(4)

 母さんが就寝したあと、僕が自分の部屋に入ると、そこには布団が二組並べて敷かれていた。そうか。父さん母さんには、僕らはすでに夫婦の扱いなんだな。僕はこれまでたった三日しか、みどりと一緒にいたことはないのに。僕は枕を抱いて、不思議な気持ちで外の雪灯りを見ていた。


「こうちゃん……」


 すっと襖が開いて、パジャマ姿のみどりが入ってきた。


「おかえりなさい」

「うん、ただいま。待たせたね」

「ううん。楽しみにしてたわ」


 みどりが両腕を広げて僕に覆い被さる。僕はそれを力いっぱい受け止める。そして、思い切り唇を合わせる。みどりは僕の頬に自分の頬をすりつけると、そのまま力を抜いてもたれかかった。


「あったかーい」


 愛おしい。なんて愛おしい。僕はその夜、何十回、何百回、愛しているを言っただろう。何度言っても言い足りないほど、僕にはみどりが愛おしかった。


◇ ◇ ◇


 翌日。僕らは寝不足だった。お互い初めてだったのに、夜通し獣のように貪りあったから。みどりはもっと寝ていたいようだったけど、昨日シフトを替えてもらった関係で、今日は早番で出なければいけないそうだ。よれよれの状態で出勤していった。僕もそうだけど、たぶん今日は足腰が立たないだろう。不謹慎な僕らとは対照的に、園田さん親子は長い大事な夜を大過なく過ごしたのだろう。昨日と打って変わって、穏やかな表情で朝食をとっている。


 僕はちらっと園田さんを見た。落ち付いてはいるけれど、やはり元気がない。大学生活と染めへの意欲を失って、親の庇護下に入ったことへの気遅れや焦燥感が、これからじわじわと彼女を苛むだろう。園田さんには、親の存在感が大きすぎたのかもしれない。親のプロとしての後ろ姿を意識しすぎて、背伸びして無理を重ねた。その歪みがこういう形で出た。

 たぶん哲さんも、美里さんも、もう彼女の尻を叩けない。守ることしかできない。だから理解はしてあげられても、前進させることは難しくなる。誰かが……。誰かが彼女の手を引っ張ってあげないと、二度と水面に浮かび上がることはできない。あとで、リョウにメールを打っておこう。今回の顛末についてだけ。それでどうなるかは、神のみぞ知るだ。


 朝食後、園田さんたちは何度も父さん母さんに頭を下げながら、我が家をあとにした。


◇ ◇ ◇


 年末が近いので、普段はのんびりしているうちの店にもひっきりなしに客が来た。父さん、母さんは、店で忙しそうに立ち回っている。僕は一人で退屈だったので、みどりが働いているスーパーをこっそり覗きにいった。みどりの今年の勤務は今日までだった。年が明けてからの仕事は、本来は初売りの二日からだそうだけど、みどりは僕との時間を最優先にして、年末年始の勤務を全部その前後に押し込めていた。相当ハードなシフトらしい。


 だけど、みどりは実に楽しそうだった。働くということよりも、人の中で自分を生かすという喜びを覚えたように見える。とにかく、くるくるとよく動く。そして笑顔を絶やさない。店の人にもかわいがられているようで、お客さんにも受けがいい。みんなに、みどりちゃんと気軽に声を掛けられている。店長さんは、パートではなく正規雇用したいと申し出ているそうだけど、来年三月には副丘に行かなければならないからと、ちゃんと事情説明もしているようだ。


 きびきびと働くみどりを見ていて、僕は一つ思い違いをしていたことに気がついた。出見が乗ってからのみどりの変化は、たぶん出見のせいじゃない。出見は、みどりの孤独感にただ目張りをして、みどりに見えないようにしていただけ。僕は穂垂の言葉を鵜呑みにして、みどりが出見に乗っ取られていたと思ってたけど、本当は出見は何もしていない。だから出見はずっと黙っていたんだ。


 学生時代の、そして今の快活なみどりこそ。明るくて生命感溢れるみどりこそが、本来のみどりなんだ。だから、孤独という呪縛が外れて意識さえ外を向けば、どのみちみどりは自力で未来を探り当てただろう。僕はそのきっかけを作ったにすぎない。そうだな。僕も穂垂の影響をそろそろ脱したようだ。あとは、何を為すかをみどりと二人で考えよう。


◇ ◇ ◇


 年末年始は静かだけれど、楽しかった。大晦日、母さんが僕ら二人を前にして聞いた。


「もう、二人で生きることを決めたんでしょう?」


 僕はみどりの方を見た。


「僕はそのつもりだけど。みどりは?」

「もちろん、わたしもよ」


 父さんが、僕らにけじめを迫った。


「じゃあ、もう籍を入れたらいい。中途半端な状態は誤解を生むからな。どうだ?」


 僕らは顔を見合わせる。


「父さん、母さん、僕らはまだ定収がないけど……」


 父さんは、さらっと笑った。


「ははは。今の幸助とみどりちゃんの生活力を見る限り、何の問題もないと思うが」

「そうよ」


 母さんも、事も無げに頷いた。


 それは僕が、本当の意味で親の下から巣立った瞬間だった。僕が本当に自力で立てるのか、立てたのか、それはまだ分からない。でも、みどりと二人で歩く責任を負うことで、僕は誰にも遠慮せずに自分の道を探すことができる。僕とみどりは見つめあったまま、除夜の鐘を聞いた。


◇ ◇ ◇


 副丘に戻ると、僕はまたバイトに埋没した。軍資金は結構な額になった。三月、僕は予定通り、みどりを僕のアパートに呼んだ。同時に僕らは籍を入れた。


 みどりが副丘に来ても、僕の毎日は特に変わらなかった。みどりがすぐに店員の仕事を見つけ、忙しく働きはじめたからだ。この頃、僕は将来のことを考えて、出版社のバイトを探してきた。そこで出版の一連の過程を手伝い、覚えた。僕は穂垂と出見のことを書いてみたかったんだ。その哀しい存在を、そしてその定めを、僕ら以外の人に、そしていつかは僕らの子供たちに語り継ぎたい。

 森に生まれ、森を育み、森から外界を眺め、森に還る。穂垂や出見を生み出した、その神秘の大きさと力。それを掬い取って書いてみたい。それは単なる幻想ではなく、真実なのだということを感じ取ってもらえるような文章を書いてみたい。


 そのためには、自分の筆をもっと磨かなければならない。僕は暇があればひたすら文章を書いた。それは、最初は単なる文字の羅列だった。僕の身から出たとは思えない、味気ない文字の行進。それが生き生きと自ら語り始めるまで。僕は、どれだけの文章を書き連ねればいいのだろう?


◇ ◇ ◇


 二人それぞれの時間は微妙にずれて、時に些細なすれ違いが諍いを生むこともあった。でも、あの暗い小屋での邂逅がいつでも僕らを原点に連れ戻した。当初三年生の一年間だけの予定は、結局僕が卒業するまで延びた。そして予定通り、僕とみどりは木馬野に帰ることにした。副丘を発つ夜。僕はベッドでみどりに聞いた。


「なあ、みどり。副丘はどうだった?」

「そうね。ラーメンがおいしかったわ」

「それだけ?」

「うん」


 思わず苦笑してしまった。確かに、あの小屋以外が外界だとすれば、木馬野の本町だろうが、副丘だろうが、アメリカだろうが、みどりにとっては同じなのかもしれない。


「でもね」

「うん?」

「ここにはお父さん、お母さんがいないから」

「そうか……」


 肉親がすでにいないみどりにとっては、僕の両親が唯一の家族だ。それの方がはるかに大事なのだろう。


◇ ◇ ◇


 卒業後。木馬野に戻った僕は、本町で小さな学習塾を開いた。僕ののんびりした授業は木馬野の子供たちに合ったようで、そこそこ生徒が集まった。授業も好評のようだ。塾からの収入は知れていたけど、著述収入よりはずっとましだった。

 みどりは、またかつてのスーパーで働き始めた。店長が、喜んで迎え入れてくれたらしい。僕は本町に新居を借りるつもりだったけど、母さんにそんなもったいないことと言われて思いとどまった。こうちゃんたちは稼ぎをちゃんと家に入れてくれるし、なによりお互い寂しくないでしょう、と。賑やかなのが好きなみどりは、父さん、母さんとの同居が叶ってとても嬉しそうだった。


 みどりは毎日忙しそうにしていたけど、わたしが支えるからお金のためだけの駄文を書かないでと僕を叱咤した。本当に、みどりの生命力、生活力はたくましかった。


◇ ◇ ◇


 木馬野に戻って三か月が経った。山は分厚く緑に覆われ、夏の気配が迫ってくる。


 一枚の葉書がうちに届いていた。リョウからだった。教育大を出たリョウは、いつの間にか木馬野の小学校に勤めていた。就職と結婚を報告する葉書を副丘の住所に出し、転居先不明で戻ってきたのを、再度うちの実家宛てに送ったらしい。そういや、こっちに戻ったことをまだ連絡してなかったな。それじゃ町内のどこかで、もうすれ違っていたのかもしれないな、そう思って文面を見ると。あれ?


 佐川良太

   水鳥(旧姓 園田)


 ほお。うまくいったと見える。ま、様子を見て、会いに行くことにしよう。どんな物語があったのか、聞くのが楽しみだ。ネタは多い方がいい。うん。


「こうちゃーん」


 のんびりしたみどりの声が聞こえる。今日はちょっと用事があって、仕事を休むって言ってたな。なんだろ、用事って?


「なあにい?」

「ちょっと来てー」

「はいよー」


 僕が葉書を手に、のったりと居間に行くと、みどりが嬉しそうに、何やら写真の貼られた紙切れをひらひらさせていた。


「なにそれ?」

「診断書。エコー画像つき」

「なんの?」

「赤ちゃんができたの」

「!!」


 僕は思わずみどりを抱きしめた。


「いやったあーっ!」

「うん、めっちゃめちゃ嬉しい! お母さんにも話してくるね」

「お祝いだな」

「ふふっ」


 みどりは、ぱたぱたと店に駆け出していく。


 そうか。僕は、みどりは、親になるのか。木馬野に育まれた僕は、木馬野にまた一つ生を捧げることになる。その希望と感謝を胸に、僕は全霊をかけて文章を編むことにしよう。そう、生まれてくる僕らの子に、僕とみどり、そして穂垂と出見の物語を伝えよう。


 僕は、真っ白い紙にクレヨンで大きくタイトルを書く。


 み  ど  り


 ……と。



【それから みどり編 完】

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みどり 水円 岳 @mizomer

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