あるひとつの始まり

南正太郎

*****




 ここに一人の少女がいる。

 ちらばる廃材や打ち捨てられた工具に囲まれ、たった一人膝を抱えてただひたすらにすべてから目を逸らすようにまなこを伏せた少女が。

 少女は廃工場の一角に腰を降ろし、膝を抱えてひたすらに無言を貫いている。そのうつろな視線は何ひとつとして捉えることはなく、透き通った瞳に宿るのはただ諦念だけ。色の薄い冬の夕日がそんな少女の頬をオレンジに染め上げ、骨組みだけになってしまった屋根からははらはらと花びらのような雪が舞い降りる。

 この少女はたった一人で――、いや、一人ではない。

 少女には小さな同伴者が居た。

 まるで踊るかのようにくるくるとその場で時点する一つのヒトガタ。上部に人形がかたどられたオルゴールである。重力を無視しふわふわと舞い踊るその物体は、まるで少女のことを心配しているようにも見え、あるいは少女のことなど何も知らずただ盲目的に踊っているかのようにも見えた。

 物言わぬ少女と、静かに降りしきりる雪。音のない空間に物悲しいく響くオルゴールのメロディ。その曲はまるでいつまでも続くかのように終わることを知らず、この永遠の世界に一輪の花を添えていた。

 そして少女はそれに耳を済ませるかのように遠い目で、いつまでも沈みゆく夕焼けを眺めている。

 いつまでも、いつまでも。


            ◆


 扉を閉めると詰まったような鈍い音がした。

 一面の吸光フェルトに覆われた吸音素材の壁。部屋の隅に置かれた計器類はロッカーのように無骨で、一切の音や光を出すことはなくただ黙してそこに佇んでいる。

 まるで世界のすべてが死んでしまったような静けさだと高野平一は思った。

 きん、と響く耳鳴り。それをかき消すかのように咳払いを一つすると、乱暴な手つきで棚の引き出しを引っ張り、中から数錠の薬剤を取り出した。

 ヘリオセリド、セルパ、デイラ、エクスタル、ヘドフェリム……。

 どれも体感覚を一時的に麻痺させる薬剤である。平一は椅子の上に置いてあったナップサックからペットボトルの水を取り出し、躊躇することなくその薬を一口に飲み干した。

 同時にノックの音。

 蓋を閉めて鞄の上にペットボトルを投げ置く。入ってきたのは若い軍服姿の男だった。

「おう高野。いつもすまんな」

 ――津雲正由。

 解放軍の軍人であり、ここ党立精神医療センターで平一の世話を焼いてくれている者だ。屈託のない笑みともみあげの剃り落とされた軍人特有の髪型が、まるで近所の悪ガキのような印象を与える。

「今回の患者はこいつだ」

 津雲はそう言って手に持っていた資料を平一に渡してみせた。左上をホッチキスで留められたA4サイズのコピー用紙には、一つの写真が印刷してある。

「青山希海……ですか」

 負けん気だけは人一倍強そうな顔をした黒髪の少女。資料には少女のプロフィールから家族構成、性格、果ては学校での交友関係までが詳細に記されている。

「おう、そうだ。真浜区立第三中学校の三年生。お前よりふたつ年下だな。今回、こいつが閉律症を発症した原因は……学校でのいじめだということだ。まあよくある話ではあるが――」

 饒舌な津雲を突き放すかのように、平一は冷たく告げる。

「まあ俺には関係ない話です」

 そうだ、と平一は思う。患者が現実世界で何を抱えているのか、どんな理由で閉律症を患ったのか、そんなことを知ったところでまるで意味を成さない。なぜなら、

「結局俺の仕事は、『連れ戻す』だけなんですから」

 そう。いくら患者が嫌がろうが、泣き喚こうが、最終的に自分は患者を無理やり連れ戻すのだ。そして患者を連れ戻した後のことは何も知らない。その後のケアはカウンセラーや家族の仕事。ならば患者の素性など知ったところで一体何になるのだろう。

「まったくお前はいっつもサバサバしてんなあ……。そんな風にやってたら、いつか患者から恨み買って刺されるぞ? もっと患者のことを考えて仕事をこなせっていつも言ってるだろ」

精神医療センターここの段取りが無駄なだけですよ。じゃあ、そういうわけで、自分は今から着替えるので」

「まったくお前は……。じゃあ今回もよろしく頼むぞ。ウチは今お前しかいないんだから」

 津雲はそう言うと、やれやれと頭をかきむしりながら部屋を後にする。

 パタンと、扉を締める音。吸音壁に囲まれた部屋では、その音はどこか軽く頼りない。

「…………」

 平一はしばらく津雲の消えた空間を何も言わずに眺めていた。吸光フェルトの貼られた分厚いドアと、ところどころ毛羽立った黒い絨毯。

 ――そんな風に事務的にやってたら、いつか患者から恨み買って刺されるぞ?

 不意に、津雲のセリフが脳裏に蘇る。

「じゃあ一体どうすればいいんだよ」

 平一の口からそんな言葉がこぼれ落ちた。

 患者が色んな物を背負って、色んな物に押しつぶされて閉律症を患ってしまうのは分かる。だが、そのすべてを気に掛け、そのすべてと真摯に向き合っていては、いくら時間があっても足りない。結局、平一も人間だ。二年前に精神医療従事者としての能力を獲得し、その後『数年に一度の逸材』と周りの大人から持ち上げられるに至ってもなお、その時間や精神の容量キャパシティは単なる高校二年生のそれにすぎない。世の中のすべての不幸と真摯に向き合うには、平一はあまりに無力なのだ。

 そんなどうしようもない事実から目を逸らすかのように、平一は手に持っていた資料に目を落とした。区立第三中学校、いじめによる閉律症の発症。自分と同じ中学校、自分と同じ経験。

「刺される……か」

 もしそんなことが起こったら、どうしようもない。その時は無様に弁明をしたりせず、事の成り行きにまかせよう。平一はそう思う。不幸な事故に遭ったのと同じだ。自分は悪くないし、他の誰が悪いわけでもないのだ。

 資料をナップサックの上に投げおく。寝間着に着替えて計器類を首と頭に装着し、暗幕を垂らしてベッドに横になった。

 しばらくじっとしていると体の感覚が曖昧になってくる。薬が効き始めたのだ。くるくると宇宙空間を回転しているかのような、自分と外界との境界がぼやけていくような、そんな感覚。平一はそれが、どうしても好きになれなかった。

 ――ニューロワームって知ってるか?

 二年前に津雲から聞いた言葉が、初めてこの作業をしたときに聞いた言葉が脳裏をよぎる。

『ニューロワームってのは、精神を媒介とする病原性の情報生命体でな。こいつに感染すると閉律症っていう、眠ったままの状態になっちまうんだ。そんで、これを治療するのがお前の仕事だ』

 あのときのことは今でも鮮明に覚えている。何も知らなかった自分は、あのとき素っ頓狂な顔をして聞き返してしまった。

『どうやって?』

 その後の津雲の呆れたような顔と、答えを聞いたときに受けた恐怖は今でも忘れない。彼はさっきと同じように頭をかきむしりながら、こう言ったのだ。

『おいおい、お前もつい先日体験しただろ……? 患者の精神に入り込んで、引っ張り出すんだよ』

 ――ッ!!

 目を開けると、まず最初に飛び込んできたのは骨組みだけになった天井と、その向こうに見える真っ赤な夕焼けの空だった。

「クソっ――」

 目を擦って寝転んでいた体勢から立ち上がる。自身が無防備になるこの一瞬が、平一は何より嫌いだった。

 周囲を見回す。そこはぼろぼろで、すでに屋外同然となってしまった廃工場のようだった。辺りには打ち捨てられた工具や大小様々な鉄屑。どこから風に吹かれてきたのか、しんしんと降る雪が床面を覆い尽くしていた。そして――

(オルゴール……?)

 そしてそのひと気のない空間には、ひとつの物悲しいメロディが小さく鳴り響いていた。どこか懐かしく、聞き入るものに郷愁の念を抱かせるようなそんなメロディー。

(それにここは……)

 平一はこの場所に見覚えがあった。ここは近所の、八十八やそや地区にある廃工場ではないか。

 なるほど、と平一は思う。この空間の主とは面識がないが、中学校が同じなら自分の知っている場所が精神空間の舞台となることは十分にありえる。そしてその主は――

 平一は、工場の角に居たその人物に目をやった。視線の先には、地面座り膝を抱えたセーラー服の少女と、その肩口に浮かぶひとつのオルゴール。

「あ、あんた何……?」

 怯えるような視線の少女が問いを投げかける。平一は一歩間合いを詰めると

「お前を連れ戻しに来た」

 冷たい視線でそう告げた。

「…………」

「もし嫌だと言うのなら……無理やり連れて帰ることになる」

 平一の言葉を吟味しているのか、それとも自らに突きつけられた選択を飲み込めていないのか。一瞬、戸惑いと恐怖の色に染まった少女の瞳だったが、そこにはすぐ拒絶の色が灯る。

「嫌……。私は……帰らない」

 少女のその返答は、想定の範囲内だった。

「そうか。なら……」

 平一は大股に少女へと向かって歩き出す。

 精神医療従事者となってから何人もの患者を治療してきたが、帰ろうと言って素直に応じるケースの方がまれだった。考えてみれば当然である。患者は現実の世界に問題を抱えてこの精神空間にやってきたのだ。そんな辛くて厳しい現実に帰ろうと言われて首を縦に振る人間がいったいどれだけ居ようか。

 一歩、また一歩。

 平一が歩みを進めるほどに、少女の怯えと緊張が高まっていく。そして数メートルの距離を詰めたところで、

「近づかないで!!」

 張り詰めていた空気が破裂した。

 少女が叫ぶと、その声に呼応するかのように、辺りに散らばっていた鉄屑がガタガタと動き出す。そして次の瞬間、その鉄屑はまるで意志を持ったかのように重力の束縛を離れ、少女の周りをくるくると周回しだした。

「それ以上近づかないで。あんたが無理矢理に私を連れて帰るって言うなら、私だって抵抗する……。私は絶対……もう絶対あそこには戻らないって決めたんだ。だから……」

 だが平一は少女のそんな言葉などまるで聞こえないかのように、次なる一歩を踏み出した。

 その瞬間、

「近づかないでって言ってるでしょ!!」

 少女の周りを浮遊していた鉄屑。そのうちの一つである握り拳ほどもあるナットが猛スピードで平一に向かって飛んできた。

 ビュン、と風切り音を立てたナットが平一の顔面をかすめる。背後で鉄塊と壁が衝突する轟音。

「今度は……本気で当てるわよ……」

 だが、平一はそれに恐れる様子ひとつ見せず、鋭い目つきで少女を見返すと、何も言わずにそのまま一歩また一歩と前に出る。一瞬、少女の顔に浮かぶ困惑。だが少女はすぐにそれを抑えこむと、眉間に皺を寄せて別の鉄屑を平一に向かって投げつけた。先ほどとは異なりその軌道は確かに平一の身体を捉えている。脅しではない、本気の攻撃だった。

「…………」

 弾丸と見紛う速度でこちらへと向かってくる鉄塊。そのスピードと質量による暴力に対し、平一は無言で右手を目の前に突き出した。

 次の瞬間。

 一瞬、キンという耳鳴りのような音。

「え……?」

 少女の口から呆気にとられたような声がこぼれ落ちる。

 あたりに立ち込める鉄の匂い。投げつけられた鉄塊は、瞬時にしてその場から姿を消してしまっていた。

 少女は自らの内に浮かんだ恐怖と戸惑いを強引に飲み込むかのように平一を睨みつけると、再び周囲の鉄屑を持ち上げる。今度は二つ。先ほどと同じくらいの大きさのナットと、何に使われていたのかも分からない鋭い鉄板の切れ端。

「なるほど。同時に二つの物体に力を作用させられるのか」

 少女は答えず、再び鉄塊を平一に向かって投げつける。一つは先ほどと同じく正面から、もう一つは後ろに回りこむように背後から。まるで太陽の周りを周回する複数の彗星のように、異なるスピードと軌道をもった二つの鉄塊が平一を襲う。

 だが。

「俺の拡張想起アドオンはな……」

 平一は前後に手を伸ばすと、飛んでくる鉄塊に指の先で触れる。まずは前方、薬指で。次に後方、手のひらで。その少し大きな手に触れた瞬間、鉄塊が霧のように消えた。傍目にはまるで最初から鉄屑など存在していなかったかのように見えるが、かすかに残る鉄の匂いが、そこに確かに鉄の塊があったことを示している。

「触れたものをバラバラにできるんだ。それこそ目に見えないくらいの細かさで」

 その言葉を待たずして少女は次なる獲物を投げつける。だが、平一はすました顔でそれを分解し、

「俺に砕けないものはない。例えそれが鉄であっても人であっても……」

 そう言って平一は少女を睨みつけた。その視線の先にあるのは少女の肩口に浮かぶひとつのオルゴール。

「この空間を支えるカーネルであっても」

 だが少女はそれに物怖じする様子ひとつみせない。少女の決意がそうさせるのか。それとも自身の能力に対する絶対の自信か。

「……じゃあ、やってみなさいよ」

 そう言って少女は自らの周りに散乱する鉄塊をいくつも持ち上げる。その数は両の手で数えきれないほど。ナット、ボルト、ハンマー、赤茶けたパイプに幾つもの尖った鉄屑。少女はそのすべてをでたらめな軌道で周回させ、平一を威嚇する。

「なるほど……。そんなに沢山のものを一度に持ち上げられるのか」

 一方の平一もそんな光景に恐れる素振りを見せない。

 双方がにらみ合い、視線と視線がぶつかる。空気が張り詰め、緊張の糸がじわりじわりとその張力テンションを増してゆく。

 そして――

 二人が同時に動いた。平一が大きく一歩前に駆け出ると同時に、少女は自身の周りを周回させていた鉄塊をすべて平一に向けて投げつける。四方八方からこちらへと向かってくるいくつもの鉄塊。かろうじて目で追いきれるかというほどのスピードである。だが平一は冷静に、自らに近いものから順に鉄塊に触れていく。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。

 少女の放った鉄塊は次々とナノスケールにまで分解され、あたりにむせ返しそうな鉄の匂いが立ち込める。少女はそんな平一の行動にぎりと一つ歯ぎしりをすると、間を置かずに更なる鉄塊を投げてよこす。

 たちの悪い冗談のような光景だった。

 雨あられのように降り注ぐ鉄塊と、涼しい顔で次々とそれを消し去っていく平一。一件膠着しているようにも見えるが、それは完全な平衡状態ではない。一歩間違えば骨の一本や二本が容易にへし折られるような攻撃の渦中にあって、平一はじりじりと少女との距離を詰めていく。

 一歩。前方と右方から飛んできたボルトとナットを両の手でかき消す。

 二歩。頭上から落ちてきた大きな鉄塊を前に出て避け、後方から飛来する尖ったパイプに左手で触れる。

 三歩。今度は前後左右に加えおまけだと言わんばかりに上から。平一は冷静に、まるでカルタを取るときのような機敏な動作で自らに近いものから順に触れていく。だが間に合わない。前方から新たに投げつけられた鋭利な鉄屑が平一の頭部めがけてスピードを上げる。あと一秒にも満たない時間で、平一の顔面はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。だが、

「捕まえた」

 平一の左手が少女の肩口に浮かぶオルゴールを掴み、鉄塊の動きが動きが止まった。このまま少し念じさえすればこのオルゴールは、閉鎖空間を司る少女のカーネルは一瞬で雲散霧消してしまうだろう。

 対する少女は動かない。自らの肩口に浮かぶオルゴールがこの世界を支える支柱であり、これを破壊されるとこの場所が消えてしまうことを本能的に知っているのだ。だから少女は動かない。いや、動けない。

 そんなにらみ合いが数秒間続き、平一がカーネルを粉々に消し去ってしまおうと左手に力を込めた瞬間。

「どうして……」

 少女の口から言葉がこぼれ落ちた。

「どうしてそんなことするの……」

 うつむきがちにこちらを睨みつける少女の眼差し。その少し負けん気の強そうな瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「どうして私を放っておいてくれないの……。どうして私を連れ出そうとするの……」

 平一は答えない。答えても仕方がなかった。どうせ自分の行動のすべての理由は、『それが自らに与えられた任務だから』というものだ。その答えは少女を到底納得させられる代物ではないことなど火を見るよりも明らかである。

 ――そんな風にやってたら、いつか患者から恨み買って刺されるぞ?

 不意に脳裏をよぎる津雲の言葉。

 自分のやり方は不十分だとあの男は言う。もっと患者に寄り添えをあの男は言う。

「じゃあ一体、俺はどうすればいいんだ」

 頭に浮かんだ言葉が口から漏れる。その言葉に意外そうな顔をする少女。

「だ、だから私の事は放っておいてって……!」

「それはできない。お前を現実世界に連れ戻すのが俺に課された仕事だ」

「じゃああんたにできることなんて――!」

 少女が声を荒げる。確かに、そうだ。平一の仕事は、自分の欲するところは少女を連れ戻し、閉律症を治療すること。そして少女はその反対で、この精神世界にずっと留まることを望んでいる。互いの言い分は決して交わらない。だが……

「本当にそうなのか?」

 その言葉は少女に向けたものであると同時に、自分自身の内なる声に対する懐疑であったのかもしれない。

「お前がここから出たくない。俺はお前を連れ戻さないといけない。そこで本当に話は終わりなのか?」

「当たり前じゃない! これは二者択一よ。あんたが自分の仕事をやり遂げるか、それとも私の言い分を聞くか。二つに一つしか道はない!」

「確かに。そうだ。元の世界に戻りたくないというのがお前の望むところだろう。だがな、こうも考えられないか? 『じゃあどうすれば元の世界に戻りたくなるんだ?』と」

「そ、それは……」

「お前……希海と言ったな。お前がここから出たくない理由は俺にはよく分からないし、言ってしまえばどうだっていい。だが、力づくでここから連れ戻すよりは、きちんと納得してもらった上で戻ってもらった方がこっちとしてもありがたい」

 少女がうつむき、押し黙る。

「だから、言ってみろ。どうすれば戻ってもいいと言えるのか。俺にできるかどうかは分からんがな……」

 一方の平一は何も言わず、続く少女の言葉を待っている。そして、

「…………わ、」

 そして少女が意を決し、口を開きかけた瞬間。

 口の中に蜂蜜をぶち撒けたような、むせ返すような甘味が平一の舌の上で踊った。それはこの世界の外から来た感覚。任務の制限時間を告げるシグナルである。

 ちっ、とひとつ舌打ちをする平一。

「もう時間だ」

「えっ? 時間って……?」

「言葉の通りだ。もうあと数えるほどで俺はここに居られなくなる。できるならもう少し話をしていたかったんだがな」

 そう言って平一はオルゴールを掴んだ左手に力を込める。

「ちょ、ちょっと待ってよ!! 私はまだ」

「悪いな」

「や、やだっ!! 私帰りたくなんか――」

 少女の言葉に重なって、キン、という音が響く。

 次の瞬間、少女を守護し、この空間を形作っていたオルゴールは、跡形もなく消え去ってしまっていた。

「じゃあな」

 オルゴールが粉々に消え失せるのを間近で見せられ、へなへなと力なくその場に尻もちをついてしまう少女。その瞳に浮かぶ大粒の涙が、夕日に照らされて輝いている。

「やだ……やだよ……。私、もう嫌なのよ。誰かに意地悪されたり、誰かに笑われたり……。それで嫌な思いをしたり、嫌な思いに負けてしまったり。それで泣いたり、笑ったり……。もうしたくない……」

 支えを失った世界が歪みだす。二人を照らしていたオレンジ色の夕焼けがぐにゃりと歪み、あたりに散乱していた鉄屑がガタガタと震えだす。

「……になりたい……心なんてない……に……」

 少女の最後の言葉は、平一の耳に届くことはなかった。


            ◆


 それからしばらく経った日のこと。学校から精神医療センターへと向かう途中。平一は数日前のことなどすっかり忘れ、その毒々しい夕日の赤に身を委ねながらただひたすらに目的地への道を歩いていた。

「…………」

 ふと視線を感じて後ろを振り返ってみる。だが、そこにあったのは、いつもの見慣れた風景。夕闇に侵食されつつある冬のニュータウンと、沈みかけの太陽が血のような斑模様を描く赤い空がそこにあるだけだった。

 気のせいか。

 疲れているのかもしれないと平一は思う。最近は少し働き詰めだった。あれから数日間、毎日一人ずつの患者を治療したし、家に帰ってからは学年末テストに向けて毎晩夜遅くまで勉強をしていた。疲れが自分の心のなかにありもしない目線を作り出したのだろう。

 だが疲れていたからといって、背後から誰かの視線を感じることなどあるのだろうか。一方で平一はそんなことも思う。疲労によってありもしない視線を感じるということは、何か自分の中の後ろめたさの現れなのではないだろうか。

 後ろめたさ。

 平一はその言葉を自分の中で反芻してみる。

 昨日は精神世界で同世代の知らない少年を力でねじ伏せた。一昨日は年上の大学生を言葉も交わさず連れ戻した。三日前は泣きじゃくる小さな女の子を、四日前は……。

 なんてことはない。自分の中には後ろめたいことだらけだった。

 だがそれもこの仕事をしていたら仕方のないことなのだろう。この仕事は『帰りたくない』と言う人間を無理やり連れ戻すものだ。いくら普段から冷たいだのサバサバしてるだのと言われる平一であっても、後ろめたさの一つや二つ感じないわけがない。

 そしてそんなことを考えている内に、足取りは早々と目的地にたどり着いてしまう。桜の木が植えられた並木道。高校の通学路の途中にあるひときわ大きな白い建物。

 ――党立精神医疗センター

 建物の壁にはそんな文字が刻まれていた。

 そう。自分は今日もここで誰かを連れ戻す。帰りたくないという人間を、つらい現実はもうまっぴらだという人間を、無理やり引っ張り出すのだ。

「…………?」

 再び背後から視線。

 またか、と平一は思う。やはり自分は疲れているのかも知れない。どうせ振り返ってもそこには見慣れたニュータウンの街並み以外は何もなく、帰宅途中の学生と自動車が行き交う光景があるだけなのだろう。

 仕方がない。これが最後だ。そう考え背後を振り返った直後。

 ドスン、と勢い良く肩に力が込められ、そのまま平一は地面に押し倒されてしまう。

「なっ……!?」

 次いで一発、顔面に拳。頬をグーで殴られ熱い痛みが口の中を走った。

「やっと……見つけた……」

 言葉の主はそう言って平一に馬乗りになると二発目の拳を振り下ろす。腰まである長いくせっ毛と、どこかで見覚えのある負けん気の強そうな顔。

「お、お前……」

 声の主は、先日自分が治療した少女、青山希海だった。

「あんたのせいで……私はあんたのせいで……!!」

 少女は目に涙を浮かべながら平一に襲いかかってくる。三発目の拳が左の頬に当たり、口の中に血の味が広がった。

「ま、待て、落ち着け」

「落ち着けですって!? あんたが私に何したのか考えてみなさいよ!」

 だがこの騒動の最中にあって平一は、どこか冷静だった。

 ――そんな風にやってたら、いつか患者から恨み買って刺されるぞ? 

 いつか津雲から聞いた言葉。

 ――その時は無様に弁明をしたりせず、事の成り行きにまかせよう。

 それに対する自分の返答。

 四発目。視界に星が飛ぶ。そして少女が次なる拳を振り下ろそうと左手を高く掲げたその時。

 平一は反射的に少女を突き飛ばし、その脇腹に蹴りを入れた。たまらず地面に倒れ込む少女。攻撃が急所に入ったのか、げほげほと苦しそうに咳き込む。

(しまった……)

 その様子を見た平一ははっと我に返り、思わず反撃をしてしまったことを悔やむ。いくら反射的に身体が動いたとは言え、これは流石にやりすぎたかもしれない。

(何が『無様に弁明をしたりせず、事の成り行きにまかせよう』だ……)

 だが後悔をしても時すでに遅し。少女は目に涙を浮かべ、口惜しそうな表情でこちらを睨みつけてくる。

「なんで……なんでよ……」

 その表情はいつか精神世界で見たものと同じだった。

「私は嫌だったのに……ずっとあの世界に居たかったのに……どうして……。どうして私を連れ戻したりしたのよ……」

 少女がそうこぼすと、その目に溜まった涙が頬を伝った。

「お母さんもお父さんも病院の先生もそう。みんな『良かったね』って……『治って良かったね』って言うけど、私全然嬉しくない。私……私は……」

「じゃあ、どうすればいいんだ」

「…………」

 少女は答えない。おそらく彼女が望むことは、元いた世界に帰ることなのだろう。だがそれが叶わぬ願いであることは平一はもちろん、少女にとっても明白なことである。

「言ってみろ」

「えっ……?」

 だから平一はそう告げる。

「どうすればこの世界に戻りたくなったのかを、どうすればこの世界を選ぼうと思えるのかを、言ってみろ」

 あのとき出来なかったことを。あのとき最後まで聞けなかった言葉を、今この場で少女に再び問い直す。

「あ、あの時の続きでもするつもり?」

「ああ、そうだ。あの時はすまなかったな。俺にだって時間がなかったんだ。だからこうして今聞かせてもらおうと思う。あのときお前が言おうとした、その答えを」

「わ、私は……」

 少女は少しだけ心苦しそうに下を向き、恥ずかしそうにする。

「どうした? 遠慮無く言ってみたらどうだ。もっとも、俺にできるかどうかは分からんがな」

「…………笑わない?」

「ああ」

「子供みたいだって、思わない?」

「ああ」

 そして少女はやがて意を決したように

「私は……誰かに一緒にいて欲しい。自分の痛みや苦しみを分かち合える人が欲しい。そうすれば……、そうすれば、この世界も少しはマシなものになるような、そんな気がするの」

「…………」

「な、なによ。いけない? 子供じゃないんだから一人でやれって言うつもり?」

「いや、そんなことは――」

 背後から車のエンジン音。振り返ると、二人の前で車がうっとおしそうにブレーキを踏んだまま立ち往生している。運転手の迷惑そうな視線が二人に突き刺さった。

「…………移動しよう。立てるか?」

 平一はそう言って、少女に手を差し伸べた。少女は戸惑った様子を見せると、やがて決心をしたようにその手をつかんだ。

「よ……っと」

 立ち上がり、少女を連れて道の端へと移動する。口の中に溜まった血を吐き出し、空を見上げるとそこにはそびえ立つ精神医療センターのビルが見えた。

「ったく……。しこたま殴りやがって……」

「な、何よ。あんただって思いっきり私に蹴り入れといて。だ、大体ね、みんなあんたが悪いんでしょ」

「ああ、そうだよ。全部俺のせいだ。だからな……」

 そして平一は少女の瞳をまっすぐに見つめると、

「連絡先教えろ」

「なっ……」

「責任取ってやるよ。俺はお前のことを全く知らんし、お前も俺のことを全然知らんだろうが、ひょっとすると、俺がその『痛みや苦しみを分かち合える人』とやらになれるかも知れんだろ」

「…………」

 少女は少し恥ずかしそうに視線をそらしたまま答えない。

「まあ、俺がダメなら他の人間くらい紹介してやることだってできるさ。といっても、俺の交友関係なんざたかが知れてるがな……」

「結局あんまり役に立たないんじゃない」

「うるさい。まあ、無理に、とは言わんがな。どうする……?」

 そして少女は少し考えた末に鞄からノートとペンを取り出すと、そこに何かを書き殴ってビリと破り、平一に向かって差し出した。

「はい。私の連絡先。あっ、あんたのも書いてよ、ってそういえば……」

 気付けば夕日はもう沈みきってしまおうかという程に弱々しくなり、街には早くも夜の帳が降りかけている。この調子だと今日の仕事は大遅刻だ。

「そういえば、名前聞いてなかったわよね……?」

「まったく……よくもまあ名前も知らない人間をこんな風に襲ったもんだ」

 だが、それもいいかと平一は思う。どうせ最近は患者の治療で引っ張りだこだったのだ。一日くらい遅刻したって構わないだろう。それに――

「う、うるさいわねえ。そう思うならさっさと名乗りなさいよ」

 それに、今日は面白い奴と出会った。いや、再開したと言った方が正しいか。

「ああ、そうだな。俺の名前は――」

 夕焼けの空に二人の話し声が小さく響く。

 その声は、あともうしばらくだけ続いていた。

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