黒い涙
about 16 years ago……
動物園の熊は、なんであんなに檻の中を行ったり来たりしているのか。きっと、よほどやることがなく暇なのだろう、可哀想に……幼い頃、動物園に連れて行ってもらった時、ベムリはそんなことを考えていた覚えがある。
今目の前で、同じように病院の廊下を行ったり来たりせわしなくしている兄を見ると、多分あれは間違いで、狭い檻に押し込められたストレスが原因だったのかもしれない、と彼は考えを改めつつあった。野菜ジュースの缶を片手に声をかける。
「なあニーちゃん、もうちょっと落ち着けよォ」
「しょうがねえだろ! クオナが頑張ってんだぞ!」
「声でけェ」
耳に指を入れて文句を言うと、ニフリートはばつが悪そうに肩をすくめた。でかい図体に似合わぬ仕草に、つい笑いがこぼれそうになる。
彼女が妊娠を告白した時の狼狽ぶりも見ものだったが、この兄は中々良い父になれるのではないだろうか。女の子でも、男の子でも、きっと。
惨劇の夜から十八年、自分たちは大人になって、復讐を果たして、今も人を殺して金をもらっている。そして、ニフリートは今夜中には父親になるのだ。
(いい加減、オレたちも潮時かなァ)
深夜にベッドから叩き起こされたものだから、眠気で頭が重い。あくびを噛み殺しながら、不意にベムリはそれを意識した。……いつまでも殺人稼業など続けていられない、と。ロトボアが、自分たちの雇い主がそう簡単に許してくれるかは怪しいものだが、いつか手を切る時のことを考える段に入ったのだ。交渉の材料が欲しい。
(爺さんの弱みなり何なり、使えるカードを用意しねーとな……)
「なあ、ニーちゃん。子供の名前、考えたかァー?」
「いや、まだ……」
話していると産声のファンファーレが響き、一瞬、ニフリートが棒を飲んだように硬直した。
※ ※
「そのような方は、当院にご入院されておりません」
「アア? マジで?」
「お引き取り下さい」
受付嬢は食い下がるのを許さないように、冷たくベムリをつっぱねた。クオナの出産から一年、ベムリは古い友人が長期入院してるという話を聞いて、軽い気持ちで会いに行き、肩透かしを喰らった。同じ
首を捻りながら病院を後にしたベムリは、それとなく周囲に行方を尋ねてみたが、彼がどこの病院にいるのか、知っている者は誰もいなかった。
後になって考えれば、警察に届けるなり何なり、もっと行動を起こすべきだったのかもしれない。だが、その時のベムリは深く調べようとはしなかった。数カ月後、やはり施設出身者の、ユライヒ・マルクルと再会するまでは。
彼は
片や殺人者、片や探偵、裏社会に足を突っ込んだ者同士の勘が働いた。
スレノジィ・ロトボアは黒い老人だ、家族を惨殺された少年たちに甘い言葉をかけ、武器を与えて訓練し、復讐を果たさせた。以後は、自分にとって都合の悪い連中を始末するのに利用している。
施設の仲間たちが消えていっているのは、単なる不幸な偶然かもしれない。だが、あの施設そのものがロトボアの支配下にあった以上、敵対者か、他に自分たちのような仕事を任された者がヘマを踏むかしている可能性はある。
そのとばっちりが自分に向かうのはごめんだし、ニフリートらハーネラ一家に、二度も惨劇を起こさせるわけにはいかなかった。
※ ※
(なのに、どうしてこんなことになっちまったんだ?)
ドジを踏んだ、自分は人生で最大のドジを踏んだのだ。心臓の上で、苦々しい後悔が地団駄する。ユライヒは恐らく殺された。彼の調査報告まとめをロッカーで受け取る所を、ロトボアの手の者に見つかった。ベムリは歯噛みしながら考えを巡らす。
もはや交渉しようなどと考えている場合ではない。自分は知りすぎてしまった、だが、この事実をニフリートに伝えなくてはならない。そしてクオナとミリヤも含め、三人をインゴルヌカから脱出させるのだ。ロトボアの手の届かない所まで。
(見てろよ、クソジジイ。オレたちゃ養豚所の豚じゃねえんだ、アンタに収穫されて、ワイトになんざされてたまっかよ)
逃亡者は孤独だ、一人で
土砂降りの廃工場は泥水にまみれ、薄汚いモノクロームの箱になっている。どうにか追っ手を振り切ったベムリは、ここでニフリートと落ち合う算段をつけていた。
ホコリまみれの割れ硝子から外をうかがっていると、間違えようのない図体を見つける。錆びついたフェンスの穴を潜り、ゆっくりこちらにやって来た。
「ベムリ! 俺だ。出てこいよ」
念のため辺りを見回したが、尾行はないようだ。ベムリは隠れていた工場事務所を出た。少しは警戒して声を抑えるぐらいすればいいのに、と苦笑する。
「ンな怒鳴らなくても聞こえ……」
雷鳴のようなものが鼓膜を震わせ、片足が吹っ飛んだ。切り飛ばされたかと思うような衝撃と、電気ショックに似た痛み。知っている、これは銃に撃たれた時の感覚だ。咄嗟に傷を確認すると、脛の肉を弾丸に抉られただけで、骨はやられていないようだった。だがなぜ?
バランスを失い、その場に崩れ落ちかけながら前を見る。大きな壁のように、ニフリートが立ち尽くしていた。その手に。
(嘘だ)
ばかでかいリボルバーが握られていた、間違いなくこちらに狙いをつけて。いつも愛用していた、スタームルガーのブラックホーク、冗談のようなマグナム仕様。
「ニーちゃん……?」
濡れた地面に手をつく。雨露でよく見えないが、その銃口は硝煙が立ち上っていないだろうか? ニフリートが近づくと、その全てがハッキリと見える。流れる血が雨にすすがれて、反対に焼けるような傷の痛みが強くなっていった。
「……シャレに、ならねェ」
自分はゾンビだ、その気になれば幻のように、この痛みも消せる。だがニフリートに撃たれた傷は変わらない。湿った空気に漂う血と硝煙の臭いも。目の前で銃をつきつけ、泣きそうな顔になっているバカ兄貴という現実も、消えたりはしないのだ。
「冗談でもなんでもねえんだ、ベムリ」
筋骨隆々の大男が、情けないほど震えた声で言った。
「死んでくれ、クオナとミリヤのために」
◆
廃屋の中、虚ろに響く機械の声に、ニフリートは聞き入っていた。自分がそんなことをするはずがないと、子供の駄々のような否定は、もはやする気にもなれない。ベムリが過去を語るにつれ、彼の記憶も徐々に紐解かれていた。
『ナ……そうだろ、ニーちゃん。ミリィちゃんとクオナが人質にされていたら、どうだ? 二人を見殺しにして、オレを助けたか?』
ぱちん、と何かが、頭蓋の底で鳴った気がした。スイッチが押されたような、パズルのピースがはまったような、妙にすっきりとした音が。
――なぜ俺にやらせるんだ。
と、ささやくような己の声。老人の声が、それに応じた。
――ベムリ君はいずれ、どこかの時点で、君に連絡を取ろうとする。なにしろ絆の力は強い、不意に心が弱まった時、声だけでも聞きたいと願うくらいには。これが一つ目の理由だよ。
『出来ねーよなァ……実際、お前はどっちも選べなかった』
過去からの声と、現在の声がそれぞれに重なっていく。
――そして一番の理由は、君に邪魔されたくないからだ。だから君にやらせるのだ。君たち二人は兄弟同然、そんな親友を殺すのは辛いだろう。だが、愛する妻と、幼い娘を失うのとどっちがマシかね?
「俺は……それじゃあ、俺は」
舞い上がった火の粉のように、ちらちらと断片が脳裏をかすめていく。火の粉はついに記憶の蓋に燃え移り、炎を上げて、過去の像を明確に照らし出した。
何本目かのアンプルを開け、還死剤を
『オレは、さ、イヤだったよ。お前が死ぬのも、クオナやミリィちゃんが死ぬのも。でも、オレにはもうどうしようもなくてサ……だから』
◆
雨粒が重たい。檻のごとく自分たちを囲って、逃すまいとする圧力を感じる。押し潰されそうなこの気分を、だが絶望と呼ぶものか。覆してやる、まだ覆してやる。
「クオナもミリィちゃんも、場所分かってんだろ。二人で助けに行こうぜ。ジジイの言うことを聞く必要なんざねェ!」
苦痛を抑えて叫ぶベムリに、ニフリートは荒く息を吐いて返した。
「見張りがいる」ちらりと視線を廃工場の外へ向ける。「スナイパーワイトだ」
「
咄嗟に横へ転がったのは、長年修羅場を潜った勘というものだろう。弾痕が地面に穿たれ、泥水に沈んでいく。ベムリは立ち上がりと同時に照準を定めた。条件反射。
駄目だ、それだけは駄目だ。思わず己の手を押さえて距離を取る。吹雪が自分を呼んでいる、あの白い悪夢が〝こんなことになるなら、戻ってこなければ良かったのだ〟とせせら笑っている。黙れ。自分は愛する人たちとこの世界で生きていきたい。
「てめえがワイトに殺されるぐらいなら……だったら、俺が!」
マズルフラッシュ。銃声。何度も、何度も。
「るっせェ――!! 黙りやがれバカ兄貴!」
弾倉が交換され、その間にベムリは距離を稼ぎ、逃げ回る。
「殺すなら、ちゃんと狙えってンだ」
ニフリートは以前、ベムリを命の恩人だと呼んだ。惨劇の夜に、自分を庇って銃弾を浴びたと。だがとんでもない話だ、ベムリにとっては、ニフリートの方こそ命の恩人だった。彼がいなくては、自分は二度と、吹雪から逃れられなかっただろう。
だから、彼は覚悟を決めた。
「マ、しょーがねえや」
足を止めて、振り返る。ニフリートが警戒したように、発砲を絶やした。
「お前は、パパだもんな。家族を守らなきゃよ」
何を、とニフリートの唇がわななくのが見えたが、それを無視した。ミリヤはまだ三歳だ、父親も母親も必要だろう。親子三人、誰も欠かさず帰してやらねば。
「二人を助けに行って来いよ。一旦ジジイの言うこと聞いときゃ、まだ、時間稼げるかもしれねーし……ナ?」
こめかみに銃口を押し当てる。うっかりよみがえったりしないよう、確実に吹っ飛ばすつもりだ。脳が無ければ、さしものゾンビも起きてこられない。
(……なのに、ニーちゃん。なんで邪魔すんだよ……)
銃を放り捨て、叫びを上げて、ニフリートは弟に掴みかかった。ただ一人の兄弟に。血はつながらなくとも、この世で最も古いともだちだから。
ただの取っ組み合いならば、肉体的に有利なニフリートの圧勝だっただろう。だがベムリは文字通り、必死だったのだ。そして彼の手には銃があった。
――やっつけてやる やっつけてやる
心臓を銃で撃ち 頭を斧でかち割って♪
やっつけてやる みなごろしだ
邪魔するやつは ゆるさない♪
首を斬って 火をつけて
墓穴ほって たたき落とす♪
やっつけよう やっつけよう
二人で いっしょに みなごろし♪――
銃声が響く。雨粒が音に砕ける。男は内側から破れた。
いつかの惨劇の逆しまなパロディ。ベムリは銃に撃たれてニフリートに覆いかぶさった、ニフリートはベムリに撃たれて覆いかぶさった。そして死んだ。殺すはずのなかった兄の死体を抱き締め、一人ぼっちの男はありったけの悲鳴を上げた。
これが人を殺し続けた報いか。復讐を終えてなお、何の恨みもない相手の命を奪い続け、金をもらい、大して反省もしなかった。ただ漫然と、早く引退したいとしか考えていなかった。その愚かさの付けがこんな形で回ってくるなら、なぜ神は最初から全ての罪人を裁いて、地獄の火に放り込まないのだろう。
だが、報いがそれで終わらなかったと知るのは、それから間もなくだった。
◆
ヒ、ヒ、ヒ、と機械の声が泣いている。ワイトに涙はない。それでも、ニフリートにははっきりと、ベムリが泣いているのが聞こえた。
「もういい」
弟を抱き締め、それ以上辛いことを話さなくていいと伝える。だが、ベムリは掌でそっと胸を押して、それを拒んだ。
『まだ終わってねェ。オレは、オレはニーちゃんに謝らなくちゃいけねェんだ』
ベムリの話は、同じことを何度も言ったり、場面があらぬ方向に飛んで行ったりして、全体像をまとめるのが非常に面倒だ。だがニフリートは好きにさせた。
以下のベムリの発言は、実際はこの三倍ほどの長さを持つが、要点を記す。
――『オレはまず、お前の死体を始末しなきゃって考えた。ロトボアに渡しちまェば、よみがえらされちまう。でも、その前にクオナとミリィちゃんの所へ行ったんだ。お前の家にいた見張りの連中を殺して、クオナに逃げろって言った。でも、そんなことしてたら、オレは捕まっちまってな。その場でバーン、だ。目を覚ました時、十年が経ったって聞かされた』
「ワイトにされたんだな」
長い告白から要点をすくいあげて、ニフリートはどうにかコメントした。
『アア……ロトボアが最初にしたのは、オレの喉を切り裂いて、しゃべれなくすることだった。魚の腹みてェにさ、文句を言われたらうるさいから、みんなこうするんだと……ヒヒヒヒ』
はたとニフリートはベムリの喉を見つめた。スピーカー付きのチョーカー、人工声帯。その下に見える傷跡を。〝レイプされちまって〟――昨夜聞いた言葉の真意。
――『ワイトには、痛覚はねェ……でも、直接の痛みなんか無くても、苦しみってモンは消えねェんだ。オレが目を覚ましたラボには、いくつも見覚えのある顔があった。首だけになっていたり、バラバラにされて。色んな箱に詰められて。ドロドロに形を無くして。でも、そんなになっちまっても、何も終わらねェんだ。みーんなみんな、ゆ~っくりゆっくり、すり潰されて煮込まれてった……』
ワイトは代謝の停止した死体だが、そもそもが
――『オレは、隙を見て逃げ出したんだ。手やら足やら色々足りなかったけど、おかげで狭い所を通れた。出た後は人を殺して、身ぐるみ剥いで、ワイトを捕まえて、ソンデ喰った。なんで自分がそうしようとしたのかは分かンねェけど、マァこの体の本能ってヤツなんだろうな……で、体が直った。喉以外は』
(そういうことか)
ようやくニフリートは理解した。兄弟を殺した罪悪感、モルモットとして扱われた際の経験、そして他のワイトからフィラメントを取り込んだ弊害、それら要因が合わさって、彼の精神はここまで追いつめられてしまったのだ。
――『あいつらが言うには、オレは〝出来のいい〟実験体なんだってヨ。ソんでェー……ニーちゃんは、もっとイイって。最高だって。あいつらは起こす時を楽しみにしていた。でも、オレは、一人で逃げたんだ』
人工声帯のスピーカーが音割れを起こす。「一人で!」とひときわボルテージを上げて、ベムリはもう一度叫んだ。
「仕方ねえだろ、お前だって精一杯やったんじゃねえのか」
なんと慰めたらいいか分からないままニフリートは言葉を紡いだが、ベムリは腕を振ってそれを跳ね除けた。許しなど、自分には相応しく無いとばかりに。
『だってオレは、ニーちゃんを殺したあげく、地獄に置き去りにしちまった……最低も最低だ、どこまでも底を割って、もう、どこにも落ちていけねェぐらいに』
くしゃりと、黒い涙のタトゥーを入れた顔が崩れた。
『ごめん、な、さ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』
見開かれた目の白い部分に黒点が生まれ、水に落としたインクのように広がり、眼球を闇に染め上げた。その中央に赤い光が灯る。
「……やめろよ、謝らなくていいんだ、ベムリ」
涙を持たぬワイトの体で、ベムリは泣いていた。赤と黒を宿した目から、血に似た黒い涙を流して。水分と混じった還死剤、滴り落ちて、ゆっくりと揮発する。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、許してもらおうなんて思ってもなくて、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ああ神さま…………』
「やめろ!」
それ以上見ていられなくて、ニフリートはもう一度弟を抱きしめた。この世で最も古いともだちを。
「俺は生きてる、ワイトになっちまったが、死んだ体で生きてる。偶然が重なって、無事なんだ。今までずっと苦しかったろ、もう充分だ、お前はもう苦しまなくていいんだ。だから、くそっ、それ以上謝ったらぶっ殺すぞ!」
黒い涙で自分の顔を、ニフリートの胸を濡らしながら、ベムリはでたらめな音程になりつつある、繰り言のような謝罪を止めた。
兄ちゃん、と数十年ぶりにつぶやき、再び彼は泣き喚く。雨の音のように、過去の辛い思い出を押し流すために、産声のような泣き声を上げた。
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