カーテンコール!(下)

------◆◆◆


「マグノリアちゃん、マグノリアちゃん」

 カーテン越しの呼び声。

 戻ってきた現実に、私は瞼を上げる。

「……」

「約束の時間だよ、マグノリアちゃん」

「起きてる」

 私は抑揚のない声で応えた。

 与那嶺さんが声のトーンを落とす。

「ご、ごめん。起こし方が悪かったかな」

 私が怒っていると勘違いしたらしい。

「違うから」

 私は淡々と言ったが、与那嶺さんの怯える気配がした。

 まぁ喧嘩中の女性がこう言う時って確実に怒っているよね。

 しかし私にはまだ与那嶺さんをフォローする余裕がなかった。

 先程の夢ならざるユメ。覗き見た神先生の少年時代。彼の足元に居た白い物はどう見ても、先の襲撃者だ。

 しかし与那嶺さんにこの事を話せば、神先生に対する態度が激化するだろう。先生に警戒されたら教授も私も動きづらくなるかな。

 ここは先生の方からボロを出すまで秘密にするのが最善手な気がする。まだ敵と決まった訳ではないし。

 ひとまずは落ち着こう。

 私は上半身を起こし、瞼を閉じる。

 考える事を感じる事を止めて心を空っぽにする。誰にともなく何処にともなく捧げる淡い祈り。ブレスレットのガラス玉にキス。海水を思わせる冷たさが私を透明にする。

 萎縮して息すら潜める与那嶺さんに、改めて声をかけた。出来るだけ朗らかに。

「ごめんなさい、本当に大丈夫よ。寝起きでぼーっとしていただけ」

「あ、ああ、なら良かった」

 心底ほっとしたような言い分に思わず笑ってしまった。

 私は手櫛で金髪を整えながら茶化す。

「というか、ここ数日の与那嶺さん変だよ? 怯えているというか、私に気を使いすぎというか」

「だってそりゃあ」

 与那嶺さんはそこでハタと言葉を止める。薄緑の布の向こうからこちらを窺う気配。

「……もしかしてそれも、忘れた?」

「何が?」

「……いや……」

 がりがりと頭を掻く音。それが彼の困ったときの癖だと私は知っている。

 私も私で困って、少し汗に汚れた髪を指に巻いてみたり。

「やり直し、か。その方が良いかもな」

 ぼそりと呟くのが聞こえた。

 私は重ねて問う。

「何が?」

「うん? 空耳じゃね?」

 とぼける与那嶺さん。

 ちょっとムッとしたぞ。

「ところで身支度済んだならカーテン開けて良い? そろそろ出よう」



◇◇◇------



 薄暗い廊下の果てでナースステーションが光っている。非常口の灯だけが床を照らし、視界は苔色だ。私は妖しく照っては過ぎていく床を見ていた。与那嶺さんが車椅子を押してくれている。

「どうしました?」

 看護士さんの一人に声をかけられた。与那嶺さんは笑顔ですっとぼける。

「寝付けないので飲み物買ってきます」

 笑顔で通り過ぎる看護士さん。彼女らの仕事は救う事であって疑う事ではないものね。

 エレベーターに乗り込む。

 降りた地上階、外来受付の周辺は完全に消灯されていた。

 ずっと気になっていた。清潔で、色味も明るく、白い電灯で隅まで照らされているのに、病院というものは何故これほど陰気なのだろうと。

 仮の結論としては、病気の人が行き交っているから、だった。

 しかし誰も居ない消灯された病院もやはり陰気なままなのだ。これは私の心象のせいだろうか。はたまた昼の陰鬱な雰囲気が病院を根本から変えてしまっているのか。

 考え込む私の脇を半透明の何かが通り過ぎて消えた。ここは人が、死ぬ場所。

 自動ドアを抜けると冷え切った空気に包まれた。久々に出る外界、病院を囲う森林公園。強烈な自然の匂いに少し目眩を覚える。病棟はあまりに清潔すぎた。

 スポットライトに照らされる病院のロゴ。その下で二人の白衣が待っていた。壁に凭れ、腕を組んで会話する二人は休憩中の医師にしか見えない。

 先に私たちを見とめてくれたのは神先生だった。

 与那嶺さんが車椅子のグリップをぎゅっと握るのが分かった。

「裏に小生の車があります。ご案内しましょう」

 神先生について病院を外壁沿いに回り込む。

 一陣の風が褪せた桜並木を抜け、ガサガサと音を立てる。雨音にも似たそれを聞くともなく聞いていた。

 熱のせいだろうか。今宵の私はぼんやりしている。

 職員用の駐車場。半分くらいしか泊まっていないその真ん中あたりに神先生のワゴンはあった。水色で、清潔に手入れされている。キレイすぎてこの車も病院の設備みたいだ。

 与那嶺さんの手を借り、折れた足に力を加えぬよう後部座席へ移る。

 与那嶺さんの掌はじっとりと汗ばんでいた。こんなに寒いのに。

 何に緊張しているのかまでは推せない。改めて見上げると表情もだいぶ固い。ずっと後ろに居たから気付かなかった。

 全員が乗り込むと車は静かに発進した。

 ほとんど揺れない。


 しばらく誰も話さなかった。

 黄、茶、そして赤に変わった街路樹が闇夜に棒立ちしている。

 それぞれの思惑を抱え、皆が皆窓の外を見ていた。

 暖房がかかっているのに車内の雰囲気は冷え冷えとしていた。車の風圧がケヤキの落ち葉を舞い上げる。

「この道、見たこと無いね」

 最初に口を開いたのは教授だった。視線は相変わらず景色へ向けられている。

「そうですか。人気のない広域公園へ向かっているので、この地域に馴染みないと知らぬ道かもしれません」

 神先生が答えた。

 教授が首を傾げる。

「おや? 何処へ案内すると言ったかい?」

「広域公園へ。そこへ誘き出して戦いましょう」

「……構わないよ」

 数秒の沈黙から、教授と神先生の意図が噛み合ってない事を知る。

 神先生がハンドルを左に切った。道が急に細くなる。右手には開けた公園が広がっていた。

 誰も居ない駐車場にワゴンが滑り込む。

 全員車を降り、いちめんの芝生の中央で立ち尽くしたが、待てど暮らせど純白の襲撃者は現れなかった。

 遠い秋の闇だけがあった。



◇◇◇------



 現実感なくぼんやりしたまま病院に戻り、何の感慨もなく再び眠った。

 宵闇で冷えた体に掛布団と教授の白衣が心地よい。

 微睡の中で夢を見ていた。



 私は与那嶺さんと二人で歩いていた。

 別に変なシチュエーションではない。月に数度はこうして会ってお散歩や食事をする。

 与那嶺さんは私をバスに乗せた。「連れて行きたい所があるから」と。

 その言い方に少し緊張が見えた。

 バスは農道の真ん中に止まった。バス停と呼ぶのも疑問な、標識が立っているだけの道端だ。

 そして与那嶺さんは私を先導して――



『いつか必ず分かり合えずはずだよ!』



 オルゴールの音に目が醒めた。

 一瞬前に聞こえた神少年の声が耳に残り、頭が重く感じた。単に寝不足なのかもしれないけれど。

 カーテンの向こうで眠気と戦う与那嶺さんの気配。


 寡黙な朝食が済むと、与那嶺さんは眠気に負けたようだ。間もなく深い寝息が聞こえてきた。

 昨晩、気を張って疲れたのだろう。そっとしておいてあげよう。

 私はベッドで静かに考え事をしていた。そうすれば何か思い出せるかのように。

 記憶にかかった靄が晴れない。幾重にも布をかけたように見えてこない。

「マグノリア? おはよう」

 母が病室の入口から顔を出した。私は母を招き入れる。

 出勤前に来てくれたらしい。フルメイクにアップの髪、大人しいブラウスとタイトスカート。母は市内の研究所で事務をしている。

「病院はどう?」

「どうって言われても……」

 私は考え込む。

 教授にもまた逢えたし、素敵な神先生とも知り合えた。何より与那嶺さんがずっと傍にいる。悪くないと思っていた。

 でも改めて神経を研ぎ澄ませれば。

 廊下からは汚物の臭いが流れてくる。壁には何かをぶちまけた染みが。看護士に助けを求める『エリーゼのために』が絶え間なく響く。悲鳴や救急車の音も聞こえる。そう言えば入院して以来お風呂に入れていない。

 唸る私を母は笑った。

「マグノリアのそのにぶさ、長所だと思うわ」

 ちょっと意味が解らなかった。

 汗まみれの下着やパジャマを回収し、洗濯された服を置いていく母。大和撫子の甲斐甲斐しさを眺めながら私はやっぱり上の空だった。

 霧のかかった頭で神先生や教授や与那嶺さんの事を考えていた。

「ねぇママ、家族って何だと思う?」

 私は尋ねた。

 堂々巡りの頭で、昨日の昼の会話群を思い出していたのだ。

 母は服を鞄に詰めながら、横顔で微笑んだ。

「何でもないわ。『関わりながら暮らしている人々』よ」

 ぱちん、とスナップ弾ける感覚がした。

 母はそれ以上続けなかったが充分だった。

 私にあった無自覚の偏見、固定観念のカーテンが払われる。

 家族。その単語に付与された『仲良く明るく幸福でなければならない』という枠が。

 母が帰った後は、さっきとは少し違う気分で、少しだけ晴れたような心持で黙考を続けられた。


 

 ふと与那嶺さんが寝返りを打ち、注意が向いた。窓の割れてない部分から差す午前の光に上下する肩が透けている。

 ――今そっとこの幕を捲れば、与那嶺さんの寝顔が拝める。

 そんなアイディアが突如到来。そんな発想の自分に狼狽。

 しばらく寝息に耳を澄ませていた。

 与那嶺さんの吐息はリズミカルで、その眠りの深さをうかがわせる。

 息を潜め上半身を起こす。

 ベッドの縁に腰掛ければ、カーテンは目の前だ。

 二人を隔てる薄緑の被膜に

 私はゆっくり、

 そっと、

 震える指で手を伸ばし、

「ハーイ! 回診の時間デース!」

「ああああああ! ごめんなさーーーーい!!」

 私は手に顔を埋めベッドに舞い戻った。

 ギブスで重い脚は狙いを思いっきり逸れ、ベッド柵に激突する。

「ごぶん」

「何してるの紫蓮君」

 教授が心底不思議そうな顔でこちらを見ていた。神先生も涼しい顔のまま問う。

「大丈夫ですか、Ms.ウィッティントン」

「大丈夫です……」

 衝撃にじんじん痛む脚など本当に大丈夫だ。茹るほど火照った顔を隠すのに必死だった。

 騒ぎの気配を察して与那嶺さんが身じろぐ。

 二人の登場があと数秒遅かったら大惨事だった。

 神先生は何事もなかったように私のカルテを捲っている。

 与那嶺さんが寝起きから不機嫌になる気配。

 カーテンが勢いよく開いた。神先生を牽制しているように見えた。

 私は同じ治療を継続するらしい。抗生物質を飲みながらリハビリを続けるとのこと。

 続いて与那嶺さんのカルテを見る神先生。ふと白い指が止まった。氷色の瞳がじっとカルテに注がれている。

「与那嶺技師、あなた何者です?」

「あ? あんたのこと嫌いな臨床検査技師だけど」

 嫌味たっぷりに即答する与那嶺さん。

 神先生は真顔のまま何度もカルテに目を走らせている。

「……骨折が治っている」

「そろそろだとは思ってたよ。骨なら大抵一晩だからな。切り傷は苦手だけど」

 与那嶺さんが自慢げに言う。

 私は教授に尋ねた。

「骨折って普通何日くらいで治るの?」

「何ヵ月と聞いて欲しかったな」

 とりあえず驚異的な治癒力なのは分かった。

 彼が本気で跳躍すれば数メートルは余裕で超える。どうやら彼の持つ力はそれだけではなかったらしい。キジムナーの血は人間のそれとは一線を画すのだろうか。

 当の本人は驚く様子も無く、早くギブスを外せ痒いとブーイングしている。

「傷も診ましょう」

 神先生が与那嶺さんに近付く。

 あからさまに身を捻って嫌がる与那嶺さん。もう意地になってるんじゃなかろうかこの人。

「ところで、昨日のリベンジを今夕決行でいいかな?ちょうど時間が空いたから」

 教授が壁にもたれたまま言う。

 誰も返事をしなかった。誰にも拒否権がないからである。



 二人の医師が去った後、開け放たれたままのカーテン。

 与那嶺さんは眼帯も頭のネットも外されていた。瞼に入った一文字の傷が瘡蓋となっている。

「その目、あの鉤爪でやられたの?」

 痒そうに瞼を軽くこすりながら与那嶺さんは答えた。

「いや、避けた拍子にバランス崩して木の枝で」

「与那嶺さんでもバランス崩す事なんてあるのね」

「まぁ落ち葉で足場が悪かったしマグノリアちゃん担いでたからな」

「えっ? そうだったんだ、ごめんね」

「そうか、忘れてたんだっけな」

 与那嶺さんがガシガシと頭を掻く。あんまり爪を立てると傷が開きそうだなと思いながら、私は次いで問う。

「ねぇ、あの日何があったの?」

 与那嶺さんは気まずそうに沈黙していた。頬杖をつき、段ボールで塞がった窓の方を向く。

「落ち葉が在る場所に居たの?」

 与那嶺さんの言葉から拾ったヒント。

 深紅の後頭部をこちらに向けたまま、彼は一語一語選別するように言った。

紅葉こうようの名所を、見に行っていたんだ。そこでアイツに襲われて、神先生に助けられて、救急車を呼んでもらった」

 肝心な部分を避けているのは丸見えだった。しかし嘘を言っているようにも聞こえない。

 私は小さく溜め息を吐く。

 話してくれただけ及第点だ。捻くれてこそいるが、無意味に隠し事をするような人じゃない。何か訳があるのだろう。

「ありがとう、分かったわ」

「これ以上黙ってると嫌われそうだったからな」

 語尾に少年のような心許無さが覗いた。細めた目の光が澱む。漆黒の虹彩に迷いが揺れる。

 きょとんとする私を余所に、与那嶺さんはベッドサイドの引き出しから紅いサインペンを取った。

 スニーカーを拾い上げ、削れた底に荒々しく書きつける。

『石敢當』



◇◇◇------



 時計の短針が下を向き、空が橙に染まりゆくころ。

 リハビリを終え病室で休んでいた私のもとに、与那嶺さんが戻ってきた。

「なーんも問題ないから明日退院だとさ。最終確認と言いつつあんま意味ねぇ検査課しやがって」

 悪態を吐きながらベリーロールする。ぎしんと彼のベッドの骨組みが悲鳴を上げた。

 私はギブスで重い脚をぶつけぬよう注意しながら、自分のベッドの縁に腰掛ける。

「よかったじゃない」

「まぁな」

 変な沈黙が通る。

 今回ばかりは奇妙さの理由が分かったけれど、私は気付かぬふりをする。

「約束の時間、そろそろだよね」

「おう、じゃあ手を貸すよ」

 与那嶺さんが壁際に停められた車椅子を押し、ベッドぎりぎりにつけてくれる。

 車椅子の手擦りを掴んで、私は折れた方の脚に体重を乗せぬよう、慎重に片足で立ちあがった。

 と、指が滑り車椅子の手擦りから離れる。バランスを崩した私は大きく傾く。

「わわわ」

「っと危ない」

 与那嶺さんが私を支えようと腕を伸ばす。

 私は片足立ちで重力に引かれるまま、与那嶺さんの胸板に全体重で飛び込んでしまった。

 うわ、見た目よりしっかりしてる。

 鍛えられたその厚みが肩に腕に触れている。温かいというより熱いくらいだ。それは彼の熱量のせいかもしれないし、私がのぼせかかっているせいかもしれない。

 やっぱり私、与那嶺さんのこと好きなんだなぁ。

 高まっていく心拍数、上がっていく呼吸、胸の奥からぎゅうと締め付けられる感覚。

 それらは紛れもなく。

 火照っていく胸に気を取られ、私は折れた脚を床に付け、体重をかけてしまった。

「ごぼぉ」

「もうちょい女の子らしい悲鳴出そうか」




 鮮やかな夕焼けが世界を焼いている。褪せた落葉樹は全て椛色に栄え、照葉樹は否定されどす黒く沈む。

 この赤光の中で与那嶺さんの髪はどうなっているだろうか。

 思ったが振り返るのも何なので、ただ車椅子を転がされていた。

 病院には未だ多くの人が出入りしている。或いは助けを求めて、或いは誰かに逢いに。大きなボストンバッグを担ぐ女性は、入院患者の家族だろうか。

 入口に居ては目立つから神先生の車へ直接集まる事になっていた。神先生の水色ワゴンも、この夕陽の下で赤く染まっていた。

 与那嶺さんの手を借り、折れた足に力を加えぬよう後部座席へ移る。

 与那嶺さんの掌はじっとりと汗ばんでいた。昨晩と同じように。

 無言の面々が乗り込み、同じように県道へ走り出す。


 しばらく誰も話さなかった。それぞれの思惑を抱え、皆が皆窓の外を見ていた。

 何もかもが紅葉もみじになったような世界。臨む私の中でベールが剥がれていく。

「この道、与那嶺さんとバスで通ったよね」

 与那嶺さんはビクリとした。

 答えてくれなかった。

 またしばらく沈黙が続いた。

 ふと気付けば見覚えのある景色ではなくなっていた。バスの路線から外れたらしい。

「宮司君? これ昨日と同じ道に見えるが?」

 教授が言った。赤色の世界でなお瞳がライムグリーンに光る。

 神先生は淡々と応えた。

「はい、そうですね」

「話が違うな」

「ハンドルを取っているのは小生です。小生の判断に任せては頂けませんか」

「そうだね、判断は任せよう。判断は」

 言いながらその大きな手が白衣のポケットに入れられる。

 次の瞬間。

「はい、フリーズ!」

 教授が声を張り上げた。教授の手元に視線が集まる。

 教授の手には、水鉄砲。その銃口が真っ直ぐ神先生のこめかみへ向けられていた。

「宮司君、今すぐ目的地をターゲットの棲家に変えなさい」

 明度を落としていく夕陽の中で、プラスチックの銃口が賢明な判断を強いる。

「何の話でしょう」

「とぼけない方がいいよ」

 教授が引き金を引いた。

 鼓膜を破りかねないほどの破裂音。

 神先生の脇の窓が、蜘蛛の巣状にひび割れていた。

 以前にもこんな事があった。銃を突き付けて脅してどうこうではなく、教授が銃でない何かから弾を放った事が。

 これも教授の能力なのだろう。あの時は縁日の射的でぬいぐるみを倒しただけだったが。

 神先生は割れた窓を一瞥して問う。

「後ろの子らをお忘れですか」

「覚えているからやっているのさ。キミはどうする? もし入院患者を無断で連れ出して、事故を起こしたら。僕は偽名だし海外に高飛びできるが」

 私は息を飲む。プラスチックの銃口は私たち二人にも向けられているのだ。

 退勤ラッシュの県道は車も人も多い。手元が狂えば只では済まないだろう。並走する車両たちは機雷で、一触即発の自爆装置だ。両脇にそびえる街路樹もまた、私たちを閉じ込める牢の柵だ。

「進路を変えてはくれないかな。誤魔化しは効かないよ。僕は道を『知っている』」

 その含みのある言い回しから、教授もまた神先生のかつてを盗み見たと知る。

 十字路で車は減速し、中央分離帯を回り込みUターンした。

「良い判断だね」

 教授が心底楽しそうに言った。まるで詩歌でも読むように。

 小さな溜め息が聞こえた。

 顔を向けると与那嶺さんが心底つまらなそうに頬杖をついていた。自分が巨悪でもヒーローでもないのを退屈するかのように。



◇◇◇------



 十五分も走っただろうか。舗装された市街地は農道に変わり視界が開けた。遠くに雑木林や丘が見える。

 景色が長閑になるにつれ、ぶすくれていた与那嶺さんの表情がまた強張って行く。

 まさかあの場所に行くんじゃないだろうな、とでも言うように。

 私の前を小さなバス停が過ぎる。

 そうだ、私たちここで降りて……。

 脳裏を何かが過る。


 やがて教授はキャンディーカラーの銃を下した。目的地が近付いたのだろう。

 白衣のポケットに入れた水鉄砲が何か固い物に当たる音がした。


 車は雑木林に近付く。

 辺りは農地ですらない薄野原になっていた。暗くて視界は不鮮明。しかし夢ならざるユメで見た所に似ている気もする。

 与那嶺さんはいよいよ落ち着きがなくなっていた。

 農道に横付けされた車。

 教授は嬉しそうに微笑み、助手席から飛び出した。

 教授の視線の先には鳥居。くすみ忘れ去られたボロボロの鳥居だ。持ち主は、健在なのだろうか。

 神先生がトランクから車椅子を下ろした。手を貸そうとする彼を与那嶺さんが押しのける。

 この間、全員が無言。

 車のドアを閉める音、そしてロックが掛けられる音を最後に世界は夜の静寂に満たされた。

 鳥居に向けて車椅子は進む。私の意思を離れ、与那嶺さんに押されて。

 危険な場所へ赴いているはずなのに不思議と怖くはなかった。

 与那嶺さんは、後ろで震えていた。

 そうか、このせいか。恐怖心の不在は。

 私はにわかに察する。

 全ての主導権が私の手を離れているから怖くないのだ。無力に感情が麻痺しているのだ。何をも諦めて流されている。この抗えない状況に。

 文字通り私を危険へ向かわせているのは与那嶺さん。彼の一挙一動が私の命運を支配している。

 その安心に私は穏やかで、そしてその責任に彼は震えているんだ。

 私を護ろうと武者震いする与那嶺さんに、私は何が出来るだろう?

 答えの出ない間に私たちは鳥居を潜る。

 まるで見えないカーテンが引かれているかのように、鳥居のこちらとむこうは別な空間に見えた。



 視界が深紅のモザイクに染まった。

 目に入る全ての木々が、紅葉こうよう盛りの紅葉もみじだ。

「すごい。真っ赤ね。与那嶺さんの髪みたい」

 緊迫を忘れ私は零す。

 与那嶺さんは吐き捨てるように呟いた。

「この前も、そう言っていたよ」

「え?」

「静かに。来ます」

 神先生が我々を制した。

 全員が正面の闇に目を凝らす。

 与那嶺さんが小さな声で呼びかける。

mt-Keimaミト・ケイマ

「うん?」

「マグノリアちゃんを頼む」

 教授は返事をしなかった。

 与那嶺さんが車椅子の後ろから離れる。

 教授は私の斜め前に立ったまま特に動かない。

 いま私の目のハイライトは消し飛んでいると思う。

 がさがさと、枯れた紅葉を掻き分ける音。弱い風が通るだけにも聞こえる。

 やがて奥の宵闇からのそり、のそりと。

 純白の毛を持つ大蜘蛛が現れた。

 蜘蛛が一番近く見えたからそう表現した。けれど八本の脚の先には鉤爪が付いているし、胴に節は無く、ずどんと丸い。目玉や口らしい器官も見当たらない。蜘蛛の脚が生えた毛塊、が正しいかもしれない。

「タマ」

 聞こえるか聞こえないかの声で神先生が呼びかける。

「いつか、いつかは分かり合えると信じていました。この子は小生が飼っていたペットです。随分大きくなってしまいました」

「悪趣味だな」

 与那嶺さんが吐き捨て、神先生の隣に並ぶ。

 一行の前衛へ。

「ペットの責任は飼い主が取れよ?」

「無論」

 言うと同時に神先生が白衣を脱ぎ捨てた。

 医師の証の下から出てきたのは神職衣。緑のほうに浅葱色のはかまだった。

 あんなモコモコした服、どうやって白衣の下に押し込んでいたんだろう……。

 深い紅の世界に光る緑の衣装。拳を鳴らす神先生。

 その隣で与那嶺さんもトトンと足を鳴らし、ファイティングスタイルを取る。

「マグノリアちゃんに良い所見せようったって、そうは行かないからな」

「小生が良い所を見せたいのは与那嶺技師ですが」

「あ? ……え?」

 呆気に取られた与那嶺さんが神先生の横顔を凝視する。ぶかぶかの検査着も相まってかなり間抜けだ。

「無意味な検査を繰り返させて申し訳ありません。貴男の事、もっとよく知りたかったのです。Ms.ウィッティントンにも敵情視察したことを謝罪します」

「え? マジで? え? てっきりマグノリアちゃんを狙ってるんかと」

「あの流れはそう解釈すべきだったの?」

「紫蓮君は黙ろうか」

 教授に制され私は傍観者を決めこむ。

 与那嶺さんは腹を抱えて笑った。隣の神先生が居心地悪そうに指を曲げ伸ばししている。

 ひとしきり笑うと与那嶺さんは笑い涙を拭いた。

「なんだよ冷たくしちまったじゃんか」

「……好意だと知れば、良くしてくれたのですか」

「当然。俺は俺を好きな人には優しいの。人生の中で俺に良くしてくれる人なんて、数える程も出会えないんだからさっ」

 轟音。

 痺れを切らしたように襲撃者が跳びあがった。

 落下の勢いで与那嶺さん達に迫る。

 鉤爪が地面を抉る一瞬前、二人は左右に散って避けた。

 血飛沫の如く散る紅い落葉。

 次いで与那嶺さんを別の脚が狙う。狂爪を跳躍で避け、その関節を蹴飛ばす与那嶺さん。足の裏で踏みつけるよう、思いきり。

 反動を利用して宙返りからの着地。

 捲れそうな検査着を押さえながら、与那嶺さんは顔を上げ苦笑した。

 襲撃者はまったく怯んでいない。脚を踏み鳴らし体勢を整えている。

「やっぱ効かないか」

 反対の脚が二本同時に唸りを上げる。

 神先生は身を翻し二本とも躱した。

 神先生は拳を振るわなかった。まだ、迷っているのかもしれない。

 かつて世話し愛した異形と、もしかしたら分かり合えるかもしれないと。

 再び二本の脚が振り上げられた。

 神先生は振り向く。

 真後ろに紅葉の大木があって避けきれない。

 緑の宮司に白い凶器が迫る。

 パァン!

 乾いた破裂音が紅闇を割いた。

 白い襲撃者の脚が一本吹き飛ぶ。

 怯んだかもう一方の脚も動きを止めた。

 身悶えする襲撃者。

 教授が水鉄砲を高く構えていた。

 それを見た青白い目に絶望の色が覗く。

「Dr.Woodenknight! あまり苦しめないでください!」

「では自ら望む決着をつけたまえ! そうだ、戦え! さぁ、争え! 僕と僕の研究の為に!」

 怒りに毛を逆立てる襲撃者から、強風が起こる。

 それに煽られ教授の白衣が舞い上がった。

 紅葉風の合間から見るその内側には計器、計器、計測器。

 括りつけられた無数の機器の上でダイオードが光り狂気の星座を為していた。

 教授が嗤う。振れる計器の針と共鳴するように。

 神先生がぎりり歯を食いしばる。

 白い大蜘蛛は怒り心頭だ。

 今に教授、そしてその後ろの私を薙ぎ払いかねない。

 神先生は蜘蛛の脇腹の毛を掴んだ。その胴をよじ登る。

 当の襲撃者はそんなの気に留める素振りもせず、残った脚を振り上げ、教授に向けて振り下ろす。

 瞬きすらしない教授の上空で、赤黒い影が鉤爪を蹴り飛ばした。

mt-Keimaミト・ケイマ~、頼むよ~」

「僕は今とても楽しい」

 与那嶺さんの蹴撃で白い残影は大きく逸れ、紅葉の樹をひとつ薙ぎ倒した。

 そうしている間に神先生が蜘蛛の胴を上り詰めた。

 脚を踏ん張り立つ。祭祀を司るように厳かに。一抹の迷いを残したままで。

 祝詞の如く、決別の語が宵闇に咲く。

「タマ、勘弁!」

 神先生の振り上げた拳が、一瞬光ったようにすら見えた。

 ――ごん。

 浅緑の鉄槌が毛塊の中央を抉る。

 白い襲撃者は全身で痙攣し始めた。

 その間に神先生は手近な紅葉の枝を掴み、そのしなりを使って地面に降りた。

 数秒の後、震えの止まった襲撃者からは殺気が失せていた。

 それはタマと呼ぶにふさわしい無害な毛玉にすら見える。

 と、次の瞬間。

 白い大蜘蛛は疾駆した。

 私の方へ。

「え?」

 脚の一つが車椅子に当たって傾き、私は投げ出された。

 紅葉の幹に後頭部を打つのが分かった。

「マグノリアちゃん!」

「Ms.ウィッティントン!」

 私の名を呼ぶ声。

 霞んでいく意識の果てで、鳥居を抜け、山へ逃げていく白い何かを見送っていた。



◇◇◇------



 やっと思い出した。


 あの日、私は与那嶺さんと二人で歩いていたんだ。そして一緒にバスに乗った。「連れて行きたい所があるから」と言われて。

 後輩に教わった場所らしいけれど、その言い方に少し緊張が見え、私は不思議に思った。

 バスは農道の真ん中に止まった。バス停と呼ぶのも疑問な、標識が立っているだけの道端だ。

 そして与那嶺さんは私を先導して、小さな神社に案内した。

 人気はなく碌に手入れされていないものの、一面に紅葉した紅葉、紅葉、紅葉。午後の陽を透かすその空間はさながら赤と紅と朱の万華鏡だった。

「すごい! 真っ赤! 与那嶺さんの髪みたい」

 大喜びする私と照れ笑いする与那嶺さん。

 二人ともしばらく黙ったまま赤色モザイクの世界を楽しんでいた。

 いや、正確に言えば私だけが楽しんでいた。与那嶺さんはずっとタイミングを探していただろう。

「あー、マグノリアちゃん」

「うん?」

「……もし、良ければさ。俺と付き合ってくれないかな」

 私はきょとんとしていた。

 口を開きかけた瞬間、風の様に深い声が鼓膜を劈いた。

「やめなさいタマ! それは餌ではない!」

 振り向く私を白い鉤爪が薙ぎ払った。地面に頭を全身を打ちつける。

 私が最後に見た物はこちらに駆けてくる神先生だった。

 その足元にはヒトの死体が横たわっていた。



◇◇◇------



「ねぇ、あの遺体は誰だったの?」

 MRI室から病室に運ばれる途中、看護士に押されるキャスター付きベッドの上で、私は真横の神先生に問うた。

「目を醒ましましたか。頭に異常はないようです」

 まず検査の結果を告げてから、神先生は答える。

「病院で亡くなった身よりの無いかたです」

 検査結果を告げるのと同じ誠実さと温度だった。

「そう」

 なら、いいのかなぁ。

 私にはよく分からなかった。

 その死を受け入れる為に弔いたいと願う人を、多くの場合家族を、持たない誰か。

 生きていた事すら知られぬような、死んだ事を誰も悲しまぬような最期。

 抜け殻となったその肉体を惜しむ魂はあるのだろうか。

 もしかしてあの白いのの膨れた胴体には死体以上に死体と共にあった膜なきモノがパンパンに詰まっていたのではあるまいか。

「タマはもう人里には降りてこないでしょう」

 神先生が続ける。

「あの子は昔からあそこを触られるのが大嫌いでした。小生の手が滑りあそこに林檎を落としてからというものの、林檎に怯えるようになったのを覚えています。おそらく今後は、ヒトに怯えるようになるかと」

「そっか、よかったね。ヒトを襲っちゃダメなんだって、解ってくれて」

 神先生の瞳が大きく見開かれた。今にも青白い鱗が薄氷のようにはらはらりと落ちてきそうだ。

 数秒の後、その目はすっと細まり笑顔に変わった。

「そう、ですね」

 穏やかな肯定を最後に神先生はベッドから離れていった。




「最後の最後に守ってやれなくてごめん。痛かったろ」

 与那嶺さんはすっかりしょげていた。

 痛い思いをしたのは私なのに彼の方がずっとずっと辛そうだ。

「大丈夫よ、今は痛くないから」

 覗き込む顔に微笑みかける。

 与那嶺さんは微笑み返してくれた。

 秋の夜長より深い黒の瞳が慈愛に滲む。紅葉色の髪も、地黒の肌も、何もかもがこのまま目を閉じ眠るには惜しい。

「疲れてお腹すいちゃった。面会室まで行って、何か飲まない?」

 私の提案に与那嶺さんは頷いた。

 彼の手を借りて車椅子に乗り移る。お互いこの数日ですっかり慣れたものだ。

 一瞬、わざと転んでその胸に飛び込んでしまおうかと思った。

 一瞬だけ、ね。



---◇◇◇



 ホットココアをちびちびと飲み夜を更かした。

 本当に大仰なくらい少しずつ飲んだ。最後の一口など秋の夜長に熱を奪われ完全にアイスココアとなっていた。

 本当に他愛ない下らない話ばかりしていた。

 入院中の出来事なんてたかが知れているから、時を前後し学校や友達の話題が増えていった。

 日付が変わると話の種も尽きてしまった。

 私たちは仕方なく面会室を出た。

 ナースステーションばかりが明るい病棟を車椅子でゆっくり横切る。

 病室に戻り、ベッドに横たわり、二人ともぼんやり天井を見ていた。

「……そろそろ寝ようか」

 与那嶺さんの提案に私も頷く。

「そうだね」

 もう起きている理由もないのだ。

 ミントグリーンのカーテンが引かれた。

 それでもなお私は天井を見ていたし、与那嶺さんが何度も寝返りするのを聞いていた。

「ねー与那嶺さん」

「んー?」

「そういえば硝子しょうこがねー」

 親友の話など持ち出してカーテン越しの雑話を続ける。

 与那嶺さんは明日退院する。目を閉じ眠りに就けば、この奇妙な同居生活は幕引きになってしまうのだ。

「俺もさ、この前の実験の時にさー……」

「スポーツ大会のチーム分けが……」

「病理学の教授がさ……」

「隣のクラスの可愛い子がね……」

 終わらせたくない、終わりたくない。カーテン越しの切なる呼び声。

 些細事で包んだ惜しみ愛しみの気配に、私たちは通じ合う。

 そんなこんなの延長戦の最中、私は言い忘れに気付く。

「あっそう言えばね、私、怪我した日のこと思い出したよ」

「マジで?! そういう大事なことは早く言えよ。……それじゃあ、さ」

 与那嶺さんが居住いを正す。

 勿論こちらからは見えないから、そんな雰囲気を察しただけだけれど。

「それじゃあ、そろそろ答えを聞かせてくれないか」

「何の?」

「……俺と付き合って、っていうのの」

 少しだけ声が上ずっている。

 私はベッドの上で身体を起こした。

「それなんだけど」

 ジャッとカーテンを開ける。月明かりに半分だけ照らされた胡坐あぐら姿。

 与那嶺さんはビクリと飛び退きベッドから落ちかけた。

「うっわ急に開けるなよ!」

「それなんだけど、私たち付き合ってなかったの?」

 与那嶺さんは乱れた赤髪を直しもせず、目を真ん丸にして私を見ていた。

 検査着が肩からずり落ちる。

「……俺ら付き合ってたの?」

「だって月に何度も食事とか遊びとか行ってたじゃん。二人で」

「いやまぁそうだけど、特にキスとかしなかったし」

「手は繋いだじゃない」

「いや、まぁ、そうだけど、女の子が大人の男に甘えるなんてよくあるかなぁと」

「与那嶺さん大人なの?」

「さりげなくひでぇな。だって俺もう二十五じゃん。けどマグノリアちゃんはまだ十八にもなっていなくて、これってロリコンなのかなぁとか結構悩んだん……だよ」

 竜頭蛇尾の声と共に視線がついと逸れていく。

 そんな悩みを抱えていたなんて全く気付かなかった。

 なぜならば。

「私ぜんっぜん気にした事ないよ?」

「へ?」

「私ぜんぜん気にした事ないよ。与那嶺さんと歳が離れていること。というか八歳なんて離れているうちに入らないでしょ」

「そう、か。マグノリアちゃんが良いなら、良いけど」

「それに最終的に結婚して、家族になっちゃえば年齢より大切な物たくさんあるじゃない。私、この病室で与那嶺さんと家族みたいに過ごして、きっともっと仲良くなれると思ったよ」

 窓から差す月光はここまで届かない。与那嶺さんに私の微笑みは見えただろうか。

 ちょっと居づらそうに唇が動いたから、きっと見えたのだろう。

「……じゃあ言い直す」

 与那嶺さんはごろんと転がり真上を向いた。

「今までただ付き合っていたので、家族になることを目標に付き合ってください」

「喜んで!」

「ちょっとは溜めるか照れろよ」

 真夜中の病室に傍迷惑な笑いが満ちる。丑三つ時を震わせる。

 ひとしきり笑った後、私たちは眠った。

 カーテンを開いたままで。



◇◇◇------



 翌朝やってきた教授は羨ましいほど爽やかな笑みをたたえていた。昨日の戦いで余程良いデータが取れたのだろう。ミントより清々しく光るその目が余りに満ち足りているので、私を庇わなかったことは忘れてあげることにした。

 逆に神先生の眼の下には薄く隈ができていた。それがミステリアスな雰囲気を増し、余計にカッコいいからイケメンは得である。

 神先生はもう診る物もないとばかりにカルテすら取らない。

「Ms.ウィッティントンは経過観察。与那嶺技師は退院です。おめでとうございます」

「お世話になり申した」

 与那嶺さんがふざけ、胡坐のままベッドの上で深々頭を下げる。

「と、そうだ神先生さ」

 与那嶺さんはベッドを飛び降り、神先生に外へ出るよう手招きした。赤髪と青い瞳が病室から消える。

 教授は壁際から私に問う。

「いいの?」

「なにが?」

「分からないならいいが」

 私は首を傾げる。

 まぁいいや。それより。

「教授はこの後どうするの?」

「データはもうアメリカの本部に渡したよ。大喜びだったとも。しばらく日本で情報収集を続けるよう言われた」

「よかった。日本に居るんじゃまた会えるのね。嬉しい」

 柔和に微笑む教授。

 その笑顔を見ながら思う。危ない目に遭わされたりもするけれど、教授は本当は優しくて愛情深くて、ただ周りが見えなくなるくらい研究に一生懸命なだけなんだと思う。

「という事で紫蓮君はどんどん厄介事に巻き込まれてくれたまえ」

 前言撤回したい。

「ところで紫蓮君はそろそろ入試を考える時期だろう?」

「うん、ここの大学を受けるつもりだよ」

 ここ。

 私は窓から見える大学病院のロゴを仰ぐ。教授と出会い、与那嶺さんと出会ったこの大学。

「なら推薦入試を受けると良い。紫蓮君は英語が使えるからかなり有利だと思うよ。いざとなったら僕が裏から点数弄れるし」

「一応出願はしてあるけど」

 そういう事情は受験生本人には黙っていてください。

 そう言えば茶々さんも教授の操作で裏口入学したんだったなぁ。

 保健師の卵を思い出す。

 この入院では逢えなかったけれど、彼女は元気だろうか。渡米により教授のラボが解体し、卒業研究のため別なラボに移籍して、上手くやれていると良いけれど。

 教授が日本に戻っている事を知っているだろうか?

 連絡先は交換してある。与那嶺さんが退院したら退屈になるから、呼び出して話し相手になってもらおう。

 連絡通路を挟んだ向こう側に、この大学に彼女も居るはずだから。



◇◇◇------



 荷物をまとめる与那嶺さん。

 元々身の回りに物を置かないタイプらしい。下着類とパソコンを大きなリュックに押し込んだらそれで支度は済んだ。

「それじゃあ、また。見舞いに来るよ」

「うん、またね」 

 リュックを担ぐ与那嶺さん。

 病室を出際、ふと立ち止まる。

「そういや、何か欲しいものある?」

「うん? なんで?」

「来月二十四日は何の日だ」

「なんでお祖父ちゃんの命日知ってるの?!」

 私は心底驚いたのだが、与那嶺さんは頭を抱えた。

「クリスマスだろうが……」

「クリスマスは二十五日でしょ」

「とにかく、欲しい物があるなら連絡しろな。それじゃ!」

 与那嶺さんが病室を出る。

 小さく手を振り、紅葉の様に鮮やかな笑顔を残して。



◇◇◇------


◇◇◇------


◇◇◇------



 一カ月ほど後。

 私は真冬の歩道に車椅子を転がしていた。

 商店街へ行けばどの窓もクリスマスカラーに飾られて浮き足立つ面々も居るだろう。しかし大学病院脇の街路樹はその葉をすっかり落とし、人気ひとけもまばら、世界はモノクロに沈んでいる。

 マフラーを持って来ればよかったな。

 その後悔を裏打つように粉雪が舞い始めていた。


 懐かしい交差点の前に来た。大学病院前の大きな交差点。私と教授の出会った場所だ。

 赤信号を仰ぐ私の胸で携帯が震えた。取り出してみる。

 知らない番号から電話だ。

『もしもし紫蓮君』

「教授?」

 問う私の口から白い息が立ち上る。

 教授は否定しない事で肯定して早速本題に入った。

『今日は合格おめでとう』

「……私、今日は推薦入試の筆記試験に行ってきたんだけど」

『だからおめでとうと言っているのだよ』

 私はどう応えれば良いか分からなかった。

 教授は粉雪顔負けのサラサラさで続ける。

『ということで今日から僕の学生みたいなものだし、色々頼みごとするかも知れないから宜しく。メールは毎日確認してね。それではよいお年を』

 言いたい事だけ言って電話は切れた。

 ――教授だから仕方ない。

 理不尽に折れそうな心を落ち着けるべく、私は三回深呼吸する。乾いた空気が喉を刺激し、少し咳が出た。

 また携帯が震えた。今度は短い。

 与那嶺さんからメールだ。

『入試お疲れ。ところで二十四日と二十五日どっちが暇?』

 自動車用信号が赤になるのを横目に見、私はとりあえず携帯を仕舞う。

 二十四日はお祖父ちゃんの命日だし、二十五日はママと過ごす。どうしようかな。二十六日って言ったら与那嶺さん拗ねちゃうだろうか。

 歩行者用信号が変わる。

 進めの緑青に照らされ、私は車輪の枠に手を掛ける。手袋を介してなお金属が冷たい。

 歩行者用信号って赤と緑で何気にクリスマス色よね。

 そんな他愛もない事を考えながら、車椅子を家路へと漕いで行く。

 口に入った粉雪が溶けて消える。頬を打つ北風に震える。

 家で待つ暖かな飲み物と家族。そして数日後、数か月後、数年後の未来に、私はそっと思いを馳せていた。



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ケイマ ー医師で魔術師な教授の研究ー 千住 @Senju

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