番外編

雛鳥



 心地よい空気をたっぷりと吸いこんで、紫秦ししん国の第一王子である稜明りょうめいは口元を緩める。

 春を迎えたものの夜にはまだ冬が居座っていて、つい風邪をひいてしまい十日。体調はとっくによくなったというのに、いつまでも部屋から出してくれない母の目を盗んでようやく外に出られた。

 母にも困ったものだ。自分はもう十二でけして赤子ではないのに心配性すぎる。それも自分の体が弱いせいということは、十分わかっているので口には出せない。

 白木蓮の天蓋の下をそぞろ歩きながら、稜明は春風に乗って聞こえてくる子供の泣き声に辺りを見回す。近くの東屋へ足を向けると七つ年下の異母弟を見つけた。

呂淳りょじゅん、どうした?」

 稜明は屈み、しゃがみこんでしゃくりあげている呂淳の頭をなでる。泣き声の中に伯父上にという言葉があって彼は苦笑した。

 呂淳の母の兄である丞相はなにかと厳しい。そして叱られるたびに呂淳は泣いて母親の元に甘えにいっているはずであるが。

「どうして、ひとりでいるんだ?」

「母上はお加減が悪いので……」

「そうか。いい子だな、お前は」

 なによりも真っ先に母親の元に行きたいだろうに、こうやってきちんと我慢が出来るのはいいところである。

「よし、今日は僕がお前の話を聞くよ。丞相殿はどうせまた大したことないことで怒ったのだろう」

 稜明は呂淳を長椅子に座らせ自分もその隣に座る。

「算術の問題が十問中六問しかできなかったのです」

「正解のほうが多いじゃないか。それにまだ算術は始めたばかりなのだろう」

「でも、鴻羽こううは全部できたそうです」

 呂淳より半年年上の彼の従兄の名前に稜明はなるほど、と思う。丞相の嫡男である鴻羽は丞相の幼いころを彷彿させる神童であるらしい。何度か会ったことはあるが、礼儀正しくいい子であった気がする。

 年が一緒なのでなにかと丞相が呂淳と鴻羽を比べるのは、弟の良い芽を無為に摘むようで少々面白くない。

「別に鴻羽と同じぐらいに出来る必要はないんだよ。人はみんな違うんだ。呂淳は呂淳で頑張ったならいいんだ」

 そう諭すと呂淳は納得いかない様子でうなずいた。

「私は兄上のように賢く強い人になりたいです」

「僕は強くないよ。禁苑に出ることすらままならないぐらいにひ弱なんだ。だから勉学しかすることがない。だから別に賢いわけでもない。むしろ僕は呂淳が羨ましいよ」

 そこまで言って稜明は苦笑する。

「なんでも人のほうがよく見えるんだよな」

 でも、自分の弱すぎる体はどうしたって好きになれそうにない。

「はい……」

 二人揃って言葉を失くし黙り込んだが、居心地悪い感覚はなかった。むしろ同じ感傷を抱いている実感があって弟がますます愛おしく思えた。

「あらおふたりが一緒なんて珍しいですわね」

 春風を思わせる愛らしい声が聞こえて、兄弟は同時に振りかえる。そこにいたのはまさしく春の化身のようなふんわりした美しい少女だった。

「姉上……」

 呂淳がそう言うが、少女、柚凛ゆうりんは彼にとっては従姉である。鴻羽の姉で十一。たんに鴻羽が姉上と呼ぶので呂淳も真似ているだけである。

「姉上が先に見つけてしまいましたね」

 その後ろからは鴻羽が残念そうな声で言いながらやってくる。鴻羽のほうも人目を引く整った顔をしていて、ふたり並べば場が華やぐ。さすが美形一家として知られる斎家の子供だと思いながら稜明はちらりと隣の弟を見る。

 呂淳の母親もその容貌は国一と謳われる。狭い世界ながら女ばかりの後宮で過ごす稜明は、誇張ではなく事実だと思っている。あんなに美しい人はきっと一生見ることはない。しかしながらその息子の呂淳の目鼻立ちは整っているものの華やかさはなく、妙に印象が薄い。鴻羽と並ぶとその差が歴然としていて、ますます彼の劣等感に拍車をかけている。

「稜明殿下、お体はもうよろしいのですか?」

 鴻羽が綺麗に一礼してそう問うてくるのに稜明はこの通りと笑って見せる。そうすると心からの笑顔を鴻羽が浮かべた。

 眩いその姿に苦い物を覚えてしまう。

 彼はきっと光の元に影が出来ることなどまだ知らない。そのうち気づいてくれればいいが、不安は尽きない。

「隣、失礼してもよろしいですか?」

 鴻羽と呂淳が場を離れると柚凛が小首をかしげて見せる。自分より一つ年下のはずの彼女はいつもどこか大人びて見える。

「どうぞ。……ふたりは仲がいいな」

 何のかんのと言っても鴻羽と一緒にいる呂淳は、笑顔を見せて楽しそうに落ちた白木蓮を拾い集めていた。

「ええ。今はまだ子供ですもの。ひとりで遊ぶよりふたりで遊ぶほうが楽しいですわ」

 多分に毒を含んだ言い方だった。何度か言葉を交わしたことはあるが、その中で初めてきく彼女には不似合いな声だった。

「なにか、面白くないことでもあったのか?」

「ええ。嫁ぎ先が決まりましたの。まだ四年も後ですけれど」

「どんな方なのだ?」

「八つ年上で州の長官の御嫡男。そのままお父様のお仕事を継がれる予定ですって。お姉様方はもっと重要な地方の貴族の方々なのに」

 州長官といえば州をまとめるために中央より派遣される官吏である。州をまとめる、といっても各地の領主である貴族らの声は大きく、様々なことで中央と板挟みになる面倒な職だ。要職と言えば要職であるが、派遣されるのはそう家格の高い家でもなく斎家の令嬢が嫁ぐには不釣り合いではある。

「丞相殿もなにかお考えあってのことだろう」

 とは言ったものの亜州によしみを持ちたいのな、らやはり最も多く土地を所有している貴族の元へ嫁ぐのが妥当で、州長官に嫁ぐのはあまり益などないかに思えた。

「お父様はわたくしが邪魔なだけなのですわ」

 拗ねた物言いは年相応で、しかしながら酷く深刻なものだった。

 その横顔に何か急に胸が苦しくなって、どうにかしてやりたいと思った。

「そんなことはない。きっと、君の幸せを願ってのことだ」

 しかしなんのひねりもない慰めの言葉しか出てこず、稜明は自分自身に落胆する。

「……お父様はわたくしが何を幸せと感じるかなんて知りませんわ。そうですわね、せいぜい型にはまった女の幸せぐらいしか知らないでしょう」

 物憂げに長い睫を伏せて柚凛がうつむく。

 君にとっての幸せとはなんだろうか。

 そう、問いかけようとしたとき自分を呼ぶ声が離れた場所から聞こえてきた。母の清妃せいひとそのお付きの女官達だろう。

「殿下、稜明殿下!」

 長椅子から立ち上がり駆け寄ってくる母を稜明は迎える。

「そう慌てずとも私は遠くへは行きませんよ、母上」

 抱きすくめられて気恥ずかしい思いをしながら母の薄い背を撫でる。

 自分が床に伏せるたびに母はやつれていく。一晩中ついて看病をしたり、自分と同じわずかな粥をすすったりしているのを見ていると申し訳なくなる。

「なりませんよ」

 呂淳と斎姉弟に別れを告げて後宮の自室へと戻る途中、稜明の手を引きながら清妃が強張った声で言う。

「斎家の者たちは殿下を床に縛り付けんとしているのです。先日の風邪もあの女が呪詛をかけたのに違いません。そうして陛下のご寵愛も玉座もなにもかも手に入れる気なのです」

 見上げた母の顔は蒼白で瞳だけがいやにぎらついて見えた。

 そこに昔の朧気な記憶にある、たおやかで美しかった母の面影はない。それでも父である王は頻繁に母の元へ訪れる。

 父は王としては利口ではなく内政は丞相に任せきりでその役目を果たせない人だけれど、一度愛情を注いだものへはかわらず愛を注ぎ続ける人だ。

 こんなにも弱って後継としては先も望めない自分のためにも、床へ来て頭を撫でて涙を見せてくれる。

 自分のこの体が丈夫であれば誰も苦しむ事もありはしないだろうに。

 幸福か、と稜明は口の中でごちる。

 そのときふわりと花弁が落ちるように柚凛のことが思い出された。

 問えなかったことを次に会ったときには訊こうと思った。ただ、なにか出来ることがあるのならば叶えてやりたかった。


***


 それから二年が経ったが稜明が柚凛とその話をすることはなかった。

 時を経るにつれ体調は悪くなる一方でこの頃は、自室から出る機会も減っていった。それでもたまに禁園にでれば柚凛の姿を見ることはあった。間が悪く帰り際でゆっくり話をする時間はなかったが、ただ姿を見られるだけでどこか浮き足だった気持ちになれた。

「今日も駄目だったな」

 小康状態で禁園に出たはいいものの、柚凛どころか今日は呂淳も熱を出して会えずに稜明は落胆しながら樹上を見上げる。

 そこにはつぐみの巣があった。二週間ほど前に見つけ、床に伏せっている間は呂淳から巣の様子を報告してもらっていて、雛が孵ったとおとつい聞いた。

 親鳥が餌を運んできて雛の鳴き声がする。

 飛び立つ所は見られるだろうか。

 葉擦れと鳥の囀りに耳を浸しながら稜明は目を伏せる。なんとなしに生きている実感がした。

 そうして三日あまりたつと回復した呂淳と巣を見に来た。その後は数日は続けて来られるようになった。

 ただその時はどうしても健康な弟と違ってすぐに息が上がってしまい、死に近い場所にいる気になる。

 足を休めた場所にあった楡の樹の枝が下がっていた。稜明は何気なく枝に手を伸ばして掴むと簡単に折れてしまった。断面を見るとどうやら中が虫にでも喰われたのか、朽ちていた。

「兄上?」

 笑い声を漏らすと呂淳が小首をかしげる。

「この樹は見た目は健康そうでもほら、中はこれだ。なんだか僕みたいだろう」

 冗談めかして言うと呂淳は返答に困っていて稜明はその頭を軽く叩く。

「……兄上にはお元気でいてもらわねば困ります。私は王になどなりたくはないのですから」

「そうか。でもなって貰わねばならないよ。僕はきっと父上より早く死んでしまうだろうからね。王家の血を引き継ぐのは呂淳しかいないんだ。なに、職務が面倒なら世継ぎだけ残すことを考えて、あとは父上のように政は丞相殿に任せればいい。ああ、その頃には鴻羽が丞相かな。でも、お前は賢い子だし、鴻羽と一緒なら間違いなく父上よりもいい王になれる。あ、僕がこんな事を言っていたなんて誰にも言ってはいけないぞ」

 口に人差し指を当てて、内緒だと稜明は呂淳に笑いかける。

「鴻羽が丞相では嫌です。きっとみんな私より鴻羽の方が王らしいと笑います。でも兄上なら鴻羽に負けません」

 ほうを握りしめながら呂淳が卑屈に言う

 呂淳の鴻羽へ対する劣等感は増すばかりだ。学問で先をこされ、背丈も追い越され、この頃鴻羽は馬術を覚えて器用に乗りこなしているらしいが、呂淳は馬に近づくことすら怯える。

 同い年で従弟同士だからこそなおさら周囲は比較する。

 そして噂は流れて本人の耳に入る。

「昔から言っているように鴻羽に勝つ必要はないんだぞ」

 何度そう言っても、呂淳は絶対に鴻羽より上位に立たねばならないと思い込んでいて聞かない。

 意固地になりすぎているのだ。何か変わるためのきっかけを自分が与えられればと思えど、出来ることは思いつかなかった。

 しかしながらその時はそれほど深刻に呂淳の卑屈さを考えなかった。いずれ、きっと変わってくれるだろうと無責任な期待までしていた。

 だが五日後、体全体にのしかかる倦怠感と微熱に伏せっている時に弟の心がどれほど追い詰められていたかを知ることになった。

 うつらうつらしていると外が慌ただしく、側にいる女官に何があったのか様子を見に行かせるとどうやら鴻羽が樹から落ちたらしいとのことだった。

 幸い足を捻って肩を脱臼した程度で済んだときいて安心した。しかし時間を経て詳しいことを知ってすっと血の気が引いた。

 鴻羽は楡の樹から落ちたのだ。あのいくつかの枝の内側が朽ちた楡の樹から。

 たまたま様子を見かけた女官の話では、呂淳が樹上を指差してなにか頼み事をした後、鴻羽がうなずいて樹に登ったとうことだ。

 ただ鴻羽本人は自分で上ってみただけで、特に呂淳に何か頼み事をされたわけではなかったと頑なに言い張っているらしい。危ないことをさせたことで呂淳が丞相に叱られないためではないかと、女官達はひそひそと憶測している。

 稜明は母が側を離れると筆をとり呂淳に手紙をしたためる。

 雛の様子を聞きたい。

 その一文書き、迷いながらもそこで筆を置いて侍女に手紙を届けるよう頼む。

 呂淳は雛はまだ飛び立っていないと返信はよこしてくれたが、翌日になっても部屋を訪ねてくることはなかった。

 さらに翌日、すこし体調がよくなってとにかく呂淳に会いに行こうとする道すがら、斎姉弟に出くわした。

 鴻羽は左腕を布でつり足を引きずっていて見ているだけで痛々しかった。

「大事なくてよかった」

「お騒がせして申し訳ありませんでした」

 今日も呂淳と遊ぶのかと問うと、一緒に軍盤をするのだと鴻羽は笑う。そのなんの曇りのない笑顔に胸が痛んだ。

「……鴻羽は呂淳が好きだな」

「はい。一番の友と思っています」

 そして迷いなく答えた鴻羽にこれからも仲良く、と言うしかなかった。

「かわいそう、ですわね」

 だまってふたりのやりとりを見ていた柚凛が、鴻羽が先に歩き出してからぽつりとつぶやく。

「……鴻羽がか?」

「どうでしょう。むしろ逃げても追いかけてきて、無自覚にその生まれ持った才を見せびらかさせられる弟君のほうがお辛いのでは?」

 片足を引きずりながらもどんどんと先を歩いて行く鴻羽を見る柚凛の横顔と、呂淳の劣等感と嫉妬の念の混じった横顔が重なって稜明は口を引き結んだ。

 きっと、自分に柚凛にしてやれることはない。彼女が望むものは玉座を得てもなお、難しいことだ。

「稜明殿下も弟君の所へ?」

 そう問いかけながら顔を動かした柚凛と突然視線がぶつかって、稜明は返答にまごついた。

「い、いや。今日は遠慮しておくよ。君も一緒に呂淳と軍盤をするのか?」

「わたくしは叔母様にお相手してもらいに来ましたの。もう嫁ぐまであと二年になりましたし、本来ならこうして後宮に入るのも禁じられている身になってしまったのですが今日は鴻羽の付き添いで特別に父に許可をいただいたのです」

 柚凛の微妙な言い回しと彼女がここ数週間後宮に来ていないことを思いだし、稜明は一瞬言葉を忘れた。

 嫁す前の娘が急に後宮に入れなくなったということは、その体が子を産める状態になっているということだ。要は初潮を迎えた、のである。

「……そうなのか。ではなおさら邪魔をしてはいけないな。それに早く行かないと鴻羽に置いて行かれるぞ」

 柚凛が煩わしげに嘆息して一礼し、早足で鴻羽を追いかけ始めて稜明は細く長いため息をこぼす。

 そして少し熱い気がする頬を手で撫でながら踵を返す。

 しかしそのあとに胸が軋む感覚に足を止め、振り返った。

 これが彼女との今生の別れとなるのだろう。

 ぼんやりと稜明はその後ろ姿が回廊の角を曲がり見えなくなるまでずっと見つめていた。

 ひとりきりになるとやけに息苦しく、足下から震えがくるほどの感情の渦が胸をかき回していった。

 稜明は無性に人恋しくなり、孤独から逃げて戻った自室ではやつれた母がうたたねをしていてようやく気分はくつろいだ。

 だがそのとき呂淳へ鴻羽が樹から落ちたことの真相を尋ねる気も、その心を救う気も失せていた。

 これから死に行く自分に出来ることなど何も出来やしないと思った。

 そして感情が落ち込むと一緒に、体調を崩してまた寝付くことになってしまった。

「兄上……」

 寝付いてから十日ほど経ってやっと復調し始めた頃、呂淳が訪ねてきた。

 事前に女官が呂淳が来ていることを告げ、母が通すなとごねたがどうにか頼み込んでふたりだけにして貰った。

「どうした?」

「……雛が……雛が巣立ったみたいです」

 呂淳はうつむいて小さくそう言った。

「そうか。巣立ってしまったか……。やっぱり毎日一日中張り付いてないと難しいな」

「あの、でも。一羽だけ飛べなくて樹の下に落ちていたので、これから埋めようと思うのです。兄上のお体が大丈夫なら一緒に…………」

 いいよ、と柔らかく微笑んで稜明は寝台から降りる。体調はもうずいぶんよかった。ただ外に出る気がしなかっただけだ。

 心配する母を宥め、睨まれ怯える呂淳を庇いながらなんとか外に出る。

 快晴だった。

 日差しはほどよくぬくもりを与えてくれて空気は澄んでいる。命に満ちた空気で体を満たしながら、稜明は呂淳と並んで巣のあった樹の側に立つ。

 その根元には小さな鳥が半端に羽を広げて死んでいた。

 稜明と呂淳は無言で根元に手で土を掘って、手首が隠れるぐらいの深さの穴をつくる。稜明はその中に死骸をそっと置く。

 そしてふたりで土を被せていく。

「……兄上、私は鴻羽が、嫌いです。だから、だから」

 あの樹に登らせたのです。

 嗚咽混じりの声で呂淳が告白する。

「でも怪我がたいしたことなくてよかったと思っているだろう」

 呂淳の泣く声が大きくなる。分からない、とかすれた声で言う。安心もしているけれどがっかりもしているのだと。

「……そうか」

 淡々とうなずきながら稜明は土の中に埋まっている小鳥の死骸の残像を追い続ける。

 最後までもがいて羽を広げ空へとあがろうとしたのだろうか。

 視界が歪んで頬に涙がつたう感覚がした。

 嗚咽がふたつになる。

 ふたりは言葉を交わすことなく小さな命を埋葬した。

 

***


 月日は流れ、さらに四年が経つ。

 あれからずっと稜明はもがくことをしてみた。いつか、飛び立てるかもしれないと。

 呂淳にすら体の不調を告げることをやめてさも健康そうに振る舞い、周囲にも同じようにして見せた。

 顔をみせる機会は少ないというのに、皆不思議と自分の事を小さい頃は体が弱かったが今はずいぶん逞しくなったと言われるまでになった。

 もはや月の半分以上を寝台で過ごしているとわかりきっている自分自身でさえ、死が遠ざかっている気がしていた。

 ついには縁談まで持ち上がった。

 しかし、病は残酷に希望を打ち消す。

 十八になってすぐに寝台から起き上がることは出来なくなった。母は毎日付き添い、呂淳の母を怨嗟する声をはき続ける。

 確実に忍び寄ってくる死の傍らで、柚凛のことを思い出す機会が増えた。二年前に嫁ぐとき、一度だけ後宮にやってきたのを見かけた。

 十五になった彼女はとても美しかった。華やかさと慎ましさを併せ持って佇む姿は、呼吸を忘れるほどだった。

 遠目に見ただけで声をかけられなかったことを、今になってどうしようもなく後悔している。

 本当は君のことが好きだったんだ、と冗談めかして言って、彼女を驚かせて。そうしてどうか幸せにと笑って送り出したかった。

 いくら悔やんでも時は戻らない。

 そして未来さえも幾ばくもないだろう。

 春と夏の隙間のほどよく暖かい頃、稜明は瞳を閉じて両親の呼びかけを聞く。

 瞼は持ち上げられなかった。

 鳥の羽ばたく音がする。

 飛び立てるのだろうかと一瞬思うが違った。両親の声も羽音も遠ざかっていく。

 置いて行かれるのだ。

 羽ばたけず、ただ空を見上げて先へ行く兄弟を見送る。

 呂淳はちゃんと飛べるのか。迷わず、飛んでやがて自分の巣を築くことが出来るだろうか。

 自分には見送ることしか出来ない。

 もう、なにも見えない。羽音すら聞こえなくなっていた。

   

***


 鄙びた村の隅にある楡の木の側で十ほどの子供がひとり、佇んでいた。どこか枯れた色合いの周囲のなかでその子供の美しさは異彩を放っている。

 少年とも少女ともつかないその子供はいましがた巣立った鶫を見送っていた。

 子供は嫌だな、と思った。

 ここから出て行かなければならない。生きるならばこの暖かい巣から出て、見知らぬ場所へと行かねばならないのだ。

えん!」

 湲、とよばれた子供は振り返り、狼狽した母親とおぼしき女性にかけよる。

「ごめんなさい。すぐにもどるつもりだったんだけど」

「いいのよ。でもひとりではけして出て行かないで。もうは村を出る準備をしなければならないわ。急ぎましょう」

 湲は返事をして母親の手を握る。

 ここでの暮らしが変わってしまうなんて嫌だけれど、行きたくはない、とは言えなかった。

 それでも母に手を繋いでもらえるのならどうにか前に進めるだろう。

 湲は母の手を握る力を強め、澄んだ青空を仰いだ。

 

*** 

 

 雛たちは巣立っていく。

 置き去りにされた兄弟の願いなど知ることもなく嵐の中へと。

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落花暗涙 天海りく @kari

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