そうだな」

『一緒に暮らしてよォー……助けあってよォー……喧嘩して、仲直りして、また明日……ハハ。知らねえはねェだろ知らねえは。謝りに行けよ、ミリィちゃんに』

「ああ、そうだな」

 相槌を打ちながら見上げた弟の顔、黒く染まった目の下、涙は枯れたはずなのに、亀裂のような黒い線が広がっている。ベムリはいつまた、ただの死体に戻るのか。自分はいつ、そうなるのか。自分たちには時間がない。会いに行かなくては。


                 ◆


 自我マインドワイトは夢を見る。眠ることのない体でも、心がそれを欲するのか、一日の間に数度、あるいは数日に一度、コンマ数秒の白昼夢を見る。ニフリートは、あの新米マインドは、自分が眠れることにいつ気づくだろうとフィティアンは考えた。

 彼が見る夢はいつも変わりばえがしない。双子の弟と共に還死学者に買われ、故郷の寒村を後にした日の思い出。ワイトになって後、化物として追われる内に、学者は死に、弟とはぐれた。今もどこかで、元気でいてくれるといいのだが。

 受話器を持ち上げた状態で〝眠った〟フィティアンは、覚醒するなりある番号をプッシュした。

「ああ、うん、ボクだ」

 短く合言葉を告げて、用件を伝える。

「例の新米くんね、うちのサイゴくんが引き受けるから、今回は保留で頼むよ。この件に関してボクは手を引くから、後はキミたちに任せた。がんばれ、若いの。え? こんな時だけ年寄りぶるな? いいじゃないか、たまには年長者の甘い汁を吸わせてくれ。私は申し訳ないが、伊達に歳を取ってきたことが自慢でね。……ああ、そちらに異論はない。うん。うん、そうだな。ミンチメイカーは逃さないでくれよ。まあ、放っておいてもアレはもう駄目だと思うけどね。還死剤ももはや吸収できまい。

 そう、目が黒くなっていたら、それが寿命だ」

 電話は切れた。

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